七人の訳あり王子と、八番目の薬草姫

「分かっている。だからお前は厄介だ」

短い言葉は相変わらず冷たい。
それなのに、その響きには安堵が混じっていた。
厄介だと言いながら、ようやく話の通じる相手を見つけた人の声。

そこへ再び足音が近づいた。
速いが、走ってはいない。王宮らしい抑えた慌ただしさ。
扉が叩かれ、執事長が戻ってくる。腕には革表紙の台帳と、封印された布袋。
後ろには怯えた顔の侍女が二人、紙束を抱えて立っていた。紙が多すぎて指先が少し震えている。

「ベル様、殿下。名簿と当直表、ならびに保護油の管理台帳です」

机の上に広げられた紙には、細かな名前が並んでいる。
役職、担当、当直時間、受け渡しの印。
整然としているのに、今はどの文字も信用しきれない。
ベルは一瞥し、すぐに要点だけを拾う。
全部を読む必要はない。まずは、手が届く場所を見つければいい。

「手袋係は?」
「侍従付きが二名。主担当はラウル、副担当はエミールです」
「仕立て係は?」
「外注職人が三名、王宮内の縫製係が二名」
「洗濯係は?」
「責任者はマルタ。部屋付きの者が数名、喪装束の洗いは別班です」

ベルは『別班』という言葉に反応した。
王宮は機能が細分化されている。責任は薄まり、悪意は隠れる。
誰か一人が全部を知っているわけではない。だからこそ、誰か一人が手を加えても、流れの中に埋もれてしまう。

「保護油の壺はどこに?」

執事長が台帳を開き、指で示した。

「香料庫の管理品です。革用、木工用、金属用で分けています。革用は刻印が『L』」
「持ち出し記録は?」
「ここに」

ベルは台帳の該当頁を覗き込んだ。
昨日の日付。持ち出しの欄。署名。返却の欄。
文字だけを追うのではなく、流れを見る。
誰が、いつ、何の理由で、どれだけ自然に持ち出したことになっているのか。

「……ベル」

レオンハルトの声が少し硬い。
ベルは顔を上げた。

「昨日、革用保護油が一度持ち出されています。返却も同日……でも署名が——」

そこでベルは指先を止めた。
ただ名前が違う、という意味ではない。
同じ名前のように見せているのに、筆の動きが違う。

ベルは署名の癖を見る。
村の人の署名なら読めなくても構わない。読めることより、そこに本人が書いた実感があるかの方が大事だ。
だが、王宮の署名は違う。役目として書き慣れているぶん、癖が濃く出る。
筆圧。角度。終わりの跳ね。躊躇いの有無。
同じ名前でも、書く人間が違えば、そこに残るためらいが違う。

「これ、同じ人が書いてない」

レオンハルトの目が細くなる。
さっきまでの不調を押し込めるように、思考だけが鋭くなる顔。

「偽装か」
「可能性は高いです。あと、返却の時刻が変です。夜遅すぎる。喪儀の準備で忙しいのに、誰が油壺を戻すためだけに香料庫へ行くのか」
「ついでではなく、返却だけが目的だと?」
「そう見えます。少なくとも、急ぎで使った人の動きじゃない」

執事長が顔を強張らせた。

「香料庫は鍵が必要です。鍵は管理者が」
「管理者の名は?」
「……香料庫主任、オルドリック」

レオンハルトが即座に言う。

「呼べ」

執事長が頷きかけた瞬間、ベルが止めた。

「待ってください。先に条件で絞れます」
「絞れるのか」
「はい。呼ぶ人数が多いほど、向こうに時間を与えます」

レオンハルトの視線がベルへ向く。
ベルは机に広げた名簿の上に、指を三つ立てた。
自分でも、少し冷静すぎると思うほど頭が冴えていた。

「条件は三つです」

一本目の指を立てたまま言う。

「手袋の内側に触れられる者。外側じゃ意味がない。内側に油を塗る人間」

二本目。

「革用保護油を扱える者。油壺に触れる権限がある。権限がないなら、少なくとも持ち出し記録をいじれる立場の者」

三本目。

「昨日の夜から今朝にかけて手袋へアクセスできた者。油が新しいから。もっと前なら匂いも状態も違っていたはずです」

ベルは一息に言った。

「この三つを満たすのは、全員じゃない」

ルーペルトなら『回りくどい』と言って机を叩くところだろう。
でもレオンハルトは違う。
彼は地図を引くように思考する。一つ一つの条件を置き、そこから外れる者を切っていく。
感情より先に、線を引ける人だ。

「……手袋係」
「はい。主担当のラウル」
「洗濯係の責任者」
「マルタ」
「仕立て係は?」
「外注でも不可能ではありません。でも、手袋の内側に油を塗るのは基本、手袋係か洗濯係です。仕立て係がやるなら相当慣れた人。王宮の手袋は儀礼品だから、勝手に油を塗るのは嫌がるはずです」
「嫌がる?」
「仕上がりを崩したくない職人ならなおさらです。塗るなら、普段から管理している側の方が自然です」

執事長が低く言った。

「通常、油の塗り直しは手袋係と洗濯係です。仕立て係は縫製のみ」
「つまり、容疑者は二系統。手袋係ラウル、洗濯係責任者マルタ。あともう一つ」

ベルは頷くと、レオンハルトの手の赤みを見てから言う。

「医師。殿下の皮膚の異常を『手荒れ』で片付けたなら、無能か共犯。共犯なら、毒を選べる」
「選べる、か」
「はい。皮膚から入って、すぐ死なないもの。震えが出ても、疲労や緊張に見えるもの。そういう選び方ができるのは、知識のある人間です」

ジークムントの冷たい顔が脳裏をよぎる。
医師を敵に回すのは面倒だ。面倒で、厄介で、証拠も薄い。
だが面倒だからこそ、黒幕はそこを使う。
疑われにくい知識と、もっともらしい説明。その両方を持つ場所だからだ。

レオンハルトが頷いた。

「三人だな」
「いえ、正確には三系統です。ラウル個人か、マルタ個人か、医師の誰かか。共犯なら重なる可能性もあります」
「だが最初に押さえる相手は限れる」
「はい」

ベルは心の中で小さく息を吐いた。
ここまで来れば、筋が見える。
まだ証拠は細い。それでも、闇雲に探す段階は越えた。

「レオンハルト殿下」

執事長が低く言う。

「手袋係のラウルは、殿下の側近です。幼少の頃から」
「だからこそ疑う」

レオンハルトの声は冷たい。
冷たいが、揺れている。
その揺れが、ベルには分かった。

大切なものが裏切った可能性を見たときの揺れ。
信じていた時間が長いほど、疑う言葉は鋭くなる。
その鋭さの下で、かすかに傷ついているのも分かった。

ベルは何も言わなかった。
今ここで慰めの言葉を挟めば、たぶんこの人はもっと硬くなる。
だから黙ったまま、机の上の名簿へ視線を落とす。
感情は後でいい。今は、手を打つ方が先。

ベルは言葉を選んだ。
ここで『信じたい』と言えば甘い。
ここで『疑え』と言えば残酷だ。
けれど今のレオンハルトには、甘さより残酷さの方が必要。
優しい言葉は後でも言える。今は、間違えないための言葉を置かなければならない。

「殿下。私はラウルさんを知りません。だからこそ言えます。疑うのは悪ではないです。守るための手順です」

レオンハルトの目が、一瞬だけベルに留まる。
その目は、ほんの少しだけ柔らかかった。
慰められたからではない。必要なことを必要な形で言われたと分かった時の、短い緩みだった。

「……分かった」

それだけ言うと、彼はすぐ王子に戻った。
今の一瞬の柔らかさを、自分で切り離すみたいに。

「執事長。ラウルをこの部屋へ。だが、こちらが疑っていることは悟らせるな」
「かしこまりました」
「マルタも呼べ。医師からは当直の宮廷医師を一名。今朝、俺の体調を把握している者だ」
「承知しました」

執事長が去ろうとする。
ベルはそこで、思いつきを挟むのではなく、必要な一手として付け足した。

「保護油の壺も。現物が必要です。刻印の入った壺。昨日持ち出されたもの」
「すぐに」

扉が閉まり、またベルとレオンハルトだけになる。

室内の静けさが濃くなる。
さっきまでは人が多く、緊張そのものがざわついていた。今は逆だ。静かすぎて、互いの息づかいの方が目立つ。
ベルは自分の指先を見た。
手袋を拭った布に残った苦味の匂いが、まだ鼻の奥にいる。洗ってもすぐには消えない、じわりと残る匂いだった。