昼過ぎ、総務からのメールが届いた。
件名は簡潔だった。
『社宅入居手続きの是正について』
本文はほんの数行だけしかなかった。
今月末をもって同居は解消。
新川の新居引き渡しは5月1日。
木崎は現住居を継続使用のこと。
事務的な文章だった。
陽介は、読み終えてもすぐには画面を閉じなかった。
——予定通り。
最初から分かっていたことだ。
けれど、『予定』が『決定』になった。
画面の文字は変わらないのに、胸の奥にだけ小さな圧がかかる。
夕方、帰宅した拓実に伝える。
「総務から、連絡がありました」
靴を脱ぎながら拓実が「うん」と応じる。
「5月1日に新居が準備されることになりました。」
ほんの一瞬だけ、動きが止まる。
「……そっか」
それだけだった。
「場所は?」
「会社を挟んでちょうど反対側辺りですね、買い物に行く場所とかも違うところになりそうです。」
「そうか、やっとひとりになれるな、よかった」
拓実は冷蔵庫を開ける。
いつもとかわらない動作で。いつもとかわらない音が鳴る。
そして、いつもと変わらない部屋に、拓実はいる。
そして陽介は、小さく頷いた。
「はい」
本当に、これでよかったのだろうか。
問いは、口に出されないまま、部屋のどこかに置き去りになっていた。
週末になる。
段ボールを組み立てる音が、乾いた響きを立てた。
陽介は机の上の本を、順番に箱へ詰めていった。
背表紙を揃え、角を潰さないように。
手つきは、いつもの仕事で見せるのと同じように、落ち着いていて乱れはない。
特別な作業でもない、ついひと月前にやったのと同じことだ。
あの時と同じように荷物をまとめているだけ。
クローゼットから衣類を出す。
ハンガーが減る。
棚の空間が、目に見えて広がる。
キッチンに立つ。
マグカップが二つ、これまでと同じように並んでいた。
無意識に、両方に触れてしまう。
そのあとで、自分のものだけを箱に入れた。
残った一つを、そっと棚に戻した。
そこだけが、妙に静かだ。
「手伝おうか?」
背後からの声。
振り向くと、拓実が立っている。
「いえ、大丈夫です」
「遠慮すんなよ」
「遠慮ではありません」
声は安定している。
だが、次の動作に入るまで、ほんのわずかに間があった。
洗面所へ行く。
歯ブラシが二本並んでいる。
自分のものを抜き取る。
残った一本が、やけに細く見えた。
その瞬間。
胸の奥に、遅れて何かが広がっていった。
準備をしている間は、ただの作業だった。
けれど、並びが崩れた場所を目にした途端に、それは『終わりの形』を明らかにした。
陽介は、歯ブラシを箱に入れる。
蓋を閉じる。
テープを引く。
——ぺりり。
その音が、思ったより大きい。
「……ずいぶん、早いな」
拓実の声が後ろから聞こえた。
「元々、荷物は少ないですから」
答えながら、後ろを見上げた。
部屋が、少し広い。
いや、広いのではない。
隙間ができただけだ。
生活の気配が、ゆっくりと剥がれていく。
さっきまで何とも思っていなかったはずなのに。
急に、喉の奥が乾く。
——本当に、出ていくのだ。
その実感が、今さらのように形を持つ。
陽介は段ボールの上に手を置いたまま、数秒動かなかった。
感情は、いつも少し遅れてやってくる。
理屈よりも後から。
準備が整いかけた頃に、ようやく。
視線の先で、拓実がこちらを見ている。
何か言いたげで、しかし何も言わない目。
陽介は、小さく息を整える。
「あと、二箱です」
淡々と告げる。
だが、胸の奥では、
まだ整理のつかない何かが、静かに波立っていた。
期限は、もう、目に見える距離まで来ている。
その夜。
陽介は先に風呂に入り、寝室へ引き上げた。
リビングには、半分ほどになった段ボールが積まれている。
拓実は、ソファに腰を下ろしたまま、しばらく動かなかった。
何も変わっていないはずだった。
テレビもある。
テーブルもある。
冷蔵庫の音も同じだ。
だが、どこか違う。
視線を巡らせて、ようやく気づく。
棚の空き。
洗面所の片側。
机の上の、空白。
物が減っただけなのに、部屋の輪郭がむき出しになっている。
「……早いな」
昼間と同じ言葉が、今度は自分の胸の奥に落ちる。
こんなに、簡単に終わるのか。
最初は、ただの手違いだった。
面倒な同居人が増えただけだと思っていた。
静かで、堅くて、少し扱いにくい後輩。
それがいつの間にか、当たり前になっていた。
帰れば灯りがついている。
「おかえり」と言われる。
夕飯の匂いがある。
それが、当たり前に。
拓実は、テーブルの上の鍵束を手に取る。
そこには、あの革のキーホルダー。
擦り切れた角を、無意識に撫でる。
——あのときも、こうだった。
本気になって。
壊れて。
そして、何もなかった顔をして日常に戻った。
あれ以来、踏み込まないようにしてきた。
軽く。
曖昧に。
誰にでも同じ顔で。
その方が安全だった。
だが今、胸の奥にあるのは、あのときとは違う感覚だ。
燃えるような衝動ではない。
代わりにあるのは、
静かな不安。
——いなくなる。
それだけで、こんなにも落ち着かない。
ソファから立ち上がり、寝室の前まで行く。
扉は閉まっている。
中から物音はしない。
ノックはしない。
ただ、そこに立つ。
——引き止めるか?
喉まで言葉が上がる。
「ここにいろ」
そんな無責任なことは、言えない。
自分は、陽介を巻き込みたくないはずだった。
なのに。
いざ本当に出ていくと決まると、
胸の奥が、ひどく静かに痛む。
拓実は、ゆっくり息を吐く。
「……情けねえな」
小さく呟く。
怖いのは、噂でもない。失敗でもない。また本気になること。そして、本気になった自分を、拒まれること。
寝室の向こうには、今はまだ陽介がいる。そう、まだ、ここにいる。
あと数日、それが、急に短く思えた。
拓実はキーホルダーをポケットに戻す。そして、リビングの灯りを消した。
暗闇の中で、部屋の広さだけが、やけに強調されていた。
5月1日に鍵を預かり、GWの初日の引っ越し当日は、よく晴れていた。
引っ越しといっても、トラックみたいな大げさなものはこない。段ボールは三箱と、衣類のバッグが一つ。タクシーを呼べば済む量だった。
陽介は、最後の箱にテープを貼る。乾いた音が部屋に響いた。
これまでと同じように、整然と。拓実は玄関の壁にもたれ、腕を組んで見ていた。
「それで全部か?」
「はい」
短い返事。部屋は、もうほとんど元の姿に戻っている。
テーブルの上も、棚も、洗面所も。『二人で暮らした痕跡』は、思ったより残らない。
陽介は、ゆっくりと室内を見渡した。
視線は長く留めない。ただ確認するだけ。
忘れ物がないか。それだけを確かめる。
「タクシー、五分くらいで来ます」
「そっか」
沈黙。
玄関の時計の秒針だけが進む。
拓実が、ふいに言う。
「……静かになるな」
それは、独り言のようだった。
陽介は答えを返さなかった。代わりに、靴を履く。
玄関のドアを開ける前、ほんの一瞬だけ、振り返る。
ここで暮らした時間は、偶然だった。でも、確かにそこには濃密な時間があったはずだ。
「お世話になりました」
形式ばった言葉。
もう最初の日と、同じ距離がそこにある。
拓実は、笑う。
「こっちこそ。助かった」
これも、形式に近い。
そのとき、外からクラクションが鳴る。
タクシーだ。
陽介がドアノブに手をかける。
そして、扉を開こうとした瞬間。
背後から、腕をつかまれた。強くはない。だが、確かな力。
陽介は驚いて振り返った。拓実の手が、自分の手首を握っていた。
だが、言葉はない。
目だけが、揺れている。
——行くな。
そう言いかけた衝動が、はっきりとそこにある。
数秒。
静止した時間。
だが次の瞬間、拓実はゆっくりと手を離した。
「……忘れ物、ないよな」
声は、いつもの調子に戻っている。
「はい」
陽介も、それ以上何も言わなかった。
扉が開き、外の光が差し込む。
「じゃあな」
「……はい」
ドアが閉まる。
足音が遠ざかる。
やがて、エンジン音。
静寂。
拓実は、玄関に立ったまま動かなかった。
握っていたはずの手の感触だけが、まだ残っている。
引き止めることは、できなかった。
けれど。
あの一瞬、確かに自分は、理屈ではなく動いた。それが、何よりもはっきりしていた。
件名は簡潔だった。
『社宅入居手続きの是正について』
本文はほんの数行だけしかなかった。
今月末をもって同居は解消。
新川の新居引き渡しは5月1日。
木崎は現住居を継続使用のこと。
事務的な文章だった。
陽介は、読み終えてもすぐには画面を閉じなかった。
——予定通り。
最初から分かっていたことだ。
けれど、『予定』が『決定』になった。
画面の文字は変わらないのに、胸の奥にだけ小さな圧がかかる。
夕方、帰宅した拓実に伝える。
「総務から、連絡がありました」
靴を脱ぎながら拓実が「うん」と応じる。
「5月1日に新居が準備されることになりました。」
ほんの一瞬だけ、動きが止まる。
「……そっか」
それだけだった。
「場所は?」
「会社を挟んでちょうど反対側辺りですね、買い物に行く場所とかも違うところになりそうです。」
「そうか、やっとひとりになれるな、よかった」
拓実は冷蔵庫を開ける。
いつもとかわらない動作で。いつもとかわらない音が鳴る。
そして、いつもと変わらない部屋に、拓実はいる。
そして陽介は、小さく頷いた。
「はい」
本当に、これでよかったのだろうか。
問いは、口に出されないまま、部屋のどこかに置き去りになっていた。
週末になる。
段ボールを組み立てる音が、乾いた響きを立てた。
陽介は机の上の本を、順番に箱へ詰めていった。
背表紙を揃え、角を潰さないように。
手つきは、いつもの仕事で見せるのと同じように、落ち着いていて乱れはない。
特別な作業でもない、ついひと月前にやったのと同じことだ。
あの時と同じように荷物をまとめているだけ。
クローゼットから衣類を出す。
ハンガーが減る。
棚の空間が、目に見えて広がる。
キッチンに立つ。
マグカップが二つ、これまでと同じように並んでいた。
無意識に、両方に触れてしまう。
そのあとで、自分のものだけを箱に入れた。
残った一つを、そっと棚に戻した。
そこだけが、妙に静かだ。
「手伝おうか?」
背後からの声。
振り向くと、拓実が立っている。
「いえ、大丈夫です」
「遠慮すんなよ」
「遠慮ではありません」
声は安定している。
だが、次の動作に入るまで、ほんのわずかに間があった。
洗面所へ行く。
歯ブラシが二本並んでいる。
自分のものを抜き取る。
残った一本が、やけに細く見えた。
その瞬間。
胸の奥に、遅れて何かが広がっていった。
準備をしている間は、ただの作業だった。
けれど、並びが崩れた場所を目にした途端に、それは『終わりの形』を明らかにした。
陽介は、歯ブラシを箱に入れる。
蓋を閉じる。
テープを引く。
——ぺりり。
その音が、思ったより大きい。
「……ずいぶん、早いな」
拓実の声が後ろから聞こえた。
「元々、荷物は少ないですから」
答えながら、後ろを見上げた。
部屋が、少し広い。
いや、広いのではない。
隙間ができただけだ。
生活の気配が、ゆっくりと剥がれていく。
さっきまで何とも思っていなかったはずなのに。
急に、喉の奥が乾く。
——本当に、出ていくのだ。
その実感が、今さらのように形を持つ。
陽介は段ボールの上に手を置いたまま、数秒動かなかった。
感情は、いつも少し遅れてやってくる。
理屈よりも後から。
準備が整いかけた頃に、ようやく。
視線の先で、拓実がこちらを見ている。
何か言いたげで、しかし何も言わない目。
陽介は、小さく息を整える。
「あと、二箱です」
淡々と告げる。
だが、胸の奥では、
まだ整理のつかない何かが、静かに波立っていた。
期限は、もう、目に見える距離まで来ている。
その夜。
陽介は先に風呂に入り、寝室へ引き上げた。
リビングには、半分ほどになった段ボールが積まれている。
拓実は、ソファに腰を下ろしたまま、しばらく動かなかった。
何も変わっていないはずだった。
テレビもある。
テーブルもある。
冷蔵庫の音も同じだ。
だが、どこか違う。
視線を巡らせて、ようやく気づく。
棚の空き。
洗面所の片側。
机の上の、空白。
物が減っただけなのに、部屋の輪郭がむき出しになっている。
「……早いな」
昼間と同じ言葉が、今度は自分の胸の奥に落ちる。
こんなに、簡単に終わるのか。
最初は、ただの手違いだった。
面倒な同居人が増えただけだと思っていた。
静かで、堅くて、少し扱いにくい後輩。
それがいつの間にか、当たり前になっていた。
帰れば灯りがついている。
「おかえり」と言われる。
夕飯の匂いがある。
それが、当たり前に。
拓実は、テーブルの上の鍵束を手に取る。
そこには、あの革のキーホルダー。
擦り切れた角を、無意識に撫でる。
——あのときも、こうだった。
本気になって。
壊れて。
そして、何もなかった顔をして日常に戻った。
あれ以来、踏み込まないようにしてきた。
軽く。
曖昧に。
誰にでも同じ顔で。
その方が安全だった。
だが今、胸の奥にあるのは、あのときとは違う感覚だ。
燃えるような衝動ではない。
代わりにあるのは、
静かな不安。
——いなくなる。
それだけで、こんなにも落ち着かない。
ソファから立ち上がり、寝室の前まで行く。
扉は閉まっている。
中から物音はしない。
ノックはしない。
ただ、そこに立つ。
——引き止めるか?
喉まで言葉が上がる。
「ここにいろ」
そんな無責任なことは、言えない。
自分は、陽介を巻き込みたくないはずだった。
なのに。
いざ本当に出ていくと決まると、
胸の奥が、ひどく静かに痛む。
拓実は、ゆっくり息を吐く。
「……情けねえな」
小さく呟く。
怖いのは、噂でもない。失敗でもない。また本気になること。そして、本気になった自分を、拒まれること。
寝室の向こうには、今はまだ陽介がいる。そう、まだ、ここにいる。
あと数日、それが、急に短く思えた。
拓実はキーホルダーをポケットに戻す。そして、リビングの灯りを消した。
暗闇の中で、部屋の広さだけが、やけに強調されていた。
5月1日に鍵を預かり、GWの初日の引っ越し当日は、よく晴れていた。
引っ越しといっても、トラックみたいな大げさなものはこない。段ボールは三箱と、衣類のバッグが一つ。タクシーを呼べば済む量だった。
陽介は、最後の箱にテープを貼る。乾いた音が部屋に響いた。
これまでと同じように、整然と。拓実は玄関の壁にもたれ、腕を組んで見ていた。
「それで全部か?」
「はい」
短い返事。部屋は、もうほとんど元の姿に戻っている。
テーブルの上も、棚も、洗面所も。『二人で暮らした痕跡』は、思ったより残らない。
陽介は、ゆっくりと室内を見渡した。
視線は長く留めない。ただ確認するだけ。
忘れ物がないか。それだけを確かめる。
「タクシー、五分くらいで来ます」
「そっか」
沈黙。
玄関の時計の秒針だけが進む。
拓実が、ふいに言う。
「……静かになるな」
それは、独り言のようだった。
陽介は答えを返さなかった。代わりに、靴を履く。
玄関のドアを開ける前、ほんの一瞬だけ、振り返る。
ここで暮らした時間は、偶然だった。でも、確かにそこには濃密な時間があったはずだ。
「お世話になりました」
形式ばった言葉。
もう最初の日と、同じ距離がそこにある。
拓実は、笑う。
「こっちこそ。助かった」
これも、形式に近い。
そのとき、外からクラクションが鳴る。
タクシーだ。
陽介がドアノブに手をかける。
そして、扉を開こうとした瞬間。
背後から、腕をつかまれた。強くはない。だが、確かな力。
陽介は驚いて振り返った。拓実の手が、自分の手首を握っていた。
だが、言葉はない。
目だけが、揺れている。
——行くな。
そう言いかけた衝動が、はっきりとそこにある。
数秒。
静止した時間。
だが次の瞬間、拓実はゆっくりと手を離した。
「……忘れ物、ないよな」
声は、いつもの調子に戻っている。
「はい」
陽介も、それ以上何も言わなかった。
扉が開き、外の光が差し込む。
「じゃあな」
「……はい」
ドアが閉まる。
足音が遠ざかる。
やがて、エンジン音。
静寂。
拓実は、玄関に立ったまま動かなかった。
握っていたはずの手の感触だけが、まだ残っている。
引き止めることは、できなかった。
けれど。
あの一瞬、確かに自分は、理屈ではなく動いた。それが、何よりもはっきりしていた。



