七人の訳あり王子と、八番目の薬草姫

王宮の夜は、音が少ない。
少ない分だけ、異音は鋭く刺さる。

ベルが目を覚ましたのは、遠くで何かが落ちたような乾いた音と、その直後に鼻を突く匂いのせいだった。
焦げ。
木が炭になる前の、甘くて苦い匂い。
寝台の中にいても分かる。火はまだ大きくない。けれど、小さい火ほど気づくのが遅れると厄介だ。

(……火?)

ベルは跳ね起き、寝衣の上に外套を羽織った。
革鞄を掴む。習慣だ。薬草師の習慣は、王宮でも変わらない。
何が起きるか分からない時ほど、手ぶらでは動かない。
扉を開けると、廊下の先が薄く明るい。灯りではない。揺れる橙色。

侍女が駆けていくのが見えた。
顔色を失い、裾をたくし上げる余裕もないまま走っている。

「火事です!厨房で——!」

ベルは息を吸い、廊下を走った。
走ってはいけない場所だと分かっているのに、足が勝手に前へ出る。
角を曲がるたび、焦げの匂いが濃くなり、熱の気配が肌に触れた。
夜の王宮は静かなぶん、騒ぎがひどく浮く。叫び声も足音も、石壁に跳ね返って不穏に響いた。

厨房へ近づくと、人の声が重なっていた。
叫び、命令、泣き声。
扉が開いていて、そこから煙が薄く流れ出している。
黒く立ちこめるほどではない。だが、油の燃える匂いははっきり濃い。

「水を運べ!」
「油が——油が燃えてる!」
「火をあおるな、布をかけろ!」

ベルは入口で立ち止まり、目を細めた。
炎は大きくない。まだ小さい。
だが、小さいほど怖い。風向き次第で一気に走る。
しかも夜だ。人が慌てて動けば、それだけで火の勢いは変わる。

厨房の中央、床に倒れた桶。散った油。
火は油の筋をなぞるように広がっていた。

(……おかしい)

油が燃えるなら、火はもっと塊になって立ち上がる。
熱に押されて、上へ上へと勢いを伸ばすはずなのに。
でも今の炎は違う。
床を這っている。
しかも、油の筋だけを選んで走っているように見えた。

そこへ、低い怒声が落ちた。

「退け!」

人垣が割れる。
長身の男が厨房へ踏み込んできた。肩幅が広く、動きが荒い。
ルーペルトだ。

「誰がやった」

声が、怒りで割れている。
彼の目は炎を見ていない。人を見ている。
火を止めるより先に、犯人を探している目。
ベルはそこで嫌な予感を覚えた。
こういう時、人は火より先に誰かを罪人にしたがる。

下働きの少年が、水桶を抱えたまま立ち尽くしていた。
顔が青い。手が震えている。
まだ年端もいかない。火より、怒鳴られていることの方が恐ろしい顔。
ルーペルトの視線が、まっすぐそこへ刺さった。

「お前か」
「ち、違います……!僕は——」
「違うなら証拠を出せ」

言葉にならない声を発しながら少年が首を振る。
けれどルーペルトが一歩近づく。
少年が後ずさる。足がもつれ、桶の水がこぼれた。
水が油に落ち、炎が嫌な音を立てて跳ねた。

「ばか!」

誰かが叫ぶ。
その瞬間、ルーペルトの怒りがさらに膨らんだ。

「見ろ。火が増えた。お前が——」
「殿下、違います」

ベルは反射的に前へ出た。
声が、自分でも驚くほど冷静に。
ルーペルトが振り向く。鋭い目。怒りの矛先が、今度はベルへ向く。

「口を挟むな」
「口を挟みます。火の前では」

ベルは炎ではなく床を見た。
油の筋が不自然だ。
まるで筆で引いたみたいに細い。途切れ方まで均一に近い。
厨房で桶を倒しただけでは、こんなふうにはならない。
跳ねるし、飛ぶし、もっと乱れる。

油が『撒かれている』。

ベルは鼻をひくつかせた。
焦げの匂いの奥に、別の匂いがある。
酸っぱい。鼻の奥がきゅっと縮む匂い。
酒精——あるいはそれに近い揮発性の何か。
油だけじゃない。火の足を速くするものが混じってる。

「水をかけないで!砂!灰!それか濡れ布を床に広げて、酸素を断って!」
「何だと」
「油火です!水は散ります!広がります!」

ベルが叫ぶと、厨房の端にいた年かさの料理人がはっと顔を上げた。

「灰ならある!竈の横だ!」
「持ってきてください!それと、火の筋の先を先に潰して!」

料理人たちが一斉に動く。
叫び声の質が変わった。混乱ではなく、手順を持った声になる。
ベルはその隙に少年の前へ半歩出た。

「この子じゃない。見て。火は一点からじゃない。床に線がある」
「線だと?」
「誰かが撒いたんです。桶を倒した事故じゃない」

ルーペルトの目が、ようやく人から床へ落ちた。
怒りが消えたわけじゃない。だが向き先が変わる。
それだけで、厨房の空気が少しだけ持ち直した。

濡れ布が床へ投げられ、灰が撒かれる。
炎がじゅっと低く唸り、這うような火の舌が少しずつ潰れていく。
まだ油断はできない。けれど、さっきのまま水を浴びせ続けるよりはずっといい。

ベルはもう一度匂いを嗅ぐ。
焦げ。油。酒精。
そして、その全部の奥に、意図の匂いがした。

これは事故じゃない。
誰かが、燃えるように仕込んだ火。

灰が運ばれ、炎の上へばさりと落ちる。
火の音が小さくなる。床を這っていた炎が、少しずつ息を失っていく。
慌てていた下働きたちも、ようやく自分の手をどこへ向けるべきか分かった顔になった。

それでも、ルーペルトはまだ少年を睨んでいた。
怒りが止まらない。止めどころを失った目。
火そのものより、今は怒りの行き先を欲している。そんな危うさがあった。

「殿下」

ベルは一歩だけ近づいた。
距離を詰めすぎない。怒っている人間に近づくのは危険だ。
けれど、ここで誰も止めなければ、少年は折れる。冤罪が生まれる。
火より先に、人が焼かれる。

「その子が水をこぼしたのは失敗です。でも火の原因ではない」
「何が原因だ」
「油が撒かれてます。桶が倒れただけなら、ここまで細く走らない。誰かが『線』を引いた」

ベルは床を指さした。
灰の下に隠れかけている油の筋。
料理長が目を凝らし、顔色を変える。

「……これは、撒いてる」

その一言が、厨房に落ちた。
ざわめきの質が変わる。
事故ではなく、誰かの手が入っている。そう理解した空気。

ルーペルトの視線が、初めて炎から床へ落ちる。
怒りの焦点が、少しだけずれる。
ベルはその隙を逃さなかった。

「殿下。怒るなら、犯人に怒ってください。今ここで殴る相手は違います」
「殴る?」

ルーペルトの声が低くなる。
怒りが形を変え、そこへ恥が混じる。自分が今どこへ向かっていたか、ようやく理解した目。

「……黙れ」

ルーペルトが吐き捨て、少年から目を逸らした。
少年が大きく息を吐き、膝から力が抜ける。倒れそうになるのを、隣の下働きが慌てて支えた。
あのままあと数秒遅れていたら、この場は火事より別の意味で壊れていたかもしれない。

火はほぼ消え、灰の下でくすぶる小さな赤だけが残る。
ベルは床にしゃがみ、灰を少しだけ払った。
油の匂い。焦げ。
そして、その奥にある酸っぱい匂い。

「これ……厨房の酒じゃない」

ベルが呟くと、料理長が眉をひそめた。

「厨房には葡萄酒と酢があるが……こんな匂いは」
「揮発が早い。火が走りやすい。油に混ぜた」
「酒精か?」
「それに近いものです。もっと癖が強い」

ベルは指先で床を触り、すぐに布で拭った。
べたつきが違う。
油だけの重さじゃない。膜が薄い。広がり方が軽すぎる。
油の上に、別の何かが先に走った痕。

ルーペルトが背後から言う。

「お前、よくそんなものが分かるな」
「薬草師なので」
「何でもそれで済ませるな」
「済むからです」

言い返しながらも、ベルは床から目を離さなかった。
今は言い合っている時間じゃない。匂いは消える。熱も乾きも、証拠を少しずつ削っていく。

ベルが立ち上がると、厨房の外の気配が変わった。
人垣が割れ、黒い外套が現れる。
レオンハルトだった。

「状況は」

声は低く、短い。
視線が一瞬で床、灰、油の筋、倒れた桶、そしてルーペルトの表情まで拾う。
その速さに、周囲の空気が少しだけ引き締まった。
誰が何をしたかではなく、何が起きているかを先に掴む人の目。

料理長が頭を下げる。

「殿下。火は鎮まりましたが、油が撒かれております。事故では……」
「そうか」

レオンハルトはルーペルトを見る。

「ルーペルト。お前は何をしていた」
「……犯人を探してた」
「少年に刃を向けてか」

レオンハルトの言葉は断定だった。
ルーペルトが歯を食いしばる。反発の前に、悔しさが見える。
図星を刺された時の顔。

「……違う」
「違わない。ベルが止めた」
「っ……」

ルーペルトは何も返せなかった。
その沈黙だけで十分だった。