好きの、その先へ


 カフェを出ると、夕方の光がやわらかく街を包んでいた。
 昼間のにぎやかさが少し落ち着いて、影が長く伸びている。

「一個お願い聞いてくれる?」

「いいよ」

「ぎゅーしてくれる?」

 一瞬、彼は目を丸くして、それから優しく笑った。

「それくらい、全然するよ」

 両手が開かれる。
 その胸に、迷わず飛び込んだ。

 スーツの生地の感触。
 懐かしい匂い。
 あたたかい体温。

 一瞬でいままでの記憶が体に戻ってくる。

「だいすき」

 耳元で小さく呟く。

「うれしい、ありがとう」

 わかってた。
 返ってこないことくらい。

 それでもよかった。

 でも、つぎの瞬間、

「あー、俺もだいすきって言いてー!」

 小さいけど、たしかに聞こえた。
 
 思わず彼から離れて顔を見る。

「好きなんでしょ! じゃあ言ってよ!」

 たぶん、自分からフッておいてそんなこと言えないとか葛藤があるんだろうけど。
 そんなことは知らない。

 彼は困ったように笑って、観念したように優しく言った。

「俺もだいすき」

 世界が、ぱあっと明るくなった。



「じゃあ、またね!」

「うん」

 背を向けて、一歩踏み出した、その瞬間。

「やっぱ、まって」

 次の瞬間、後ろからぎゅっと抱きしめられていた。
 スーツ越しの腕が、驚くほど強くて、あたたかい。

 思わず息が止まる。

 背中に彼の鼓動が伝わる。
 トクン、トクン、とはやいリズム。
 わたしだけじゃなかったんだ、とその速さでわかる。

「ごめん、ちょっとだけ」

 泣きそうな声が、肩口に落ちた。

 
 そのまま、わたしは目を閉じる。

 ずっと、どうしてわたしばっかこんなにつらいんだろうって思ってた。
 どうしてわたしばっか、こんなにも好きで、こんなにも苦しくて、手放せないんだろうって。

 でも、もしかしたら違ったのかもしれない。

 好きなのに。
 それでも、お互いの将来を想って、別れを選んだ彼のほうが、きっと、ずっと苦しい決断をしていたのかもしれない。

 好きと一緒にいることが、必ずしも同じじゃないって、
 彼は、わたしより先に気づいてしまっていたのかもしれない。

 ジレンマの中で、何度も迷って、何度も考えて、
 それでも出した決断が「別れ」だったのなら

 ――それはきっと、彼なりの答えだったんだと思う。

 言葉はなにもない。
 なのに、この抱きしめられ方だけで、痛いほど伝わってくる。

 ああ、わたし、ちゃんと愛されているんだ。


 腕が離れていく。
 さっきまであった体温が、ゆっくり離れていく。

「じゃあ、今度こそまたね」

 声が震えないように、そっと言う。

「うん、また」


 いつもなら、見えなくなるまで振り返って、手を振っていた。
 でも、今日はもう振り返らない。

 彼が振り返ったかどうかも、わからない。
 わからなくて、いい。

 これは終わりじゃなくて、わたしにとっての区切りだから。

 前を向いて、歩く。

 わたしは、彼と復縁するためにがんばるんじゃない。
 自分の人生を、自分の足で歩くためにがんばる。

 絶対に、弁護士になる。


 そのとき、スマホが小さく鳴った。

 ピコン。

 彼からのメッセージ。

〖袴も髪型もメイクも、全部だれよりもかわいかった。
 卒業式、来てよかったよ〗

 喉の奥が、きゅっと熱くなる。

 しばらく画面を見つめていると、もう一度、通知が鳴った。

〖やっぱり、なんだかんだ俺、らんのこと好きなんだと思う〗

 思わず、ふっと頬がゆるむ。
 涙が出そうなのに、笑ってしまう。

 もし、今日。
 卒業式に来てほしいなんて、勇気を出して言わなかったらきっとわたしたちは、このまま他人になっていた。
 友だちに戻ることもなく、もう一度向き合うこともなく、それぞれの道を、ただ歩いていた。

 数年後。
 もしかしたらお互い、別の人と付き合うかもしれない。
 他のだれかを、好きになるかもしれない。

 それでもいい。

 あなたとの未来の可能性は、もうゼロじゃない。
 それは、今日わたしが勇気を出したから生まれた未来。

 それだけで充分すぎた。

 他のだれかから見たら、曖昧で。
 理解できなくて。
 都合のいい関係に見えるかもしれない。

 それでもいい。

 これは、わたしが悩んで、考えて、自分で選んだ道だから。

 簡単に手に入らないものほど、運命って呼びたくなる。

 遠回りしてもいい。
 回り道してもいい。

 その時間さえ、きっと、わたしたちに必要な時間なんだと思えるから。


「今日のわたし120点だよ」

 春の風の中、まっすぐ前だけを見つめていた。


 いつかまたあなたの隣を歩けますように。