半分のピアニスト

左手の指先に残る微かな痺れが、私の脳の奥底に眠っていた記憶の蓋を、無理やりこじ開けていく。
目を閉じれば、今でも鮮明に蘇る。あの日の、異常なまでに澄み渡った冬の空と、喉に刺さるような冷たい空気。

三年前の冬。私は、中学最後の全国コンクールの舞台に立とうとしていた。
「零なら、絶対大丈夫。だって、私の自慢の相棒なんだから」
舞台袖で、奏が私の背中を力一杯叩いた。痛いほどの熱が、緊張で凍り付いていた私の体を溶かした。
あの頃、私たちは無敵だった。私は旋律を、彼女は伴奏を。二人の呼吸が重なれば、どんな難曲も光を帯びて、聴衆を虜にできた。

出番の直前。
「あっ…………!」
小さな声と一緒に、奏の体が宙に浮く。ステージへ続く階段で、奏が足を踏み外した。
その時、私は奏を見捨てればよかったのだろうか。そんなことを考える暇もなく、私の体が動いた。
たいした階段ではなかったけれど、咄嗟に奏を抱きしめていた。奏の代わりに、無防備な体で地面へと叩きつけられた。
そんな中、咄嗟に庇ったのは、奏と、…ピアニストの命である「手」だった。
鈍い音が、静かなホールに響く。
右手に走ったのは、これまでの人生で一度も経験したことのない、鋭利な衝撃だった。

「……れい?……零!…零!」

私に抱きしめられた奏が、顔を真っ青にして叫んでいる。
彼女の無事を確かめようとして、自分の右手を動かそうとした。
けれど、指先には感覚がなかった。ただ、赤黒く腫れあがっていく手首が、私の視界の中で現実味を失って揺れている。

手術を経て、リハビリを重ねても、私の右手に「神童」の輝きが戻ることは、……なかった。
複雑な和音を掴もうとすれば激痛が走り、細かなトリルは途中で指が止まる。
医者は、「奇跡的な回復だ」と笑った。日常生活に問題はない。けれど、私にとって「ピアノが弾けない右手」は、動かない石ころと同じだった。

何より耐えられなかったのは、奏の顔を見ることだ。
お見舞いに来るたびに、彼女は泣いた。
「私のせいだ」「私が代わればよかったのに」
謝罪を繰り返す彼女を見るたびに、私の右手は呪いのように疼いた。
奏を助けたことに、後悔なんて一ミリもない。それでも、彼女の瞳に映る「可哀想な私」を見るのが、死ぬほど苦しかった。

だから私は、彼女から逃げた。
彼女のピアノを、彼女の未来を守るために捨てたこの右手。
それを持ったまま彼女の隣に座ることは、彼女に一生の十字架を背負わせ続けることだと思ったから。