千坂先輩の経営するシステム開発会社「For You Technologies Inc.」に入社して、もう半年。
早いものだ。
新しい職場、そして新しい同僚や先輩たちにも慣れ、わたしは順調に仕事を進めていた。
この会社は、大手企業、中小企業を問わず、さまざまな社内システムの開発を手がけている。
そのシステムの、社内の人たちがPCから操作する画面、そのUI(ユーザーインターフェース)を設計し制作する部分に関わるのが、わたしの主となる仕事だ。
もともと前の職場でもこうした仕事がメインではあったが、しかし自分のアイディアを反映させる余地が極めて少なかった。
だからわたしにできることは、命令されたとおりに操作画面を設計し、その中にデザインというか、見栄えがよく使いやすいボタンの大きさ・配置・画面全体のバランスといった、自分なりのアイディアを可能な限り入れ込めるよう、工夫し考え実行する……。
それが最大限のことだった。
でも、いまはちがう。
このFor You Technologies Inc.では、UIやUX(ユーザーエクスペリエンス)を、システム自体と同じくらい重視している。
だから、UI/UX設計〜開発を担当する人間にまかされている裁量も大きい。
なかでも、その一員であるわたしはエンジニアたちとの共同作業経験もそれなりに多い。
デザイナーがいつも気を配っているところと、プログラマーが常に考えているところのちがいというものも、それなりに理解しているつもりだ。
(そのことを知ったのも、先輩といっしょに仕事をして教えられた部分が大きんやけどね!)
で、入社して3ヶ月も経ったころ、わたしはUI/UX担当のチーフに任命された。
ユーザーはPCを通じてシステムを操作するわけだが、その操作画面がユーザーにとって可能な限り使いやすいものであるようにこのチームが画面のUI/UXを設計し開発する。
わたしは、そのチームのトップとなってメンバーを率いる立場となったのだ。
なんて、やりがいあるんや!
うれしかった。
それもこれもみんな、千坂先輩のおかげ。
先輩には、いくら感謝してもしきれないくらいだ。
そんなふうに、新しい職場での仕事も軌道に乗りうまく行っている、きょうこのごろ。
わたしは、席のとなりにいる石戸くんに、いま開発中の業務システムの操作画面となる、PC用アプリケーションのUI設計について説明していた。
(彼もUI/UX開発チームの一員となった。気さくな性格で話しやすいし、いっしょうけんめいに取り組んでくれるので、こちらもとてもやりやすい!)
そこに千坂先輩、いや社長が寄ってきた。
あいかわらず黒のTシャツにジーンズという、社長には見えないラフな姿だ。
「……えと、織宮さん、ちょっといいか」
「はい、いいですよ」
そう答えて、わたしは石戸くんに指示を出した。
……ほんなら石戸くん、こことここのUI部分だけ先に着手してみて。
あとでわたしがチェックするよ」
「はい、わかりました」
千坂先輩はわたしを先輩のデスクへと導いた。
そして、デスクの脇にあった木製のスツールを右手で、ひょい、と拾うと、わたしの前に置いて座るよう勧めた。
わたしがスツールに座るのを見届けると、自分はデスクのチェアに座り、わたしを穏やかな笑顔で見上げた。
「うまくいってるようやな」
「ええ、たぶん」
「なんや、たぶんってのは」
「いえ、完成して納品終わるまでは、気ぃ抜けないやないですか」
「……ふむ。
確かに。
まあでも、そんだけしっかりやってもらってるから、オレは安心して任せられるよ」
先輩はデスクの上のノートPCと、積み重なった書類の山を見た。
そしてうんざりしたように、ふーっ、と大きく息をついた。
「えーと、話したいことはいろいろあるんだが。
さて、まずどこからにしよか……」
「……なんすか、先輩、なんの話ですか?
仕事の話ですよね?」
「まあな……」
そう言うと、先輩は再び顔を上げて、わたしの顔をじーっと見つめた。
そして急にわたしの耳元まで顔を近づけてきた。
わたしはびっくりして、ちょっと身体が固まった。
急なことで、ちょっと赤くなっていたとも思う。
でもそんなわたしに構わず、先輩はわたしの耳元でささやいた。
「……ごめんな。
いまの仕事が軌道に乗ってきたばかりなのに……。
実はもうひとつ、手伝ってもらいたい仕事があってな……」
ん、新たな仕事?
仕事と聞くと、スイッチが入ってしまう。
わたしは目を大きく開けて、先輩の顔を見ようとした。
「え。
いまこのオフィス内全員で情報共有している以外にも、仕事があるってことですか?」
先輩はわたしの前で唇に自分の人差し指を当てた。
え、大声で言うな、ってこと?
「ああ、秘密の仕事なんや、これは」
先輩はそうささやくと、わたしから顔を離して横を向き、今度は、すーっ、と大きく息を吸ったかと思うと、また、ふーっ、と息をはいた。
まるでヘビースモーカーが、たばこの煙を肺の奥まで入れて吐いているみたいに。
先輩は喫煙者ではないはずだけど。
先輩は「秘密の仕事」と言ったが、この会話はワンフロアの仕切りもないオフィス内で、小声であるとはいえ堂々となされている。
しかし、ほかの社員はみんな、自分の仕事に集中してPCでコードを打ったり、向こうのテーブルで数人でミーティングをしたりしてそこそこ声が飛び交ったりしているから、おそらくわたしと先輩の会話がほかの社員たちに聞こえることはないだろう。
にしても……。
先輩の一連の言動がいちいち謎な感じで、いろいろと妄想を掻き立てる。
なんとも気になってしまう。
先輩がまた小声で口を開いた。
「……本音を言うと、織宮さんに手伝ってもらいたい仕事はたくさんある。
だが、きみの体調のことも考える必要があるし、過度に負担がかかることは絶対避けたい。
ただ、ちょっと優先度が高いやつがあってな。
これだけは、できればどうしても手伝ってほしいと思うとる」
そう言ってから、先輩はこう続けた。
「ただし……」
「……ただし?」
先輩は明らかに言いにくそうな表情をしていた。
どうしたもんか、と悩んでいるように見えた。
先輩は、再びわたしに顔を近づけた。
わたしが恥ずかしくてまたのけぞりかけたので、彼は、あ、ごめん、と言い、わたしの耳元に近づくのをやめた。
そして、わたしと真正面に向き合う姿勢になると、声を低めて言った。
「あー、その、つまり……これはどうしてもやれという命令ではない。
きみには断る権利がある」
「……は?
なに言ってるんですか?
どういうことですか、先輩」
先輩は顔をわたしから離すと、くすっ、と自虐的に笑いを漏らした。
「はは、そりゃわからんよな、こんな言い方じゃ。
……なので、まずきみに、この件について説明する機会を設けたい。
今週中、定時後になっちまうが、一時間程度、時間取れるか?
もちろん、その分はちゃんと残業代が出る」
先輩が言っている仕事がなんなのか。
そして、わたしにどんなことを担当してほしいのか。
わたしにはそれが推測できなかったので、少々戸惑った。
しかし、仕事の頼みだ。
悪いことであるわけはなかろう、たぶん。
「はい、だいじょうぶです。
きょうでも、あすでも空けられますが」
「ありがとう。
なら、早いほうがいいんで、きょうの定時後に」
「わかりました。
……あの、そんなに重要な仕事なんですか?」
わたしがそう先輩に問いかけたそのとき。
オフィスの向こう、つまり出入り口に一番近いほうから、ひとりの女性社員が、すすすすす……と忍者歩きのような、小走りのような足取りで音を立てず静かに駆け寄ってきた。
総務担当の錠前忍さんだ。
もちろん、わたしは入社前の先輩との面接時から彼女と接しているし、入社してから現在までずっとお世話になっている。
だから、すでに顔なじみではあるのだが、錠前さんはわたしのような自堕落なタイプとは一線を画している、まじめで几帳面、完全なタイプ。
なので、とても信頼できる人であると同時に、正直わたしにとってどうにも近寄りがたさを感じてしまう存在でもある。
錠前さんは、名前からしてセキュリティーがっちりな感じがするわけだが、その名に違わず日々のファッションにも隙がない。
きょうも、つやのある黒い髪をショートボブにまとめ、紺のジャケットとスカート、ジャケットの下にはわずかにアイヴォリーがかった白色のブラウス、黒のパンプス。
薄いブラウンのセルロイド縁メガネをかけている。
きょうのわたしの、とても先輩のことを言えないラフなファッション ― 白地にアニメキャラのプリントTシャツ(でもこれ、デザイン気に入ってるんよね!)、ベージュのクルーネックカーディガン、ライトブルーのジーンズ ― とは真逆とも言える錠前さんのセンス、光っている。
いえ、わたしのほうもこれはこれで好きな格好なんだが。
で、錠前さんのメガネの奥からのぞく眼光鋭い視線と、静かに緊迫感を表している表情は、明らかにこれから社長(とわたし?)に対して警告を発しようとする気配を示していた。
先輩とわたしの話を耳にして、やって来たにちがいない。
彼女は、わたしと先輩の前まで来ると、急に腰を落として、ほかの社員たちから隠れるかのようにしゃがむ姿勢を取り、これまたささやき声で言った。
「……社長」
「おう」
「あの件、織宮さんにさせるおつもりですか?
……あまりあの件で、ほかの社員に迷惑をかけるべきではないと思いますが」
先輩は錠前さんから目をそらして、あわてて応えた。
「あ、いや、そういうつもりでは……いや、まあそうなんだが……。
仕事量が激増してるんだ。
彼女なら腕も確かだし、あまり負荷をかけ過ぎない限り、安定してクオリティーの高い仕事をこなしてくれる。
……無理をかけない範囲なら、いいだろう?」
錠前さんは表情をぴくりとも動かさずに言った。
「織宮さんの能力については、わたしもじゅうぶん承知しています。
しかし、あの件については、いろいろな意味でリスクが伴います。
それに社長には、付き合いも長いしよく知っている仲だから甘えが効くだろう、という下心が見て取れます。
それもいかがなものかと」
「……あー、するど……いや、そんなことはない。
わかってる。
彼女にはよく説明して理解してもらった上で、その上でやるかどうか、ちゃんと本人の希望を聴くよ。
強制は絶対しない。
それも言ってある」
錠前さんは考えるように、あごに手を当てて30秒ほど沈黙していた。
いやー、怖いな、この沈黙。
なんでわたしが怖がるんだ。
やがて、錠前さんはこう言った。
「わかりました。
彼女に絶対強制はしない、これは厳守してください」
そして、錠前さんはわたしの方を向いて言った。
「……織宮さん。
社長の言うことで困ったことがあれば、いつでも遠慮なくわたしに相談してください。
わたしは社長の業務をすべて把握しておりますので、業務内容に関わることでもある程度まで理解できますしご相談に応じます。
とにかく社長がいくら強く言ってきたとしても、ご自分に無理がかかると思うことはお断りくださってだいじょうぶです。
会社の規定上も、社員の健康が第一に守られるべき、となってますので問題ありませんし。
直接社長に言いにくいことであれば、どんなことでも相談に乗ります。
ご遠慮なくどうぞ」
錠前さんの堂々たる態度にわたしは気圧されたが、でもわたしのことを気遣ってくれていることには、とても感謝の念を感じた。
わたしは、少々どもり気味になって錠前さんに応えた。
「……は、はあ、あ、ありがとうございます……」
「わたしから申し上げたいことは以上です。
……では、お二人とも打ち合わせをお続けください」
「お、おう……」
「は、はあ……」
錠前さんはそのまま、すっと立つと目立たないように静かに、かつ颯爽と自分の席へと戻っていった。
先輩はまた、ふーっ、と息をついた。
「地獄耳やからな、錠前さんは。
そやから、オフィス内でヘタなことしゃべれへんのや……」
「聞こえますよ」
「そ、そうやな……。
……あ、さっきの重要な仕事かって質問、その答えも含めて、言いたい話は全部その定時後のミーティングで説明するわ」
「了解です。
……ほんなら、仕事にもどってええですか」
わたしはスツールから立った。
「おう。
ごめんな、時間取らせて」
先輩は右手を軽く振って微笑んだ。
彼の笑顔はほんとに人を和ませる。
わたしも思わず笑みを浮かべてしまう。
「いいえ、全然。
では!」
わたしはスツールを元の場所に戻すと、自分の席へと歩いた。
先輩のデスクから離れていきながら、わたしは不思議に感じた。
……いったい、なんの仕事やろ?
ほかのメンバーもその仕事にかかわってるのか?
てか、そもそも錠前さん以外のみんなは、その仕事について知ってるのか?
謎は深まるばかりだ。
わたしは自分の席に戻ると、石戸くんに頼んでおいた操作画面のUI設計が、プロトタイプレベルではあるが完成したと報告を受けたので、チェックして修正するべき部分を石戸くんに説明していった。
目の前の仕事に集中しつつ、その間も、頭の片隅には先輩の仕事のことがずっと残り続けたままだったけど。
***
定時後。
わたしは席を立つと、帰るところだったり片付けをしたりしているほかの社員にあいさつをして、なるべく目立たないようにせんぱ……社長のデスクの元に来た。
「悪いな」
社長は言ったが、その表情はうれしそうで、あまり悪いと思っていそうには見えない。
「全然悪いと思ってるように見えませんよ」
「そうか……バレたな。
まあ、正直ちょっとうれしくもある」
「わたしに手伝ってもらえるからですか」
「まあ、そうだな」
「呆れますね」
そうは言ったが、実のところわたしもうれしくないことはない。
また先輩といっしょに仕事ができるのだから。
先輩=社長は、反省しているような目でこちらを見て応えた。
「申し訳ない。
……あと、もうひとつうれしい理由がある」
「はあ。
なんでです?」
「それはな……こっちに来てくれ」
先輩は席を立つと、オフィスの左隅の一角を指差して、そちらに向かって歩き始めた。
わたしも後についた。
その一角は分厚そうな壁に完全に囲まれ、独立した部屋になっているようだった。
入口のドアはわたしたちが来た社長のデスクから見て正面、つまりオフィスの入口からすると右横側についている。
そのドアも強固な金属製のものになっている。
なんだろう、特にセキュリティー上重要な業務を扱う場合に使う用の部屋といった感じだ。
そういえば、入社前にオフィス内をひととおり案内されたとき、先輩と錠前さんから説明を受けたのを思い出した。
「社長が特定の業務をするときに、ひとりになりたいときに使う部屋です」
って。
……ひとりになりたいとき?
どういうときなんやろか。
先輩は左の手首に着けたスマートウォッチをかざすと、ドアのロックを解除した。
そしてドアを半分ほど開け、そこでオフィスの向こうにいる錠前さんに右手でジェスチャーをした。
錠前さんはわたしたちを見て、無言でうなずく。
それを確認すると、先輩は手招きしてわたしを先に中に入れ、自分も中に入った。
部屋の中は、デスクとチェアが2台、それぞれのデスク上にデスクトップPC。
コンクリートが打ちっぱなしのグレーの壁。
そして、部屋の正面奥に大きく出っ張ったもう一つの部屋?
ドアらしきものは見えず、金属製の鉄板のようなものに覆われている。
これはなんなのだろう。
窓のない密室は外の音も入らず、静かだが怪しい感じもする。
「これ……先輩、こんなとこで仕事するときあるんですか?」
先輩は黙って、正面の出っ張った部屋らしき部分を見つめていた。
やがて、ふぅ、と軽く息を吐いて答える。
「ああ。
ここは、オレがFor You Technologiesとしてではない仕事をするときに入る場だ。
ただ、ここが仕事場ではない。
本当の仕事場はこの奥だ」
そう言って先輩がスマートウォッチをかざすと、正面の出っ張った部分の鉄板が横にスライドし、その中から両開き式のドアが現れた。
さらにそのドアが開くと、中はエレベーターになっているようだった。
「……え?
こ、これ、いったいなんなんすか?
まるでアメコミヒーローの秘密基地みたいやないですか。
なんのためにこんなしかけを?」
口元に人差指を当てて考え込むようにしていた先輩は、不意にこう訊いてきた。
「あのさ、"Strange Lemon"って知ってるか」
突然の言葉に訝しみながら、わたしは答えた。
「あー、聞いたことありますよ。
世界的ハッカーですよね。
いわゆるホワイトハッカー、サイバーテロからいろんなものを守ってる、正義のハッカーってやつですよね」
「そう。
……実はな、あれ、オレのことなんだ」
わたしは、彼の言葉に驚くあまり、その場で引っくり返りそうになった。
「え、えええええ!?
先輩が、"Strange Lemon"!?」
早いものだ。
新しい職場、そして新しい同僚や先輩たちにも慣れ、わたしは順調に仕事を進めていた。
この会社は、大手企業、中小企業を問わず、さまざまな社内システムの開発を手がけている。
そのシステムの、社内の人たちがPCから操作する画面、そのUI(ユーザーインターフェース)を設計し制作する部分に関わるのが、わたしの主となる仕事だ。
もともと前の職場でもこうした仕事がメインではあったが、しかし自分のアイディアを反映させる余地が極めて少なかった。
だからわたしにできることは、命令されたとおりに操作画面を設計し、その中にデザインというか、見栄えがよく使いやすいボタンの大きさ・配置・画面全体のバランスといった、自分なりのアイディアを可能な限り入れ込めるよう、工夫し考え実行する……。
それが最大限のことだった。
でも、いまはちがう。
このFor You Technologies Inc.では、UIやUX(ユーザーエクスペリエンス)を、システム自体と同じくらい重視している。
だから、UI/UX設計〜開発を担当する人間にまかされている裁量も大きい。
なかでも、その一員であるわたしはエンジニアたちとの共同作業経験もそれなりに多い。
デザイナーがいつも気を配っているところと、プログラマーが常に考えているところのちがいというものも、それなりに理解しているつもりだ。
(そのことを知ったのも、先輩といっしょに仕事をして教えられた部分が大きんやけどね!)
で、入社して3ヶ月も経ったころ、わたしはUI/UX担当のチーフに任命された。
ユーザーはPCを通じてシステムを操作するわけだが、その操作画面がユーザーにとって可能な限り使いやすいものであるようにこのチームが画面のUI/UXを設計し開発する。
わたしは、そのチームのトップとなってメンバーを率いる立場となったのだ。
なんて、やりがいあるんや!
うれしかった。
それもこれもみんな、千坂先輩のおかげ。
先輩には、いくら感謝してもしきれないくらいだ。
そんなふうに、新しい職場での仕事も軌道に乗りうまく行っている、きょうこのごろ。
わたしは、席のとなりにいる石戸くんに、いま開発中の業務システムの操作画面となる、PC用アプリケーションのUI設計について説明していた。
(彼もUI/UX開発チームの一員となった。気さくな性格で話しやすいし、いっしょうけんめいに取り組んでくれるので、こちらもとてもやりやすい!)
そこに千坂先輩、いや社長が寄ってきた。
あいかわらず黒のTシャツにジーンズという、社長には見えないラフな姿だ。
「……えと、織宮さん、ちょっといいか」
「はい、いいですよ」
そう答えて、わたしは石戸くんに指示を出した。
……ほんなら石戸くん、こことここのUI部分だけ先に着手してみて。
あとでわたしがチェックするよ」
「はい、わかりました」
千坂先輩はわたしを先輩のデスクへと導いた。
そして、デスクの脇にあった木製のスツールを右手で、ひょい、と拾うと、わたしの前に置いて座るよう勧めた。
わたしがスツールに座るのを見届けると、自分はデスクのチェアに座り、わたしを穏やかな笑顔で見上げた。
「うまくいってるようやな」
「ええ、たぶん」
「なんや、たぶんってのは」
「いえ、完成して納品終わるまでは、気ぃ抜けないやないですか」
「……ふむ。
確かに。
まあでも、そんだけしっかりやってもらってるから、オレは安心して任せられるよ」
先輩はデスクの上のノートPCと、積み重なった書類の山を見た。
そしてうんざりしたように、ふーっ、と大きく息をついた。
「えーと、話したいことはいろいろあるんだが。
さて、まずどこからにしよか……」
「……なんすか、先輩、なんの話ですか?
仕事の話ですよね?」
「まあな……」
そう言うと、先輩は再び顔を上げて、わたしの顔をじーっと見つめた。
そして急にわたしの耳元まで顔を近づけてきた。
わたしはびっくりして、ちょっと身体が固まった。
急なことで、ちょっと赤くなっていたとも思う。
でもそんなわたしに構わず、先輩はわたしの耳元でささやいた。
「……ごめんな。
いまの仕事が軌道に乗ってきたばかりなのに……。
実はもうひとつ、手伝ってもらいたい仕事があってな……」
ん、新たな仕事?
仕事と聞くと、スイッチが入ってしまう。
わたしは目を大きく開けて、先輩の顔を見ようとした。
「え。
いまこのオフィス内全員で情報共有している以外にも、仕事があるってことですか?」
先輩はわたしの前で唇に自分の人差し指を当てた。
え、大声で言うな、ってこと?
「ああ、秘密の仕事なんや、これは」
先輩はそうささやくと、わたしから顔を離して横を向き、今度は、すーっ、と大きく息を吸ったかと思うと、また、ふーっ、と息をはいた。
まるでヘビースモーカーが、たばこの煙を肺の奥まで入れて吐いているみたいに。
先輩は喫煙者ではないはずだけど。
先輩は「秘密の仕事」と言ったが、この会話はワンフロアの仕切りもないオフィス内で、小声であるとはいえ堂々となされている。
しかし、ほかの社員はみんな、自分の仕事に集中してPCでコードを打ったり、向こうのテーブルで数人でミーティングをしたりしてそこそこ声が飛び交ったりしているから、おそらくわたしと先輩の会話がほかの社員たちに聞こえることはないだろう。
にしても……。
先輩の一連の言動がいちいち謎な感じで、いろいろと妄想を掻き立てる。
なんとも気になってしまう。
先輩がまた小声で口を開いた。
「……本音を言うと、織宮さんに手伝ってもらいたい仕事はたくさんある。
だが、きみの体調のことも考える必要があるし、過度に負担がかかることは絶対避けたい。
ただ、ちょっと優先度が高いやつがあってな。
これだけは、できればどうしても手伝ってほしいと思うとる」
そう言ってから、先輩はこう続けた。
「ただし……」
「……ただし?」
先輩は明らかに言いにくそうな表情をしていた。
どうしたもんか、と悩んでいるように見えた。
先輩は、再びわたしに顔を近づけた。
わたしが恥ずかしくてまたのけぞりかけたので、彼は、あ、ごめん、と言い、わたしの耳元に近づくのをやめた。
そして、わたしと真正面に向き合う姿勢になると、声を低めて言った。
「あー、その、つまり……これはどうしてもやれという命令ではない。
きみには断る権利がある」
「……は?
なに言ってるんですか?
どういうことですか、先輩」
先輩は顔をわたしから離すと、くすっ、と自虐的に笑いを漏らした。
「はは、そりゃわからんよな、こんな言い方じゃ。
……なので、まずきみに、この件について説明する機会を設けたい。
今週中、定時後になっちまうが、一時間程度、時間取れるか?
もちろん、その分はちゃんと残業代が出る」
先輩が言っている仕事がなんなのか。
そして、わたしにどんなことを担当してほしいのか。
わたしにはそれが推測できなかったので、少々戸惑った。
しかし、仕事の頼みだ。
悪いことであるわけはなかろう、たぶん。
「はい、だいじょうぶです。
きょうでも、あすでも空けられますが」
「ありがとう。
なら、早いほうがいいんで、きょうの定時後に」
「わかりました。
……あの、そんなに重要な仕事なんですか?」
わたしがそう先輩に問いかけたそのとき。
オフィスの向こう、つまり出入り口に一番近いほうから、ひとりの女性社員が、すすすすす……と忍者歩きのような、小走りのような足取りで音を立てず静かに駆け寄ってきた。
総務担当の錠前忍さんだ。
もちろん、わたしは入社前の先輩との面接時から彼女と接しているし、入社してから現在までずっとお世話になっている。
だから、すでに顔なじみではあるのだが、錠前さんはわたしのような自堕落なタイプとは一線を画している、まじめで几帳面、完全なタイプ。
なので、とても信頼できる人であると同時に、正直わたしにとってどうにも近寄りがたさを感じてしまう存在でもある。
錠前さんは、名前からしてセキュリティーがっちりな感じがするわけだが、その名に違わず日々のファッションにも隙がない。
きょうも、つやのある黒い髪をショートボブにまとめ、紺のジャケットとスカート、ジャケットの下にはわずかにアイヴォリーがかった白色のブラウス、黒のパンプス。
薄いブラウンのセルロイド縁メガネをかけている。
きょうのわたしの、とても先輩のことを言えないラフなファッション ― 白地にアニメキャラのプリントTシャツ(でもこれ、デザイン気に入ってるんよね!)、ベージュのクルーネックカーディガン、ライトブルーのジーンズ ― とは真逆とも言える錠前さんのセンス、光っている。
いえ、わたしのほうもこれはこれで好きな格好なんだが。
で、錠前さんのメガネの奥からのぞく眼光鋭い視線と、静かに緊迫感を表している表情は、明らかにこれから社長(とわたし?)に対して警告を発しようとする気配を示していた。
先輩とわたしの話を耳にして、やって来たにちがいない。
彼女は、わたしと先輩の前まで来ると、急に腰を落として、ほかの社員たちから隠れるかのようにしゃがむ姿勢を取り、これまたささやき声で言った。
「……社長」
「おう」
「あの件、織宮さんにさせるおつもりですか?
……あまりあの件で、ほかの社員に迷惑をかけるべきではないと思いますが」
先輩は錠前さんから目をそらして、あわてて応えた。
「あ、いや、そういうつもりでは……いや、まあそうなんだが……。
仕事量が激増してるんだ。
彼女なら腕も確かだし、あまり負荷をかけ過ぎない限り、安定してクオリティーの高い仕事をこなしてくれる。
……無理をかけない範囲なら、いいだろう?」
錠前さんは表情をぴくりとも動かさずに言った。
「織宮さんの能力については、わたしもじゅうぶん承知しています。
しかし、あの件については、いろいろな意味でリスクが伴います。
それに社長には、付き合いも長いしよく知っている仲だから甘えが効くだろう、という下心が見て取れます。
それもいかがなものかと」
「……あー、するど……いや、そんなことはない。
わかってる。
彼女にはよく説明して理解してもらった上で、その上でやるかどうか、ちゃんと本人の希望を聴くよ。
強制は絶対しない。
それも言ってある」
錠前さんは考えるように、あごに手を当てて30秒ほど沈黙していた。
いやー、怖いな、この沈黙。
なんでわたしが怖がるんだ。
やがて、錠前さんはこう言った。
「わかりました。
彼女に絶対強制はしない、これは厳守してください」
そして、錠前さんはわたしの方を向いて言った。
「……織宮さん。
社長の言うことで困ったことがあれば、いつでも遠慮なくわたしに相談してください。
わたしは社長の業務をすべて把握しておりますので、業務内容に関わることでもある程度まで理解できますしご相談に応じます。
とにかく社長がいくら強く言ってきたとしても、ご自分に無理がかかると思うことはお断りくださってだいじょうぶです。
会社の規定上も、社員の健康が第一に守られるべき、となってますので問題ありませんし。
直接社長に言いにくいことであれば、どんなことでも相談に乗ります。
ご遠慮なくどうぞ」
錠前さんの堂々たる態度にわたしは気圧されたが、でもわたしのことを気遣ってくれていることには、とても感謝の念を感じた。
わたしは、少々どもり気味になって錠前さんに応えた。
「……は、はあ、あ、ありがとうございます……」
「わたしから申し上げたいことは以上です。
……では、お二人とも打ち合わせをお続けください」
「お、おう……」
「は、はあ……」
錠前さんはそのまま、すっと立つと目立たないように静かに、かつ颯爽と自分の席へと戻っていった。
先輩はまた、ふーっ、と息をついた。
「地獄耳やからな、錠前さんは。
そやから、オフィス内でヘタなことしゃべれへんのや……」
「聞こえますよ」
「そ、そうやな……。
……あ、さっきの重要な仕事かって質問、その答えも含めて、言いたい話は全部その定時後のミーティングで説明するわ」
「了解です。
……ほんなら、仕事にもどってええですか」
わたしはスツールから立った。
「おう。
ごめんな、時間取らせて」
先輩は右手を軽く振って微笑んだ。
彼の笑顔はほんとに人を和ませる。
わたしも思わず笑みを浮かべてしまう。
「いいえ、全然。
では!」
わたしはスツールを元の場所に戻すと、自分の席へと歩いた。
先輩のデスクから離れていきながら、わたしは不思議に感じた。
……いったい、なんの仕事やろ?
ほかのメンバーもその仕事にかかわってるのか?
てか、そもそも錠前さん以外のみんなは、その仕事について知ってるのか?
謎は深まるばかりだ。
わたしは自分の席に戻ると、石戸くんに頼んでおいた操作画面のUI設計が、プロトタイプレベルではあるが完成したと報告を受けたので、チェックして修正するべき部分を石戸くんに説明していった。
目の前の仕事に集中しつつ、その間も、頭の片隅には先輩の仕事のことがずっと残り続けたままだったけど。
***
定時後。
わたしは席を立つと、帰るところだったり片付けをしたりしているほかの社員にあいさつをして、なるべく目立たないようにせんぱ……社長のデスクの元に来た。
「悪いな」
社長は言ったが、その表情はうれしそうで、あまり悪いと思っていそうには見えない。
「全然悪いと思ってるように見えませんよ」
「そうか……バレたな。
まあ、正直ちょっとうれしくもある」
「わたしに手伝ってもらえるからですか」
「まあ、そうだな」
「呆れますね」
そうは言ったが、実のところわたしもうれしくないことはない。
また先輩といっしょに仕事ができるのだから。
先輩=社長は、反省しているような目でこちらを見て応えた。
「申し訳ない。
……あと、もうひとつうれしい理由がある」
「はあ。
なんでです?」
「それはな……こっちに来てくれ」
先輩は席を立つと、オフィスの左隅の一角を指差して、そちらに向かって歩き始めた。
わたしも後についた。
その一角は分厚そうな壁に完全に囲まれ、独立した部屋になっているようだった。
入口のドアはわたしたちが来た社長のデスクから見て正面、つまりオフィスの入口からすると右横側についている。
そのドアも強固な金属製のものになっている。
なんだろう、特にセキュリティー上重要な業務を扱う場合に使う用の部屋といった感じだ。
そういえば、入社前にオフィス内をひととおり案内されたとき、先輩と錠前さんから説明を受けたのを思い出した。
「社長が特定の業務をするときに、ひとりになりたいときに使う部屋です」
って。
……ひとりになりたいとき?
どういうときなんやろか。
先輩は左の手首に着けたスマートウォッチをかざすと、ドアのロックを解除した。
そしてドアを半分ほど開け、そこでオフィスの向こうにいる錠前さんに右手でジェスチャーをした。
錠前さんはわたしたちを見て、無言でうなずく。
それを確認すると、先輩は手招きしてわたしを先に中に入れ、自分も中に入った。
部屋の中は、デスクとチェアが2台、それぞれのデスク上にデスクトップPC。
コンクリートが打ちっぱなしのグレーの壁。
そして、部屋の正面奥に大きく出っ張ったもう一つの部屋?
ドアらしきものは見えず、金属製の鉄板のようなものに覆われている。
これはなんなのだろう。
窓のない密室は外の音も入らず、静かだが怪しい感じもする。
「これ……先輩、こんなとこで仕事するときあるんですか?」
先輩は黙って、正面の出っ張った部屋らしき部分を見つめていた。
やがて、ふぅ、と軽く息を吐いて答える。
「ああ。
ここは、オレがFor You Technologiesとしてではない仕事をするときに入る場だ。
ただ、ここが仕事場ではない。
本当の仕事場はこの奥だ」
そう言って先輩がスマートウォッチをかざすと、正面の出っ張った部分の鉄板が横にスライドし、その中から両開き式のドアが現れた。
さらにそのドアが開くと、中はエレベーターになっているようだった。
「……え?
こ、これ、いったいなんなんすか?
まるでアメコミヒーローの秘密基地みたいやないですか。
なんのためにこんなしかけを?」
口元に人差指を当てて考え込むようにしていた先輩は、不意にこう訊いてきた。
「あのさ、"Strange Lemon"って知ってるか」
突然の言葉に訝しみながら、わたしは答えた。
「あー、聞いたことありますよ。
世界的ハッカーですよね。
いわゆるホワイトハッカー、サイバーテロからいろんなものを守ってる、正義のハッカーってやつですよね」
「そう。
……実はな、あれ、オレのことなんだ」
わたしは、彼の言葉に驚くあまり、その場で引っくり返りそうになった。
「え、えええええ!?
先輩が、"Strange Lemon"!?」



