きょうが、千坂先輩の会社、「For You Technologies Inc.」への入社日だ。
やっと、この日が来た!
わたしは自分の住んでいるマンションから外に出た。
外は秋色の空。
すっきりと晴れ。
肌にあたる空気が適度にひんやりと心地よい。
わたしは両腕を空に向かって突き出すと、
うーんっ!
と声を上げながら、思いっきり伸びをした。
気分も最高!
わたしは納得するようにうなずくと、駅に向かって歩き出した。
わたしのきょうのファッションは、白のボートネックブラトップ、その上にダークグリーンのクルーネックショートカーディガン、そして紺のバレルジーンズ。
仕事向けに動きやすい服装を選んだが、その中にもいまの自分の気持ちを反映した、さりげないおしゃれ心を取り入れたつもりだ。
さわやかで躍るような、この気持ちを。
ところで、前の会社を退職するのは先輩も言っていたように、めっちゃたいへんだったんだ。
なにしろ、わたしは社内のUI/UXセクションのサブリーダーを任されていた身。
そもそも、その役職をもらった理由もリーダーが倒れてメンバーのまとめ役が不在になってしまったから。
わたしが辞めてしまえば、またリーダーが不在になってしまう。
そんなわけで、わたしの退職を会社に受け入れてもらうことは困難を極めた。
はー、思い出すだけでもまた気が滅入ってくる。
管理職のお方々と交渉を重ねた結果、後任の体制は以下のようにすることになった。
すなわち、わたしの一年先輩の横田さんにサブリーダーになってもらい、後輩の牧野くんを補佐にする。
この人事によって、どうにかわたしの退職を了承してもらった。
横田さんは、仕事の出来は正直言ってまあまあだが、その人柄のよさでセクションメンバー間の好感度は高い。
そやから、現時点で最良の人選にはちがいない。
牧野くんはまだ経験は浅いけど、わたしの教育のかいあってこの半年で大きく成長した(ってわたしが自分でいうのもなんだが)。
大抜擢ってことになるわけだが、彼なら横田さんをうまくフォローしてくれるやろう。
ま、いずれにせよ、会社と揉めることなく円満退職できたのは、よかった。
もちろん、どこに転職するかは、前の会社のだれにも話していない。
なにしろ、もともと同じ前の会社にいた、それも優秀な戦力だった千坂先輩が独立して作った会社が、わたしの転職先なのだ。
そりゃ言えるわけないよ。
上司たち、おのおのがたからは、
「次の職場はどこに行くつもり?」
と聞かれたけど、
「具体的に決まっていません」
そうごまかし続けて切り抜けた。
そうそう、牧野くんにも何度も聞かれたな。
彼はいい子だし、彼だけには教えるかなー、と一瞬迷ったけど、しかしなにより安全第一。
上司たちに答えたのと同じ言葉を繰り返して勘弁してもろた。
ごめんよ、牧野くん。
りっぱに成長するんだよ。
草葉の陰から見てるからね……。(涙)
さて、新しい職場は前の職場よりもわたしの自宅マンションから近くなった。
大阪・キタエリアの、ミナミとの境目に近い街。
いいところだ。
会社は、大阪メトロの駅からすぐそば、5分〜7分ぐらいのところにあるビルの5F。
駅前には大きなスーパーがあり、周辺にはコンビニもたくさんあり、それから書店もある。
この書店、大型店舗ではないが、IT・クリエイティブ系の本と雑誌の取り揃えがけっこういいのだ!
これは、わたしらのような職業の者にはとっても便利やし、助かる!
この街の中心部には、「日本一長い」というので有名な商店街がとおっている。
そのアーケードを歩くと、いろんなお店が並んでいる。
全国にあるドラッグストアチェーンの店、
チェーン店のカフェ、
そんな、どこの街でも見かける店に混じってあるのは、
レトロなパン屋、
昭和風純喫茶の面影を濃厚に残す店構えの喫茶店、
昔ながらの雰囲気の雑貨店……。
こんな新旧さまざまなお店でひしめいている。
さらに、この街にはFMラジオ局もある。
そのラジオ局が入った大きなビルが商店街の隣から、どーん、と空に向かって突き出している。
新しいものと懐かしいものとが仲よく共存するこの街。
そんな街の中に、わが新しい職場があるというわけだ。
くーっ、いいねえ!
すごくよくね?
この立地。
前の会社は、同じキタでもよりキタの中心部に近く、しかもJRに乗り換える必要があった。
なので、通勤がちょっとめんどくさかったし、時間もかかったのだ。
それにくらべたら、新しい職場は自宅から30分以内!
交通の便よし、買い物便利。
そして……なんといっても、仕事がいままでよりずっとおもしろそう!
これは最強だ!!
わたしは地下鉄の列車に揺られながら、夢見るようにそんなことを考えていた。
そうしたら、あっという間に駅に着いた。
地下鉄を降り、出口へと続く階段を上るわたしの足取りは、うれしさと期待にはずむ。
駅から地上に抜けて、商店街を横目に通りを歩くこと5、6分。
わたしはスマホのマップアプリとにらめっこしつつ、会社の入っているビルの位置を確認する。
時間どおりに目的地に到着するのが不得意で、しかも自他ともに認める方向音痴であるわたしには、スマホとマップアプリはもはや命綱といってもいい必需品だ。
ふと、目の前にあるビルを見上げる。
おお、あった!
会社のあるビルだ。
きょうはこの初出勤のため、いつも以上に特別、絶対遅刻しないようにスマホのアラームと、目覚まし時計を2つセットし、なんとしても6時半には起きるように備えた。
それらは功を奏し、おかげでわたしはこの晴れ晴れしい新しい会社への初出社日を、じゅうぶん間に合って到着することができた。
ビルの自動ドアを抜け、ロビーの中央にあるエレベーターに乗った。
5Fに上がるとドアが開く。
フロアに出ると、すぐ目の前に会社の入口があった。
「For You Technologies Inc.」
これが、夢にまで見た、千坂先輩の作った会社……。
くーっ……!
わたしは、思わず両の拳を握りしめて、心の中で叫んだ。
がんばるぞー!
いい仕事、たくさんするぞー!
呼吸を整えて、5秒目を閉じ、また開いて、ドアのそばにあるインターフォンを押した。
そう、ここは秘密保持が必要な情報を扱う案件を多く抱えるシステム開発企業。
当然、オフィスはセキュリティーが強固な作りになっている。
なので、この入口ドアを開けるにも、IDチップが内蔵された社員証カードが必要となる。
わたしにはまだそれが与えられていないので、この初回の出社時だけは中の社員を呼び出して開けてもらわなければならない。
待つこと5秒ほど。
インターフォンから男性の社員の声が返ってきた。
「はい」
「あ、おはようございます。
本日から入社いたします、織宮理乃です」
「ああ、織宮さんですね。
おはようございます。
お待ちください、すぐ開けますから」
ドキドキ。
1秒でも、待つのが長く感じられる。
でも、3秒もしたらドアが開いた。
ドアを開けてくれたのは、若い男性の社員。
ビジネスカジュアルの私服で、ベージュのスタンドカラーシャツ、その上により濃いめのベージュのジャケット、ライトグレーのスラックス、髪は短くさっぱりとまとめた黒縁メガネという姿。
なかなかさわやかな雰囲気の男性くんだ。
「おはようございます。
織宮さん、お待ちしておりました。
どうぞお入りください」
「あ、どうも……。
おはようございます」
あとについて歩いていると、その男性社員くんが首から下げたIDカードを指でつまんでわたしに見せながら言った。
「あ、ぼくは石戸と申します。
よろしくお願いいたします」
わたしも歩きながら軽く頭を下げた。
「こ、こちらこそ。
よろしくお願いいたします……」
入口は二重で、外に通じる入口を抜けてからさらにもうひとつのドアがある。
石戸くんがドアの脇にあるIDセンサーに自分のIDカードをかざすと、ドアが、カチャッ、と音を立てて開いた。
すごいなー。
まだ小さな会社やけど、千坂先輩、強固なセキュリティー構築しとるな……。
こんなところひとつとっても、この新しい会社への信頼度が増すというものだ。
目の前に現れたオフィスは、小さいけれど小綺麗だ。
デスクが左右両方の壁側に並んでいて、各デスクに1台ずつPCとディスプレイが置かれている。
そして各デスクの前に、社員が座っている。
石戸くんとともにわたしが入ってくると、全員がこちらを向いてお辞儀をしてきた。
うわ、こういう歓迎、わたし苦手なんだよなー。
恥ずかしくて……。
そして並んだデスクの向こう、いちばん奥の突き当りにひとつだけのデスクがあった。
これがおそらく社長席。
そう、千坂先輩がそこにいた。
彼はいつもわたしが会うときと変わらぬ、軽く天パのショートカット、黒のTシャツ、カーキ色のチノパン、グレーのスニーカーという姿。
どう見ても社長には見えん。
ここの社員のだれよりもカジュアルな格好だ。
わたしはちょっとおかしくて、笑いそうになった。
先輩は立ち上がって、両手を広げて歓迎の身振りをした。
「いやー、おはよう、織宮さん。
待ってたよ」
スティーブ・ジョブズか、おまえは!
いや、先輩、そういうのわたし、もっと恥ずかしくて苦手なんすよ。
勘弁してください……!
「どうした、緊張してるんか」
「……緊張、てか……いやこういうの苦手なんで……」
千坂先輩は笑顔のままうなずくと、他の社員たちに言った。
「みんな、すでにお伝えしているように、本日から社員になってもらう、織宮理乃さんです。
彼女はWebデザイナーとして、即戦力となれるスキルを持っているので、すぐにみんなとも関わる機会ができると思います。
……あ、自己紹介はあとで始業時間になってからしてもらうんで、石戸くん、織宮さんをデスクに案内してくれるかな」
「はい、わかりました」
石戸くんがわたしを左側の一番奥にあるデスクに案内してくれた。
とりあえず椅子に座ると、わたしは少し気分が落ち着いてきた。
「はあー……」
「だいじょうぶですか、織宮さん」
「あ、だ、だいじょうぶですっ!
単に初めての環境とかが慣れるのに時間がかかる性格なので……」
石戸くんがうなずいた。
「そうなんですね。
そういえば、ぼくも初出社日はめちゃ緊張してました」
緊張、とはちゃうんやけどね……。
ま、石戸くん、いいやつそうやな。
石戸くんはロッカーやトイレの場所を教えてくれた。
PCや仕事関連のツールについては、始業時間になってから説明しますね、それと社長が直接説明することもありますので、と言っていったんわたしのもとを離れた。
はぁ。
なんでだかちょっとほっとした。
社員数は千坂先輩……もう社長と呼ぶべきなんやろうか、と石戸くんを含めて9名。
ということは、わたしが10人目の社員ということになる。
おお、キリ番。
と思うまもなく、千坂社長がわたしのもとに来た。
「どうや、気分は?」
わたしはなるべく気を落ち着けて言った。
「まあまあです、初めての場所やし初対面の人も多いんで、ちょっと混乱してますが」
「うん、上等上等」
なんや、上等上等って!
「織宮さんが仕事しやすい環境になるよう、整えていくから。
そこはちゃんとやるよ」
「はい、ありがとうございます……」
「と、もう10時、始業時間やな」
千坂社長が両側のデスクに挟まれたスペースの真ん中に立った。
「おはようございます。
さて、もうみんなあいさつしてくれたけど、あらためて。
本日から新たに社員となってくれる、織宮理乃さんです。
織宮さんはぼくが以前在籍していたシステム開発会社の出身で、ぼくと共同で仕事をした経験も何度かあります。
Webデザイナー、UI/UXデザイナー、ディレクターとしてとても高いスキルを持っています。
プログラムに関する知識もある程度あって、プログラマーやSEとの共同作業は得意なので、われわれの会社には非常にマッチしていると考え、この会社に入ってもらいました。
みんな、織宮さんを適宜サポートしてあげてください。
織宮さん、ひとこと自己紹介してくださいますか」
わたしはみんなに頭を下げてあいさつした。
「おはようございます。
織宮理乃です。
いま千坂社長からご説明がありましたように、わたしは千坂社長と同じ会社で働いておりました。
その節は千坂さんにたいへんお世話になりまして。
千坂さんが独立してご自分で会社を興されるという話をお聞きしたとき、わたしは、確かに千坂さんは起業されて当然の力量をお持ちのかただ、と思ったのと同時に、千坂さんといっしょに仕事ができなくなるのは残念だなあ、と内心思っておりました。
そうしたら、千坂さんからこの会社にお誘いをいただきました。
こうしていま、ここにおります。
たいへん光栄なことだと思っております。
そのご期待に応えられるよう、みなさんとよい仕事をしていけるよう、これからがんばっていきたいと考えておりますので、みなさん、どうかよろしくお願いいたします!」
みなさんが拍手で迎えてくれた。
わたしはうれしくて、もう一度頭を下げた。
石戸くんがもう一度やって来て、PCと中にインストールされているソフト、通常の社内連絡で使用しているチャットソフトや、わたし専用のグラフィックソフト、エディターソフトなどの説明をしてくれた。
石戸くん自身はプログラマーだということだが、Webサイト制作も経験しており、わたしが入るまでHTMLやサイトデザインに関わる作業は彼がやっていたのだそうだ。
「ぼくはデザインに関してはまるっきしの素人で。
なので、織宮さんが入って来られて、正直安心しています。
本当のプロのデザイナーさんが来てくださった、って思いまして」
なるほどー。
ということは、今後も案件によっては、わたしがデザインをメインでやり、石戸くんがサブを努めてくれる、というのもあり得るのかな?
午前11時が過ぎて、ひととおりの説明が終わると石戸くんは礼をしてわたしのもとを離れた。
すごくていねいな説明で、わかりやすくて助かった。
彼とは仕事しやすいかも……。
ほかの社員の様子を見ても、業務で必要な連絡は通常チャットソフトを使っているが、必要に応じて社員同士で直接話し合ったり、真ん中のスペースの中央近くに置かれたテーブルの前に集まってミーティングをしたり、コミュニケーションの取り方は柔軟だ。
なので、オフィスの中は静かめながらも和気あいあいとした感じが伝わってくる。
千坂先輩、いや千坂社長が再びわたしのそばに来た。
「ひととおりツールについてはOKかな」
「はい。
石戸さんがとてもていねいに教えてくださったので」
「彼は几帳面でね」
「よくわかります」
千坂社長はオフィスの隅に置いてあったチェアを持って来て、わたしのそばに置くとそこに座った。
「先輩、会社でいつもそんなカジュアルな格好してるんですか?
全然、社長に見えないっすよ」
千坂社長は、ははは、と笑って言った。
「そうやな。
ま、言われると思った」
「社長は威厳も大切やと思います」
「おっしゃるとおり、はははっ」
「いや笑い事やないんで」
「いや織宮さんに言われると笑わずにいられなくてな」
あはははは、と千坂社長は笑い続けた。
わたしは自分もおかしいのと、同時にちょっと呆れた気持ちとの両方でため息をついた。
「それに、なんかわたしと先輩が旧知の仲っぽい雰囲気出し過ぎるのもどうかと」
「それはそうやな。
気いつける」
「はい。
気いつけてください」
「……でな、織宮さん。
さっそくやが、仕事の話を少しずつしていきたいと思うてな」
わたしの中でスイッチが入る。
「はい」
「午後からは、そのために時間とってもらってええか?
オレが、いまこの会社で受けてる案件の概要と、そのうちデザインがからむものを説明する」
「お、待ってました!
早く仕事したくてたまらないんで、喜んで」
「おう。
なら午後イチから。
あ、それと……」
「はい?」
「ランチ、いっしょに外に食べに行かんか?」
「あ、はい、いいですけど」
「初日やから、めしおごるわ。
こっちは仕事の話はナシや。
純粋に楽しい話だけ。
ああ、いまなんか困ったこととか、こうしてほしいこととかあったら、遠慮なく言うてくれ。
直せるものはすぐ直す」
わたしは、思わず手の甲を唇にあてて、ふふふっ、と笑った。
「まだ初日の出社で2時間しか経ってないのに、そんなんわかりませんよ。
お昼は、楽しい話だけでお願いします。
あ、ごちそうになります」
「おう。
ではよろしく」
千坂社長がチェアを持って去るのを見ながら、わたしは思った。
わたし、とても好きになれそうやなー。
この会社を……。
やっと、この日が来た!
わたしは自分の住んでいるマンションから外に出た。
外は秋色の空。
すっきりと晴れ。
肌にあたる空気が適度にひんやりと心地よい。
わたしは両腕を空に向かって突き出すと、
うーんっ!
と声を上げながら、思いっきり伸びをした。
気分も最高!
わたしは納得するようにうなずくと、駅に向かって歩き出した。
わたしのきょうのファッションは、白のボートネックブラトップ、その上にダークグリーンのクルーネックショートカーディガン、そして紺のバレルジーンズ。
仕事向けに動きやすい服装を選んだが、その中にもいまの自分の気持ちを反映した、さりげないおしゃれ心を取り入れたつもりだ。
さわやかで躍るような、この気持ちを。
ところで、前の会社を退職するのは先輩も言っていたように、めっちゃたいへんだったんだ。
なにしろ、わたしは社内のUI/UXセクションのサブリーダーを任されていた身。
そもそも、その役職をもらった理由もリーダーが倒れてメンバーのまとめ役が不在になってしまったから。
わたしが辞めてしまえば、またリーダーが不在になってしまう。
そんなわけで、わたしの退職を会社に受け入れてもらうことは困難を極めた。
はー、思い出すだけでもまた気が滅入ってくる。
管理職のお方々と交渉を重ねた結果、後任の体制は以下のようにすることになった。
すなわち、わたしの一年先輩の横田さんにサブリーダーになってもらい、後輩の牧野くんを補佐にする。
この人事によって、どうにかわたしの退職を了承してもらった。
横田さんは、仕事の出来は正直言ってまあまあだが、その人柄のよさでセクションメンバー間の好感度は高い。
そやから、現時点で最良の人選にはちがいない。
牧野くんはまだ経験は浅いけど、わたしの教育のかいあってこの半年で大きく成長した(ってわたしが自分でいうのもなんだが)。
大抜擢ってことになるわけだが、彼なら横田さんをうまくフォローしてくれるやろう。
ま、いずれにせよ、会社と揉めることなく円満退職できたのは、よかった。
もちろん、どこに転職するかは、前の会社のだれにも話していない。
なにしろ、もともと同じ前の会社にいた、それも優秀な戦力だった千坂先輩が独立して作った会社が、わたしの転職先なのだ。
そりゃ言えるわけないよ。
上司たち、おのおのがたからは、
「次の職場はどこに行くつもり?」
と聞かれたけど、
「具体的に決まっていません」
そうごまかし続けて切り抜けた。
そうそう、牧野くんにも何度も聞かれたな。
彼はいい子だし、彼だけには教えるかなー、と一瞬迷ったけど、しかしなにより安全第一。
上司たちに答えたのと同じ言葉を繰り返して勘弁してもろた。
ごめんよ、牧野くん。
りっぱに成長するんだよ。
草葉の陰から見てるからね……。(涙)
さて、新しい職場は前の職場よりもわたしの自宅マンションから近くなった。
大阪・キタエリアの、ミナミとの境目に近い街。
いいところだ。
会社は、大阪メトロの駅からすぐそば、5分〜7分ぐらいのところにあるビルの5F。
駅前には大きなスーパーがあり、周辺にはコンビニもたくさんあり、それから書店もある。
この書店、大型店舗ではないが、IT・クリエイティブ系の本と雑誌の取り揃えがけっこういいのだ!
これは、わたしらのような職業の者にはとっても便利やし、助かる!
この街の中心部には、「日本一長い」というので有名な商店街がとおっている。
そのアーケードを歩くと、いろんなお店が並んでいる。
全国にあるドラッグストアチェーンの店、
チェーン店のカフェ、
そんな、どこの街でも見かける店に混じってあるのは、
レトロなパン屋、
昭和風純喫茶の面影を濃厚に残す店構えの喫茶店、
昔ながらの雰囲気の雑貨店……。
こんな新旧さまざまなお店でひしめいている。
さらに、この街にはFMラジオ局もある。
そのラジオ局が入った大きなビルが商店街の隣から、どーん、と空に向かって突き出している。
新しいものと懐かしいものとが仲よく共存するこの街。
そんな街の中に、わが新しい職場があるというわけだ。
くーっ、いいねえ!
すごくよくね?
この立地。
前の会社は、同じキタでもよりキタの中心部に近く、しかもJRに乗り換える必要があった。
なので、通勤がちょっとめんどくさかったし、時間もかかったのだ。
それにくらべたら、新しい職場は自宅から30分以内!
交通の便よし、買い物便利。
そして……なんといっても、仕事がいままでよりずっとおもしろそう!
これは最強だ!!
わたしは地下鉄の列車に揺られながら、夢見るようにそんなことを考えていた。
そうしたら、あっという間に駅に着いた。
地下鉄を降り、出口へと続く階段を上るわたしの足取りは、うれしさと期待にはずむ。
駅から地上に抜けて、商店街を横目に通りを歩くこと5、6分。
わたしはスマホのマップアプリとにらめっこしつつ、会社の入っているビルの位置を確認する。
時間どおりに目的地に到着するのが不得意で、しかも自他ともに認める方向音痴であるわたしには、スマホとマップアプリはもはや命綱といってもいい必需品だ。
ふと、目の前にあるビルを見上げる。
おお、あった!
会社のあるビルだ。
きょうはこの初出勤のため、いつも以上に特別、絶対遅刻しないようにスマホのアラームと、目覚まし時計を2つセットし、なんとしても6時半には起きるように備えた。
それらは功を奏し、おかげでわたしはこの晴れ晴れしい新しい会社への初出社日を、じゅうぶん間に合って到着することができた。
ビルの自動ドアを抜け、ロビーの中央にあるエレベーターに乗った。
5Fに上がるとドアが開く。
フロアに出ると、すぐ目の前に会社の入口があった。
「For You Technologies Inc.」
これが、夢にまで見た、千坂先輩の作った会社……。
くーっ……!
わたしは、思わず両の拳を握りしめて、心の中で叫んだ。
がんばるぞー!
いい仕事、たくさんするぞー!
呼吸を整えて、5秒目を閉じ、また開いて、ドアのそばにあるインターフォンを押した。
そう、ここは秘密保持が必要な情報を扱う案件を多く抱えるシステム開発企業。
当然、オフィスはセキュリティーが強固な作りになっている。
なので、この入口ドアを開けるにも、IDチップが内蔵された社員証カードが必要となる。
わたしにはまだそれが与えられていないので、この初回の出社時だけは中の社員を呼び出して開けてもらわなければならない。
待つこと5秒ほど。
インターフォンから男性の社員の声が返ってきた。
「はい」
「あ、おはようございます。
本日から入社いたします、織宮理乃です」
「ああ、織宮さんですね。
おはようございます。
お待ちください、すぐ開けますから」
ドキドキ。
1秒でも、待つのが長く感じられる。
でも、3秒もしたらドアが開いた。
ドアを開けてくれたのは、若い男性の社員。
ビジネスカジュアルの私服で、ベージュのスタンドカラーシャツ、その上により濃いめのベージュのジャケット、ライトグレーのスラックス、髪は短くさっぱりとまとめた黒縁メガネという姿。
なかなかさわやかな雰囲気の男性くんだ。
「おはようございます。
織宮さん、お待ちしておりました。
どうぞお入りください」
「あ、どうも……。
おはようございます」
あとについて歩いていると、その男性社員くんが首から下げたIDカードを指でつまんでわたしに見せながら言った。
「あ、ぼくは石戸と申します。
よろしくお願いいたします」
わたしも歩きながら軽く頭を下げた。
「こ、こちらこそ。
よろしくお願いいたします……」
入口は二重で、外に通じる入口を抜けてからさらにもうひとつのドアがある。
石戸くんがドアの脇にあるIDセンサーに自分のIDカードをかざすと、ドアが、カチャッ、と音を立てて開いた。
すごいなー。
まだ小さな会社やけど、千坂先輩、強固なセキュリティー構築しとるな……。
こんなところひとつとっても、この新しい会社への信頼度が増すというものだ。
目の前に現れたオフィスは、小さいけれど小綺麗だ。
デスクが左右両方の壁側に並んでいて、各デスクに1台ずつPCとディスプレイが置かれている。
そして各デスクの前に、社員が座っている。
石戸くんとともにわたしが入ってくると、全員がこちらを向いてお辞儀をしてきた。
うわ、こういう歓迎、わたし苦手なんだよなー。
恥ずかしくて……。
そして並んだデスクの向こう、いちばん奥の突き当りにひとつだけのデスクがあった。
これがおそらく社長席。
そう、千坂先輩がそこにいた。
彼はいつもわたしが会うときと変わらぬ、軽く天パのショートカット、黒のTシャツ、カーキ色のチノパン、グレーのスニーカーという姿。
どう見ても社長には見えん。
ここの社員のだれよりもカジュアルな格好だ。
わたしはちょっとおかしくて、笑いそうになった。
先輩は立ち上がって、両手を広げて歓迎の身振りをした。
「いやー、おはよう、織宮さん。
待ってたよ」
スティーブ・ジョブズか、おまえは!
いや、先輩、そういうのわたし、もっと恥ずかしくて苦手なんすよ。
勘弁してください……!
「どうした、緊張してるんか」
「……緊張、てか……いやこういうの苦手なんで……」
千坂先輩は笑顔のままうなずくと、他の社員たちに言った。
「みんな、すでにお伝えしているように、本日から社員になってもらう、織宮理乃さんです。
彼女はWebデザイナーとして、即戦力となれるスキルを持っているので、すぐにみんなとも関わる機会ができると思います。
……あ、自己紹介はあとで始業時間になってからしてもらうんで、石戸くん、織宮さんをデスクに案内してくれるかな」
「はい、わかりました」
石戸くんがわたしを左側の一番奥にあるデスクに案内してくれた。
とりあえず椅子に座ると、わたしは少し気分が落ち着いてきた。
「はあー……」
「だいじょうぶですか、織宮さん」
「あ、だ、だいじょうぶですっ!
単に初めての環境とかが慣れるのに時間がかかる性格なので……」
石戸くんがうなずいた。
「そうなんですね。
そういえば、ぼくも初出社日はめちゃ緊張してました」
緊張、とはちゃうんやけどね……。
ま、石戸くん、いいやつそうやな。
石戸くんはロッカーやトイレの場所を教えてくれた。
PCや仕事関連のツールについては、始業時間になってから説明しますね、それと社長が直接説明することもありますので、と言っていったんわたしのもとを離れた。
はぁ。
なんでだかちょっとほっとした。
社員数は千坂先輩……もう社長と呼ぶべきなんやろうか、と石戸くんを含めて9名。
ということは、わたしが10人目の社員ということになる。
おお、キリ番。
と思うまもなく、千坂社長がわたしのもとに来た。
「どうや、気分は?」
わたしはなるべく気を落ち着けて言った。
「まあまあです、初めての場所やし初対面の人も多いんで、ちょっと混乱してますが」
「うん、上等上等」
なんや、上等上等って!
「織宮さんが仕事しやすい環境になるよう、整えていくから。
そこはちゃんとやるよ」
「はい、ありがとうございます……」
「と、もう10時、始業時間やな」
千坂社長が両側のデスクに挟まれたスペースの真ん中に立った。
「おはようございます。
さて、もうみんなあいさつしてくれたけど、あらためて。
本日から新たに社員となってくれる、織宮理乃さんです。
織宮さんはぼくが以前在籍していたシステム開発会社の出身で、ぼくと共同で仕事をした経験も何度かあります。
Webデザイナー、UI/UXデザイナー、ディレクターとしてとても高いスキルを持っています。
プログラムに関する知識もある程度あって、プログラマーやSEとの共同作業は得意なので、われわれの会社には非常にマッチしていると考え、この会社に入ってもらいました。
みんな、織宮さんを適宜サポートしてあげてください。
織宮さん、ひとこと自己紹介してくださいますか」
わたしはみんなに頭を下げてあいさつした。
「おはようございます。
織宮理乃です。
いま千坂社長からご説明がありましたように、わたしは千坂社長と同じ会社で働いておりました。
その節は千坂さんにたいへんお世話になりまして。
千坂さんが独立してご自分で会社を興されるという話をお聞きしたとき、わたしは、確かに千坂さんは起業されて当然の力量をお持ちのかただ、と思ったのと同時に、千坂さんといっしょに仕事ができなくなるのは残念だなあ、と内心思っておりました。
そうしたら、千坂さんからこの会社にお誘いをいただきました。
こうしていま、ここにおります。
たいへん光栄なことだと思っております。
そのご期待に応えられるよう、みなさんとよい仕事をしていけるよう、これからがんばっていきたいと考えておりますので、みなさん、どうかよろしくお願いいたします!」
みなさんが拍手で迎えてくれた。
わたしはうれしくて、もう一度頭を下げた。
石戸くんがもう一度やって来て、PCと中にインストールされているソフト、通常の社内連絡で使用しているチャットソフトや、わたし専用のグラフィックソフト、エディターソフトなどの説明をしてくれた。
石戸くん自身はプログラマーだということだが、Webサイト制作も経験しており、わたしが入るまでHTMLやサイトデザインに関わる作業は彼がやっていたのだそうだ。
「ぼくはデザインに関してはまるっきしの素人で。
なので、織宮さんが入って来られて、正直安心しています。
本当のプロのデザイナーさんが来てくださった、って思いまして」
なるほどー。
ということは、今後も案件によっては、わたしがデザインをメインでやり、石戸くんがサブを努めてくれる、というのもあり得るのかな?
午前11時が過ぎて、ひととおりの説明が終わると石戸くんは礼をしてわたしのもとを離れた。
すごくていねいな説明で、わかりやすくて助かった。
彼とは仕事しやすいかも……。
ほかの社員の様子を見ても、業務で必要な連絡は通常チャットソフトを使っているが、必要に応じて社員同士で直接話し合ったり、真ん中のスペースの中央近くに置かれたテーブルの前に集まってミーティングをしたり、コミュニケーションの取り方は柔軟だ。
なので、オフィスの中は静かめながらも和気あいあいとした感じが伝わってくる。
千坂先輩、いや千坂社長が再びわたしのそばに来た。
「ひととおりツールについてはOKかな」
「はい。
石戸さんがとてもていねいに教えてくださったので」
「彼は几帳面でね」
「よくわかります」
千坂社長はオフィスの隅に置いてあったチェアを持って来て、わたしのそばに置くとそこに座った。
「先輩、会社でいつもそんなカジュアルな格好してるんですか?
全然、社長に見えないっすよ」
千坂社長は、ははは、と笑って言った。
「そうやな。
ま、言われると思った」
「社長は威厳も大切やと思います」
「おっしゃるとおり、はははっ」
「いや笑い事やないんで」
「いや織宮さんに言われると笑わずにいられなくてな」
あはははは、と千坂社長は笑い続けた。
わたしは自分もおかしいのと、同時にちょっと呆れた気持ちとの両方でため息をついた。
「それに、なんかわたしと先輩が旧知の仲っぽい雰囲気出し過ぎるのもどうかと」
「それはそうやな。
気いつける」
「はい。
気いつけてください」
「……でな、織宮さん。
さっそくやが、仕事の話を少しずつしていきたいと思うてな」
わたしの中でスイッチが入る。
「はい」
「午後からは、そのために時間とってもらってええか?
オレが、いまこの会社で受けてる案件の概要と、そのうちデザインがからむものを説明する」
「お、待ってました!
早く仕事したくてたまらないんで、喜んで」
「おう。
なら午後イチから。
あ、それと……」
「はい?」
「ランチ、いっしょに外に食べに行かんか?」
「あ、はい、いいですけど」
「初日やから、めしおごるわ。
こっちは仕事の話はナシや。
純粋に楽しい話だけ。
ああ、いまなんか困ったこととか、こうしてほしいこととかあったら、遠慮なく言うてくれ。
直せるものはすぐ直す」
わたしは、思わず手の甲を唇にあてて、ふふふっ、と笑った。
「まだ初日の出社で2時間しか経ってないのに、そんなんわかりませんよ。
お昼は、楽しい話だけでお願いします。
あ、ごちそうになります」
「おう。
ではよろしく」
千坂社長がチェアを持って去るのを見ながら、わたしは思った。
わたし、とても好きになれそうやなー。
この会社を……。



