追放令嬢、隣国の王太子と異世界ウェディング事業を始めます!

『久しぶりだね、アンネリーゼ。……迎えに来たよ』

 ルシアードの傲慢な声が響いた瞬間、アンネリーゼの全身は氷を押し当てられたように冷たくなる。
 祖国での日々――常に誰かの顔色を伺い、自分という人間を押し殺し続けてきた時間が脳裏に呼び起こされる。
 婚約者であるルシアードに対しては、彼のプライドを傷つけないよう、常に一歩引いて言葉を選び、遠慮をしてばかりだった。聖獣を従える自分の方が、時として王族よりも重宝されるという事実に、彼が劣等感を抱いていることに気づいていたからだ。
 自分は彼を立てるためだけに、有能さを隠し、彼の陰で微笑むだけの〝装飾品〟であることを演じ続けていた。

(妹のセレスティアに対しても、そう……)

 彼女がルシアードに憧れを抱いていることに気づきながらも、彼の婚約者という立場上、その気持ちを応援することができず――姉として彼女を気遣い、そのわがままを受け入れることが自分の役目だと思い込んでいた。
 家の中では継母に疎まれ、父も助けてはくれず、常に孤独を感じていた。家族にとっての〝アンネリーゼ〟の価値は、聖獣使いであるという能力だけだったのだ。

(……そう、『聖獣使い』という運命もまた、ある意味ではわたしを縛り付ける鎖だった。国や王家にとって、わたしの価値は背後にいるエルドランの加護がもたらす〝豊穣〟という利益のみにあったのだから)

 一人の人間として尊重されることはなく、ただ国の安寧を保つための『管理対象』や『便利な道具』として、徹底的に利用される日々を送っていた。
 それが、皮肉にもルシアードとセレスティアが通じ合うことにより婚約を破棄され、祖国を追放されて――そうして運命的に隣国でシグルドと出会って。

(彼は、わたしをひとりの人間として認めて情熱を信じてくださって、聖獣に頼らずに自分の力で国を救おうとしている……)

 そんな彼と出会い、共に笑い、明日を夢見たあのとき。

(ああ、わたしは……。わたしは、とても幸せだったんだ……)

 今更ルシアードのもとになど戻りたくはない。ここにいたい。
 ――シグルド様と、一緒にいたい……っ!
 そう強く心で思うと、無意識にシグルドの袖口を握りしめていた。
 ハッと振り返ったシグルドが、「大丈夫だ」と言わんばかりにこちらの頭に手を乗せる。そしてすぐにアンネリーゼを背中に隠した。軍服越しに伝わる彼の確かな怒りと温かさに、震える心がわずかに落ち着きを取り戻す。

(彼へのこの気持ちは、やっぱり――)

 自分は、彼に恋をしている。ずっとそばにいたいと思ってしまうほどに。
 けれども、この切ない気持ちは胸に秘めておかなければならないのだ。自分は元婚約者から婚約破棄をされ、祖国を追放された身。いまはなんの身分も持たない、ただの娘。そのことを忘れてはいけないのだ……。


 ルシアードは焦ったふうに、けれど強気な笑みを崩さずに言い放つ。

「アンネリーゼ、君がいなくなってからグランディール王国は災難続きだ。聖獣ユニコーンの加護を失った作物は枯れ始め、各地で天災が起き始めている。国力が目に見えて落ちているのだよ」

 その言葉に、アンネリーゼは息を呑んだ。
 聖獣エルドランがもたらしていた豊穣の力がいかに大きかったか、彼らは失って初めて気づいたのだろう。あまりにも滑稽な話だ。
 アンネリーゼは馬車の中から、目を据わらせる。

「……お言葉ですが、殿下にはセレスティアがいらっしゃるではありませんか。彼女がわたくしの代わりになられると、あの日おっしゃったはずですわ」

 毅然と問い返すと、ルシアードは忌々しそうに顔を歪め、吐き捨てるように言った。

「君も知っているとおりセレスティアには聖獣の加護などなく、君の妹とはいえどんなに祈っても他の聖獣は応えることはなかった。あのような役に立たない女では国を救うことはできん。やはり君が必要なのだ。さあ、大人しく戻っておいで」

 猫なで声を出しつつも、ルシアードには隠しきれない苛立ちと焦燥感が滲んでいる。
 ――『さっさと戻ってこい。王太子である私の命令が聞けないのか』。
 その心の声があふれ出るようだった。
 以前と変わらず、こちらを人間ではなく、国を繁栄させるための〝装置〟としてしか見ていない勝手な言い草。アンネリーゼの鼓動は怒りと悲しみでドクンと大きく跳ねる。

(……そうだわ、余計なことを考えていてはダメ。わたしはブライダル事業でこの国を救うためにここにいるのだもの。もう他人であるあの人に振り回されるわけにはいかない)

 そう胸に手を当てて深呼吸をすると、ルシアードに決別を告げる言葉を紡ごうとした。けれども、それよりも前に、痺れを切らしたらしいシグルドが声を張る。

「……断る。そちらにも事情があるようだが、彼女は今、わがアルシェリア王国の重要な事業責任者だ。彼女を連れ戻したいのならば、このような突発的なやり方ではなく、正式な手続きを踏んでいただきたい」
「ああ、貴公はアルシェリア王国の王太子、シグルド・フォン・アルシェリア殿か。今度は私ではなくそちらに乗り換えたのかい? どんな手管を使ったのやら。卑しい女だな」

 不遜に唇の端を持ち上げるルシアード。そのあまりにも酷い物言いに、悔しさと羞恥心で奥歯を噛みしめた。

(卑しい、女……)

 その言葉が、鋭い刃(やいば)のように胸を突き刺す。

(違う。わたしは、シグルド様に取り入るためにブライダル事業を提案したわけじゃない。ただ、一生懸命にこの国を救おうとしている殿下の力になりたいと、この国の未来を一緒に守りたいと願っただけなのに……!)

 なによりも恐ろしかったのは、隣に立つシグルドに、今のルシアードの不当な言いがかりを信じられてしまうことだった。

(嫌……。シグルド様にだけは、そんなふうに思われたくない。わたしが、打算や汚い手管を使って彼と一緒にいるだなんて……。そんなふうにだけは、絶対に!)

 悔しさと情けなさで視界が滲(にじ)みそうになるのを必死にこらえる。今、この瞬間に胸もとで輝いている菫色のブローチ――シグルドが心を込めてリメイクしてくれた、この世界で一番大切な宝物。彼から受け取ったまっすぐな信頼と、共に積み上げてきた大切な時間を、こんな下劣な言葉で汚されたくはなかった。
 涙ぐんでいるアンネリーゼを見やってから、シグルドが怒りを含んだ低い声で言う。

「ルシアード殿。さすがに言葉が過ぎるのではないか。彼女が私に取り入った……とは、どのような根拠があってそのようなことを申されるのだ」
「ああ、シグルド殿は事情をご存じなかったのか。彼女は元々、グランディール王国王太子である私の婚約者だったのだ。けれども、聖獣の加護を私利私欲のために利用しているという告発があり、私の婚約者の座を排し、祖国を追放させてもらった。そうしたところ、貴公の国である隣国へ逃げ延び、今度は貴公に近づいたようだな」

 まるで女狐のような女だ、とルシアードは鼻で笑っている。
 事情を理解したらしいシグルドは、「……なるほど」と小さくつぶやいた。そうして、決意を固めたふうに息を吐くと、おもむろにアンネリーゼの腰を力強く引き寄せた。

「……ッ⁉」

 隣に座るシグルドの横顔をとっさに見上げたけれど――彼は、ルシアードを射抜くように見つめたまま、低い地響きのような声で言い放った。

「貴公のような、一度彼女を捨てた男に渡すわけにはいかない。彼女は、わが国の『ブライダル事業』の責任者であると同時に――俺の正式な婚約者だ。決して、貴公らには渡さない」