鬼のつがい~競売に堕ちた令嬢は不器用な年下当主の執愛に絡め取られる

 一日、ゆっくり休んだ新樹は、次の日にはいつもと変わらぬ態度で執務席に座り、書類にペンを走らせているが、室内の雰囲気が異なっていると航平は気づいたらしい。
「新樹様……何をやらかしたんですか? 百花さん、怒ってますよね?」
 ペンを握っていた新樹の手が、ぴたっと止まる。
「やはり……あれは、怒っているのか?」
「どこからどう見ても怒っているでしょう。素直に謝って、許してもらってください」
 そんなやりとりすら百花に筒抜けだというのに、彼らは隠すつもりはないらしい。
 バン! と机に手をついて立ち上がった百花は、確認し終えたばかりの契約書を新樹に手渡す。
「新樹様。こちら、契約書の内容の確認が終わりました。賠償の項目が気になっています。相手に過失がある場合は上限額が決められているのに、こちらに過失がある場合には、その上限がないように読み取れます。該当箇所に印をつけておきましたから、確認をお願いします」
「も、百花!」
 書類を受け取るより先に、新樹は立ち上がると百花が逃げないようにと手首を掴む。
「いったい、何をそんなに怒ってるんだ? 俺、何かしたのか? その……記憶が曖昧なときに……」
「いえ、私は怒ってはおりません。これから、昂焔さんを直そうと思うので、この手を離していただけませんか?」
「いやだ。離さない。怒っていないかもしれないが、不機嫌なんだろ? その原因が俺にあるんだろ?」
 新樹が百花の感情を揺さぶってくるのは間違いない。
「俺が悪いなら、きちんと謝る。だけど、どこが悪いのか教えてほしい……」
 傲慢な態度を見せつけたと思ったら、次はすがるような眼差しを向けてくる。だから新樹はずるいのだ。こうやって、百花の気持ちを揺さぶってくる。そんな表情で見つめられたら、悔しいけれど彼を許したくなる。
「新樹様が、自分の命を大事にされないからです。霊力を失ってしまえば死んでしまうんですよね? 人狩りを捕まえるのも大事ですが、それよりも新樹様の命のほうが大事なんです。ぐったりした新樹様を見て、私がどれだけ心配したかわかりますか? もしかしたら死んじゃうんじゃないかって……思ったら……」
 言葉を詰まらせた百花は、静かに涙を流し始める。涙は頬から顎をつたって、机の上にぼたっぼたっと落ちた。
「……心配かけて悪かった。これからは、気をつける」
「本当ですか? 自分の命も大事にしてくださいますか?」
 締め付けられる気持ちに滂沱の涙が流れ、止まらない。
「する。だから、そんなに泣くな」
 身体を寄せてきた新樹は、すっと手巾を取り出し、百花の涙をやさしくぬぐい取る。
「百花さん。このたびはご心配おかけしてしまい、本当に申し訳ありません。新樹様は、無茶をするというか無謀というか無計画というか……とにかく、新樹様が暴走したときは私が止めますから」
 航平が間に入ってきたところで、彼の存在を意識してしまい、今度は急に恥ずかしくなってしまった。
 涙はいつの間にか止まり、その残りを慌てて手で拭う。
「は、はい。よろしくお願いします」
 身を縮こませてそれだけ口にすると、百花はいそいそと席に戻った。
 つい、感情を爆発させてしまった。その爆発が収まったところで我に返り、こらえきれぬほどの羞恥が襲い掛かってきたのだ。
 新樹と航平の顔をまともに見ることもできず、狼のぬいぐるみを手にした。昨日、汚れたところを洗って乾かしておいたので、今日はほつれたところを繕う予定だった。
 一針、一針、縫い進めていくと、心のほころびも一緒に縫われていくようだ。
 新樹が死んでしまうような状況であったと突きつけられたときは、彼の無鉄砲さに呆れ、命を粗末に扱う姿に苛立ちを覚え、それでも無事であったという事実で安堵感が胸にあふれた。
 航平が言うには、新樹は無茶で無謀で無計画らしいが、百花もその意見には同意したい。
 そんな新樹に振り回されるのは百花と航平であり、そして振り回されている現状を、百花は好ましく思っていた。だが、それだって新樹の命があってこそ。
 彼に対する感情を言葉にするのであれば、やはり愛なのかもしれない。むしろ敬愛だ。彼を失うだなんて考えたくもない。
 百花が最後の一針を終え、糸の処理をしたところで、ぬいぐるみは勝手に動き出した。
《おぅ。やっとオレ様も元通りってわけだな!》
 狼姿の昂焔は後ろ足で立ってトンと胸を叩くが、そんな昂焔が百花の顔を下からのぞき込んでくる。
《おい、嬢ちゃん。誰にいじめられたんだ? 坊か? それとも、あのお嬢か?》
「え? いじめられてはいないですよ?」
《泣いた跡がある。嬢ちゃんに涙は似合わない。嬢ちゃんを泣かせるやつは、このオレ様が許さないからな》
 どうやら涙の痕が昂焔にはバレバレだったらしい。なんでもありませんよ、と伝えて昂焔を抱き上げると、新樹の机の上に置いた。
「新樹様。昂焔さんを手直ししました。これで、大丈夫だとは思うのですが……昂焔さんが暴れすぎたら、その保証もできませんので、気をつけてくださいね」
 新樹と昂焔を諭すように告げた百花は、わざとらしいくらいににっこり笑った。
「あ、百花。先ほどの契約書の件だが……」
 百花が次の仕事に取り掛かろうとする前に、新樹は、天璃華国の契約書について確認したいと言い出した。
「やはり、おまえが言ったように、賠償についてこちら側とあちら側であからさまな差があった。このまま契約を結んでいたら、法外な賠償金をふっかけられるところだった」
 それが相手の狙いなのだろう。こちらから仕入れた荷物に不備があった、輸送の途中で壊れただの言いがかりをつけて賠償を請求する。しかし契約書には賠償額の上限がないため、荷物の価値以上の賠償額だって請求できるのだ。
 そして逆に、こちらから相手に賠償を求めようとすれば、荷物の価値以下の上限額が設定されてあるため、明らかに損をする。
「百花。おまえのおかげで助かった。礼を言う、ありがとう」
 真顔の新樹の口から御礼の言葉が出てくると、なぜか百花の胸がきゅんと疼く。
「いえ、私は与えられた仕事をこなしただけですから……」
「だが百花が、その仕事を丁寧にやってくれたおかげで、俺たちは重要な内容に気が付けたんだ。百花じゃなかったら、見逃していたかもしれない」
「だって新樹様は天璃華国の言葉が苦手ですからね」
 航平があっけらかんとした声で茶々を入れる。
「だから、その点、百花がまとめた資料はわかりやすい。俺だって天璃華の言葉はわかるからな。苦手なだけで」
 必死になって訴える新樹が、かわいらしい。
「あ、だったら新樹様、こうしたらいかがでしょう?」
 何かを閃いた航平は、ぽんと手を打った。
「今、異国とやりとりする人たちは増えていますが、やはりそこには言葉の壁が存在しているわけです。こちら側にとって不利な内容で契約を結んだという話は後を絶ちませんよね?」
 それは昨日の新聞記事にも載っていた。記事になるくらいだから、これは誰もが関心を寄せている案件だ。
「異国と契約書を取り交わす際は、ここを重点的に確認しましょうというのを、こちらの関係者に周知させるんですよ」
「なるほど。言われてみれば、そういう話は聞かないな」
「そうです、そうです。それに、今回の天璃華国との契約については、皇帝陛下も興味津々なんですよね。だから、陛下に契約書の件を相談すれば、すぐに広めてくれるのではありませんか?」
 新樹は腕を組んだが、航平が「皇帝」や「陛下」と言葉にするたびに、新樹の顔は曇っていった。
「はいはい、新樹様。そういう顔をしない。こういうときだからこそ、皇帝陛下を利用してやりましょうよ。そのくらいの心意気があったほうがいいですよ?」
 新樹はさも面倒くさそうに目を細くすると、渋々頷いた。
 次の日、天璃華国の商会と商談をすすめた新樹だが、契約書の内容の見直しを条件に取引を行うとはっきり告げ、こちらにとって不利だった内容は書き直された。百花ももう一度契約内容を確認したが、それは対等なものに書き変わっており、無事に契約は成立した。

 後日、新樹はぼそりと呟く。
「結局、あいつらは俺たちの能力を探っているような感じだったな」
 単純なことだ。契約書を読み解く力があるかないか。それで取引先の相手の能力を推し量っているのだろう。
「今回の件で、皇帝陛下も稜穂帝国の置かれている立場を理解したでしょう。異国と対等にやり合うには、まずは相手を疑うところから始める必要があると」
 長年、鎖国を続けていた稜穂帝国は井の中の蛙だ。
「だから陛下も喜んでいましたよ。百花さんの解説付き契約書」
「え? もしかしてあの資料を皇帝陛下に、お見せになったんですか?」
「はい。資料があれしかなかったもので」
 航平がしれっと答えるが、自分が新樹のために作った資料を、皇帝の目に入ったという事実を知ったら、そわそわしてしまう。
「それで、だ。百花」
 航平の言葉の続きを奪ったのは新樹である。
「陛下がおまえに会いたいと言っていた。どうする?」
 どうすると言われても、どうして皇帝と会う流れになるのか、百花にはさっぱり理由がわからなかった。