新樹の秘書となった百花の生活は、ガラリと変わった。一番の変化は、新樹と共に食事をするようになった点だろうか。食事の時間も情報交換の場だと言われてしまえば、百花としては断れるはずもなかった。今までは食堂まで移動する短い時間に、今日の予定を伝えていたのに、今では食事中、向かい合った席で確認する事案となっている。
「百花、天璃華国の言葉もわかるようになったな」
新樹の秘書となって二か月が経った。毎日こつこつと続けていた天璃華国の言葉の勉強おかげか、今では新聞記事の内容であれば、だいたいの意味がわかるようになっていた。それでも新樹からもらった辞典はまだ手放せない。
「はい。辞典があれば、なんとか読めます」
「悪いが、この書類の内容を確認してくれないか? 暁陽家と取引したいという天璃華の商会からなんだが……俺は天璃華の言葉があまり得意じゃない」
「勉強をさぼっていたせいですよ」
ぼそりと航平が嫌味を口にするが、新樹はそれを軽く受け流した。いつもであれば「はぁ? 当主の仕事を優先的にやれとか言い出したのはおまえだろ? あのときのどこにそんな時間があると思ってんだよ」と、倍以上にして言い返すのに、最近はやけにおとなしい。
「百花、できるか?」
どこか愉悦を孕む眼差しで百花を見上げる新樹に、胸の奥が熱くなった。彼は百花に期待を寄せてくれている。
「はい、是非ともやらせてください」
「相変わらず百花さんは、新樹様に甘い」と航平の小さな呟きが聞こえたような気もしたが、百花としては新樹の期待に応えたい思いでいっぱいだった。
それに新樹が天璃華の言葉が苦手というのも意外である。鬼人はただの人よりもすべての能力において優れていると思っていたのに、言語に関してはただの人と変わりないという話も聞いた覚えがある。それでも新樹に苦手なものがあるなら、そこは百花が補えばいいのだ。その気持ちが百花の心の奥に眠る使命感に火をつけた。
「天璃華の商会は三日後までに回答がほしいと言っている。その契約内容を訳して、俺に教えてほしい。特に、こちら側に不利な内容が書かれていないか、それを重点的に確認してもらいたい」
「承知しました」
帝国六家の暁陽家と取引したいという商会は多い。特に近年は、異国の企業とのやりとりも増えている。そのやりとりの間に入るのが商会なのだが、この商会が異国の商会であると、それもまた曲者なのだ。自国の言葉を用いて、自国にとって有利なように事をすすめようとする。それを見極めなければ、取引自体が暁陽家にとって、いや稜穂帝国全体にとって不利なものになってしまうだろう。
だからといって警戒ばかりして異国との取引を断れば、これ以上の成長も望めない。つまり異国との取引は、常に駆け引きのようなもの。
「そういうわけで、航平。おまえには六家会議の資料をまとめてもらいたい」
「うわぁ……」
がっかりした様子で航平の視線は宙を向いたが、そこに家令の影月が息を切らして駆け込んできた。
「新樹様、皇帝陛下より電報です」
その一声を聞いただけで、新樹は眉間に深いしわを作って顔をしかめ、渋々ながら影月から電報を受け取った。
「嫌な予感しかしないが……」
電報を読み進める新樹の表情は、みるみる険しくなっていく。
「『帝都内にて人狩りが発生。直ちに現場に急行せよ』とのことだ」
ぽいっと航平に向かって電報を投げ捨てると、航平が慌ててそれを拾い上げた。
「こんな白昼堂々と……」
航平の言葉に、百花も激しく同意したい。まだ、昼を過ぎたところで太陽は高い位置で輝いているというのに。
「人狩りの出る時間が決まっていたら、俺たちだって苦労はしない。俺たちの常識が通用するような相手じゃないのはわかってるだろ」
航平は肩で大きく息を吐いて、「はいはい」と気のない返事をする。
「航平、車を回せ。昂焔、行くぞ」
《合点承知!》
今までどこにいたのか、黒い狼のぬいぐるみ姿の昂焔が、ひょいっと新樹の肩の上に飛び乗った。
「百花は、普段と変わらず、仕事を続けてくれ。こういうときだからこそ、落ち着いて、いつもと同じように仕事をこなせる人間が重要なんだ。わかったな?」
「はい、承知しました。新樹様がご不在となる間、私のほうで仕事をすすめておきます」
百花が力強くうなずくと、新樹の引き締まった口元が少しだけゆるんだ。
「じゃ、いってくる」
「はい。いってらっしゃいませ。お気をつけて」
新樹たちが慌ただしく部屋を出ていくと、そこには百花だけがぽつんと残された。
時計の秒針の音が異様に大きく聞こえ始め、百花はぶるりと身体を震わせたが、先ほどの新樹の声が頭に響いてきた。
彼は百花を信用して、ここを離れたのだ。だったらその信頼に答える必要がある。
百花は大きく深呼吸をして気持ちを落ち着け、天璃華語で書かれた書類を広げた。もちろん、新樹からもらった辞典もすぐ手の届く場所へと置いた。
一時期は人狩りの動きは活発になっていたが、ここ一か月ほど彼らの動きはおとなしくなっていた。
帝国六家は、帝国内にそれぞれ治める領地を持っており、その領地内で生活している鬼人は当主に従うため、「派」という呼ばれ方をする。つまり、どの当主に従うかによって、暁陽派や天雪派といった名で区別されるのだ。
新樹は暁陽派の鬼人に対して絶対的権力を持っており、「人狩りが出たときには人狩りを捕まえろ」と命じれば、彼らはその言葉に従う。
そのため人狩りが暁陽家の領内に出れば、まずは暁陽派の鬼人が、人狩り討伐のために動き出す。彼らだけでそれが無理だと判断されると、暁陽派の鬼族も討伐に加わる。
また、人狩りを捕獲したという報告を受けたときは、その処分を最終的に決めるため、新樹は捕らえた人狩りの元へと足を向ける必要があった。
人狩りが出たという理由だけで新樹が現場に急行するのは、よほどの場合に限られる。つまり、暁陽派の鬼族だけで人狩りを捕らえられなかった場合だ。
さらに、帝国直下の領地となっている帝都内に鬼人が出たときは、帝国軍が討伐に動くが、帝国軍だけで難しいと判断されたときは六家に声がかかる。
今回は帝都内に人狩りが出たのに、新樹に呼び出しがかかった。となれば、帝国軍だけの鬼人たちだけでは、人狩りを取り押さえられなかったというわけだ。新樹を動かし、暁陽派の鬼人の力を借りるというのが皇帝の狙いであり、それを命じられたら、新樹は断れない。
軍ですら捕まえられない人狩りとは、いったいどんな人狩りなのか。力が強いのか、それとも数が多いのか。
そこまで考え、百花はふるりと頭を振って思考を追い払った。
今は、新樹に頼まれた天璃華語の契約書の内容確認が最優先だ。これに対して三日以内に返事をしなければならないため、契約書の内容を訳したうえで内容を理解し、新樹に報告する必要がある。
天璃華語の文字を丁寧に目で追い、翻訳を始める。わからない単語があれば、辞典を引いて、前後の文と照らし合わせ、慎重に分を組み立てる。そうやって訳していると、知らぬうちに没頭し始めたようだ。静かな空間でありながらも、時計の秒針の音さえ気にならなくなっていた。
契約書は全部で二枚。今日のうちに一枚は終わらせたいところだ。
作業は順調に進み、一枚目を終わらせ、少しでも今日のうちに進めておこうと、二枚目の一行目を読み始めたそのとき、がたがたと激しい物音が階下から聞こえてきた。
(新樹様が、帰ってきたのかも……)
百花は読みかけの契約書をそのままにして、部屋から飛び出した。転げ落ちるように階段を駆け下りてエントランスに向かうと、むっとした鉄のにおいが鼻についた。
「新樹様!」
その姿を見つけた瞬間、百花は彼の名を呼びすぐに駆け寄った。
航平に身体を支えられるようにして立つ新樹の身体は、血に染まっていた。普段の堂々としたたたずまいとは異なる痛々しいその姿に、百花の胸がぎゅっと締めつけられた。
「百花、天璃華国の言葉もわかるようになったな」
新樹の秘書となって二か月が経った。毎日こつこつと続けていた天璃華国の言葉の勉強おかげか、今では新聞記事の内容であれば、だいたいの意味がわかるようになっていた。それでも新樹からもらった辞典はまだ手放せない。
「はい。辞典があれば、なんとか読めます」
「悪いが、この書類の内容を確認してくれないか? 暁陽家と取引したいという天璃華の商会からなんだが……俺は天璃華の言葉があまり得意じゃない」
「勉強をさぼっていたせいですよ」
ぼそりと航平が嫌味を口にするが、新樹はそれを軽く受け流した。いつもであれば「はぁ? 当主の仕事を優先的にやれとか言い出したのはおまえだろ? あのときのどこにそんな時間があると思ってんだよ」と、倍以上にして言い返すのに、最近はやけにおとなしい。
「百花、できるか?」
どこか愉悦を孕む眼差しで百花を見上げる新樹に、胸の奥が熱くなった。彼は百花に期待を寄せてくれている。
「はい、是非ともやらせてください」
「相変わらず百花さんは、新樹様に甘い」と航平の小さな呟きが聞こえたような気もしたが、百花としては新樹の期待に応えたい思いでいっぱいだった。
それに新樹が天璃華の言葉が苦手というのも意外である。鬼人はただの人よりもすべての能力において優れていると思っていたのに、言語に関してはただの人と変わりないという話も聞いた覚えがある。それでも新樹に苦手なものがあるなら、そこは百花が補えばいいのだ。その気持ちが百花の心の奥に眠る使命感に火をつけた。
「天璃華の商会は三日後までに回答がほしいと言っている。その契約内容を訳して、俺に教えてほしい。特に、こちら側に不利な内容が書かれていないか、それを重点的に確認してもらいたい」
「承知しました」
帝国六家の暁陽家と取引したいという商会は多い。特に近年は、異国の企業とのやりとりも増えている。そのやりとりの間に入るのが商会なのだが、この商会が異国の商会であると、それもまた曲者なのだ。自国の言葉を用いて、自国にとって有利なように事をすすめようとする。それを見極めなければ、取引自体が暁陽家にとって、いや稜穂帝国全体にとって不利なものになってしまうだろう。
だからといって警戒ばかりして異国との取引を断れば、これ以上の成長も望めない。つまり異国との取引は、常に駆け引きのようなもの。
「そういうわけで、航平。おまえには六家会議の資料をまとめてもらいたい」
「うわぁ……」
がっかりした様子で航平の視線は宙を向いたが、そこに家令の影月が息を切らして駆け込んできた。
「新樹様、皇帝陛下より電報です」
その一声を聞いただけで、新樹は眉間に深いしわを作って顔をしかめ、渋々ながら影月から電報を受け取った。
「嫌な予感しかしないが……」
電報を読み進める新樹の表情は、みるみる険しくなっていく。
「『帝都内にて人狩りが発生。直ちに現場に急行せよ』とのことだ」
ぽいっと航平に向かって電報を投げ捨てると、航平が慌ててそれを拾い上げた。
「こんな白昼堂々と……」
航平の言葉に、百花も激しく同意したい。まだ、昼を過ぎたところで太陽は高い位置で輝いているというのに。
「人狩りの出る時間が決まっていたら、俺たちだって苦労はしない。俺たちの常識が通用するような相手じゃないのはわかってるだろ」
航平は肩で大きく息を吐いて、「はいはい」と気のない返事をする。
「航平、車を回せ。昂焔、行くぞ」
《合点承知!》
今までどこにいたのか、黒い狼のぬいぐるみ姿の昂焔が、ひょいっと新樹の肩の上に飛び乗った。
「百花は、普段と変わらず、仕事を続けてくれ。こういうときだからこそ、落ち着いて、いつもと同じように仕事をこなせる人間が重要なんだ。わかったな?」
「はい、承知しました。新樹様がご不在となる間、私のほうで仕事をすすめておきます」
百花が力強くうなずくと、新樹の引き締まった口元が少しだけゆるんだ。
「じゃ、いってくる」
「はい。いってらっしゃいませ。お気をつけて」
新樹たちが慌ただしく部屋を出ていくと、そこには百花だけがぽつんと残された。
時計の秒針の音が異様に大きく聞こえ始め、百花はぶるりと身体を震わせたが、先ほどの新樹の声が頭に響いてきた。
彼は百花を信用して、ここを離れたのだ。だったらその信頼に答える必要がある。
百花は大きく深呼吸をして気持ちを落ち着け、天璃華語で書かれた書類を広げた。もちろん、新樹からもらった辞典もすぐ手の届く場所へと置いた。
一時期は人狩りの動きは活発になっていたが、ここ一か月ほど彼らの動きはおとなしくなっていた。
帝国六家は、帝国内にそれぞれ治める領地を持っており、その領地内で生活している鬼人は当主に従うため、「派」という呼ばれ方をする。つまり、どの当主に従うかによって、暁陽派や天雪派といった名で区別されるのだ。
新樹は暁陽派の鬼人に対して絶対的権力を持っており、「人狩りが出たときには人狩りを捕まえろ」と命じれば、彼らはその言葉に従う。
そのため人狩りが暁陽家の領内に出れば、まずは暁陽派の鬼人が、人狩り討伐のために動き出す。彼らだけでそれが無理だと判断されると、暁陽派の鬼族も討伐に加わる。
また、人狩りを捕獲したという報告を受けたときは、その処分を最終的に決めるため、新樹は捕らえた人狩りの元へと足を向ける必要があった。
人狩りが出たという理由だけで新樹が現場に急行するのは、よほどの場合に限られる。つまり、暁陽派の鬼族だけで人狩りを捕らえられなかった場合だ。
さらに、帝国直下の領地となっている帝都内に鬼人が出たときは、帝国軍が討伐に動くが、帝国軍だけで難しいと判断されたときは六家に声がかかる。
今回は帝都内に人狩りが出たのに、新樹に呼び出しがかかった。となれば、帝国軍だけの鬼人たちだけでは、人狩りを取り押さえられなかったというわけだ。新樹を動かし、暁陽派の鬼人の力を借りるというのが皇帝の狙いであり、それを命じられたら、新樹は断れない。
軍ですら捕まえられない人狩りとは、いったいどんな人狩りなのか。力が強いのか、それとも数が多いのか。
そこまで考え、百花はふるりと頭を振って思考を追い払った。
今は、新樹に頼まれた天璃華語の契約書の内容確認が最優先だ。これに対して三日以内に返事をしなければならないため、契約書の内容を訳したうえで内容を理解し、新樹に報告する必要がある。
天璃華語の文字を丁寧に目で追い、翻訳を始める。わからない単語があれば、辞典を引いて、前後の文と照らし合わせ、慎重に分を組み立てる。そうやって訳していると、知らぬうちに没頭し始めたようだ。静かな空間でありながらも、時計の秒針の音さえ気にならなくなっていた。
契約書は全部で二枚。今日のうちに一枚は終わらせたいところだ。
作業は順調に進み、一枚目を終わらせ、少しでも今日のうちに進めておこうと、二枚目の一行目を読み始めたそのとき、がたがたと激しい物音が階下から聞こえてきた。
(新樹様が、帰ってきたのかも……)
百花は読みかけの契約書をそのままにして、部屋から飛び出した。転げ落ちるように階段を駆け下りてエントランスに向かうと、むっとした鉄のにおいが鼻についた。
「新樹様!」
その姿を見つけた瞬間、百花は彼の名を呼びすぐに駆け寄った。
航平に身体を支えられるようにして立つ新樹の身体は、血に染まっていた。普段の堂々としたたたずまいとは異なる痛々しいその姿に、百花の胸がぎゅっと締めつけられた。



