「おう。
元気そうやないか」
千坂先輩は、人懐っこい笑顔を浮かべてわたしを見た。
わたしは、その笑顔に思わずキュンと来て、どんな表情で返したらいいかわからなくなってしまい、目を泳がせた。
たぶん、ちょっと赤くなっていたと思う。
この暗めの店内では、気づかれなかったかもしれんけど。
そうであってほしい、そう思った。
「見た目はそう見えるみたいなんですけどね。
まあ、いろいろありまして……あとで話します」
「そうか」
知的で穏やかそうな表情の、先輩の顔。
軽く天然パーマのかかった、短めで波打っている先輩の髪。
最後に会ったときと全然変わっていない。
彼の服装も、変わらずシンプル。
黒いTシャツ、その上にベージュのカジュアルジャケット。
紺のデニム。
こんなミニマルなファッションが、彼は好きだ。
そんな格好でも、かっこいいんよね。
着てる本人という素材がいいから。ぷふっ!
先輩は店内のいちばん奥の角、ソファーがコーナーに沿って並べられている、ヒロさんいわく「VIP席」を指さした。
「奥の席、行くか。
……ええよな、ヒロさん?」
ヒロさんはうなずいた。
「おう、もちろん。
ほかに予約も入ってないから、好きなだけおってええぞ、ハハハ。
ヒョウタはなに飲む?」
「ほな、ダイキリで」
「おう、ダイキリな。
了解」
わたしは千坂先輩のあとに続いた。
自分でもわかる、弾むような足取りになっているのが。
思わず笑顔がこぼれ出て、抑えられないのが。
この浮足立った気分、先輩にはもう気づかれているだろうか、。
先輩が、手前右側にある青色の革が張られたソファーの前に立つと、右手を差し出して、赤色の革が張られた奥側のソファーへとわたしを促した。
わたしが、ありがとうございます、と言って赤色のソファーに座ると、先輩も青色のソファーにゆっくりと腰を下ろした。
「……あらためて。
ひさしぶり」
先輩がにこりとして言った。
わたしも目を輝かせて、笑顔で応えた。
「はい、ホントに。
もう半年過ぎましたよね。
10か月くらいになりますか?」
「そうやな、それくらいになるか……。
時間の経つのは早いな、ほんまに」
「ええ」
一瞬、沈黙が訪れた。
わたしはその間に耐えられなかった。
なんでもいいからなにか話したかったので、わたしは思い切って顔を上げると言った。
「……千坂先輩、ホンマにお会いしたかったです。
先輩といっしょに仕事できたあの時期、すごく楽しかったです!
プログラムのこと、Webの技術のこと、ビジネスのこと、お客さんとの交渉のしかた……。
ほんまにいろいろなことを教えていただいて、わたし先輩のおかげでとても成長できた!
そう思うてます。
先輩が会社辞めて独立する、ってことも、いち早くわたしに早く話してくださいましたよね!
織宮さんには、上司の次に話すんや、っておっしゃって。
あれ、すっごくうれしかったんです!
いや、もちろん悲しかったですよ、先輩が辞めちゃうっていうのは。
もう先輩といっしょに仕事でけへんのかー、って、ひそかにシュンとしました。
でも、一方では、そりゃそうやな、とも思いました。
だって先輩はすごく優秀やし、こんないろいろしがらみのある会社で限られた仕事してるより、独立起業したほうが絶対、先輩の持てる能力をフルに発揮できるよなー。
そりゃ当然だわなー、そう思いましたもん。
そやから、辞められるってことをあたしに、社内で二番目に話してくださったってこと、めっちゃうれしかったんです!
わたし、先輩に大切にしてもらってるなあ、って……。
しかもあのとき、
『新しい会社が軌道に乗ったら声かける。もしよかったらオレの会社に移らないか?』
ってわたしを誘ってくださったやないですか。
あれ、超マジでうれしかったっす……!
いや、たとえお世辞で言うてくれたんだとしても、それでもええんです。
じゅうぶん光栄なことですから……。
そやから、きょう先輩がこうしてホンマに声をかけてくださって、わたしうれしいです!
なんにしても、先輩とまた会えただけで、最高の気分です。
まあ、楽しい時間をごいっしょできれば、それだけでもじゅうぶんやと……」
千坂先輩は、ふふっ、と微笑んだ。
「あいかわらずのパワーやな、織宮さん。
最近、そういう元気なやつが周りにようおらんから、きみのことがオレも恋しくなってな。
それで呼んだ!」
そう言って笑うと、あらたまったようにまじめな表情になって、両手を膝の上で組んだ。
「……ま、というのもあるけどな。
まじめな話、今回はいまきみが話したこと、つまり、オレが会社を辞めるときにきみに言うたこと、あれはいまでも本気や、ってことをあらためて話そうと思ってな。
それで、きみに来てもろうたんや」
そう言って、千坂先輩は言葉を止めた。
わたしは、緊張で、ごくり、と唾を飲み込んだ。
先輩にまで聞こえるほどの音が出たかもしれない。
先輩はまっすぐにわたしの目を見据えて、こう言った。
「……織宮さん。
オレの会社に移ってこないか?」
期待していた言葉。
しかし一方で、予期していなかったかのように突然降って湧いた言葉でもある気がした。
うれしさと驚き、両方の気持ちがわたしを揺さぶった。
そこへヒロさんが、先輩のダイキリを持ってきた。
先輩はこちらを安心させようとするかのように、また柔和な笑顔に戻ると言った。
「その前に、まずは乾杯するか」
喜びと同じくらい、少なからず動揺していたわたしも、先輩のその笑顔を見ていると不思議に気分が落ち着いてきた。
千坂先輩になら、なんでも話せる。
そんな気がした。
「わたし、お伝えしましたようにソフトドリンクです。
すみません」
「おう、全然かまへんで。
……ミックスジュースか。ええな」
「はい。
おいしいですよ」
わたしはちょっと照れて、つぶやくように言った。
「ヒロさんのミックスジュースは評判ええからな。
……ほな、ひさしぶりの再会を祝して、乾杯!」
「はい、再会を祝して。
乾杯!」
千坂先輩とわたしの二人、笑顔でグラスを当てた。
チン、とグラスが音を立てた。
先輩がダイキリを飲むところを横目で見ながら、わたしはフルーツミックスジュースのコップに挿してあるストローに口をつけ、ちびちびと飲んだ。
先輩がわたしの顔を見ながら、やさしく尋ねてきた。
「……薬飲んでるってこと、聞いていいか。
……どんな調子なん?」
わたしは表情を引き締めた。
まあ、そのうち聞かれると思ってたし、はっきり説明するのが筋ってもんや。
わたしは、雰囲気がシリアスになり過ぎないよう注意しながら、あらかじめノートにまとめて用意した内容を頭に入れてきたとおりに説明を始めた。
「……えっとですね、半年くらい前になるんですけど、精神科のクリニックに行って発達障害の検査っていうのを受けまして。
それで『ADHD(注意欠如・多動性障害)』って診断を受けました。
精神障害者手帳も発行してもらいました。
ほら、わたし、仕事はいちおうこなしてますけど、ご存じのとおり、ちょこちょこすっごいポカやらかしますやんか。
思っきり遅刻するわ、大事なお客さんとの打ち合わせ時間には遅れるわ、アポそのものを取ること忘れるわ……。
それに、机の上の整理整頓も全然できてなくて、よく山岡課長に怒られたり……。
職場だけやのうて、わたし、自分の住んでる部屋の中なんか、もう恥ずかしくて絶対見せられへんですわ。
そういう抜けてるところ、どうしてかなー、って、社会に出てからずっと思ってて。
大学生のときまでは、あんまり問題になるようなこともなかったし、自分でもそんな自覚もなかったし、周りにもなんも言われてなかったんですよ。
それが、社会人になってから、わたしのそういうエラー、ってかバグ?みたいなのがやたら顕著に出てくるようになって、さすがに自分でも、これは社会生活ヤバイぞ、って思い始めてきて。
先輩、まだ会社にいらっしゃったときには、そんなわたしのポカをすごくかばってくださったやないですか。
そのことはホンマに、感謝してもしきれないくらい感謝してます!
……でも、先輩が会社辞めてからは、そんなふうにわたしをかばってくれる人もいなくなって。
で、一年近く前に大ポカやらかしました。
P電機のプレゼンで配布する予定の資料持っていくの、すっぱり忘れまして。
大野主任が先方に詫び入れまくって、とりあえずプレゼンだけ先に見せて、資料は会社からデータだけ送ってもらって。
結果的にプレゼンは無事通りましたけど、帰ってから山岡課長にも大野主任にも、ダブルで雷を落とされまくりまして……。
それで、わたしのこの症状はマズいな、って自分でもネットで調べ始めたんです。
そしたら、発達障害とかADHDっていうものの存在を知りまして。
ADHDについて書かれた本買ってきて読んで『あ、ヤバっ、わたしこれかも』って思って……。
そんなわけでクリニックに行って、最初に言うた結果になった、ってわけです。
はい」
千坂先輩はまじめな顔をして、わたしの話を聴き続けていた。
わたしの話が終わると、いとおしいものを見るようにわたしを見つめた。
いや、わたしが勝手にそう思っただけかもしれんけど。
そして言った。
「……つらかっただろうな、織宮さん。
まあ、いっしょに仕事してたときに、なんかあるのかもとは思ってたよ。
きみの仕事の能力の高さと、そういうところとのアンバランスさというか、それは確かにかなり極端やとは思うてたからな」
わたしは心の底に、じん、と来るものを感じた。
涙が出てきそうだった。
「……すみませんでした、その節は……」
「いやあ、謝ることやないよ。
それに、周りがカバーしてあげれば済む程度のことやったしな。
……でも、よかったやないか、原因というか理由がわかって。
薬というのは、そのADHDの症状を緩和する薬ということ?」
「はい、そうなんですけど、あくまで症状の緩和であって、根本的に治療できるものではないそうです。
そやから、お医者さんには『あなたの場合、日常でこんな対策を立てるといい』っていう対策ブックみたいなものをもらいました。
いま、日常生活ではそこに書かれていることを実践するようにしてます」
「そうか」
先輩がダイキリを3分の2ほどまで飲んだのを見ながら、わたしは自信なげにつぶやいた。
「……こんな障がい、というか特性ともいうらしいですけど、それを持ったわたしですけど、そんなんでも先輩は誘ってくださるんですか?
こんな手間がかかる子ですよ?」
千坂先輩は再び、ふふっ、と笑うと、わたしの目をしっかりと見つめてきっぱりとこう告げたのだった。
「織宮さんの能力は高い。
それに、オレもきみといっしょに仕事をしてた期間、とても楽しかった。
そやから、またきみといっしょに仕事をしたい。
ADHDのことは、オレや周りでカバーしていけば、なんとでもなる。
あ、いまの会社辞めるのがたいへんかもしれんが、時間かかってもオレはいつまででも待つつもりや。
……だから、またいっしょに仕事しようや、な?」
わたしは泣きそうになった。
うれしくて、もう危うく千坂先輩の懐に飛び込むところだった。
わたしが落ち着くと、先輩は自分の会社について、概要や社員数、売上高などを、資料を見せながらていねいに説明してくれた。
先輩がやってる会社やもん、ええ加減なことあるわけない。
それは先輩の説明を聴いててもよくわかる。
「……ま、返事はきょうの話をふまえて、よく考えてからで全然OKや。
転職って、大きなことやからな」
わたしは先輩に、目を輝かせて答えた。
「いえ、大きなことやからこそ、もう決めました!
……だって、ずっと前から決めてましたのやんか。
千坂先輩がもし誘ってくれるんなら、絶対先輩のところに行きます、って!」
そうして、この夜のうちに、わたしは心を決めたのだ。
千坂先輩の会社に転職すると。
元気そうやないか」
千坂先輩は、人懐っこい笑顔を浮かべてわたしを見た。
わたしは、その笑顔に思わずキュンと来て、どんな表情で返したらいいかわからなくなってしまい、目を泳がせた。
たぶん、ちょっと赤くなっていたと思う。
この暗めの店内では、気づかれなかったかもしれんけど。
そうであってほしい、そう思った。
「見た目はそう見えるみたいなんですけどね。
まあ、いろいろありまして……あとで話します」
「そうか」
知的で穏やかそうな表情の、先輩の顔。
軽く天然パーマのかかった、短めで波打っている先輩の髪。
最後に会ったときと全然変わっていない。
彼の服装も、変わらずシンプル。
黒いTシャツ、その上にベージュのカジュアルジャケット。
紺のデニム。
こんなミニマルなファッションが、彼は好きだ。
そんな格好でも、かっこいいんよね。
着てる本人という素材がいいから。ぷふっ!
先輩は店内のいちばん奥の角、ソファーがコーナーに沿って並べられている、ヒロさんいわく「VIP席」を指さした。
「奥の席、行くか。
……ええよな、ヒロさん?」
ヒロさんはうなずいた。
「おう、もちろん。
ほかに予約も入ってないから、好きなだけおってええぞ、ハハハ。
ヒョウタはなに飲む?」
「ほな、ダイキリで」
「おう、ダイキリな。
了解」
わたしは千坂先輩のあとに続いた。
自分でもわかる、弾むような足取りになっているのが。
思わず笑顔がこぼれ出て、抑えられないのが。
この浮足立った気分、先輩にはもう気づかれているだろうか、。
先輩が、手前右側にある青色の革が張られたソファーの前に立つと、右手を差し出して、赤色の革が張られた奥側のソファーへとわたしを促した。
わたしが、ありがとうございます、と言って赤色のソファーに座ると、先輩も青色のソファーにゆっくりと腰を下ろした。
「……あらためて。
ひさしぶり」
先輩がにこりとして言った。
わたしも目を輝かせて、笑顔で応えた。
「はい、ホントに。
もう半年過ぎましたよね。
10か月くらいになりますか?」
「そうやな、それくらいになるか……。
時間の経つのは早いな、ほんまに」
「ええ」
一瞬、沈黙が訪れた。
わたしはその間に耐えられなかった。
なんでもいいからなにか話したかったので、わたしは思い切って顔を上げると言った。
「……千坂先輩、ホンマにお会いしたかったです。
先輩といっしょに仕事できたあの時期、すごく楽しかったです!
プログラムのこと、Webの技術のこと、ビジネスのこと、お客さんとの交渉のしかた……。
ほんまにいろいろなことを教えていただいて、わたし先輩のおかげでとても成長できた!
そう思うてます。
先輩が会社辞めて独立する、ってことも、いち早くわたしに早く話してくださいましたよね!
織宮さんには、上司の次に話すんや、っておっしゃって。
あれ、すっごくうれしかったんです!
いや、もちろん悲しかったですよ、先輩が辞めちゃうっていうのは。
もう先輩といっしょに仕事でけへんのかー、って、ひそかにシュンとしました。
でも、一方では、そりゃそうやな、とも思いました。
だって先輩はすごく優秀やし、こんないろいろしがらみのある会社で限られた仕事してるより、独立起業したほうが絶対、先輩の持てる能力をフルに発揮できるよなー。
そりゃ当然だわなー、そう思いましたもん。
そやから、辞められるってことをあたしに、社内で二番目に話してくださったってこと、めっちゃうれしかったんです!
わたし、先輩に大切にしてもらってるなあ、って……。
しかもあのとき、
『新しい会社が軌道に乗ったら声かける。もしよかったらオレの会社に移らないか?』
ってわたしを誘ってくださったやないですか。
あれ、超マジでうれしかったっす……!
いや、たとえお世辞で言うてくれたんだとしても、それでもええんです。
じゅうぶん光栄なことですから……。
そやから、きょう先輩がこうしてホンマに声をかけてくださって、わたしうれしいです!
なんにしても、先輩とまた会えただけで、最高の気分です。
まあ、楽しい時間をごいっしょできれば、それだけでもじゅうぶんやと……」
千坂先輩は、ふふっ、と微笑んだ。
「あいかわらずのパワーやな、織宮さん。
最近、そういう元気なやつが周りにようおらんから、きみのことがオレも恋しくなってな。
それで呼んだ!」
そう言って笑うと、あらたまったようにまじめな表情になって、両手を膝の上で組んだ。
「……ま、というのもあるけどな。
まじめな話、今回はいまきみが話したこと、つまり、オレが会社を辞めるときにきみに言うたこと、あれはいまでも本気や、ってことをあらためて話そうと思ってな。
それで、きみに来てもろうたんや」
そう言って、千坂先輩は言葉を止めた。
わたしは、緊張で、ごくり、と唾を飲み込んだ。
先輩にまで聞こえるほどの音が出たかもしれない。
先輩はまっすぐにわたしの目を見据えて、こう言った。
「……織宮さん。
オレの会社に移ってこないか?」
期待していた言葉。
しかし一方で、予期していなかったかのように突然降って湧いた言葉でもある気がした。
うれしさと驚き、両方の気持ちがわたしを揺さぶった。
そこへヒロさんが、先輩のダイキリを持ってきた。
先輩はこちらを安心させようとするかのように、また柔和な笑顔に戻ると言った。
「その前に、まずは乾杯するか」
喜びと同じくらい、少なからず動揺していたわたしも、先輩のその笑顔を見ていると不思議に気分が落ち着いてきた。
千坂先輩になら、なんでも話せる。
そんな気がした。
「わたし、お伝えしましたようにソフトドリンクです。
すみません」
「おう、全然かまへんで。
……ミックスジュースか。ええな」
「はい。
おいしいですよ」
わたしはちょっと照れて、つぶやくように言った。
「ヒロさんのミックスジュースは評判ええからな。
……ほな、ひさしぶりの再会を祝して、乾杯!」
「はい、再会を祝して。
乾杯!」
千坂先輩とわたしの二人、笑顔でグラスを当てた。
チン、とグラスが音を立てた。
先輩がダイキリを飲むところを横目で見ながら、わたしはフルーツミックスジュースのコップに挿してあるストローに口をつけ、ちびちびと飲んだ。
先輩がわたしの顔を見ながら、やさしく尋ねてきた。
「……薬飲んでるってこと、聞いていいか。
……どんな調子なん?」
わたしは表情を引き締めた。
まあ、そのうち聞かれると思ってたし、はっきり説明するのが筋ってもんや。
わたしは、雰囲気がシリアスになり過ぎないよう注意しながら、あらかじめノートにまとめて用意した内容を頭に入れてきたとおりに説明を始めた。
「……えっとですね、半年くらい前になるんですけど、精神科のクリニックに行って発達障害の検査っていうのを受けまして。
それで『ADHD(注意欠如・多動性障害)』って診断を受けました。
精神障害者手帳も発行してもらいました。
ほら、わたし、仕事はいちおうこなしてますけど、ご存じのとおり、ちょこちょこすっごいポカやらかしますやんか。
思っきり遅刻するわ、大事なお客さんとの打ち合わせ時間には遅れるわ、アポそのものを取ること忘れるわ……。
それに、机の上の整理整頓も全然できてなくて、よく山岡課長に怒られたり……。
職場だけやのうて、わたし、自分の住んでる部屋の中なんか、もう恥ずかしくて絶対見せられへんですわ。
そういう抜けてるところ、どうしてかなー、って、社会に出てからずっと思ってて。
大学生のときまでは、あんまり問題になるようなこともなかったし、自分でもそんな自覚もなかったし、周りにもなんも言われてなかったんですよ。
それが、社会人になってから、わたしのそういうエラー、ってかバグ?みたいなのがやたら顕著に出てくるようになって、さすがに自分でも、これは社会生活ヤバイぞ、って思い始めてきて。
先輩、まだ会社にいらっしゃったときには、そんなわたしのポカをすごくかばってくださったやないですか。
そのことはホンマに、感謝してもしきれないくらい感謝してます!
……でも、先輩が会社辞めてからは、そんなふうにわたしをかばってくれる人もいなくなって。
で、一年近く前に大ポカやらかしました。
P電機のプレゼンで配布する予定の資料持っていくの、すっぱり忘れまして。
大野主任が先方に詫び入れまくって、とりあえずプレゼンだけ先に見せて、資料は会社からデータだけ送ってもらって。
結果的にプレゼンは無事通りましたけど、帰ってから山岡課長にも大野主任にも、ダブルで雷を落とされまくりまして……。
それで、わたしのこの症状はマズいな、って自分でもネットで調べ始めたんです。
そしたら、発達障害とかADHDっていうものの存在を知りまして。
ADHDについて書かれた本買ってきて読んで『あ、ヤバっ、わたしこれかも』って思って……。
そんなわけでクリニックに行って、最初に言うた結果になった、ってわけです。
はい」
千坂先輩はまじめな顔をして、わたしの話を聴き続けていた。
わたしの話が終わると、いとおしいものを見るようにわたしを見つめた。
いや、わたしが勝手にそう思っただけかもしれんけど。
そして言った。
「……つらかっただろうな、織宮さん。
まあ、いっしょに仕事してたときに、なんかあるのかもとは思ってたよ。
きみの仕事の能力の高さと、そういうところとのアンバランスさというか、それは確かにかなり極端やとは思うてたからな」
わたしは心の底に、じん、と来るものを感じた。
涙が出てきそうだった。
「……すみませんでした、その節は……」
「いやあ、謝ることやないよ。
それに、周りがカバーしてあげれば済む程度のことやったしな。
……でも、よかったやないか、原因というか理由がわかって。
薬というのは、そのADHDの症状を緩和する薬ということ?」
「はい、そうなんですけど、あくまで症状の緩和であって、根本的に治療できるものではないそうです。
そやから、お医者さんには『あなたの場合、日常でこんな対策を立てるといい』っていう対策ブックみたいなものをもらいました。
いま、日常生活ではそこに書かれていることを実践するようにしてます」
「そうか」
先輩がダイキリを3分の2ほどまで飲んだのを見ながら、わたしは自信なげにつぶやいた。
「……こんな障がい、というか特性ともいうらしいですけど、それを持ったわたしですけど、そんなんでも先輩は誘ってくださるんですか?
こんな手間がかかる子ですよ?」
千坂先輩は再び、ふふっ、と笑うと、わたしの目をしっかりと見つめてきっぱりとこう告げたのだった。
「織宮さんの能力は高い。
それに、オレもきみといっしょに仕事をしてた期間、とても楽しかった。
そやから、またきみといっしょに仕事をしたい。
ADHDのことは、オレや周りでカバーしていけば、なんとでもなる。
あ、いまの会社辞めるのがたいへんかもしれんが、時間かかってもオレはいつまででも待つつもりや。
……だから、またいっしょに仕事しようや、な?」
わたしは泣きそうになった。
うれしくて、もう危うく千坂先輩の懐に飛び込むところだった。
わたしが落ち着くと、先輩は自分の会社について、概要や社員数、売上高などを、資料を見せながらていねいに説明してくれた。
先輩がやってる会社やもん、ええ加減なことあるわけない。
それは先輩の説明を聴いててもよくわかる。
「……ま、返事はきょうの話をふまえて、よく考えてからで全然OKや。
転職って、大きなことやからな」
わたしは先輩に、目を輝かせて答えた。
「いえ、大きなことやからこそ、もう決めました!
……だって、ずっと前から決めてましたのやんか。
千坂先輩がもし誘ってくれるんなら、絶対先輩のところに行きます、って!」
そうして、この夜のうちに、わたしは心を決めたのだ。
千坂先輩の会社に転職すると。



