朝、陽介が目を覚ますと、部屋は静かで温もりに欠けていた。
カーテン越しの光はすでに明るく、拓実の姿はベッドにはなかった。
キッチンの方から、かすかな物音が聞こえてきた。
陽介は布団の中で、しばらくその音を聞いていた。
——もう、起きなきゃ……。
そう心は思っているのに、身体がすぐに動いてくれない。
昨夜の会話が、胸の奥にまだ燻っていた。
『嫌じゃない』
そう答えた自分の声を、何度も心の中で思い返す。
それは間違いなく事実である。だけど、その言葉の先に何かがあるのか?
陽介自身にもまだ分からないままだった。
キッチンに向かうと、拓実がフライパンを火にかけている。
「おはよう」
「……おはようございます」
「今日は早めに出るから、簡単で悪いけどな」
そう言って差し出されたのは、焼いただけの卵とトースト……けれど人がつくってくれたそれだけで、心に何かあたたかいものを感じて、思わず声が出た。
「ありがとうございます」
拓実に向かい合って座って、陽介はパンをかじった。だが、それ以上言葉をつなぐことはできなかった。二人の間には、沈黙が流れていた。
それは昨日までの静けさとは、どこか違う。
このままお互いに踏み込んでいくのを迷っている。無邪気に距離を縮めてこれた昨日までとは違い、距離の取り方に戸惑っている。そんな感覚があった。
「……今日さ」
拓実が、何気ない調子で沈黙をやぶった。
「今夜、たぶん遅くなる」
心臓が、わずかに跳ねた。
「昨日も、でしたよね」
「ああ。そうだったな。どうしても、続くときは続く」
「……そういう、お仕事ですもんね」
それ以上、続けられる言葉はなかった。
拓実は悪びれた様子もなく、コーヒーを飲み干すと立ち上がる。
「先行くな」
「あ、はい、いってらっしゃい」
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
残された食卓で、陽介は一人、冷めていくコーヒーを見つめていた。
昼休み。
社員食堂は、いつも以上に騒がしい気が、陽介にはしていた。
営業部のテーブルでは、何かの成果報告らしく、拍手と笑い声が上がっている。
その中心にいるのは、やはり拓実だった。
「木崎さん、今日も忙しそうですね」
「まあな。ありがたい話だけど」
軽やかに応じる声。
周囲に向けられる笑顔。
——ああ。
陽介には、容赦なく現実を突き付けられた気がした。
自分が知っている拓実は、ほんの一部なのだと。
家で見せる疲れた表情も、静かな声も、
ここでは、誰にも見せていない。
フォークを動かしながら、陽介は思う。
もし、この同居が終わったら。
もし、部屋に一人で帰る日が来たら。
自分は、この人のどの顔を思い出すのだろう。
静かな夜がくる。
陽介は残業を終え、いつもより遅く帰宅した。
部屋の明かりはついていない。
「……ただいま」
返事はない。ついこないだまではこんな静かな場所に帰るのが当たり前だったはずなのに。誰もいない部屋が、薄ら寒く感じていた。
キッチンに置かれたままのマグカップを見て、胸がざわつく。
昨日も、今朝も、使われていたそれ。
——ここは一人の場所じゃない。
そう思った瞬間、玄関の鍵がカチャリと回る音がした。
「ただいま」
拓実だった。
ネクタイを外し、いつもより静かな動きで靴を脱ぐ。
「おかえりなさい」
「ああ……陽介か」
視線が合った一瞬、拓実は少し驚いたように目を瞬かせた。
「今日も、遅くなった」
「いえ、僕も残業でさっき帰ったばかりです」
それだけの会話なのに、空気が重い。
拓実はソファに腰を下ろすと、深く息を吐いた。
「……疲れた」
短い言葉。
でも、家でしか聞かない声音だった。
陽介は、少し迷ってから、キッチンへ向かう。
「お茶、入れますね」
「……頼む」
湯を沸かしながら、陽介は思う。
自分は今、何をしているのだろう。同居人として?
それとも——。
カップを差し出すと、拓実はそれを受け取り、静かに飲んだ。
「なあ、陽介」
「はい」
「この生活、終わったらさ……」
言いかけて、拓実は言葉を止める。
その沈黙が、肩に押しかかるように感じた。
「……いや、何でもない」
拓実は逃げるように笑うと、話題を切り替えようとする。
だが陽介の胸には、その言葉の『続き』が、痛いほど重く残った。
終わりを意識してしまった瞬間。
それは、もう後戻りできないくらい、二人の今を感じた瞬間だった。
しかし、その夜、二人はそれ以上、深く話すことはなかった。
同じ部屋にいながら、
それぞれが、同じ未来を見ないまま、眠りについた。
カーテン越しの光はすでに明るく、拓実の姿はベッドにはなかった。
キッチンの方から、かすかな物音が聞こえてきた。
陽介は布団の中で、しばらくその音を聞いていた。
——もう、起きなきゃ……。
そう心は思っているのに、身体がすぐに動いてくれない。
昨夜の会話が、胸の奥にまだ燻っていた。
『嫌じゃない』
そう答えた自分の声を、何度も心の中で思い返す。
それは間違いなく事実である。だけど、その言葉の先に何かがあるのか?
陽介自身にもまだ分からないままだった。
キッチンに向かうと、拓実がフライパンを火にかけている。
「おはよう」
「……おはようございます」
「今日は早めに出るから、簡単で悪いけどな」
そう言って差し出されたのは、焼いただけの卵とトースト……けれど人がつくってくれたそれだけで、心に何かあたたかいものを感じて、思わず声が出た。
「ありがとうございます」
拓実に向かい合って座って、陽介はパンをかじった。だが、それ以上言葉をつなぐことはできなかった。二人の間には、沈黙が流れていた。
それは昨日までの静けさとは、どこか違う。
このままお互いに踏み込んでいくのを迷っている。無邪気に距離を縮めてこれた昨日までとは違い、距離の取り方に戸惑っている。そんな感覚があった。
「……今日さ」
拓実が、何気ない調子で沈黙をやぶった。
「今夜、たぶん遅くなる」
心臓が、わずかに跳ねた。
「昨日も、でしたよね」
「ああ。そうだったな。どうしても、続くときは続く」
「……そういう、お仕事ですもんね」
それ以上、続けられる言葉はなかった。
拓実は悪びれた様子もなく、コーヒーを飲み干すと立ち上がる。
「先行くな」
「あ、はい、いってらっしゃい」
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
残された食卓で、陽介は一人、冷めていくコーヒーを見つめていた。
昼休み。
社員食堂は、いつも以上に騒がしい気が、陽介にはしていた。
営業部のテーブルでは、何かの成果報告らしく、拍手と笑い声が上がっている。
その中心にいるのは、やはり拓実だった。
「木崎さん、今日も忙しそうですね」
「まあな。ありがたい話だけど」
軽やかに応じる声。
周囲に向けられる笑顔。
——ああ。
陽介には、容赦なく現実を突き付けられた気がした。
自分が知っている拓実は、ほんの一部なのだと。
家で見せる疲れた表情も、静かな声も、
ここでは、誰にも見せていない。
フォークを動かしながら、陽介は思う。
もし、この同居が終わったら。
もし、部屋に一人で帰る日が来たら。
自分は、この人のどの顔を思い出すのだろう。
静かな夜がくる。
陽介は残業を終え、いつもより遅く帰宅した。
部屋の明かりはついていない。
「……ただいま」
返事はない。ついこないだまではこんな静かな場所に帰るのが当たり前だったはずなのに。誰もいない部屋が、薄ら寒く感じていた。
キッチンに置かれたままのマグカップを見て、胸がざわつく。
昨日も、今朝も、使われていたそれ。
——ここは一人の場所じゃない。
そう思った瞬間、玄関の鍵がカチャリと回る音がした。
「ただいま」
拓実だった。
ネクタイを外し、いつもより静かな動きで靴を脱ぐ。
「おかえりなさい」
「ああ……陽介か」
視線が合った一瞬、拓実は少し驚いたように目を瞬かせた。
「今日も、遅くなった」
「いえ、僕も残業でさっき帰ったばかりです」
それだけの会話なのに、空気が重い。
拓実はソファに腰を下ろすと、深く息を吐いた。
「……疲れた」
短い言葉。
でも、家でしか聞かない声音だった。
陽介は、少し迷ってから、キッチンへ向かう。
「お茶、入れますね」
「……頼む」
湯を沸かしながら、陽介は思う。
自分は今、何をしているのだろう。同居人として?
それとも——。
カップを差し出すと、拓実はそれを受け取り、静かに飲んだ。
「なあ、陽介」
「はい」
「この生活、終わったらさ……」
言いかけて、拓実は言葉を止める。
その沈黙が、肩に押しかかるように感じた。
「……いや、何でもない」
拓実は逃げるように笑うと、話題を切り替えようとする。
だが陽介の胸には、その言葉の『続き』が、痛いほど重く残った。
終わりを意識してしまった瞬間。
それは、もう後戻りできないくらい、二人の今を感じた瞬間だった。
しかし、その夜、二人はそれ以上、深く話すことはなかった。
同じ部屋にいながら、
それぞれが、同じ未来を見ないまま、眠りについた。



