鬼のつがい~競売に堕ちた令嬢は不器用な年下当主の執愛に絡め取られる

 航平がいなくなったところで、新樹がぽつりと口を開く。
「どうもしない」
 だがその答えが、百花の心を爆発させる起爆剤となった。
 いつも新樹はわけもわからず不機嫌になり、それに振り回されるのが百花なのだ。彼に対する恩義はあるけれど、それとこれは別の話。百花に言いたいことがあるのなら、態度で示すのでなく、言葉ではっきり伝えてほしい。
「どうもしないのであれば、もう少し穏やかな態度を取っていただけないでしょうか。新樹様がそうやってイライラされていると、私はどうしたらいいかがわかりません」
 一気にまくしたてるが、それが百花の偽りなき心からの言葉だ。胸が苦しく、目頭も喉の奥もツンとする。他にも何か言いたいのに、それ以上の言葉は詰まってしまって出てこない。
 ただ、もしかしたら新樹のイライラが百花にも伝染したのかもしれない。本来であれば、もっと落ち着いた口調で言うべきだったのに、平静を失っていた。
 ここ数日の間、新樹はずっと何かに苛立っていて、それを隠そうとはせず航平に八つ当たりをしていたのだ。航平が精神的にも肉体的にも大人で、それを受け流していたからいいものの、他の人が相手であればもめごとにまで発展していたっておかしくはない状況である。
 そんなことが続き、百花の心の奥にたまっていた何かが、一気に爆発したのかもしれない。
「俺もわからないんだ」
 声を荒らげた新樹が、ドン! と机を叩いた瞬間、その音に驚いた百花は身を震わせた。
 新樹も驚愕したかのように目を見開いたが、すぐに百花をぎっと睨みつける。しかしその瞳はどこか潤んでいた。
 何か言葉を紡ぎ出そうとする彼の唇は微かに震えている。
 百花は、そんな新樹に釘づけだった。まるで今にも泣き出しそうな彼の表情からは、目が離せない。
「……おまえは、晶翔のような大人の男がいいのか?」
 絞り出すように切なげに声を吐き、見上げてくる新樹の姿に、百花の心臓がぎゅっとわしづかみされ苦しくなった。
 しかし、百花は慌てて手を振って否定する。
「なっ、何を言ってるんですか?」
「今日だって、晶翔と楽しそうに話をしていたじゃないか」
 つっけんどんでありながらも、語尾には怒りが含まれている。
「それは、同じ秘書として会館の中を案内してもらったんです。晶翔さんは天雪家の秘書を務めているからって。私が、あの建物を一人で歩いても、迷子にならないようにって」
 だから何も後ろめたい事実なんてない。
 それでも新樹は捨てられた子犬のような瞳で百花に訴えて続ける。
「だったら、俺がいないときはおとなしくあの部屋で待っていればいいだろう? 館内の案内なんて、いつだってやってやるのに。……俺は、不安なんだ。俺の前からおまえがいなくなってしまいそうで。だから、あそこに連れていきたくなかった……。晶翔のような男におまえを奪われるんじゃないかって……俺はまだ子どもだから……」
 新樹は下を向くが、力強く握られた拳が机の上で震えている。新樹の叫びは棘となって、痛いくらいに百花の心に突き刺さった。
 新樹が何に怯えているのかはわからない。だけど、百花を心配している気持ちだけは痛いくらいに伝わってきた。
 百花は彼の手を両手でそっと包み込んだ。新樹の吐露に苦しいくらいに胸が締めつけられる。
「私はどこにも行きません。ここにいます」
 ここを追い出されたら、百花には行き場がない。絶望に突き落とされそうになったとき、救ってくれたのが新樹なのだ。
「なによりも……私は金貨百万枚で新樹様に買われたのです。まだ百万枚分の仕事を終えていませんよね?」
 百花が諭すようにやさしく声をかけるも、新樹の視線は下を向いたまま。
「……あぁ、そうだ。俺はおまえを金で買った卑怯な奴だ」
 新樹の叫びは鋭い刃となって百花に襲いかかるが、百花もそれに負けまいと反論する。
「いいえ! 家族を失った私にとって居場所をくださったのが新樹様です。あの場で私を買ってくださったから、今の私がいるんです」
 その言葉に圧倒されたのか新樹が口をつぐみ、時を刻む音だけがコチコチと室内に響く。
 百花が握りしめる手にきゅっと力をこめれば、新樹の手がぴくりと動いた。彼は顔をあげ、ゴクリと喉を上下させる。
「……百花。あと三年待ってほしい。あと三年経てば、俺も成人を迎える。そのときはきっと今よりも背が伸びて、晶翔よりもでっかくなる」
 三年経てば新樹も成長し、百花の身長も抜かすだろう。
 だが彼は、晶翔を引き合いに出してきた。彼よりも大きくなるとなぜか確信しており、その些細な様子がほほ笑ましい。
「自信がおありなんですね」
「ある」
 あまりにも堂々と言うものだから、百花はくすりと笑みをこぼし「では、待ってますね」と答えた。
 すると、新樹の身体からするすると力が抜けていき、その顔には笑みが浮かぶ。
「腹が減った……」
 新樹の気の抜けた声が、静かな室内に響く。
「あっ!」
 そこで百花は、別館で買ったクッキーの存在を思い出した。焦って鞄の中をあさると、クッキーの包みを見つけた。
「なんだ、それは」
 百花の手の中にあるクッキーを目ざとく見つける新樹の声が、先ほどよりも明るくなっている。
「はい。別館を案内してもらったときに、新樹様が好きそうなお菓子を見つけましたので……」
「おまえが買ったのか?」
「もちろんです。いろんな種類があったのですが、新樹様ならこれがいいだろうと思って。どうぞ」
 百花がクッキーを手渡そうと新樹の前に出せば、彼も手を伸ばす。受け取った瞬間、指先が触れ合い、ほのかに彼の熱を感じた。
「開けてもいいか?」
「でも……夕食前ですから、あまり食べすぎると深山さんに怒られますよ?」
 たまに仕事の合間に甘いお菓子を食べすぎて、夕食を食べられないときがあり、そうすると航平が鬼のごとく新樹にがみがみと説教するのだ。
「一個だけにするから」
 しょうがないですね、と小さく声をかける百花だが、新樹がクッキーに興味を持ってくれたのは素直に嬉しい。新樹の好みを間違えてはいなかった。
「では、深山さんの様子をみてまいります。お食事はお部屋で取られますか? それとも食堂まで行かれますか?」
 クッキーを一つだけ手にした新樹は、目をすがめる。
「疲れた、動きたくない。ここに持ってこい」
 いつものわがままな新樹である。不機嫌で八つ当たりされるよりは、わがままを言ってもらったほうがまだいい。
「はい、承知しました」
 百花が頭を下げてから部屋を出ようとしたとき、新樹が「百花」と呼び止めた。
「これ、美味いな。もう一個だけ、食べてもいいか?」
「夕食をきちんと食べるというのであれば」
 百花が返せば、新樹は「わかった」と、もう一つだけ口にくわえた。
 そんな彼の姿を見てから、扉を開けると、目の前に航平の姿があった。
「きゃっ」
 まさかそこにいるとは思わず、小さく悲鳴をあげた百花は、慌てて自分の口を手で隠す。
「も、申し訳ありません」
「ごめんごめん、驚かせてしまったね。で、うちのご当主様の機嫌は直りましたかね?」
 航平は百花の肩越しに中の様子を確認するが、ちょうど新樹がクッキーを食べているところを見られてしまった。
「あ、新樹様。夕食前にお菓子を食べてはならないと、あれほど……」
「うるさい。俺は腹が減ったんだ。さっさと食事の用意をしろ」
「はいはい。すぐにご用意いたします」
 呆れた様子ではあるものの、航平はどこか楽しそうだ。
「新樹様の機嫌が直ってよかったです。さすが百花さんですね」
 こそっと百花の耳元でささやいた航平だが、もしかしたら今までのやりとりは彼に筒抜けだったのではないだろうか。
 それを考えたら、顔がぽっと熱くなった。