好きの、その先へ


 家にいたくなかった。
 眠れなかった。
 なにも食べたくなかった。

 ただ、だれかに話を聞いてほしかった。

 その気持ちだけが、頭の中をぐるぐる回っていた。

 気づけば一日、ゼリーをひとつ。
 睡眠は二時間。
 それなのに、なぜか、朝から夜まで外で遊べる元気があった。

 ――たぶん、どこか壊れていたんだと思う。



結蘭(ゆらん)、急にどうしたの? 勉強忙しいんでしょ?」

 待ち合わせ場所に着いてすぐ、親友の萌奈(もな)が少しだけ困ったように眉を寄せた。
 萌奈は、昔からわたしの違和感によく気づく。
 わたしが毎日、夢のために勉強していたことを知っているからこそ心配してくれているんだろう。

 そういえば、ここ数日、テキストなんて一度も開いていなかった。
 あれほど積み重ねてきた努力が、簡単に抜け落ちていく。
 机の端に積んだ参考書と六法全書がやけに重たく見えた。
 ちゃんとやらなきゃって頭ではわかっているのに、どうしても手が伸びなかった。


「遊びたい気分なの。夜まで付き合って」

「いいけど……なんかあった?」

「ん? 彼氏と別れただけよー」

 できるだけ軽く言ったつもりだった。
 けれど、頬の筋肉が、思ったよりうまく動かない。

「え、なんで?」

「なんでって。ただ、わたしたちが合わなかっただけだよ」

「それでいいの?」

「だからもう終わったって」

 少しだけ、声が強くなる。
 自分を納得させるみたいだった。

 萌奈は、それ以上なにも()かなかった。
 ただ、言葉にしないまま、ずっとこちらを見ていた。



 カラオケのフリータイム。
 喉が痛くなるまで、叫ぶみたいに歌い続けた。

 たのしいのか、ただ必死に誤魔化しているだけなのか、自分でもわからないまま。

 曲が終わるたびに、次々と入れていく。

 萌奈は、わたしの異様な元気さに少し引いていたかもしれない。
 でも、そんなこと気にする余裕はなかった。



 店を出た瞬間、空気が変わった。
 さっきまでの暖かさが嘘みたいに、外は叩きつけるような雨だった。

 アスファルトは黒く沈んでいて、街灯の光が水たまりに滲んでいる。
 

「うわ、やば。めっちゃ雨降ってるね、傘ないなー!
 これからなにしよっかなー!」

 わたしは、わざと明るい声を出す。

「結蘭」

 名前を呼ばれて、少しだけ肩が揺れる。

「……落ち着いて」

「え、なに。全然元気だけど」

「元気じゃないでしょ」

 胸が締め付けられたように痛んだ。
 萌奈が、まっすぐにこっちを見る。
 逃げ場がない、と思った。

「今日ずっと見てたけどさ」

 彼女の声が、少し低くなる。

「それ、笑えてないよ。無理してるじゃん!」

 言われた瞬間、胸の奥がひりつく。
 わかっている言葉ほど、痛い。

「なんで別れたの?」

 わたしは、逃げるみたいに早口で答えた。

「えー、なんか親離れ子離れができてないとか、お互いの家の清潔感が違いすぎるとか。
 はっきり言えば、価値観の違いだよ。よくある話」

 口に出しているのに、どこか他人事みたいだった。

「……結蘭は、もう彼のこと好きじゃないの?」

 一瞬だけ、世界が止まったように感じた。

 雨音だけがやけに多い。
 答えなんてわかっているのに。

「嫌いだよ」

 口にした瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
 そう言った自分が、いちばん信じていなかった。

「もう、好きなわけ……」

 続きが出てこない。
 代わりに呼吸が乱れる。

 苦しい。

 気づいたときには、走り出していた。

 呼び止める声が背中で途切れる。
 雨の中に飛び出した瞬間、視界は白く滲んだ。

 冷たいはずの雨がなぜか肌にあたるたび熱かった。
 息がうまくできない。
 
 涙なのか雨なのか、もうわからなかった。