半分のピアニスト

三年前のあの日、私が手放したはずの「世界」が、今、目の前に広がっていた。
眩しいスポットライトに照らされた、ホールのステージ。客席を埋め尽くすのは、世界中から集まった音楽家や厳しい批評家たち、そして数多のカメラだ。

「……怖い?」
隣に座る奏の震える肩に、私は自分の左手をそっと置いた。
「……うん。でも、零の左手が、すごく熱いから。……私、いける気がする」
奏が顔を上げ、小さく微笑んだ。

私は、自分の右手を膝の上に乗せた。
あの日から動かない、私の誇りの残骸。それを、今この瞬間に世界へさらけ出す。
客席からは戸惑いの囁きが漏れていた。かつての天才、霧島零が、一人の無名な少女を連れて、しかも「連弾の伴奏」で現れたのだ。

私は、深呼吸を一つして、左手を鍵盤に下ろした。

――聴きなさい。これが、私たちが生きている証明よ。

始まったのは、私がこの一ヶ月、血を吐くような思いで書き上げた新曲。
最初は、嵐の前の静けさのような、低音の孤独な旋律。私の左手が、重く、悲痛な響きを刻んでいく。
客席の海堂が、冷笑を浮かべるのが見えた気がした。だが、
奏の右手が、その闇を切り裂くように、最高音域で閃光を放った。

「………っ!」

かつての私の「完璧な技術」とは違う。
奏での音は、必死で、泥臭くて、けれど誰よりも「自由」だった。
私の左手が、彼女の旋律を大地のように支える。私は低音で彼女を抱きしめ、彼女が高音で私の魂を空へと連れ去る。
一人が主役で、一人が脇役ではない。
欠けた二人が、一つの巨大な「生命」となって、ホールの空気を震わせていく。
演奏が進むにつれ、会場から囁きが消えた。
審査員の老人が、眼鏡を外して目元を拭うのが見えた。
完璧なものだけを求めていた世界が、今、不完全な二人が奏でる「愛の形」に、心を奪われている。
最後の激しい和音を二人で打ち鳴らし、静寂が訪れた。

一秒。二秒。
そして、地鳴りのような「ブラボー」の叫びと、総立ちのスタディングオベーションが二人を包み込んだ。

拍手の中で、奏が泣きながら私に抱きついてきた。
私も、彼女の肩に顔を埋め、初めて声を出さずに泣いた。

右手を失ってから、私は自分を「不幸」だと思っていた。
でも、もしあの事故がなかったら。もし右手が動いたままだったら。
私は、奏のこの温かさを、この音の深さを、一生知ることはなかっただろう。

ステージを去る際、通路に立っていた海堂と目が合った。
彼は悔しそうに唇を噛み締め、それから、小さく一度だけ、私たちに拍手を送った。

「……零、私達、また明日も弾けるかな?」
「………当たり前でしょ。あんたの右手は、もう私の一部なんだから」

ホールの外に出ると、夜空には世界中を照らすような、満天の星が広がっていた。
私達の音楽は、まだ始まったばかりだ。