ひと月だけの同居人

 夜更け。

 この時間になっても、拓実はまだ帰っていなかった。

 陽介は寝室で、段ボールの奥にしまっていた一冊を取り出す。

 黒に近い濃紺の装丁。
 帯には白い文字で、静かに書かれている。

 『愛とは何か――関係性の哲学』

 引っ越し前に書店で見かけて、思わず手にとってしまった本だった。

 ページを開く。

『愛とは、欲望でも依存でもなく、他者の存在をそのまま認め続ける意志である。』

 難解な文章を目で追いながら、陽介は小さく息を吐いた。

「……意志、か」

 『好き』という感情がどういうものか、陽介には、それを心で感じることができないでいる。

 胸がざわつくこと。
 帰りを待ってしまうこと。
 終わると言われると苦しくなること。

 それは『欲望』なのか、『依存』なのか。

 それとも――。

 指先でページをなぞる。

「認め続ける……」

 拓実の笑顔も、弱さも、過去も。

 それを知ったうえで、そばにいたいと思うこと。

 それが、この本に語られている『愛』と呼ばれるものなのか。
 理屈だけで説明できないものなのだとしたら、どうやってそれを知ればいいのか?
 陽介は、本を読み進めながら、途方に暮れていたのだった。

 陽介は本を閉じる。

 答えは何も出ていない。

 けれど、もう自分の中にある違和感から目を逸らす気はなかった。

 そのとき、玄関の鍵が回る音がした。

 反射的に本を裏返す。

 だが、もうそれを段ボールには戻さなかった。

 机の上に、そのまま置いた。


 リビングに戻った拓実は、ジャケットを脱ぎ、ポケットの中身をテーブルに置く。

 鍵束。小銭。スマートフォン。

 そして、擦り切れた革のキーホルダー。

 何度も触れられたせいで、角が丸くなっている。

 陽介はまだ寝室にいるらしい。

 拓実はそれを手に取り、しばらく黙って見つめる。

 ——あの頃。

 本気で、ひとりの男を好きになった。

 隠すつもりもなかった。
 でも、守る術も知らなかった。

 結果、壊れた。

 噂になり、距離を置かれ、最後には相手を傷つけた。

 それからは、わざと軽く振る舞った。
 男女問わず、誰にでも同じ顔を向けるようにした。

 あれが特別なものだと、誰にも知られたくなかった。そういう奴だと思われることが、贖罪だと思ってきた。

「……またか」

 小さく、苦く笑う。

 陽介の言葉が、胸に残っている。

『傷つくかどうかは、僕が決めます』

 あんな目で言われるとは思わなかった。

 拓実はキーホルダーを握りしめる。

 怖いのは、噂でも世間でもない。

 自分がまた本気になること、それが一番怖かった。

 そのとき、寝室の灯りが消える気配がした。

 拓実はゆっくり息を吐き、キーホルダーだけをポケットに戻した。

「……同じことは、繰り返さないさ」

 それは誓いなのか、逃げなのか。

 まだ、自分でも分からない。

 だが少なくとも、これまでのように軽くは扱えない。

 あの静かな目を。

 あの、逃げない声を。


 次の夜、二人とも早く帰って、夜の時間を過ごしていた。

 食事を終え、二人はリビングで向かい合うでもなく、同じ空間にいる。

 テレビはついているが、音は小さい。
 どちらも画面を見ていない。

「……そういえば」

 拓実が、ぽつりと口を開く。

「あと何日くらいだっけ」

 その言葉の意味は、すぐにわかった。

 この同居の残り日数。

「後十日……ですね」

「そっか」

 短い返事。

 だが、その「そっか」の奥に、何かが沈んでいる。

 陽介は、テーブルに置いたままの本に視線を落とす。
 ブックカバーがかけられている。

「次の部屋、決まったって連絡あったのか?」

「いえ、まだ……」

「明日にでも、総務に確認しとくよ。陽介が困らないように」

「困りません」

 思ったより強い声が出た。

 拓実が少し驚いたように目を上げる。

「……困らないです。僕は」

 自分でも、何に反応したのかわからない。

『その先』を当然のように話されること。

 それが、少しだけ痛い。

「陽介」

「はい」

「この生活、どう思ってる?」

 真正面からの問いだった。

 陽介は、一瞬息を詰める。

「……便利です」

 理屈の言葉を選ぶ。

「生活効率もいいですし、食事も、無駄がない」

 拓実は苦笑する。

「そういう意味じゃなくてさ」

 沈黙。

 陽介は、視線をそらす。

「……まだ、わかりません」

 それは、正直な答えだった。

 拓実は何も言わない。
 ただ、小さく「そっか」と繰り返した。

 穏やかな空気が、部屋に静かに揺れていた。


 陽介が風呂に入っている間。

 拓実は何気なくテーブルの上に置かれた本を手に取った。

 ブックカバーが、少しずれている。

 ほんの出来心だった。

 ——ぱらり。

 表紙が、見えた。

 『愛着と親密性の心理学 —— 人はなぜ誰かを必要とするのか』

 拓実の指が止まる。

 さらにページをめくる。

 付箋が、いくつも貼られていた。

 その一つのページに、鉛筆で線が引かれている。

 「愛情を十分に受け取れなかったと感じる人は、 他者との距離を『理論』で測ろうとする傾向がある」

 拓実は、息を止めた。

 ——理論で、測る。

 あいつらしい。

 陽介は、感情をそのまま掴めない。
 だから、言葉で理解しようとしている。

 ページの端に、小さく書き込みがあった。

 『好きとは、安心? それとも執着?』

 拓実の喉が、わずかに動く。

 そのとき、風呂のドアが開く音がした。

 拓実は、慌てて本を閉じる。

 だが、ブックカバーを戻す時間はなかった。

 陽介が、リビングに戻ってくる。

「あ……」

 二人の視線が、本の上でぶつかる。

「見ました?」

 静かな声。

 否定はできない。

「……少し」

 陽介は、逃げなかった。

 ゆっくりと、本を手に取る。

「僕……好きって、何なのか分からないんです」

 初めて、はっきり言った。

「だから、調べてます」

 拓実は、言葉を失う。

 陽介は続ける。

「楽しいのは分かるんです。落ち着くのも分かる。でも、それが『好き』なのかどうか、僕には区別がつかない」

 正面からの、未完成な告白。

 拓実は、しばらく何も言えなかった。


 その夜。

 拓実は先に寝室に向かった。

 陽介は、テーブルの片付けをしている。

 ふと、床に小さな音がした。

 ——ころり。

 見れば、あの革のキーホルダーだった。

 初日に落とした、あれと同じ。

 拾い上げる。

 手に、少し擦り切れた感触。

 裏に、小さく刻まれたイニシャル。

 知らない名前。

 陽介は、なぜか胸が締めつけられるのを感じた。

 そのとき、背後から声がする。

「それ」

 振り返ると、拓実が立っていた。

「……すみません、大事なものですよね?」

 自分でも、何を聞いているのかわからない。

 拓実は、少しだけ間を置いてから答える。

「昔、本気で好きだったやつのだよ」

 空気が、止まる。

「片想いで終わったけどな」

 軽く笑う。
 でも、その笑いは空虚だった。

 陽介は、キーホルダーを握ったまま言う。

「今も?」

 自分でも驚くほど、まっすぐな問い。

 拓実は、少しだけ目を細める。

「……どうだろうな」

 そして、続ける。

「でも今は、別のことで頭がいっぱいだ」

 その視線が、わずかに揺れた。

 陽介は、キーホルダーを返す。

 指先が、触れた。

 ほんの一瞬。

 だが、確かな熱。

『理論』だけでは説明できない感覚が、そこにあった。