道しるべみたいな恋だった

「あれ、相川さん。今日のメイク新商品使ってます?」

 いつも通り昼休みに集合した同僚は、開口一番にそう言った。いつもはすぐに私含めて四人集まるが、今日は二人遅れていて、まだ私ともう一人の同僚 笹野(ささの)さんしか来ていない。
 メイク会社で働く同僚は、当たり前のようにメイクに目ざとく、いつもブラウンベースのアイシャドウを使う私がピンクのアイシャドウを使えば目立つものらしい。

「そうなの。今日の服に合わせやすかったから」

 適当に服装を言い訳にして、話を交わそうとした。しかし、みんなが興味があるのは、やはり一つしかないらしい。

「そういえば、相川さんはもう忘れられない恋のエピソード書き終わりましたか?」

 書き終わったか、と聞く笹野さんの目は輝いていて……どう見ても「書き終わったか」ではなく、「どんなエピソードがあるのか」が気になっているのが良く分かる。

「うーん、まだなんだよね」
「えー、分かります。私も全然思い浮かばなくて……!」

 嘘つけ、昨日ノリノリで過去の浮気された話で盛り上がっていたくせに。
 そんな私の考えはどうやら間違っていたようで、笹野さんは少しだけ視線を落として……いつもより小さな声であることを打ち明けた。

「昨日、前に彼氏に浮気されて、電話だったから証拠も取れなくて……って、話したじゃないですか。あの彼氏、実は割と好きだったんですよね。それなのに、浮気されて『ああ、人って案外簡単に裏切るんだな』ってあの時期人間不信みたいになっちゃって。まぁ、相手が最低野郎だったなだけなんですけど」

 まるで自分を嘲笑するように「あはは」と乾いた笑いをした笹野さんは、昨日とはまるで別人に見えた。落とした視線によってよく見えた長いまつ毛はしっかりとカールしていて、マスカラもしっかりと塗られている。努力なしでは絶対に出来ないほど、メイクだって完成されていた。

「忘れられない恋のエピソードとして出すのも(しゃく)に触るし、なんかこういう恋をしてきたんだって上司含め企画会議参加者に思われるのも嫌だし。いっそ適当に作り話でもしようかなって思ったんですけど……今、私が頑張りたいのはこの会社なんで。過去も利用出来るならしようかな、と」

 笑い話のように楽しそうにそう話して、笹野さんが視線を上げたのを見て、まつ毛がよく見えたとしても、やっぱり顔は上からじゃなくて正面から見た方が良いに決まっているなという考えが頭をよぎってしまう。
 正直、格好良いと思った。私はそうなれなかったのに、彼女は自分が浮気された話まで利用してやるとはっきり言える。

「それに、案外彼氏に浮気された女性が泣いた後に、翌日には可愛いメイクをしていつも通り出社するってCMも面白くないですか」

 クスクスと笑い、軽くそう話す笹野さんに、どう言葉を返せば良いか頭を悩ませた。実際はわずか数秒間だけれど、なんと返せば良いのかをしっかり考えた。

「私はそんなCM見たら、格好良くて買いたいってなるかも」

 やっと言えた返答は、本心だった。しかし私の返答を気を遣って言ってくれたと思った笹野さんは、「ふふっ、ありがとうございます」とペコっと頭を下げた。


 その日の終業後。私は会社の自販機で缶コーヒーを買って、誰もいない休憩室の椅子に腰掛けた。
 仕事が終わっても帰らずに、休憩室で缶コーヒーを飲むのは初めてだった。日中と違い、ライトがついていてもどこか薄暗い休憩室で少しずつ缶コーヒーを飲んでいく。

『相川』

 もう声すらしっかり覚えていないのに、彼に名前を呼ばれた瞬間の映像の記憶だけが見えた気がした。そして、忘れられないのは……ある日の夏の記憶。
 制服に身を包んだ自分が彼の後ろの席に座っている。いつも彼の後ろ姿だけを見ていた、訳ではなく……彼は何故か頻繁(ひんぱん)にこちらを振り返り、意味の分からない文句を私につけてきた。

「リボン曲がってね?」
「え……」

 顔を下に向けて胸元を確認すると、確かに少しだけ曲がっているリボン。まぁ指摘されたしな、くらいの気持ちで直そうとした瞬間に、彼はさらに続けるのだ。

「校則違反じゃね?」

 ピタッ、と私の手が止まる。リボンが曲がったくらいで何を言っているんだ、こいつは。と顔を上げると、目の前の松木 海渡(かいと)は楽しそうに、嬉しさが隠しきれない顔で笑っている。そして、割と大きな声でこう言うのだ。

「相川が校則違反してるぞー!」
「してないっ!」

 気づけば、反射的にそう返していた。元から真面目な性格。校則違反なんてしたことがないし、もっと言えばしようとも思わない。そして、それからも松木 海渡は何かあるたびに私が校則違反をしたことにしてきた。

「俺らの高校って髪型お団子でも良いんだっけ?」

 別に全然良いし、もっと言えば今はプールの後。普通に結んだら、制服に水が垂れてびちゃびちゃになるに決まっている。

「次の教科、数学だけど」

 次の授業を間違えて古文の教科書を出していた私にそう言い、そしてこう続けるのだ。

「相川が校則違反している」

 授業の教科書を出し間違えただけで校則違反になるはずがないのに、彼はいつでも私を校則違反に仕立て上げた。ほぼ毎日難癖(なんくせ)をつけられ、毎日のように「違う」と否定するだけの日々。もっと言えば、松木の方が校則違反をしまくっていた。授業をサボる時もあったし、先生にはいつも怒られているような生徒。にもかかわらず、私の校則違反を指摘する。正直、意味がわからなかった。
 それでも、私が真面目すぎるのをよく理解しているのも彼だけだった。

 ある日の昼休み後の授業。友達と廊下でおしゃべりをしていて、チャイムが鳴り終わってすぐに慌てて、席に着いた。廊下を走ることすら基本的にしないのに、慌てて走りすぎて息が切れて、肩が大きく揺れているのが自分でもよく分かる。
 そして、前の席の松木が振り返る。

(ああ、絶対に校則違反って言われる……)

 そう思っていたのに、彼から飛び出してきたのは予想外の言葉だった。

「大丈夫だから」

 きっと、そこで恋になったのだと思う。まだ未熟で幼い私にとっては、それが全てだった。
 淡い恋になった時から、もう校則違反を指摘されても嫌じゃなくて、むしろただ彼と話せることが嬉しかった。

「それ、校則違反じゃね?」
「違うってば!」

 前より笑顔で楽しくそう返すようになった私に、きっと彼も気づいていた。だって、恋心の隠し方すら知らなかったから。それでも、あの未熟な恋は両思いにならなかった。恋心を伝える勇気もなかったし、きっと彼は私のことなんて好きじゃなかった。

 それでも、彼は知っていた。私が誰よりも校則違反をしたくないこと、真面目すぎること。

 ずっと忘れられない彼の笑顔がある。
 恋心を自覚してすぐの頃、前日の課題のノートが返却された。私は毎回ちゃんと採点のコメントを見るためにノートを開いて見ていた。その日、その瞬間……バシンっ、とノートが思い切り顔に当たった。

 驚いてノートを退かすと、目の前で彼が「あははっ」と腹を抱えて笑っている。

 彼は私の癖を知っていたようで、私がノートを開いた瞬間にパシッとノートを前から叩いたようだった。

「マジで相川って真面目すぎ。課題の採点なんて確認しなくても大丈夫だって」

 人生で何度も言われてきた真面目という言葉が、全然嫌じゃなかった。純粋に席替えをしたくないと思った。彼の後ろの席にもっといたい、と思った。
 それからも、彼は小さなことで校則違反を指摘する。

「それ、校則違反でしょ」
「違うから」

 そして、こう続けるのだ。

『たまには校則違反くらいすれば良いのに』

 先生が聞いたら絶対に怒る言葉。でも、それは私の道しるべになった。
 真面目すぎる私が、少しだけ生きやすくなる言葉になった。卒業すればそんな淡い恋心は忘れ、時間が経つごとに「あれは恋でなかったのかもしれない」とすら思えてくる。もう一度会いたいとすら思わない。それでも、彼がくれた道しるべだけは忘れられない。

 そんな思い出を振り返るうちに、缶コーヒーは空になっていた。空になった缶コーヒーをゴミ箱に捨て、私はデスクに戻る。
 昨日と同じように、目の前にアイシャドウとチークを並べていく。あれだけ校則違反を気にしていた時は終わり、私は社会人になり、当たり前にメイクもするようになった。メイクをせずに、遅刻とは無縁だった私は、毎日のようにメイクをして、始業時間のギリギリに会社に来る時だってある。今の私を彼が見たら、なんと言うだろうか。

『ギリギリでも遅刻しないのが、まさに相川って感じ』

 彼が言いそうな言葉が頭をよぎって、つい笑いそうになってしまう。
 もう一度、企画会議の資料を取り出す。1ページ目に大きく書かれた「テーマ 忘れられない恋」という文字。そして、頭をよぎる課長との会話。

『えっと、フィクションでも良いんですよね?』
『いやー、出来たらリアリティがあった方が良いから……まぁ、そこら辺は適当に』

 彼との思い出をCMにするべきだろうか。そして、どうやってアイシャドウとチークを売り出そうか。このままだとCMにして面白くない部分もあるから、少し思い出を改変して……でも、出来たらリアリティがある方が良いと言っていたし……。頬杖をついて、チークとアイシャドウを眺めながら、頭を悩ませる。そして、しばらく悩み、辿り着くのはやはりあの道しるべ。

『たまには校則違反くらいすれば良いのに』

 ああ、いっか。少しの改変くらい。いや、大幅な改変でも。
 別に実話のCMとして売り出すわけじゃないし、企画会議で少し誤解されるくらい良いじゃないか。だって、たまには校則違反……いや、そういうズルだって悪くないから。


 企画会議当日、私はプレゼンテーションを作り、自信満々に発表を終えた。
 会議終了後、すぐに笹野さんが駆け寄ってくる。その笹野さんも、彼氏に浮気された話を上手く作り変えて、面白いCM案を出していた。

「相川さん!」

 輝いた目をして、興奮を伝えるようにブンブンと腕を振りながら、慌てた様子で本題に入る。

「相川さん、CM案とっても良かったです!」

 私が発表したCM案は、前の席の男子に恋をしている女の子がいつも後ろから男の子を見ていて……いつも昼休みの時だけ男の子が振り返って、お菓子を交換するというもの。そして、屋上で男の子から貰ったお菓子を食べて思いを()せる。その時の女の子の頬の染まりがアップになり、カメラを引くとピンクのチークを塗った社会人の自分になっているというものだ。

「あんなキラキラな青春送ってたんですか!?」
「うーん、秘密」
「絶対に送っていたじゃないですか!」

 実際とは全然違う話。でも、良いの。だって……



『たまには校則違反くらいすれば良いのに』



 あの道しるべが、そう言っている。


fin.