静まり返った王宮の夜。シグルドとふたりで夕食をとった後――窓から差し込む月光に誘われるように、アンネリーゼはふらりと中庭へ続く回廊へと足を向けた。
(……どうにも寝つけないわ。昼間、次の挙式のプランが決まったからかな)
高揚している気持ちを落ち着かせようと、夜の散策を開始する。
中庭に差し掛かったあたりで、どこからか空気を鋭く引き裂くような音が聞こえてきた。
(なにかしら?)
音のする方へ進むと、回廊の先にある一角に訓練場があり――そこには、月明かりを浴びて剣を振るうシグルドの姿があった。
軍服の上着を脱いで、白いシャツ一枚になった彼の動きは、いつもの穏やかな振る舞いからは想像もできないほど峻烈(しゅんれつ)で、迷いがない。振り下ろされる剣筋には、漆黒の竜ファヴニールが司る〝破壊〟の力が宿っているのだろうか。普通の剣の刃ではなく、圧倒的な威圧感が漂っている。
(すごい……。シグルド様、とてもお強そうだわ)
並大抵の使い手では、聖獣の力を扱える彼の足もとにも及ばないだろう。
もしかしたら、彼こそ、この世界最強を誇るのではないだろうか。
「――アンネ?」
邪魔をしてはいけないと立ち去ろうとすると、シグルドが鋭い動きをぴたりと止め、肩を上下させてこちらを見やっていた。汗に濡れた前髪の間からのぞく瞳が、月光を反射して情熱的に揺れている。
「こんな夜更けにどうしたんだ。眠れなかったのか?」
「は、はい。少し、風に当たりたくて」
「そうか。君もここのところ落ち着かない日々だろうからな。少し、話さないか?」
「ふふ、はい、ぜひ」
少しだけ特別感のある夜の邂逅。それがうれしくなってしまって、アンネリーゼは軽い足取りで彼の隣に並び立つ。彼は剣を地面に突き立てると、ふーっと長く息を吐きだした。
「……アンネ。俺は、もっと強くならなければならないんだ」
ぽつりとこぼれたその言葉には、一国の王太子としての重責がにじんでいる。
「同じ聖獣使いの君なら感じ取れたと思うが、俺はファヴニールの力をその身に宿して戦うことができる。だが、それだけでは足りない。この国を、そして……大切な君を守るために、俺自身の技を磨き、誰にも負けない強さを手にしたいんだ」
まっすぐに見つめられて、胸の奥がドクンと跳ねる。
(シグルド様はいつだって、自分のことよりも、守るべきもののためにその身を削ろうとなさるわ……)
それは、王太子として、そしてひとりの騎士として、この上なく尊く立派な心がけなのだとはわかっている。けれど、分不相応ながらも彼の恋人という立場からすれば、いつかその献身が彼自身を壊してしまうのではないかと、不安に駆られてしまうのだ。
(人を守るために生きていく彼を、どうしたら守れるのだろう)
彼自身の一番近くにいるのは、恋人である自分だ。だったら自分にできることは――。
「シグルド様。ひとつお願いがあります。わたしも、武器を取って戦えるようになりたいです」
なにを言いだすのかと、シグルドがきょとんとして目を丸くする。
「アンネが、戦う?」
「はい。守られるばかりではなく、わたしもあなたの隣に立つ予定の者として、少しでも力になりたいのです。ブライダル事業だけでなく、いざという時に自分を守る術(すべ)があれば、あなたの心配も減るでしょう?」
自分のことを守り、そして彼のことを守れるように強くなること。それが最善だと思うのだ。口で言うほど簡単なことではないけれど。
こちらの真剣なまなざしに、シグルドは困ったように、けれど愛おしげに眉を下げた。
「……君のその気高さには、いつも驚かされる。俺が知っている、よくいる触れたら折れてしまいそうな令嬢と君とでは一線を画するな。たくましいというか、強いというか」
「……それ、褒めていらっしゃいますよね、殿下?」
「もちろんだ。それでこそ俺の自慢の婚約者殿だからな」
彼の大きな手が伸びてきたかと思うと、わしゃわしゃと頭をなでられる。
どうにも子供扱いされていると感じる時もあるけれど、時々彼を同じように思っている自分は人のことは言えないので黙っておいた。
シグルドが、いたずら気な光を目に宿しながら、こちらをのぞき込む。
「ならば、試しに一度、剣を握ってみるか?」
そう言って、彼は手にしていた長剣を差し出してきた。
「よ、よろしいのですか? では、お言葉に甘えて……」
軽い気持ちでその柄(つか)に手をかけた瞬間、己の考えの甘さを思い知らされた。
(え……っ、重い!?)
ずしりと腕にのしかかる鉄の塊のような重量。騎士たちが軽々と振るっているそれが、これほどまでに重いものだとは想像もしていなかった。
案の定、アンネリーゼはバランスを崩してよろけてしまう。
「わ、わわっ、ちょっと待って……!」
一度かたむいた重心を支えきれず、体は無残にも前方へと倒れ込んだ。
(転ぶ――っ!)
迫りくる地面を前に、アンネリーゼは目を閉じる。
前世の仕事中も、焦って走っていた時に床に置かれていた物につまずいて派手に転んだことだってある。大丈夫、なんてことない――。
「危ない、アンネ!」
痛みと衝撃に備えていたこちらの耳に、シグルドの焦った声音が飛び込んでくる。とっさに手を伸ばした彼が支えようとしてくれたけれど――こちらの勢いと剣の重さに抗(あらが)えなかったのか、そのまま二人して芝生の上へと転がってしまった。
「――っ」
ドクン、ドクンと、耳もとで激しい鼓動が鳴り響いている。恐る恐る目を開けると、気づけば、アンネリーゼはシグルドを押し倒すような形で、彼の胸の上に重なっていた。至近距離で見つめ合う、驚きに満ちた金茶色の瞳。彼の熱い体温と、シャツ越しに伝わるたくましい鼓動が、触れ合っている肌を通して伝わってくる。
(な、な、な、わたしはなんてことを――!)
唇が触れ合いそうなほどの距離に、顔が一瞬で火が出そうなほど熱くなる。
――とりあえず、この場を退かなければ……!
「……す、すみません! シグルド様、お怪我はありませんか!?」
慌てて離れようとするアンネリーゼの腰を、シグルドの大きな手が優しく、けれど逃がさないように抱き寄せた。
「……怪我はない。だが、アンネ。君に押し倒されるというのは……心臓に悪いな」
そう言って苦笑する彼の耳もとが、月明かりの下で赤く染まっているのが見えた。
夜の静寂の中、ふたりだけの甘く、気恥ずかしい時間がゆっくりと流れていった。
(……どうにも寝つけないわ。昼間、次の挙式のプランが決まったからかな)
高揚している気持ちを落ち着かせようと、夜の散策を開始する。
中庭に差し掛かったあたりで、どこからか空気を鋭く引き裂くような音が聞こえてきた。
(なにかしら?)
音のする方へ進むと、回廊の先にある一角に訓練場があり――そこには、月明かりを浴びて剣を振るうシグルドの姿があった。
軍服の上着を脱いで、白いシャツ一枚になった彼の動きは、いつもの穏やかな振る舞いからは想像もできないほど峻烈(しゅんれつ)で、迷いがない。振り下ろされる剣筋には、漆黒の竜ファヴニールが司る〝破壊〟の力が宿っているのだろうか。普通の剣の刃ではなく、圧倒的な威圧感が漂っている。
(すごい……。シグルド様、とてもお強そうだわ)
並大抵の使い手では、聖獣の力を扱える彼の足もとにも及ばないだろう。
もしかしたら、彼こそ、この世界最強を誇るのではないだろうか。
「――アンネ?」
邪魔をしてはいけないと立ち去ろうとすると、シグルドが鋭い動きをぴたりと止め、肩を上下させてこちらを見やっていた。汗に濡れた前髪の間からのぞく瞳が、月光を反射して情熱的に揺れている。
「こんな夜更けにどうしたんだ。眠れなかったのか?」
「は、はい。少し、風に当たりたくて」
「そうか。君もここのところ落ち着かない日々だろうからな。少し、話さないか?」
「ふふ、はい、ぜひ」
少しだけ特別感のある夜の邂逅。それがうれしくなってしまって、アンネリーゼは軽い足取りで彼の隣に並び立つ。彼は剣を地面に突き立てると、ふーっと長く息を吐きだした。
「……アンネ。俺は、もっと強くならなければならないんだ」
ぽつりとこぼれたその言葉には、一国の王太子としての重責がにじんでいる。
「同じ聖獣使いの君なら感じ取れたと思うが、俺はファヴニールの力をその身に宿して戦うことができる。だが、それだけでは足りない。この国を、そして……大切な君を守るために、俺自身の技を磨き、誰にも負けない強さを手にしたいんだ」
まっすぐに見つめられて、胸の奥がドクンと跳ねる。
(シグルド様はいつだって、自分のことよりも、守るべきもののためにその身を削ろうとなさるわ……)
それは、王太子として、そしてひとりの騎士として、この上なく尊く立派な心がけなのだとはわかっている。けれど、分不相応ながらも彼の恋人という立場からすれば、いつかその献身が彼自身を壊してしまうのではないかと、不安に駆られてしまうのだ。
(人を守るために生きていく彼を、どうしたら守れるのだろう)
彼自身の一番近くにいるのは、恋人である自分だ。だったら自分にできることは――。
「シグルド様。ひとつお願いがあります。わたしも、武器を取って戦えるようになりたいです」
なにを言いだすのかと、シグルドがきょとんとして目を丸くする。
「アンネが、戦う?」
「はい。守られるばかりではなく、わたしもあなたの隣に立つ予定の者として、少しでも力になりたいのです。ブライダル事業だけでなく、いざという時に自分を守る術(すべ)があれば、あなたの心配も減るでしょう?」
自分のことを守り、そして彼のことを守れるように強くなること。それが最善だと思うのだ。口で言うほど簡単なことではないけれど。
こちらの真剣なまなざしに、シグルドは困ったように、けれど愛おしげに眉を下げた。
「……君のその気高さには、いつも驚かされる。俺が知っている、よくいる触れたら折れてしまいそうな令嬢と君とでは一線を画するな。たくましいというか、強いというか」
「……それ、褒めていらっしゃいますよね、殿下?」
「もちろんだ。それでこそ俺の自慢の婚約者殿だからな」
彼の大きな手が伸びてきたかと思うと、わしゃわしゃと頭をなでられる。
どうにも子供扱いされていると感じる時もあるけれど、時々彼を同じように思っている自分は人のことは言えないので黙っておいた。
シグルドが、いたずら気な光を目に宿しながら、こちらをのぞき込む。
「ならば、試しに一度、剣を握ってみるか?」
そう言って、彼は手にしていた長剣を差し出してきた。
「よ、よろしいのですか? では、お言葉に甘えて……」
軽い気持ちでその柄(つか)に手をかけた瞬間、己の考えの甘さを思い知らされた。
(え……っ、重い!?)
ずしりと腕にのしかかる鉄の塊のような重量。騎士たちが軽々と振るっているそれが、これほどまでに重いものだとは想像もしていなかった。
案の定、アンネリーゼはバランスを崩してよろけてしまう。
「わ、わわっ、ちょっと待って……!」
一度かたむいた重心を支えきれず、体は無残にも前方へと倒れ込んだ。
(転ぶ――っ!)
迫りくる地面を前に、アンネリーゼは目を閉じる。
前世の仕事中も、焦って走っていた時に床に置かれていた物につまずいて派手に転んだことだってある。大丈夫、なんてことない――。
「危ない、アンネ!」
痛みと衝撃に備えていたこちらの耳に、シグルドの焦った声音が飛び込んでくる。とっさに手を伸ばした彼が支えようとしてくれたけれど――こちらの勢いと剣の重さに抗(あらが)えなかったのか、そのまま二人して芝生の上へと転がってしまった。
「――っ」
ドクン、ドクンと、耳もとで激しい鼓動が鳴り響いている。恐る恐る目を開けると、気づけば、アンネリーゼはシグルドを押し倒すような形で、彼の胸の上に重なっていた。至近距離で見つめ合う、驚きに満ちた金茶色の瞳。彼の熱い体温と、シャツ越しに伝わるたくましい鼓動が、触れ合っている肌を通して伝わってくる。
(な、な、な、わたしはなんてことを――!)
唇が触れ合いそうなほどの距離に、顔が一瞬で火が出そうなほど熱くなる。
――とりあえず、この場を退かなければ……!
「……す、すみません! シグルド様、お怪我はありませんか!?」
慌てて離れようとするアンネリーゼの腰を、シグルドの大きな手が優しく、けれど逃がさないように抱き寄せた。
「……怪我はない。だが、アンネ。君に押し倒されるというのは……心臓に悪いな」
そう言って苦笑する彼の耳もとが、月明かりの下で赤く染まっているのが見えた。
夜の静寂の中、ふたりだけの甘く、気恥ずかしい時間がゆっくりと流れていった。


