「霧島零。……君も随分と、安いピアニストになり下がったものだ」
拍手の渦を割って近づいてきたのは、見紛うはずのない顔だった。
かつてどのコンクールでも私の後ろに甘んじ、私の背中を呪うように見つめていた少年――今は、若手ピアニストの旗手として名を馳せる、海堂だ。
海堂は、隣で怯える奏を一瞥もしないまま、冷たい言葉を投げつける。
「そんな『二番手』の女の子に寄りかかって、欠けた部分を補い合う……。君がやっているのは音楽じゃない。傷の舐め合いだ」
「……言い過ぎよ、海堂」
私が前に出ようとすると、奏が私の袖を強く握った。彼女の指は、ステージの熱気が嘘のように震えている。
「霧島。一ヶ月後の『ショパン国際ピアノコンクール』、君も招待されているはずだ。……もし、まだピアニストを名乗るプライドが欠片でも残っているなら、そこに来い。その不格好な連弾が、ただの『思い出作り』ではないと証明してみせろ」
文化祭の熱狂は、海堂の冷徹な一言で、まるで氷水をかけられたように引いていった。
部室に戻る道すがら、奏は一度も口を開かなかった。繋いだ手から伝わってくる彼女の体温は、さっきまでのステージの熱が嘘のように冷え切っている。
「……零。私、やっぱり………」
部室のドアを閉めた瞬間、奏の声が震えた。
「……海堂君の言う通りだよ。…私は、零の隣にふさわしくない。私のせいで、零が『安くなった』なんて言われるの、耐えられない………っ!」
奏では変えていた。自分を庇って右手を失った私を、さらに自分の不甲斐なさで汚してしまっている。そんな罪悪感に、彼女はまた押し潰されようとしていた。
私は、海堂の顔を思い出していた。
三年前のあの日、病院の廊下で私とすれ違った時の彼の目。同情なんて一ミリもなかった。「これで邪魔者が消えた」と言わんばかりの、純枠で残酷な、勝利者の目。
かつての私も、あんな風に「勝敗」と「完璧」だけが世界のすべてだと思っていた。
「奏、座って」
私は彼女の肩を掴み、ピアノの前に無理やり座らせた。
「海堂が正しいかどうか、私が決める。………いい?今から私が書くのは、海堂に勝つための曲じゃない。あの日死んだ『霧島零』に、引導を渡すための曲よ」
それからの一ヶ月、私たちは文字通り、音楽に狂った。
私は、奏の指の癖、息遣い、彼女が一番綺麗に響かせる音の強さを全て分析し、楽譜に書き換えていった。
右手が動かない私には、もう華やかなメロディは弾けない。
けれど、右手が動かない私だからこそ、奏の右手を世界で一番輝かせる「究極の土台」になれる。
練習中、動かない右手が疼くたび、私はそれを左手で押さえつけた。
奏がミスをするたび、私は彼女を叱咤した。
「奏、今の音じゃ海堂には届かない。……もっと、私を信じて。あんたの右手は、私の三年間を全部背負ってるのよ」
そして迎えた、ショパン国際ピアノコンクール。
三年間、私が階段から転げ落ちた、あの忌まわしきホール。
舞台袖の空気は、あの日のように冷たい。
出番を待つ私達の前に、演奏を終えたばかりの海堂が姿を現した。彼の指先からは、まだ完璧な技術の余韻が漂っている。
「……無駄な足掻きを。君の左手が、その子の未熟さを補いきれるはずがない」
海堂の言葉を背中で聞きながら、私は奏の手を引いて、眩い光の差すステージへと歩き出した。
「………奏。これが最後よ」
私は彼女の耳元で、静かに囁いた。
「私の三年間を、全部あんたにあげる」
拍手の渦を割って近づいてきたのは、見紛うはずのない顔だった。
かつてどのコンクールでも私の後ろに甘んじ、私の背中を呪うように見つめていた少年――今は、若手ピアニストの旗手として名を馳せる、海堂だ。
海堂は、隣で怯える奏を一瞥もしないまま、冷たい言葉を投げつける。
「そんな『二番手』の女の子に寄りかかって、欠けた部分を補い合う……。君がやっているのは音楽じゃない。傷の舐め合いだ」
「……言い過ぎよ、海堂」
私が前に出ようとすると、奏が私の袖を強く握った。彼女の指は、ステージの熱気が嘘のように震えている。
「霧島。一ヶ月後の『ショパン国際ピアノコンクール』、君も招待されているはずだ。……もし、まだピアニストを名乗るプライドが欠片でも残っているなら、そこに来い。その不格好な連弾が、ただの『思い出作り』ではないと証明してみせろ」
文化祭の熱狂は、海堂の冷徹な一言で、まるで氷水をかけられたように引いていった。
部室に戻る道すがら、奏は一度も口を開かなかった。繋いだ手から伝わってくる彼女の体温は、さっきまでのステージの熱が嘘のように冷え切っている。
「……零。私、やっぱり………」
部室のドアを閉めた瞬間、奏の声が震えた。
「……海堂君の言う通りだよ。…私は、零の隣にふさわしくない。私のせいで、零が『安くなった』なんて言われるの、耐えられない………っ!」
奏では変えていた。自分を庇って右手を失った私を、さらに自分の不甲斐なさで汚してしまっている。そんな罪悪感に、彼女はまた押し潰されようとしていた。
私は、海堂の顔を思い出していた。
三年前のあの日、病院の廊下で私とすれ違った時の彼の目。同情なんて一ミリもなかった。「これで邪魔者が消えた」と言わんばかりの、純枠で残酷な、勝利者の目。
かつての私も、あんな風に「勝敗」と「完璧」だけが世界のすべてだと思っていた。
「奏、座って」
私は彼女の肩を掴み、ピアノの前に無理やり座らせた。
「海堂が正しいかどうか、私が決める。………いい?今から私が書くのは、海堂に勝つための曲じゃない。あの日死んだ『霧島零』に、引導を渡すための曲よ」
それからの一ヶ月、私たちは文字通り、音楽に狂った。
私は、奏の指の癖、息遣い、彼女が一番綺麗に響かせる音の強さを全て分析し、楽譜に書き換えていった。
右手が動かない私には、もう華やかなメロディは弾けない。
けれど、右手が動かない私だからこそ、奏の右手を世界で一番輝かせる「究極の土台」になれる。
練習中、動かない右手が疼くたび、私はそれを左手で押さえつけた。
奏がミスをするたび、私は彼女を叱咤した。
「奏、今の音じゃ海堂には届かない。……もっと、私を信じて。あんたの右手は、私の三年間を全部背負ってるのよ」
そして迎えた、ショパン国際ピアノコンクール。
三年間、私が階段から転げ落ちた、あの忌まわしきホール。
舞台袖の空気は、あの日のように冷たい。
出番を待つ私達の前に、演奏を終えたばかりの海堂が姿を現した。彼の指先からは、まだ完璧な技術の余韻が漂っている。
「……無駄な足掻きを。君の左手が、その子の未熟さを補いきれるはずがない」
海堂の言葉を背中で聞きながら、私は奏の手を引いて、眩い光の差すステージへと歩き出した。
「………奏。これが最後よ」
私は彼女の耳元で、静かに囁いた。
「私の三年間を、全部あんたにあげる」



