好きの、その先へ


 春の風はまだ少し冷たくて、袴の裾をさらうように揺らしていた。
 会場内では、笑い合うにぎやかな声が響いていた。
 なのに、わたしの耳には、自分の心臓の音しか聞こえなかった。

 スマホが震える。

〖着いたよ。どこおる?〗

 指先が少し震えながら文字を打つ。

〖正面の玄関!
 いっぱいいるからわたしが見つけるよ。服装教えて?〗

 すぐに返ってくる。

〖そっち行くよ。たぶん見つけるのは無理だよ笑〗

 なんで?
 あれだけスーツや袴の人がいるから、私服のほうが逆に目立つ。

 そう思って顔を上げた瞬間、人混みの向こうから、見慣れた歩き方が近づいてきた。


 黒いスーツ。
 短くなった髪。
 一瞬、だれかわからなくて、次の瞬間、息が止まった。

「……久しぶり」

 思ったよりも声が小さかった。

「え! え、なんでスーツ? しかも髪切ってる!」

 彼は少し照れたように笑う。

「卒業式だし、真剣な話聞くなら正装かなって」

 その一言で、胸の奥がぎゅっと掴まれた。

「うれしい!」

「袴かわいいね、カラコンも似合ってる」

「え、気づいてくれた!」

 なんでだろう。
 別れたはずなのに、こうやって会うと、なにも変わってないみたいに話せる。

 悔しいくらい、わたしだけテンションが上がっている。



 近くのカフェに入ると、コーヒーの香りと人の話し声がゆるく混ざり合っていた。
 満席に近い店内はにぎやかなはずなのに、わたしの耳には自分の鼓動しか届いてこない。

 窓際の小さな二人席に向かい合って座る。
 テーブルがやけに近くて、膝がぶつかりそうだった。

 水を飲もうとするグラスを持つ手が、わずかに震えている。

「いやー……緊張で吐きそう」

 無理やり笑って言うと、彼は苦笑いを浮かべた。
 ふと手元を見ると落ち着かない様子だった。

「こっちのセリフやわ、それは」

 そのいつも通りの関西弁が、逆に胸に刺さる。

「最初に言っておくね、泣かんようにがんばる。
 話すから、最後まで口挟まず一旦聞いてほしい」

 彼は姿勢を正して、小さく頷いた。

「……わかった」

 ごくりと唾を飲み込む。
 周りのざわめきが遠のいて、視界の中には彼しかいない。

「わたしね、後悔があるの」

 言いながら、これじゃ伝わらないと思った。

「……うまく言えないんだけど」

 一度、深呼吸して言葉を探す。

「三年間も一緒にいたのに、たぶん、わたし、全然ちゃんと向き合えてなかった」

 彼はなにも言わずに聞いている。

「嫌われるのが怖くて、言いたいこと、ほとんど言えなかった」

「……うん」

 少し笑う。

「いま思うと、なにしてたんだろうって感じなんだけど」

 喉が詰まる。

「でも、それでも」

 一回、言葉が途切れる。
 ちゃんと向き合えなかったことを、後悔していても。

「……それでも、好きだった」

「うん、ありがとう」

 その声が優しくて、胸の奥がきゅっとなる。


「わたし、一人の人のことをこんなに一途に想えるなんて知らなかった。
 直してほしいところも、嫌だなって思うところも正直たくさんあったけど、それを全部越えるくらい好きがあった」

 彼の表情が、少しだけ歪む。

「わたしは、人生でこんなにも好きになれた人と、ただずっと一緒にいたかった。
 お互い好きなら、価値観の相違で別れたくなんてなかった」

 テーブルの木目を見つめながら続ける。

「価値観なんて、環境や時間でいくらでも変わるものだと思ってる。
 だから、“いつか変わるかもしれないこと”を理由に別れを選ばれたのが、正直すごく悲しかった」

 顔を上げると、彼は見たことないくらい辛そうな顔をしていた。
 いまにも泣きそうな目をしている。

 それを見て、はじめて、ちゃんと伝わっているとわかった。

「でもね、それでも、わたしが別れに賛成した理由はちゃんとあって……」

 深く息を吸う。

「ずっと言えなかったけど。
 わたし、将来、弁護士になりたいんだ」

 彼の目がわずかに開く。

「ちゃんとやりたくて。恋愛で一喜一憂しながら届く夢じゃないってわかってたから」

 視線を落とす。

「だから別れたほうがいいって思った」

 声が震える。

「でも、無理だった。
 わたし、あなたがいることで、勉強も、生きることも、がんばれてたんだなって」

 喉が熱い。

「だから、恋人じゃなくていいから、そばにいてほしい。応援してほしいの。
 それがわがままだって、わかってる」

 彼はなにも言わず、ただ息を呑んでいる。

「そしてね」

 覚悟を決める。

「わたしが弁護士になれたら、そのときはもう一度わたしと向き合ってほしいです」

「……ま、じか」

 小さく、驚いた声が漏れる。

「ごめん、わたし諦め悪くて。
 直してほしいことも変わってくれたって言ってくれたけど、たぶんほんとは変われてなかった。
 ずっと素を出せなくて、察してほしいままだった」

「……」

「年上だからリードされるのがあたりまえって思うんじゃなくて、今度こそ対等な関係を築きたい。
 ちゃんと、自分の気持ちを言えるわたしでいたい」

 息を整えながら続ける。

「三年間一緒にいたのに、まだあなたのこと全然知らないって気づいたの。
 だから、もっと知りたいし、あなたが好きなものを、わたしも好きになりたい」

 彼は目を逸らさずにしっかり聞いている。

「いますぐ戻りたいわけじゃない。
 でも、いつかもう一度、同じ未来を歩きたい」

 店内の音が、少しずつ戻ってくる。

「夢が叶って、弁護士になれたら、そこにあなたが隣にいなくても、わたしはちゃんと自分の人生を歩いていけると思う。
 でも、その隣にあなたがいてくれたら、なによりうれしいだけ」

 小さく笑って言う。

「……変わらず、だいすきなんだよね」

 言い終わったあと、しんとした時間が流れた。

 泣かずに、全部言えた。
 自分の言葉で、ちゃんと伝えられた。

 別れてからニ週間考えて出した答えは、復縁でも、友だちに戻りたいでもない。
 未来に可能性を残すという、わたしなりの選択。

 彼はしばらく黙ったあと、ゆっくり口を開いた。

「……正直、重たいと思ったし、びっくりしてる。
 でも、らんの気持ちはちゃんと伝わった。真剣に考えて向き合いたい」

 その言葉に、胸の奥がふわっと軽くなる。

「うん、それでいいよ」

 彼は困ったように笑った。

「縁切るか復縁の二択やと思ってたから、そんな選択肢考えたこともなかった」

 わたしも笑う。

「そーだよね。ごめん。
 でも、これがわたしが、いっぱい悩んで一人で決めた答えなんだ」