左手で弾いた一音の余韻が消えると、音楽室は、刺すような沈黙に包まれた。
私は逃げるようにピアノから立ち上がろうとしたが、それよりも速く、奏が私の制服の袖を掴んだ。
「……離して。今のは、…ただの気まぐれよ」
「気まぐれでもいい!零、今の音、聴いた?私のバラバラな音が、一瞬で『音楽』になったんだよ!」
「やめてよ!」
私は奏の手を振り払った。かつて自分を庇ってくれた、無傷の、美しい彼女の手。
「……あんたが一番よく知ってるでしょ。私の右手は、もうあの曲を弾けない。あの日のステージで、私たちの未来は終わったの。これ以上、……私を惨めにさせないで」
奏の瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
まただ。この顔だ。私を見るたび、自分を責めて、謝罪の言葉を探す顔。
けれど、今日の奏は、そこから一歩も引かなかった。
「……終わってない。終わらせたのは、零でしょ」
震える声で、彼女は言った。
「あの日から三年間、私はずっと一人で弾いてきた、でもね、どんなに練習しても、どんなに偉い先生に教わっても、私の隣には誰もいないの。……私のピアノには、零の音が足りないんだよ!」
「私はもう弾けないって言ってるでしょ!指が動かないのよ!私に代わる誰かを探せばいいじゃない!」
「零の代わりなんているわけがない!私の隣には零しか入れないの!零の指が動かないなら、私が動く!零の右手の代わりに、私がメロディを全部弾く!」
奏は、譜面台にある『はじめてのデュエット』を乱暴に床へ落とし、鞄から別の、真っ白な五線譜を取り出した。そこには、殴り書きのような筆跡で、複雑な音符が並んでいた。
「これ……」
「三年間、ずっと書いてたの。右手が使えない零のための、左手だけの伴奏。それに合わせて、私が二倍動いて、二倍難しい旋律を弾く。……これは、零にしか完成させられない曲なの!」
差し出された楽譜を見る。
そこには、私の動かない右手を、優しく、そして力強く包み込むような構成が記されていた。奏の拙い技術では、到底弾きこなせないほどの難曲。
彼女はこの三年間、私に謝るためではなく、私ともう一度隣に座るためだけに、血の滲むような思いでピアノを続けてきたのだ。
「………馬鹿じゃないの」
視界が、不意に歪んだ。
自分の不遇を呪い、彼女から逃げることで守っていたのは、彼女の心ではなく、私の薄っぺらなプライドだけだった。
「こんな難曲、今のあんたに弾けるわけないじゃない」
「だから!零が教えてよ。私の、最高の相棒(先生)でしょ?」
奏が鼻をすすりながら、満面の笑みで鍵盤を叩いた。
「……本気で言ってるの?」
「うん。零の左手さえあれば、私はどこまででも――」
「ふざけないでよ!」
私は、その楽譜を譜面台から叩き落とした。
真っ白な紙が、雪のように音楽室の床に散らばる。奏が、息を呑んで硬直した。
「あんたは、そうやって一生、私に償い続けるつもり?奏を庇ったあの日のことを、一音弾くたびに思い出しながらピアノを弾くの?」
「そんな、違うよ、私はただ………!」
「同じよ!私はこんな『同情の楽譜』なんて欲しくない。右手が動かない現実を、隣で突き付けられるためにピアノを再開するほど、私はお人好しじゃないわ」
叫んだ言葉が、冷たい音楽室に反響する。
奏での瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。けれど、彼女は床に散った楽譜を、一枚一枚、這いつくばるようにして拾い集めた。
「・・・・・同情じゃないよ」
床にかがんだまま、奏が絞り出すように言った。
「私は、ただ、寂しかっただけなの。あの日から、私の世界にはメロディしかなくなった。零の、あの重たくて、誰よりも優しい高音が鳴らないピアノなんて、ただの騒音にしか聞こえなかったんだよ………」
奏では、拾い集めた楽譜を、抱きしめるように胸に当てた。
「今日は帰るね。……でも、この楽譜はここに置いていくから」
彼女が去った後の音楽室には、死んだような静寂が戻って来た。
私は、譜面台に置き去りにされた楽譜を、忌々しく睨みつける。
――弾けるわけない。
――こんなの、二人で弾いたら………、また、音楽を好きになってしまうじゃない。
私は、動かない右手を強く握りしめた。
爪が掌に食い込んで痛い。その痛みが、今の私に許された唯一の感覚だった。
私は逃げるようにピアノから立ち上がろうとしたが、それよりも速く、奏が私の制服の袖を掴んだ。
「……離して。今のは、…ただの気まぐれよ」
「気まぐれでもいい!零、今の音、聴いた?私のバラバラな音が、一瞬で『音楽』になったんだよ!」
「やめてよ!」
私は奏の手を振り払った。かつて自分を庇ってくれた、無傷の、美しい彼女の手。
「……あんたが一番よく知ってるでしょ。私の右手は、もうあの曲を弾けない。あの日のステージで、私たちの未来は終わったの。これ以上、……私を惨めにさせないで」
奏の瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
まただ。この顔だ。私を見るたび、自分を責めて、謝罪の言葉を探す顔。
けれど、今日の奏は、そこから一歩も引かなかった。
「……終わってない。終わらせたのは、零でしょ」
震える声で、彼女は言った。
「あの日から三年間、私はずっと一人で弾いてきた、でもね、どんなに練習しても、どんなに偉い先生に教わっても、私の隣には誰もいないの。……私のピアノには、零の音が足りないんだよ!」
「私はもう弾けないって言ってるでしょ!指が動かないのよ!私に代わる誰かを探せばいいじゃない!」
「零の代わりなんているわけがない!私の隣には零しか入れないの!零の指が動かないなら、私が動く!零の右手の代わりに、私がメロディを全部弾く!」
奏は、譜面台にある『はじめてのデュエット』を乱暴に床へ落とし、鞄から別の、真っ白な五線譜を取り出した。そこには、殴り書きのような筆跡で、複雑な音符が並んでいた。
「これ……」
「三年間、ずっと書いてたの。右手が使えない零のための、左手だけの伴奏。それに合わせて、私が二倍動いて、二倍難しい旋律を弾く。……これは、零にしか完成させられない曲なの!」
差し出された楽譜を見る。
そこには、私の動かない右手を、優しく、そして力強く包み込むような構成が記されていた。奏の拙い技術では、到底弾きこなせないほどの難曲。
彼女はこの三年間、私に謝るためではなく、私ともう一度隣に座るためだけに、血の滲むような思いでピアノを続けてきたのだ。
「………馬鹿じゃないの」
視界が、不意に歪んだ。
自分の不遇を呪い、彼女から逃げることで守っていたのは、彼女の心ではなく、私の薄っぺらなプライドだけだった。
「こんな難曲、今のあんたに弾けるわけないじゃない」
「だから!零が教えてよ。私の、最高の相棒(先生)でしょ?」
奏が鼻をすすりながら、満面の笑みで鍵盤を叩いた。
「……本気で言ってるの?」
「うん。零の左手さえあれば、私はどこまででも――」
「ふざけないでよ!」
私は、その楽譜を譜面台から叩き落とした。
真っ白な紙が、雪のように音楽室の床に散らばる。奏が、息を呑んで硬直した。
「あんたは、そうやって一生、私に償い続けるつもり?奏を庇ったあの日のことを、一音弾くたびに思い出しながらピアノを弾くの?」
「そんな、違うよ、私はただ………!」
「同じよ!私はこんな『同情の楽譜』なんて欲しくない。右手が動かない現実を、隣で突き付けられるためにピアノを再開するほど、私はお人好しじゃないわ」
叫んだ言葉が、冷たい音楽室に反響する。
奏での瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。けれど、彼女は床に散った楽譜を、一枚一枚、這いつくばるようにして拾い集めた。
「・・・・・同情じゃないよ」
床にかがんだまま、奏が絞り出すように言った。
「私は、ただ、寂しかっただけなの。あの日から、私の世界にはメロディしかなくなった。零の、あの重たくて、誰よりも優しい高音が鳴らないピアノなんて、ただの騒音にしか聞こえなかったんだよ………」
奏では、拾い集めた楽譜を、抱きしめるように胸に当てた。
「今日は帰るね。……でも、この楽譜はここに置いていくから」
彼女が去った後の音楽室には、死んだような静寂が戻って来た。
私は、譜面台に置き去りにされた楽譜を、忌々しく睨みつける。
――弾けるわけない。
――こんなの、二人で弾いたら………、また、音楽を好きになってしまうじゃない。
私は、動かない右手を強く握りしめた。
爪が掌に食い込んで痛い。その痛みが、今の私に許された唯一の感覚だった。



