半分のピアニスト

「……奏、ここの和音、指が届かないなら変えていいわ。その代わり、私が下のオクターブで厚みを出すから」
放課後の音楽室。西日が差し込む中、私は真っ白な五線譜にペンを走らせていた。

奏が持ってきた『左手のための楽譜』は、熱意こそ凄まじかったが、作曲のセオリーとしては穴だらけだった。私はかつての天才としての知識を総動員して、その曲を解体し、再構築していった。

右手が動かない私。
技術が追いつかない奏。

足りないもの同士が、どうすれば一つの完璧な円になれるのか。それを考える時間は、かつて一人で頂点を目指していた時よりも、ずっと刺激的で、苦しくて、……そして、温かかった。
「ねえ、零。これ、本当に文化祭で弾くの?」
奏が不安そうに、書き直された複雑な譜面を見つめる。
「当たり前でしょ。あんた、あんなにストーカーみたいに追い回しておいて、今さら逃げるなんて許さないわよ」
「逃げないけど!でも、みんなびっくりするかな。………零が、また弾くんだもん」

文化祭当日。体育館には、使い古されたグランドピアノが置かれていた。
バスケットボールのゴールがぶら下がり、床からはワックスの匂いがする。かつて私が立っていた、静謐なコンサートホールとは程遠い、騒がしくて安っぽいステージ。

出番を待つ間、クラスメイトたちの話し声が聞こえてくる。
「次、霧島さんが出るんだって?」「あの、手が動かなくなったっていう………」「可哀想だよね、あんなに凄かったのに」
同情と好奇の視線。
私は膝の上で、動かない右手をぎゅっと握った。以前なら、この視線に耐えきれずに逃げ出していただろう。けれど、
「………零、手が震えてる」
隣で、奏が私の左手をそっと握りしめた。彼女の手は、私よりもずっと熱くて、小刻みに震えていた。
「……あんたが震えてどうするのよ」
「だって、楽しみなんだもん。世界で一番かっこいい零の音を、みんなに自慢できるのが」
奏が笑った。その笑顔に、私の心の中が「欠落」が、すとんと埋まったような気がした。

「行くわよ、奏。……主役は、あんたなんだから」
私がそう告げると、奏は驚いたように目を見開き、それから弾けるような笑顔で「うん!」と頷いた。
私達は、喧騒の渦巻く校庭のど真ん中、真っ白な野外特設ステージへと足を踏み出した。
九月の午後の日差しは、容赦なくステージを焼き、焼きそばやわたあめの甘い匂いが風に乗って鼻をくすぐる。およそクラシック音楽には不似合いな、雑多で、騒がしくて、生命力に溢れた場所。
ステージ中央に置かれたグランドピアノの前に座ると、観客の視線が一斉に突き刺さった。
「あれ、霧島零じゃない?」「右手、動かないって本当なのかな」
たくさんの人の声が上がる。

「……奏、始めるわよ」
「いつでもいいよ、零」
私は、左手だけで鍵盤に触れた。
私の左手が、深く、地を這うような重低音を打ち鳴らした。
一音、一音。野外の広大な空間に、祈りのような旋律を置いていく。最初は、震えるような孤独な調べ、観客は確信しただろう。かつての「神童」は、もう一人のピアニストとして死んだのだ、と。

けれど、次の瞬間。
となりの奏の指が、鍵盤の上を爆発するように駆け抜けた。
「……っ!」
奏のメロディは、不器用で、荒削りで、けれど誰よりも自由だ。
私の重厚な左手伴奏が、彼女の細い旋律を空高くへと押し上げる。風が吹くたびに音が乱れそうになるが、私がリズムを強く刻み、彼女の航路(メロディ)を力強く支え続ける。
完璧だった頃の私には、絶対に出せなかった音。
右手が使えないからこそ、私は彼女に主役を譲り、彼女のためにすべてを尽くす。欠けている二人が補い合い、一つの巨大な「音楽」になって空へ昇っていく。

いつの間にか、風が止んでいた。
校庭にいた誰もが、箸を止め、お喋りをやめ、ステージ上の二人を呆然と見上げていた。
奏の熱が、鍵盤を伝って私の指先に流れ込んでくる。汗が頬を伝い、視界が滲む。
右手が動かない絶望も、彼女を避けていた孤独も、すべてがこの青空の下で、透明な音の粒になって霧散していく。

最後の音が、秋の澄んだ空へと吸い込まれるように消えた。

一泊の静寂。
そして、校舎全体を揺らすような、地鳴りのような拍手が沸き起こった。

「やった……やったよ、零!」
奏が、ピアノから立ち上がって私の手を握った。
見上げれば、雲ひとつない青空。私は生まれて初めて、自分の「今」を、そして「隣に誰かがいること」を誇らしく思えた。

けれど、その拍手の渦の向こう側。
校門の近く、人混みに紛れることなく、氷のような視線でこちらを射抜く「男」が立っていた。