七人の訳あり王子と、八番目の薬草姫

ベルは手袋を持ち上げた。
内側。掌の当たる部分に、油が均一に塗られている。
王宮の革手袋は乾燥防止のために油を塗る。
そこへ混ぜれば——誰も気づかない。

手袋をはめるたび、少量ずつ皮膚へ移る。
しかも喪の装束なら、使う頻度も高い。

ベルは布の端で内側を拭い、匂いを確かめた。
苦い。
わずかに、舌の根が痺れるような匂い。
昔、母が「薬と毒は遠くから見れば似ている」と言った時のことを、不意に思い出す。

「執事長。手袋を管理している者の名簿を出してください」
「……はい」

執事長の顔が引き締まった。
動揺はもう消えている。今は王宮を守る人間の顔。

「仕立て係、侍従、洗濯係……関わる者は多い」
「多いからこそ、絞れます」
「なぜそう言える」
「全員が触れられるものほど、逆に手順が限られるからです」

ベルは手袋を見下ろしたまま答える。

「油を差す者。保管する者。着替えの時に渡す者。そのどこかです。途中で偶然混ざる量じゃない」
「つまり、意図的だと」
「はい。殿下に触れるものは、今日から全部見直してください。手袋だけじゃ足りません」

その一言で、部屋の静けさがさらに深くなった。
もう疑いようがない。
これは体調不良ではなく、誰かの手によるもの。

ベルは布を畳み、静かに顔を上げた。

「この油は『新しい』。塗り直しが必要なほど新しい。昨日か今日、塗られています」

ルーペルトが机を叩いた。
乾いた衝撃音が、張りつめた空気をさらに尖らせる。

「昨日だと?ここにいたのは俺たちだけだぞ」
「だからこそ、城内の人間です」

ベルがそう言った瞬間、部屋の空気が凍った。
誰もすぐには言葉を返さない。
この場にいる全員が、同じことを思ったのだ。
外から紛れ込んだ敵ではない。王宮の中に、レオンハルトへ手を伸ばせる誰かがいる。

レオンハルトが顔を上げた。
その視線にはもう迷いがなかった。さっきまであった逡巡が、どこかへ消えている。

「解散」

短く、命令だった。

「今日の会合はここまでだ。各自、部屋に戻れ。外部との接触は禁止。手袋係、仕立て係、洗濯係、医師——全員の名簿と当直表を提出させろ」
「兄上」

フロリアンが身を乗り出した。
軽口ではない。確認の声。

「医師も?」
「当然だ。俺の手の荒れを『ただの手荒れ』で済ませた者がいるなら、共犯か無能だ」
「……っ」

冷たい声。
怒鳴っていないのに、室温が一気に下がった気がする。
ルーペルトが口を開きかけ、止めた。
この声には、今は逆らえない。そう悟った顔。

「ジークムント。帳簿だ。仕立てと洗濯の出入りも含めろ」
「承知した」
「執事長。ベルの部屋の出入りを当面制限する。必要な者以外は近づけるな」
「私の部屋?」
「お前が原因を見抜いた。つまり、お前は『邪魔』だ」

ベルは目を瞬いた。
レオンハルトは端的に言う。

「邪魔な者は消される」

言葉だけを拾えば、ぞっとするほど冷たい。
けれど、その中身は護りだった。
真っ先にベルを囲い込む判断をするあたり、この人は弱っていても第一王子なのだと分かる。

人が散っていく。
椅子が引かれ、靴音が遠ざかり、扉が一つずつ閉じていく。
喪布の陰が濃くなり、外の世界が遠のいた。
最後に残ったのは、ベルとレオンハルト、そして机の上の黒い手袋だけだった。

「ベル」

レオンハルトが呼ぶ。
声が少しだけ低い。人がいる時より、わずかに地の響きに近い。

「俺の症状を、他の者に言うな」
「言いません」
「信じる理由は?」
「薬草師は患者の秘密を守ります」
「それだけか」

ベルは少しだけ迷った。
きれいな答えを返すこともできる。
でも、この王子にそれはたぶん響かない。
ここで試されているのは忠誠ではなく、どこまで本当のことを言うかだ。

「……それと、殿下が倒れたら困るからです」

レオンハルトの眉が動く。
侮辱ではない。興味の動きだった。

「困る?」
「この一か月が終わる。王政が終わる。私は森へ帰れなくなる。だから守りたい。自分の居場所を」
「自分のために?」
「はい。まずは」

わずかに間を置いてから、ベルは続けた。

「でも、今は殿下自身にも倒れてほしくないと思っています」

言い終えたあとで、少しだけ喉が乾く。
言いすぎたかもしれないと一瞬思ったが、レオンハルトは笑わなかった。

ベルがそう言うと、レオンハルトは一瞬だけ目を伏せた。
何かを測るような沈黙のあと、静かに顔を上げる。

「利己的だな」
「そうです」
「だが、誠実だ」

その評価が、妙に重い。
王子が誰かを褒める時は、甘さではなく責任が乗る。
軽く受け取ってはいけない類の言葉だと、ベルにも分かった。

「俺も、お前を守る。居場所ごと」

淡々とした声だったのに、ベルの喉が小さく鳴った。
守る、という言葉が、ここまで具体的に感じられたことはない。
森の家で母に守られていた時とも違う。これは庇護ではなく、同じ場に立つ相手へ向ける言葉。

「……殿下」
「香りではなく、手袋だと気づいたのはなぜだ」

問われて、ベルは正直に答えた。

「匂いです。革の油は、普通は甘いだけ。でも殿下の手袋は、苦味が混じっていました。それと——皮膚の荒れ方。擦れじゃない。中から出てる」
「中から、か」
「はい。表面だけ傷んだ手じゃない。内側に入ったものが、皮膚に先に出ています」

レオンハルトの視線が、机の上の黒い手袋へ落ちた。
その沈黙は短かったが、静かな怒りを含んでいた。

レオンハルトは小さく息を吐く。
張りつめていた糸が、ほんの一瞬だけ緩むみたいな吐息。

「今まで、誰にも言わなかった」
「気づかなかったんですか」
「気づいていた」

低い声。
淡々としているのに、その奥には少しだけ苦いものが沈んでいる。

「だが、気づかないふりをした」

その一言が、ベルの胸に刺さった。
王子でいるために、痛みを無視する。
弱さを見せないために、身体を壊す。
そうしなければ立っていられない場所に、この人はずっといたのだ。

ベルは机の上の手袋を見た。
黒い革。上品な縫い目。喪の装束にふさわしい、隙のない仕立て。
そこに、静かな悪意が染みている。
こんな形で人を蝕むものがあることに、腹の奥がじわりと冷えた。

「殿下。今日から、手袋は私が確認します」
「……命令か」
「提案です。殿下が拒否するなら、私はできることが減ります」
「言い方は命令に近いな」
「そう聞こえたなら、きっと急ぐ話なんです」

レオンハルトの目が、ベルの顔に固定された。
試すようでも、威圧するようでもない。
まるで初めて、『対等に言い返してくる相手』を見つけたみたいな目。

「ベル。お前は怖くないのか」

ベルは少し考えた。
怖い、という感情がないわけではない。王子は権力だ。機嫌一つで、部屋の空気も人の運命も変えられる立場にいる。
でも今、目の前にいるのは権力そのものではなかった。
震える手を隠して、誰にも見せずに立ってきた、一人の人間だ。

「怖いより、面倒だと思ってます」
「面倒?」
「殿下は隠すのが上手すぎる。隠しすぎると、助けてもらえなくなります」
「それを俺に言うか」
「言わないと、また隠すでしょう」

レオンハルトは、一瞬だけ唇の端を上げる。
笑った、に近い。
けれどそれは、誰にも見せない種類の緩み。
この人もちゃんと笑えるのだと、そんなことをベルは場違いに思う。

「……変わっているな」
「村では普通です。王宮が変なんです」
「ずいぶんな言い草だ」
「だって本当に変です。具合が悪いのに黙っている人が多すぎます」

レオンハルトは短く息を吐く。
呆れたのか、少しだけ可笑しかったのか、そのどちらとも取れない息だった。