「百花さん。すぐに新樹様の治療を行いたいので、使用人たちに指示を出してください。私は新樹様を寝室に連れていきますので」
「航平。耳元で騒ぐな、うるさい。百花もわめくな。大したことない……」
口調だけはいつもの新樹だが、それでも彼の身体は血にまみれているし、彼が歩いた跡には点々と血痕が残されていた。
「はいはい、新樹様。こういうときだけは素直に私たちの言葉に従いましょう」
新樹を宥めるような航平だが、新樹は聞いているのかいないのかわからない。目を閉じ、静かに呼吸をしている。
百花は影月に医師を呼ぶよう伝えると、次は使用人に湯の準備をするよう指示を出す。それから清潔なシーツも必要だ。また手の空いている者には、汚れた場所を清掃するようにと伝えた。
指示に従い動き出した使用人の姿を目にした百花は、急いで航平の後を追う。
「失礼します」
ノックと同時に新樹の寝室に入り、新樹の着替えを用意する。
「百花さん、新樹様の着替えを手伝っていただけますか?」
「はい。今、お湯とシーツを用意しております。着替えは、浴衣でよろしいですか?」
「それは……そこにおいてください。まずは、汚れた衣類を脱がせます」
新樹は反論する力もないのか、目を閉じたまま胸を上下させていた。
百花は新樹の上着を脱がせ、シャツの釦をゆっくり外すが、その釦すら血に濡れ、ぬめってうまくつかめない。百花の指にも血がつき、鉄のにおいが一気に強まった。
「お湯をお持ちしました」
湯の入った桶やシーツやらを抱えた使用人たちが慌ただしく部屋に入ってくる。
百花や航平の言葉に従い、使用人たちは必要なものを置いたら、黙って部屋を出ていく。百花はシーツに湯を含ませ、新樹の顔の汚れを拭き取り始めた。
「百花さん、それは返り血です。新樹様本人は、大した怪我はしておりませんので、ぐっと勢いよく拭いてください」
「ですが、苦しそうです。もしかして、どこか傷口が痛むのではありませんか?」
「それは怪我が痛むというよりは、霊力を使い過ぎてぐったりしているだけです」
霊力、と百花は口の中で呟いた。霊力を使い過ぎた状態というのが想像つかないが、全速力で走った後のような感じなのだろうか。息も上がって、身体も重くて動きたくないような、そんな状態。
ただ新樹自身が怪我をしていないという事実は、百花の胸の奥を支配していた不安な気持ちを取り除いた。まずは新樹がゆっくり休めるように、身体を清めるのが先だろう。
額にも赤黒い血液が付着しているが、時間が経ってしまったせいか渇いている。それを湯に浸したシーツでぬぐい取ると、新樹の瞼がぴくぴくと反応を示した。
「……百花? そこにいるのか?」
「はい、新樹様。私はここにおります」
「そうか……」
百花の存在を確認した新樹は、再び目を閉じたが、その表情は先ほどまでの苦しそうなものとは異なっていた。
顔を拭き終え、首元から胸元と、とにかく血にまみれた場所を丁寧に拭いていく。髪にも血液なのか泥なのかわからないものでべったり汚れており、絡まらないようにと注意深く拭きとった。
「お医者様が到着しました」
影月が医師を連れて室内に入ってきた。
新樹を汚していた血痕はあらかたぬぐい取った。百花は汚れたシーツを桶の中に入れると、桶ごと手にして立ち上がる。
「私は、片づけをしてまいります」
「お願いします」
航平の言葉を背に受けた百花は、気を抜くとふらふらと倒れそうだった。
あんなに弱々しい新樹を目にしたのは初めてだ。
寝起きは悪いが、声をかけて身体をゆすればきちんと目覚めるし、目覚めたら「眠い」とか「起きたくない」とか、すぐに不満をぶつけてくる。
だけど今の新樹は、そんな不満も口にする力がない。
「百花さん、お預かりします」
百花の姿を見つけた女中の一人が、百花が手にしていた桶をそっと奪い取った。
「少し休まれたらどうですか? ひどい顔色をしております……」
百花より少しだけ年上の女中は、いつも姉のように百花をかわいがってくれていた。
ですが、と百花が言いかけたとき、彼女は小さく首を振る。
「旦那様がお目覚めになられたとき、百花さんに元気がなかったら心配なさいますから。当主様のためにも、今は休んでください」
「はい……」
返事はしてみたが、ゆっくり休める気分ではない。
百花は執務室に戻り、仕事机の前に座った。そこには先ほどまで読み解いていた、天璃華語の契約書が乱雑に置かれたままだ。仕事をすれば気がまぎれるかと思ったが、並ぶ文字を読もうとしても目を滑っていき、頭の中にはさっぱり入っていかない。
椅子の背もたれに身体を預け、百花は天を仰いで深く息を吐いた。
あんな新樹の姿を目にしたら、胸がつぶれるくらいに苦しい。両親を失ったときの喪失感とは別のやりきれない気持ちが、百花に襲いかかってくる。
両親が亡くなったときは、そういった前兆もあったせいか、諦めもどこかに交じっていて、悲しいながらもそれを現実として受け止める余裕があった。
だが、新樹がいなくなってしまったら――。
それを考えるだけで、まるで半身をえぐられるような痛みを感じる。なぜここまで胸が痛むのかはわからない。
やはりゆっくり休んでいるような状況ではないと判断した百花は、新樹の寝室へと向かった。室内には入らず、扉の前で医師の診察が終わるのを待った。
この場所であれば、新樹に何かあればすぐに足を運ぶことができる。
部屋からはぼそぼそと人の話し声が聞こえるが、それが何を言っているかまではわからない。
百花は祈るような気持ちで、医師が部屋から出てくるのをいまかいまかと待っていた。
どのくらいの時間、そこに突っ立っていたかはわからない。扉が開き、航平と医師が姿を見せたところで、百花は深く頭を下げた。
「百花さん、こんなところにいたんですか?」
航平は目を見開いて百花を凝視してきた。
「はい。新樹様の様子が気になりましたので……」
「そんなに心配なさる必要はありませんよ」
男性医師のやさしい声が、百花の心を荒波から救った。
「裂傷はいくつかありましたが、命に関わるようなものではありません。それよりも霊力の消耗が激しいので、今晩と明日は、ゆっくり休ませるようにしてください」
「はい、ありがとうございます」
礼を口にした百花だが、それは医師の言葉が心に刺さった不安の棘を抜いてくれたからだ。
「百花さん。私は先生を送ってきますので、しばらくの間、新樹様の側についていてくれませんか? まだ少しうなされているようなので」
申し訳なさそうに頼んできた航平に、百花は「まかせてください」とわざと明るい声をあげた。
医師と航平がその場から立ち去るのを見送ってから、百花は新樹の部屋へと入る。少し湿度の高い室内に置かれている寝台では、新樹が眠っていた。苦しそうな呼吸音と、ときどき唸るような声が聞こえる。
寝顔をのぞき込めば、頬を赤くして熱っぽい顔をしていた。
百花は急いで冷たい水と手ぬぐいを用意する。水に浸した手ぬぐいをきつく絞って、新樹の額にのせると、苦しそうな呼吸が少しだけやわらいだ。それと同時に、眉間に寄っていたしわもゆるんだようだ。もう一枚の手ぬぐいを濡らし、顔に浮かぶ玉のような汗をぬぐう。
「……百花?」
「申し訳ございません。起こしてしまいましたか?」
目を閉じたまま、軽く顔を振った新樹は「いや……喉が渇いた。水……」と、ぼそりと呟く。
百花は水差しを手にすると、それを新樹の口元へと寄せる。彼は目を開けず、そのままごくごくと喉を鳴らして水を飲むが、飲み干せなかった水が口の端からつつっとこぼれた。
「もう、いらない」
顔をそむけて水差しから口を離した新樹は、寝ているのか起きているのかわからない。濡れた口元を拭いてあげると「百花?」と、まるで存在を確認するように名を呼んでくる。
「はい」
「そこにいるのか?」
「はい。おりますよ」
すると掛布の下がもぞもぞと動き、新樹が手を伸ばしてきた。
「俺が眠るまで、手を握っていてくれ……」
百花もよく、熱を出して寝込んだときは、母親に同じお願いをしたものだ。熱に浮かされ苦しんでいると、この世界に一人っきりにされたようで、異様に寂しさを感じてしまう。だから手を握って、母の存在を実感したかった。
「はい」
新樹の手を握った百花は、空いているもう片方の手で、彼の頭をやさしく撫でた。かつて百花の母親が、百花をそうやってあやしていたときのように。
「航平。耳元で騒ぐな、うるさい。百花もわめくな。大したことない……」
口調だけはいつもの新樹だが、それでも彼の身体は血にまみれているし、彼が歩いた跡には点々と血痕が残されていた。
「はいはい、新樹様。こういうときだけは素直に私たちの言葉に従いましょう」
新樹を宥めるような航平だが、新樹は聞いているのかいないのかわからない。目を閉じ、静かに呼吸をしている。
百花は影月に医師を呼ぶよう伝えると、次は使用人に湯の準備をするよう指示を出す。それから清潔なシーツも必要だ。また手の空いている者には、汚れた場所を清掃するようにと伝えた。
指示に従い動き出した使用人の姿を目にした百花は、急いで航平の後を追う。
「失礼します」
ノックと同時に新樹の寝室に入り、新樹の着替えを用意する。
「百花さん、新樹様の着替えを手伝っていただけますか?」
「はい。今、お湯とシーツを用意しております。着替えは、浴衣でよろしいですか?」
「それは……そこにおいてください。まずは、汚れた衣類を脱がせます」
新樹は反論する力もないのか、目を閉じたまま胸を上下させていた。
百花は新樹の上着を脱がせ、シャツの釦をゆっくり外すが、その釦すら血に濡れ、ぬめってうまくつかめない。百花の指にも血がつき、鉄のにおいが一気に強まった。
「お湯をお持ちしました」
湯の入った桶やシーツやらを抱えた使用人たちが慌ただしく部屋に入ってくる。
百花や航平の言葉に従い、使用人たちは必要なものを置いたら、黙って部屋を出ていく。百花はシーツに湯を含ませ、新樹の顔の汚れを拭き取り始めた。
「百花さん、それは返り血です。新樹様本人は、大した怪我はしておりませんので、ぐっと勢いよく拭いてください」
「ですが、苦しそうです。もしかして、どこか傷口が痛むのではありませんか?」
「それは怪我が痛むというよりは、霊力を使い過ぎてぐったりしているだけです」
霊力、と百花は口の中で呟いた。霊力を使い過ぎた状態というのが想像つかないが、全速力で走った後のような感じなのだろうか。息も上がって、身体も重くて動きたくないような、そんな状態。
ただ新樹自身が怪我をしていないという事実は、百花の胸の奥を支配していた不安な気持ちを取り除いた。まずは新樹がゆっくり休めるように、身体を清めるのが先だろう。
額にも赤黒い血液が付着しているが、時間が経ってしまったせいか渇いている。それを湯に浸したシーツでぬぐい取ると、新樹の瞼がぴくぴくと反応を示した。
「……百花? そこにいるのか?」
「はい、新樹様。私はここにおります」
「そうか……」
百花の存在を確認した新樹は、再び目を閉じたが、その表情は先ほどまでの苦しそうなものとは異なっていた。
顔を拭き終え、首元から胸元と、とにかく血にまみれた場所を丁寧に拭いていく。髪にも血液なのか泥なのかわからないものでべったり汚れており、絡まらないようにと注意深く拭きとった。
「お医者様が到着しました」
影月が医師を連れて室内に入ってきた。
新樹を汚していた血痕はあらかたぬぐい取った。百花は汚れたシーツを桶の中に入れると、桶ごと手にして立ち上がる。
「私は、片づけをしてまいります」
「お願いします」
航平の言葉を背に受けた百花は、気を抜くとふらふらと倒れそうだった。
あんなに弱々しい新樹を目にしたのは初めてだ。
寝起きは悪いが、声をかけて身体をゆすればきちんと目覚めるし、目覚めたら「眠い」とか「起きたくない」とか、すぐに不満をぶつけてくる。
だけど今の新樹は、そんな不満も口にする力がない。
「百花さん、お預かりします」
百花の姿を見つけた女中の一人が、百花が手にしていた桶をそっと奪い取った。
「少し休まれたらどうですか? ひどい顔色をしております……」
百花より少しだけ年上の女中は、いつも姉のように百花をかわいがってくれていた。
ですが、と百花が言いかけたとき、彼女は小さく首を振る。
「旦那様がお目覚めになられたとき、百花さんに元気がなかったら心配なさいますから。当主様のためにも、今は休んでください」
「はい……」
返事はしてみたが、ゆっくり休める気分ではない。
百花は執務室に戻り、仕事机の前に座った。そこには先ほどまで読み解いていた、天璃華語の契約書が乱雑に置かれたままだ。仕事をすれば気がまぎれるかと思ったが、並ぶ文字を読もうとしても目を滑っていき、頭の中にはさっぱり入っていかない。
椅子の背もたれに身体を預け、百花は天を仰いで深く息を吐いた。
あんな新樹の姿を目にしたら、胸がつぶれるくらいに苦しい。両親を失ったときの喪失感とは別のやりきれない気持ちが、百花に襲いかかってくる。
両親が亡くなったときは、そういった前兆もあったせいか、諦めもどこかに交じっていて、悲しいながらもそれを現実として受け止める余裕があった。
だが、新樹がいなくなってしまったら――。
それを考えるだけで、まるで半身をえぐられるような痛みを感じる。なぜここまで胸が痛むのかはわからない。
やはりゆっくり休んでいるような状況ではないと判断した百花は、新樹の寝室へと向かった。室内には入らず、扉の前で医師の診察が終わるのを待った。
この場所であれば、新樹に何かあればすぐに足を運ぶことができる。
部屋からはぼそぼそと人の話し声が聞こえるが、それが何を言っているかまではわからない。
百花は祈るような気持ちで、医師が部屋から出てくるのをいまかいまかと待っていた。
どのくらいの時間、そこに突っ立っていたかはわからない。扉が開き、航平と医師が姿を見せたところで、百花は深く頭を下げた。
「百花さん、こんなところにいたんですか?」
航平は目を見開いて百花を凝視してきた。
「はい。新樹様の様子が気になりましたので……」
「そんなに心配なさる必要はありませんよ」
男性医師のやさしい声が、百花の心を荒波から救った。
「裂傷はいくつかありましたが、命に関わるようなものではありません。それよりも霊力の消耗が激しいので、今晩と明日は、ゆっくり休ませるようにしてください」
「はい、ありがとうございます」
礼を口にした百花だが、それは医師の言葉が心に刺さった不安の棘を抜いてくれたからだ。
「百花さん。私は先生を送ってきますので、しばらくの間、新樹様の側についていてくれませんか? まだ少しうなされているようなので」
申し訳なさそうに頼んできた航平に、百花は「まかせてください」とわざと明るい声をあげた。
医師と航平がその場から立ち去るのを見送ってから、百花は新樹の部屋へと入る。少し湿度の高い室内に置かれている寝台では、新樹が眠っていた。苦しそうな呼吸音と、ときどき唸るような声が聞こえる。
寝顔をのぞき込めば、頬を赤くして熱っぽい顔をしていた。
百花は急いで冷たい水と手ぬぐいを用意する。水に浸した手ぬぐいをきつく絞って、新樹の額にのせると、苦しそうな呼吸が少しだけやわらいだ。それと同時に、眉間に寄っていたしわもゆるんだようだ。もう一枚の手ぬぐいを濡らし、顔に浮かぶ玉のような汗をぬぐう。
「……百花?」
「申し訳ございません。起こしてしまいましたか?」
目を閉じたまま、軽く顔を振った新樹は「いや……喉が渇いた。水……」と、ぼそりと呟く。
百花は水差しを手にすると、それを新樹の口元へと寄せる。彼は目を開けず、そのままごくごくと喉を鳴らして水を飲むが、飲み干せなかった水が口の端からつつっとこぼれた。
「もう、いらない」
顔をそむけて水差しから口を離した新樹は、寝ているのか起きているのかわからない。濡れた口元を拭いてあげると「百花?」と、まるで存在を確認するように名を呼んでくる。
「はい」
「そこにいるのか?」
「はい。おりますよ」
すると掛布の下がもぞもぞと動き、新樹が手を伸ばしてきた。
「俺が眠るまで、手を握っていてくれ……」
百花もよく、熱を出して寝込んだときは、母親に同じお願いをしたものだ。熱に浮かされ苦しんでいると、この世界に一人っきりにされたようで、異様に寂しさを感じてしまう。だから手を握って、母の存在を実感したかった。
「はい」
新樹の手を握った百花は、空いているもう片方の手で、彼の頭をやさしく撫でた。かつて百花の母親が、百花をそうやってあやしていたときのように。



