そのタキシード、ちょっと待った

『その結婚、ちょっと待った!』
 バージンロードを歩くふたりを前に、伊織は昔見た古い映画の主人公のセリフを思い出していた。
 式場の扉を蹴破った主人公はそう言うと、花嫁の手を引いて走り去り、物語はハッピーエンドを迎える。

 結婚式当日に愛に気付くなんて遅すぎだろ、なんて当時は鼻で笑っていたけれど、今ならその気持ちが痛いほどにわかる。
 もちろん、こんな大勢の参列者を前に声を荒らげて想いを伝える勇気なんて、伊織にはない。もしあったなら、とっくの昔に告白していただろう。
 それに伊織の場合、さらいたい相手は可憐な花嫁ではなく、その隣に立つ花婿。

 純白のウェディングドレスとタキシードに身を包んだふたりに、周りが口々に「おめでとう!」「お幸せに!」と声をかける中、伊織はただぼんやりとその姿を眺めた。

 ――やっぱり、来るべきじゃなかった。

 何度も行くのを辞めようと試みた。それでも結局足を運んだのは、あいつのどんな姿だって、見逃したくはないから。

 視線の先にいる花婿――碓氷 准は、まるで結婚雑誌の誌面から出てきたモデルのような、長身で厚みのある体躯を見事に活かして、タキシードを着こなしている。光に透ける青みがかった黒髪が、今日はやけに整えられている。
 いつも以上にかっこいいその姿に、思わず胸が跳ね上がる。それと同時に、苦くて喉の奥が焼けるほどの感情が込み上げてくる。
 なんで――。なんでその隣にいるのが自分じゃないんだ。

 結婚すると告げられてから、今日に至るまで、覚悟は決めたはずだった。
 それでも、いざ目の前にすると、その覚悟は口に入れたわたがしのように儚く、一瞬で溶けて消えてった。
 伊織はせりあがってくる感情を必死で抑え込みながら、准の隣に目を向けた。
 女性らしい柔らかな曲線のドレスに身を包んだ花嫁は、この会場の誰よりも幸せそうに微笑んでいて、それが一層、伊織の胸を抉った。

 ――俺のほうが准をよく知っているし、好きな気持ちだって上なのに。
 意味のない比較だってわかっている。相手がどれほど好きなのかなんて、目で見えるものではない。けれど、もしそれが時間に比例するのだとしたら、伊織に勝てる者はいないだろう。
 十三年。
 中学二年でこの想いに気付いてからずっと、それは伊織の中でしんしんと降り続けている。
 春の到来とともに消える雪と違って、この想いは溶けるどころか、日を増すごとにカチカチに凍った氷のように固くなっていく。
 それならいっそボロボロに砕いてしまいたいのに、十三年分の想いはあまりに強固で、簡単には砕けてもくれない。

「ずっと……、ずっと、好きだった」
 遠ざかっていく背中に向かって零れ落ちた独白は、空気を震わすほどのパイプオルガンの音色にかき消けされ、ついには誰の耳にも届かなかった。
 やがて、吸い込まれるように式場の扉が閉まり、視界から二人の姿が消えた。

 いつのまにか荘厳な音楽は止んでいて、代わりにスタッフの穏やかな声が響く。
「披露宴会場はこちらになります。どうぞお進みください」 
 促されるままに列が動き出す中、伊織の足は鉛のように重く、すぐには動けなかった。
 正直、披露宴なんか放り出して、いますぐここから逃げ出したい。そして、今日の記憶をすべて失うまで、酒に溺れたい。
 そうできないのは伊織が、友人代表のスピーチを頼まれてしまっているから。
 前世でどんな悪行をすれば、片思い相手の結婚式で、親友代表のスピーチをお願いされる羽目になるのだろう。前世なんて信じていないけど、もしあるのなら、きっととんでもない重罪を犯したのだろう。

 やりきれなさに肩を落とし血反吐を吐く思いで、重い足を引きずりながら歩いていると、隣を歩く塩田が伊織の心模様とは対照的な爽やかな笑顔で口を開いた。
「俺、結婚式なんて初めてだったけど、めちゃくちゃ感動したな」
「わかる。俺もはよ結婚したなったわ。まぁまだ相手はおらんねんけど」
 逆隣の原がそれに返事をする。
「やーでも、学生のときは、まさか二人が結婚することになるとは思わなかったよな」
「せやな。だって碓氷のやつ、莉奈ちゃんからの告白、ずっと断ってたもんな」
 自分を挟んで無邪気に交わされる会話を聞きながら、伊織は学生時代を思い返していた。

 花嫁の森本 莉奈と准は大学時代、同じサークルの先輩後輩だった。もちろん伊織も准と同じサークルだったわけだが、准は莉奈に何度告白されても、首を縦には振らなかった。
 莉奈だけではない。長身で、年の割に落ち着いている准は、昔からよくモテた。けれど出会ってからずっと、准が誰かの告白を受け入れたことはなかった。
 だから油断していたのだ。
 きっと准は誰とも付き合うことがないのだろうと。本人にそう言われたわけでもないのに、そう勝手に思い込んで、安堵していた。

 けれど大学最後の春、准は莉奈の告白を受け入れた。
 その日のことは忘れられない。人生が終わったからと思うくらい絶望して、仮病で二週間、大学をさぼった。おかげで単位が危うかったほどだ。
 それでもきっと長続きなんかしない。そう祈るようにいたけれど、あれよあれよといつの間にか今日、結婚式を迎えていた。

「俺、実は碓氷は女に興味ないのかなって思ってたんだよね。だってあいつ、ずっと伊織と一緒だったじゃん?」
「それな。今だから言うけど、俺も二人は付き合ってんとちゃうかってずっと思っててん。だって伊織にだけやんな? 碓氷が素の笑顔見せるの」
 伊織はぐっと唇を噛みしめた。
 そうだ。学生の頃、あの笑顔は自分だけに向けられていた。それなのに今は、その笑顔の向かう先は自分ではない。
 その事実に、息がわずかに浅く、鋭くなっていく。

「まぁでも、今日の二人見てると、ほんま美男美女で、めっちゃお似合いやんな」
 原が何気なく放った『お似合い』という言葉が、関西弁の軽さも相まって、やけに感情を逆なでしてくる。
 もちろん悪意はないだろう。そもそも彼らは伊織の恋心なんて知る由もない。
 そう分かっているけどその楽観さに、無性に腹が立って、伊織はほとんど反射的に原の足を思いっきり踏んでいた。

「い、痛あ!」
「あ、ごめん。わざと」
「なんやそれ! わざとかいな!」
 がなり声を上げながらツッコむ原に、塩田と二人でケラケラと笑ってみせる。
 本当は全然面白くなんてない。

 それでも無理して笑うのは、そうでもしないと膝から崩れてしまいそうだから。