ひと月だけの同居人

 新居は、整いすぎていた。

 白い壁。無駄のない間取り。まだ何の匂いも染みついていない空気。

 段ボールを置く音が、やけに響く。

 陽介は電気をつけ、靴を揃える。

 動作はいつも通りだ。乱れはない。それなのに、胸の奥だけが、落ち着かない。

 キッチンに立つ。マグカップを一つ、棚に置く。もう一つは、ない。

 ——それで足りる。そう思った瞬間、違和感が走る。

 足りるはずなのに、足りない。何が?理屈では説明できない。

 冷蔵庫の音だけが、低く鳴っていた。

 静かだ。静かすぎる。あの部屋では、静けさにも気配があった。

 誰かがいる、という前提の静けさ。

 でも今は違う。本当に、何もない。

 陽介は椅子に腰を下ろす。呼吸が浅い。

 ——これは何だ。

 依存か。習慣の崩壊か。環境変化への適応反応か。頭が必死に分類を始める.。だが、うまく整理できない。うまく言葉に落ちない。

 胸の奥が、じわじわと痛む。

 あの玄関の一瞬が、繰り返し蘇った。腕を掴まれた感触。言葉にならなかった衝動。

 あれは……。引き止めなかったのは優しさなのか、それとも……。自分を守るための距離か。

 もし、あのとき、「行くな」と言われていたら。——自分は、どうしていただろう。

 ——残ったか?

 その想像に、息が詰まる。残ったのかもしれない。

 それが、何よりも怖い。自分の選択ではなく、相手の言葉に委ねる未来が。

 それでは、また曖昧なままだ。

 陽介は机に置いた本を手に取り、ページを開いた。

『愛とは、相手の自由を奪わず、それでも関係を望む意志である』

 視界が、わずかに滲む。——奪わずに、か。そう、あの人は、奪わなかった。

 自分の自由を。
 
 それは、逃げだったのか。それとも、信頼だったのか。

 胸が痛む。

 理屈ではなく。感情が、遅れて押し寄せてくる。

 いなくなった空間の広さ。声のない夜。

 帰りを待たなくていい現実。

 それが、こんなにも苦しいなら。

 それは、ただの習慣ではない。

 陽介は、ゆっくりと本を閉じる。

 手が震えている。

 それでも、立ち上がる。

 ——選ばなければいけない、確かにそう感じた。誰かに決められる前に。終わりとして確定する前に。間違いなく、自分の意志で。

 上着を掴んで、玄関へ向かう。

 鍵を回す音が、やけに大きく響いた。夜の空気が、冷たい。

 胸はまだ痛んだまま、整理はついていない。だが、このまま何もしなければ、後悔する。

 それだけは、自分の中ではっきりとした事実として感じられていた。

 陽介は歩き出した。足取りは速くない。だが、止まらない。

 心も身体も震えていた。それでも、冷静だった。


 ドアが閉まってから、しばらくの間、そのまま固まったように動けなかった。

 拓実は、玄関に立ったままだった。

 つかんだ手首の感触だけが、まだ掌に残っている。

 引き止められなかった。言葉にできなかった。それが現実だった。

 どれくらいの時間が過ぎたのか、わからない。そのまま、ゆっくりと、リビングへ戻る。

 静かだ。静かすぎる。

 棚の空き。洗面所の片側。机の上の余白。物が減っただけだというのに、それなのに、部屋が広い。

「……こんなもんか」

 誰に言うでもなく呟く。最初は、ただの手違いだった。

 面倒な期限付きの同居。終わると決まっていた関係。それでよかったはずだ。

 ソファに腰を下ろす。

 無意識に、視線がテーブルへ向いてしまう。そこには、本がない。

 あいつが読んでいた、あの難しい本。理屈で距離を測ろうとしていた証。代わりに残っているのは、自分の鍵束だけだ。

 革のキーホルダーが、乾いた音を立てる。

 ——また、ひとりだ。

 そう思った瞬間、胸の奥が、思ったよりも強く軋んだ。軽くやるはずだった。踏み込まないはずだった。なのに……。

 そのまま、拓実は窓から差す光が陰るまで、ソファに座ったまま、何をするでもなく、動けないでいた。

 ふと、ソファから立ち上がり、寝室の前まで歩く。

 もう、そこには誰もいない。

 分かっている。

 分かっているのに。

 手が、扉に触れそうになって、止まる。

「……遅いよ」

 ぽつりとこぼれた。

 何に対してなのか、自分でも分からない。

 そのとき。

 ——ピンポン。

 呼鈴が鳴った。数秒、身体がうまく反応しなかった。

 もう一度。

 ——ピンポン。

 今度は迷わなかった。

 インターホンのモニタを覗くと、そこには、カートひとつをひいた陽介がいた。

「どうした。忘れ物か?」

「そうですね、忘れ物を取りに来ました。玄関……開けてください」

「あ、ああ、わかった」

 スイッチを押すと、陽介の横に映っている扉が開くのが見えた。

 そのままカメラから消えていく陽介。

 数秒固まったあと、拓実はあわてて、玄関にむかって、カチャリとドアの鍵をあけた。


 玄関のドアが開く。

 廊下の灯りの中に、カートひとつをひいた、陽介が立っている。

 息は少し上がっているが、目は揺れていない。

 拓実が、言葉を探す。

「忘れ物って……」

 陽介は、わずかに息を整える。

「僕の、気持ちです」

 静かな声だった。

「置いてきたままでは、整理がつかないので」

 拓実の喉が動く。

「……陽介」

「一度出てみて、分かりました」

 カートの取っ手を握る手が、わずかに震えている。

「足りないんです」

 理屈を並べるわけでもなく、分析するわけでもない、心をそのまま言葉にした。

「あなたがいないと」

 好きとは言わない、だが、十分すぎる言葉だった。

 拓実は、目を逸らさない。

「戻るってことは」——声が、少し掠れていた。

「簡単じゃないぞ」

「はい」

 即答だった。

「簡単じゃなくていいんです」

 沈黙。だが、以前の重い沈黙とはちがっていた。拓実が、ゆっくりと横にずれ、玄関の内側へ、道をあける。

「……入れよ」

 陽介は、小さく頷く。

 カートの車輪が、敷居を越え、コトリ、と小さな音をたてた。

 その音が、妙に確かだった。

 ドアが閉まり、カチリ、と鍵が回る。

 触れない距離で向き合う。だが、もう迷っていない。

 拓実が、低く言う。

「陽介」

「はい」

「俺、逃げない」

 短い宣言。

 陽介は、ほんのわずかに笑う。

「僕も」

 リビングへ戻る。

 テーブルの上には、鍵束。

 革のキーホルダーが、白い光を受けて揺れている。

 陽介は、カートから手を離す。

「……夕飯、どうしますか」

 拓実が、小さく息を吐いて笑う。

「二人分だろ」

 キッチンに並ぶ。肩は触れない。だが、隙間はもう迷っていない。

 テーブルの端に、本が置かれる。その隣で、キーホルダーが小さく音を立てる。

 理屈で測ろうとした距離も、過去を握りしめた恐れも、今は同じ光の中にあった。

 火をつける音。湯気が鍋から立ちのぼる。

 本も、キーホルダーも、そのままでいい。

 ふたりは、いつもの夕食を作りはじめた。