七人の訳あり王子と、八番目の薬草姫

ベルは無意識に一歩引いた。
距離を取らないと、息ができない。
ただの言葉なのに、その音が妙に近かった。
知らないはずのことなのに、身体の方が先に怖がっている。

「……あなた、どこで知った?」
「だから本で」
「本だけで、そこまで言い切るの」
「言い切ってないよ。繋げてるだけ」

カシミールは軽く本を揺らした。
それから、わざとらしく肩を落とす。

「あーあ。ばれちゃった」
「ばれちゃった、って何」
「僕がこの知識を手に入れたってこと」
「それがどうして『ばれた』になるの」
「こういうの、知らないままの方が扱いやすいんだよ。知ってる側だって分かると、みんな急に警戒する」

ベルは眉をひそめる。
カシミールの笑みが戻り、そして、子どもみたいに言う。

「ばれちゃったら、僕には教えてくれないよね?」
「……教えるって何を」
「君の『真名』」

ベルの心臓が跳ねた。
『真名』
さっきまで知らない言葉だったはずなのに、その音だけが、胸の奥のどこかを叩く。
初めて聞いたはずなのに、初めてじゃないみたいに嫌な音がする。

「私にそんなものがあるって、決めつけないで」
「決めつけてない。確認してる」
「確認の仕方が雑です」
「急がないと、君、すぐ逃げるでしょ」
「逃げるに決まってる」

カシミールは言った。

「君が知らない顔をするのも、あり得る。君の母親は伝説の西の魔女だ。記憶改竄くらいできても不思議じゃない」
「母は……」
「君を守るために、ってやつかもね」
「軽く言わないで」

ベルは唇を噛んだ。
その瞬間、胸の奥がひゅっと冷えた。

思い出せない。

その可能性を言葉にされた瞬間、何かが少しだけ噛み合ってしまった。
母は、何かを隠した。ベルを守るために。
隠しただけじゃない。触れられないように、最初から遠ざけたのかもしれない。

ベルは本をカシミールから奪うように取り、頁を一つだけ読んだ。
文字が目に入った瞬間、視界が一度揺れた気がした。

——『真名』は、鍵。
——鍵は、渡すまで眠る。

短い文なのに、妙に嫌だった。
知識として書かれているのに、誰かの未来を決める呪いみたいに見える。

ベルは本を閉じ、返した。

「……もういい」
「よくない」

カシミールがすっと笑みを消す。
その消し方が、初めて見せた本気だった。
軽さを脱いだ顔は、思ったより若くなくて、思ったより怖かった。

「君が『真名』を持ってるなら、君は狙われる。誰が『ただ一人』になるかで、それで王位が決まるなら、力づくに出る人間もいる」

その言葉を消化する前に、カシミールが距離を詰める。
気づいた時にはもう遅く、ベルの両手は頭上へ押し上げられ、背中が書架へ触れていた。
乱暴ではない。けれど、逃がさないための力だと分かる程度には強い。
持っていた本が落ちる音が、やけに大きく響く。

「例えばこんな風に。ね?」
「……」
「だから僕は先に知りたい。君が誰を選ぶのか。君が誰に鍵を渡すのか」

囁くみたいな声。
近いのに、熱はない、それが余計に怖い。

ベルは冷たく言った。

「あなたは、私の『ただ一人』じゃない」
「知ってる」

カシミールは即答した。
望みがないことを承知で、なお聞いている。
諦めた人の声じゃない。

「だから、教えてくれないよね?」
「当然です」
「じゃあ誰?」

カシミールの顔がさらに近くなる。
ベルは動かなかった。
動いたら、奪われる気がした。
力で負けるとか、押し切られるとか、そういうことじゃない。
ここで一歩でも引いたら、相手の問いの中へ呑まれる。
そんな感覚があった。

「……それは、今は教えない」

ベルが言うと、カシミールの目が細くなる。

「今は、ってことは、候補はもういるってことだよね」
「……」
「ねえベル。君が決める前に、君を『決める』やつが出てくるよ」

その言葉が、刃みたいに静かに刺さった。
脅しではなく、脅しの形をした予告に近い。
ベルは息を吸い、ゆっくり吐いた。
怒りではなく、冷静さで返す。

「それでも、私は教えない」

カシミールはふっと笑った。
諦めの笑いではない、面白いものを見つけた子どもの笑い。
まだ壊していない玩具を前にしたみたいな、無邪気で嫌な笑い。

「いいね。そういうの。君ってさ、優しいけど甘くない」
「褒めてないでしょう」
「褒めてるよ。かなり」

カシミールは手を離し、本を拾うと胸に抱えた。
圧が消えた瞬間、ベルはようやく浅く息をつく。
でも、すぐには動かなかった。背中に残る緊張が、まだ抜けない。

「じゃあ、僕は僕で動く。君を守るために……って言ったら、信じる?」
「信じません」
「だよね」

カシミールは軽く手を振り、棚の影へ消えた。
足音まで軽い。
まるで重い話なんて何もしていないみたいに。

ベルはその場に立ち尽くした。
紙の匂いがまだ鼻に残っている。
古い革と、乾いたインクと、知らない知識の冷たさ。
それら全部が、さっきまでよりずっと現実味を帯びていた。

——『真名』。鍵。番。
——ただ一人。

部屋へ戻った夜、ベルは眠れなかった。
月の葉を飲んでも、頭の奥のざわつきが消えない。
自分の知らない自分が、どこかで目を覚まそうとしている。
そんな嫌な感覚だけが、胸の底に残り続ける。

ようやく、うとうとした時——

夢を見た。

森の家。
小さな暖炉。
火のはぜる音。
母の手。薬草の匂い。
幼い自分が膝を抱え、母の指先をじっと見つめている。

「いい?ベル」

母が言う。
その声は今より若く、でも今と同じくらい強い。
柔らかいのに、決して曖昧にはならない声だ。

「名前には、二種類あるの。誰にでも呼ばれる名前と——呼ばせる相手を選ぶ名前」
「えらぶ?」
「そう」

幼いベルの声はあどけない。
それに答える母の目は、優しいのにどこか遠い。
もうその先の未来まで見えている人の目。

母は微笑んで、小さな布袋をベルの手に握らせた。
その布袋は空っぽのはずなのに、なぜか重い。
中身があるんじゃない。
意味だけが先に詰まっているみたいに、持った指へ沈んだ。

「これはね。あなたがいつか選んだ人にだけ、教える名前よ」
「なんで?」
「相手も巻き込むから」

母の目が、少しだけ暗くなる。
暖炉の火が揺れて、その影が頬を細く横切る。

「教えた瞬間から、その人はベルの『ただ一人』になる。だから軽々しく口にしちゃいけない」
「……じゃあ、いまは?」
「今は、忘れなさい」

母はベルの額に指先を当てた。
温かい指。
薬草の匂い。
懐かしいはずなのに、胸の奥がひやりとする。

「忘れていい。必要な時、あなたの『ただ一人』が現れたら、必ず思い出す」

そこで夢が切れると、ベルは飛び起きた。
胸が苦しい。喉が乾いている。夢から抜けたはずなのに、まだ額に置かれた母の指先の温度が残っている気がした。

(思い出した)

名前が、口の奥にある。
形がある。音がある。
たった一度、舌の先へ転がせば出てしまう場所まで来ているのに、ベルはそれを押し戻した。
今ここで口にしたら、何かが決まってしまう。
戻れない形で、自分の人生が一つ先へ進んでしまう。

ベルは枕を抱え、目を閉じ、ゆっくり息を整えた。
その名前を誰にも渡す気はない。少なくとも、今は。
けれど胸の奥の『鍵』は、たしかに目を覚ましていた。
知らないままでいた昨日までには、もう戻れない。