「ね、ね!早く連弾しよ!」
「…ちょ、……!………もう……弾けないの………!」
私の右腕はもう、動かない。弾きたくても、もう、弾けない。…いや、もう、弾こうと思わない。
「だからなに?あんたは左手だけでもいけるでしょ?あんたの左手があれば十分!」
奏では、本当に、無茶なことをいう。…私は、夢を諦めたんだ。……もう、今までと同じように、……ううん、今までの半分以下も弾けない。
「……帰って、奏。私はもう、あんたが知ってる零じゃない」
「知ってるよ。今は、ただの偏屈の逃亡者でしょ」
奏は悪びれる様子もなく、私の隣にずいっと腰を下ろした。連弾用の長い椅子が、彼女の重みでわずかに沈む。鼻をつくのは、夏の終わりの汗のにおいと、微かな制汗剤の香り。
「逃げてないわ。やめだけよ。合理的判断って言って」
「嘘。指、動いてたもん。扉の外で見てたよ、零、ピアノの鍵盤をなでるみたいに、ずっとリズム刻んでた」
心臓が跳ねた。見られていた。捨て去ったはずの未練を、一番見られたくない相手に暴かれた。
「ね?弾こ!」
無邪気な笑顔で、私の瞳を見つめる奏の瞳は、何が何でも私をピアノの前に連れて行くという決意で滲んでいた。
翌日から、奏の「ストーカー作戦」が始まった。
休み時間になれば、私のクラスの窓際に現れ、昼休みには購買のパンを両手に抱えて私を待ち伏せした。
「零、これ新作のパン!半分こする代わりに一曲弾いて!」
「………計算が合わないわよ。あっち行って」
かつて全日本コンクールを制し、特待生として期待されていた私の変わり果てた姿に、周囲は好奇の目を向ける。けれど、奏だけは昔と変わらない。私は「神童」と呼ばれていようが、右手が動かない「元・天才」だろうが、彼女にとっては「連弾の相棒」でしかないのだ。
その日の放課後。またしても旧校舎の音楽室に逃げ込んだ私を、奏は逃さなかった。
彼女がカバンから取り出したのは、一冊のボロボロの楽譜だった。
「これ、覚えてる?」
表紙を見た瞬間、喉の奥が熱くなった。
『はじめてのデュエット』
まだ小学生だった頃、発表会で二人が初めて合わせた曲だ。今の私達にはあまりに幼く、単純なメロディ。
「…今の私に、何を期待してるの。右手が動かない私に、何が弾けるっていうのよ」
震える声を絞り出す。奏は、その楽譜を譜面台に置くと、真っ直ぐに私を見た。
「天才の演奏なんて求めてない。私は、零の隣で鳴る音が聞きたいだけ。……いい?私はメロディを弾く。零は、この低いドを支えて。左手だけでいいから」
奏が鍵盤に指を置く。たどたどしく、けれど迷いのない旋律が始まった。
あまりに拙い音だ。リズムは走り、強弱もめちゃくちゃ。かつての私なら、一秒と耐えられずに蓋を閉じていただろう。
……けれど。
その音が、私の心の奥に溜まった淀みを、少しずつ掻き回していく。
隣で楽しそうに体を揺らす奏。彼女の指が、かつて二人で夢中で弾いた、あの夏の匂いを連れてくる。
――うるさい。本当に、うるさい太陽。
「……そこ、フラットよ」
我慢できずに、私の左手が動いた。
最低音の『ド』。
深く、重く、祈るような一音が、奏の頼りないメロディの底を支えた。
音が重なった瞬間、奏が弾くのを止めた。
静寂の中、震える残響だけが二人の間に残る。
「………弾いた」
奏が、泣きそうな、それでいて満開の花のような笑顔で私を見た。
「零、…、今、一緒に弾いたよ!」
私は慌てて手を引っ込めた。けれど、左手の指先に残る鍵盤の冷たさと、微かな振動は、消えてくれなかった。
止まっていた時計の針が、重苦しい音を立てて、一刻みだけ動いた。
「…ちょ、……!………もう……弾けないの………!」
私の右腕はもう、動かない。弾きたくても、もう、弾けない。…いや、もう、弾こうと思わない。
「だからなに?あんたは左手だけでもいけるでしょ?あんたの左手があれば十分!」
奏では、本当に、無茶なことをいう。…私は、夢を諦めたんだ。……もう、今までと同じように、……ううん、今までの半分以下も弾けない。
「……帰って、奏。私はもう、あんたが知ってる零じゃない」
「知ってるよ。今は、ただの偏屈の逃亡者でしょ」
奏は悪びれる様子もなく、私の隣にずいっと腰を下ろした。連弾用の長い椅子が、彼女の重みでわずかに沈む。鼻をつくのは、夏の終わりの汗のにおいと、微かな制汗剤の香り。
「逃げてないわ。やめだけよ。合理的判断って言って」
「嘘。指、動いてたもん。扉の外で見てたよ、零、ピアノの鍵盤をなでるみたいに、ずっとリズム刻んでた」
心臓が跳ねた。見られていた。捨て去ったはずの未練を、一番見られたくない相手に暴かれた。
「ね?弾こ!」
無邪気な笑顔で、私の瞳を見つめる奏の瞳は、何が何でも私をピアノの前に連れて行くという決意で滲んでいた。
翌日から、奏の「ストーカー作戦」が始まった。
休み時間になれば、私のクラスの窓際に現れ、昼休みには購買のパンを両手に抱えて私を待ち伏せした。
「零、これ新作のパン!半分こする代わりに一曲弾いて!」
「………計算が合わないわよ。あっち行って」
かつて全日本コンクールを制し、特待生として期待されていた私の変わり果てた姿に、周囲は好奇の目を向ける。けれど、奏だけは昔と変わらない。私は「神童」と呼ばれていようが、右手が動かない「元・天才」だろうが、彼女にとっては「連弾の相棒」でしかないのだ。
その日の放課後。またしても旧校舎の音楽室に逃げ込んだ私を、奏は逃さなかった。
彼女がカバンから取り出したのは、一冊のボロボロの楽譜だった。
「これ、覚えてる?」
表紙を見た瞬間、喉の奥が熱くなった。
『はじめてのデュエット』
まだ小学生だった頃、発表会で二人が初めて合わせた曲だ。今の私達にはあまりに幼く、単純なメロディ。
「…今の私に、何を期待してるの。右手が動かない私に、何が弾けるっていうのよ」
震える声を絞り出す。奏は、その楽譜を譜面台に置くと、真っ直ぐに私を見た。
「天才の演奏なんて求めてない。私は、零の隣で鳴る音が聞きたいだけ。……いい?私はメロディを弾く。零は、この低いドを支えて。左手だけでいいから」
奏が鍵盤に指を置く。たどたどしく、けれど迷いのない旋律が始まった。
あまりに拙い音だ。リズムは走り、強弱もめちゃくちゃ。かつての私なら、一秒と耐えられずに蓋を閉じていただろう。
……けれど。
その音が、私の心の奥に溜まった淀みを、少しずつ掻き回していく。
隣で楽しそうに体を揺らす奏。彼女の指が、かつて二人で夢中で弾いた、あの夏の匂いを連れてくる。
――うるさい。本当に、うるさい太陽。
「……そこ、フラットよ」
我慢できずに、私の左手が動いた。
最低音の『ド』。
深く、重く、祈るような一音が、奏の頼りないメロディの底を支えた。
音が重なった瞬間、奏が弾くのを止めた。
静寂の中、震える残響だけが二人の間に残る。
「………弾いた」
奏が、泣きそうな、それでいて満開の花のような笑顔で私を見た。
「零、…、今、一緒に弾いたよ!」
私は慌てて手を引っ込めた。けれど、左手の指先に残る鍵盤の冷たさと、微かな振動は、消えてくれなかった。
止まっていた時計の針が、重苦しい音を立てて、一刻みだけ動いた。



