坂道が続いた。石垣が延々と脇に連なって、容赦のないじりじりと焼くような日差しが照りつける。
体温が上がり、呼吸がわずかに乱れ始めた頃、視界の先に緑と白の幅広いストライプの幕が見えてきた。色褪せたトタン屋根の下、低く垂れ下がったその日除け布は、熱を含んだ風が吹くたびに、やるせなく、ゆるく揺れている。
看板には「松田商店」の文字。俺たちが物心つく前から、時が止まったように佇んでいる駄菓子屋だ。
店先には真っ赤な筐体のガチャガチャが四台、日焼けしたまま並んでいる。店外に置かれたアイスクリームの什器はすっかり年季が入り、ひび割れた赤と白の太陽マークが掲げられた木のベンチは、今にも道路へ滑り出しそうな勢いでせり出していた。
子供の頃から、何ひとつ変わらない。この町には、そうやって十数年以上も形を変えず、居座り続けているものが多すぎる。
ベンチのあたりには、龍とボウズ、それにトモが、いつも通りの退屈を絵に描いたような顔でたむろしていた。
「おー、来た来た。おっせーよ、お前ら」
ボウズが、口に咥えた棒付きキャンディーを転がしながら、片手をひらつかせた。
俺は太輔と少しだけ距離を置いて歩きながら、まだ熱を帯びている気がする唇を手の甲で拭う。
「わりぃ、ちょっと手間取ってさ」
太輔が、何でもない風を装って答える。その声がいつもより低く響いたのは、気のせいだろうか。
俺たちは、いつもと同じ顔を作って、その輪の中へと入っていった。
「太輔。お前、もう出歩いて大丈夫なん?」
龍が言った。心配しているのに、どこか飄々とした声だった。
「ああ、別に大したことない。打撲で済んだし」
「ならいいけど。お前は昔っから、ああいうピンチには強運よなー。さすが、持ってる男」
太輔は返事をするより先に、店の奥に向かって歩いていった。薄暗い店内の奥に、おばちゃんの小さな背中が見える。
「おばちゃん、コーラふたつ!」
バカでかい声だった。いつもより更にもう一段、音量が上がっている。おばちゃんはそれでもよく聞こえていないらしく、こちらへ顔を向けるだけで動かない。俺たちが子供の頃から「おばちゃん」と呼んでいたその人は、いつの間にかおばあちゃんになってしまっていた。それでもおばちゃんは、おばちゃんとしか呼びようがない。呼び方すら、昔のまま取り残されている。
「だーかーら、こ、お、ら!」
太輔が耳元で叫ぶようにして声を張り上げ、小銭を差し出す。おばちゃんは「あいよ」と短く応じると、受け取った硬貨を数えるでもなく、そこらへんに無造作に置いた。
「好きなの持っていきな」ということなのだろう。レジの数字を打ち込むことさえ、今は難しいのかもしれない。
かつて俺たちが、放課後の悪ふざけで「クソババアチャレンジ」なんてくだらない遊びを仕掛けた時は、あんなに元気だったのに。
語尾が消えないうちにレジ横から猛然と飛び出してきたおばちゃんは、逃げる俺たちの脳天に鋭いゲンコツを五発も叩き込んだ。敗因は、あまりに重すぎたランドセルと、おばちゃんの規格外の瞬発力だった。
「うわー、めっちゃギンギンに冷えてる。最高でしかないわ」
太輔は冷えた瓶コーラを二本抱えて店から戻ってくると、一度も目を合わせないまま、俺の胸元へぐいと押しつけるように片方を渡した。そうして、逃げるようにさっさとトモの隣へ腰を下ろす。
(……何だよそれ。いきなり、よそよそしくすんなボケ。かえって不自然に思われるだろうが)
俺は少しの間、不満に似た怒りを抱えて、瓶を持ったまま動けなかった。
「あー、暑すぎる。そんで、この猛暑の中でカップ麺食ってる俺らは確実にイカれてる」
「学校のプールにでも不法侵入できねぇかな。全身ぶち込みたい気分だわ」
ボウズと龍が、駄菓子屋特有のあの安っぽいカップ麺をプラフォークですすりながら言った。熱い湯気が立ち上るそばから、乾いた空気に溶けて消えていく。
二対のベンチの前、熱を持ったアスファルトの上には、すでに飲み干されたり結露したりしている全員分のコーラ瓶が並んでいた。
「侵入したところで、プールは屋上だろ。あそこの鍵が開いてなきゃ無理ゲーだって。大人しく秋が来るのを待つしかねーよ」
トモが、俺が喉元まで出かかっていたツッコミを代弁してくれた。それから「光希も食う?」と、真っ赤に染まった酢だこを数個、手のひらに分けてくれる。こういう何気ない気遣いができるのが、トモの憎めないところだ。
俺はようやくベンチの端に座り、コーラの瓶に唇を寄せた。勢いよく弾けた炭酸が、瓶の口から溢れそうになる。
「てか、文化祭の模擬店って結局、なにすることに決まったんだっけ?」
麺を啜り終えたボウズが、ずり落ちた黒縁眼鏡を指でくいっと押し上げながら聞いた。俺はわざわざ口に出したくなくて黙り込んでいたが、代わりに太輔が面倒くさそうに答える。
「喫茶店だってよ」
「へぇ。……ってことは、光希。お前、また女装すんのか?」
龍の茶化すような問いに、俺は露骨に顔をしかめた。嫌悪感と憂鬱が混ざり合った表情を、取り繕う気力すら湧かない。
うちの高校の文化祭は、一般開放といっても来場者なんて近所の住人くらいで、規模も小さい。八月の末、夏休み明けにたった一日だけ開催される、地域に根ざしたささやかな催しだ。
それでも、小中高とほとんど変わらない顔ぶれで過ごす、数少ない特別な行事のひとつだった。
「……いや、断る。去年もやらされたし、今年はもう絶対やらねーって決めてるから」
「何かと白羽の矢が立つよな、お前は。合唱コンのピアノだって、結局この前、先生に拝み倒されてただろ」
トモが憐みの目を向けて言う。確かにそうだ。俺は学校の中では成績が良い方だし、決して目立つタイプではない。けれど、「困ったら嶋田に頼めばいい」という空気がクラスにはあって、たぶん皆も先生もそう思っている。
ピアノに関しても、この辺りには音楽教室なんて一軒もないから、そもそも弾ける奴がいない。俺が弾けるのは、母が昔かなり力を入れてピアノをやっていた名残で、物心がつく前から叩き込まれたようなものだ。自分で希望したわけでもないのに、気がついたら当然のように「弾ける役」として枠に組み込まれている。
龍が「足りねえ」と言い出し、すでに瓶を空にしていた太輔を誘って、追加の駄菓子を漁りに店の中へ入っていく。
あいつらの背中が暖簾の向こうに消えるのを見届けてから、視線を手元に戻した時、ボウズがちょっとだけ言いにくそうに、でも我慢できないといった様子で口を開いた。
「俺、今『ピアノ』って聞いてアレ思い出した。小学校の時、太輔がさ……」
「バカ。それ太輔の前で言ったら、マジで殺されるぞ」
トモがたしなめるように、ボウズの坊主頭を平手でベチッと叩く。決して洒落ではない。ツルツルに剃り上げられたその頭は、叩くと実にいい音が鳴る。俺たちの間では、もはや景気づけの太鼓代わりみたいなものだ。
ボウズは「いてっ」と大袈裟に頭を押さえながらも、ニヤニヤとした笑みを崩さない。
「何だよ、なんの話?」
「えっ、あの……小四の時のことだよ。光希がピアノの伴奏に選ばれたとき、タケシがさ」
タケシ――。そんな名前の奴、うちの学年にいたっけか。
俺の怪訝そうな表情を読み取ったボウズは、信じられないものを見るような顔をした後、焦ったように身振り手振りを交えて早口で説明し始めた。
「光希、マジで忘れてんのかよ? タケシがお前のこと『男のくせにピアノなんか弾いて、顔も女みたいだし、チンコ付いてねーんじゃねぇの?』って揶揄って、無理やりズボン下げようとしただろ。そんで、太輔がブチギレてさ……。タケシの前歯、折ったじゃん」
そこまで説明されてようやく、記憶の底の方に沈んでいたものが、浮かび上がってきた。
放課後の、埃っぽい小学校の教室。
窓際に置かれた古いオルガンの前に座っていた俺は、音楽会に向けたピアノの練習の真っ最中だった。そこへ、当時ガキ大将として君臨していたタケシが、図体の大きな影を落として近づいてきたのだ。
太輔もクラスの中心人物ではあったけれど、タケシとは似ているようで、実際には対極にいた。
太輔は直情的だが正義感が強く、おかしいことはおかしいとはっきり言う。対してタケシは、すべてを自分の思い通りに支配しなければ気が済まない、傲慢な子供だった。
あいつが太輔を猛烈にライバル視していたのは子供心に分かったけれど、その性根はどこまでも卑劣だった。
顔の造作は霞がかかったように曖昧なのに、殴られた後に差し歯になった一本の前歯だけが、白浮きしていたのを思い出す。
「あんな大事件を忘れるとか、相当なボケだろ」
「あぁ、そういえばそうだったかも。……タケシ、って結局どうなったんだっけ」
「元々、あちこちに敵作ってたからな。居心地悪くなって、五年に上がる前に引っ越したんじゃなかったか?」
トモも当時、タケシにパシリにされては、誰にも言えない愚痴を俺にだけこっそり打ち明けていた。いつか二人でボコボコにしてやろう、なんて子供じみた復讐計画を立てていたけれど、それを実行する前に、太輔がひとりで完遂してしまったのだ。それも、再起不能なほど徹底的に。
教室の床に押し倒されたタケシに馬乗りになって、周囲の制止も耳に入らない様子で拳を振るっていた様子を思い浮かべる。
あの時の太輔の瞳は、俺が知っているいつもの穏やかな光を失い、文字通り怒り狂っていた。
『――タケシ、光希に謝れ! 謝れって言ってんだろ!』
耳の奥に蘇るその怒号。そんな大切な記憶さえ、俺は自分でも気づかないうちにどこかへ追いやってしまっていたらしい。
トモたちが居てくれてよかった、と思うけれど、違和感は拭いきれなかった。
(……俺、本当にこれで『思い出せた』って言えんのか……?)
不思議と心が動かないのはどうしてだろう。太輔が俺のためにどれほど怒り、どれほど拳を痛めたのか。
思い出せても、まるで他人の武勇伝を聞いた後のような、どこか冷めた温度でそれを見つめ返している自分が居た。
「今思えばさ、あれってタケシは光希のことが好きだったからやったのかな」
「はぁ? なんでそうなるんだよ」
「だって、好きな奴ほどいじめたくなるって言うじゃん。ブスじゃねぇのにブスって言ったりさ」
ボウズが俺の顔をまじまじと見ながら無責任な推測を口にしたが、トモが間髪容れずに、はっきりとした口調で首を横に振った。
「違うと思う。光希を傷つけたのは、タケシが本当に好きだった相手が太輔だったからだろ。……多分アイツは、太輔の一番になりたかったんだよ」
トモなりに、タケシの歪んだ深層心理までを見抜いていたのかと、数年越しの鋭い洞察に静かに感心してしまった。
俺はてっきり、太輔への嫉妬や対抗意識だと思っていた。けれど、そうではなかったのかもしれない。タケシの心の奥底には、眩しいほどの憧れや、もっと近くにいたいという形にならない渇望があって、叶わない怒りがすべてを攻撃に変えていた。そういうことだったんだろうか。
「でもさ、そんなの無理だろ。太輔の親友は光希。それは不動だ。俺らが入る隙もねーよ」
「まあな。だからこそ腹が立ったんじゃねぇの。どうあがいても入れ替われないから、一番邪魔な光希を傷つけたい、みたいなさ」
幼馴染たちの目にも、俺と太輔の腐れ縁は、それほどまでに強固なものとして映っている。
その事実を改めて突きつけられ、俺はいたたまれなくなって自分の膝の上に視線を落とした。
まさか、さっきまでその太輔とキスをしていたなんて、口が裂けても言えない。それも二回も。あまつさえ、あいつに舌まで突っ込まれそうになったなんて――。
「おーい。なんの話してんの?」
「いや、なんでもねー」
大袋のポテトチップスを片手に、太輔が戻ってきた。反対の手には、俺が一番好きな小さなヨーグルがふたつ。
「光希、ほら。お前が好きなやつ」
「……おう、サンキュ」
ぽいっとそれを俺の前に放り出してから、太輔はポテチの袋をパーティ開けしてベンチの真ん中に置いた。それを合図に、みんなが遠慮なく一斉に手を突っ込んで中身を奪い合う。
俺も一枚口に運ぼうとしたその時、ふいに肩を叩かれた。
顔を上げた先では、龍がポテチを二枚、アヒルのくちばしのように唇でくわえておどけている。もはや定番すぎるその悪ふざけに、俺は呆れながらも、ついつい噴き出してしまった。
「マジで馬鹿。いつまでやるつもりだよ、それ」
「光希がハタチになってもやってやるぜ。だってお前、絶対笑うじゃん」
ポテチを咥えたままのくぐもった声で、したり顔に答える龍。その言葉が、胸の奥にある棘みたいな場所にチクリと引っかかった。
ハタチになっても、龍は当たり前のように俺と一緒にいるつもりでいる。太輔以外のみんなに、この町を出て行くことをまだ何も言えていない。後ろめたい気持ちがこみ上げてくるのを感じながら、この空気を壊してまで打ち明ける勇気はなくて、俺はただ曖昧に笑い返した。
ふと視線を感じて横を向くと、太輔が俺を見ていた。一瞬だけ目が合って、それだけで太輔はすぐに顔を背ける。何もなかったみたいに、視線なんて最初から交わっていなかったかのように。
「光希、チューしようぜ。ほら、ブチュ~」
「やめろ、キモい。粉がつくだろ!」
龍がポテチのくちばしを無理やり、俺の口元に押し付けてくる。
その肩を押し返してふざけ合っていると、不意に視界の端を、ゆらりとした黒い影が掠めた。
「奪っちゃった♡ なーんつって……」
ボウズもトモも呆れて笑っている。けれど、その直後だった。
俺と龍の座っているベンチが、ミシ……と低く、何かが限界を迎えたような音で軋んだ気がして、視線を落とした次の瞬間。
バキッ、という大きな破壊音が弾けた。
龍が座っていた左側のベンチの脚が、二本とも同時にへし折れる。支えを唐突に失った龍の体は、横へと勢いよく傾いていき、受け身を取る間もないまま、剥き出しのコンクリートに頭を打ち付けた。
「龍! 大丈夫かよ!?」
パラパラと道路に散る木片を踏みながら、俺はすぐに龍の肩へ手を添えて、おそるおそる体を抱き起こした。
「うわ……ちょい、待って。無理、すげぇ痛ぇんだけど……」
龍はそのまま前のめりに俺へもたれかかってきた。顔を打った方の耳のあたりから、真っ赤な血が垂れている。それが顎を伝い、首筋を静かに流れて、俺の白いTシャツへと広がっていく。
「ヤバくね? 加藤醫院連れてくか……それより先に、龍の親に連絡したほうがいい?」
「待って! 龍の父ちゃん、今日は地鎮祭があるって言ってたからスマホ出らんねぇかも。俺の兄ちゃん呼んで、車出して貰おうぜ!」
太輔は龍のポケットからスマホを引っ張り出し、親父さんに留守電を残し始めた。
トモがその隣で自分の兄貴に必死に連絡を取っているのを確認した俺は、立ち尽くしているボウズに向かって叫ぶ。
「ボウズ、おばちゃんにタオルと氷もらってきて! 早く!」
「こ、氷? でも、そんなのあるかどうか……」
「いいから早く! 袋に氷……なければ、アイスでもいいから詰めろ! 冷やさないとだろ!」
怪我の手当てなんて、保健の授業で習った程度の知識しかない。この炎天下のせいか、龍の傷口からは血が絶え間なく溢れ、止まる気配がない。止血しなきゃ、という焦りだけが俺の体を突き動かしていた。
ボウズが店の中へと走り去るのを見送った時、ふと、太輔と視線がぶつかった。向こうも、血の気の引いた顔でこっちを見ている。
お互いに同じことを考えているのが、言葉にしなくても痛いほど分かった。
「光希、これ使え! ……おばちゃんに消毒液とか包帯ないか、俺も一緒に聞いてくる」
手渡された、太輔のいつも使っているスポーツタオル。
龍を支える腕に伝わる重みが、そのまま罪悪感の重さになってのしかかる。
言いようのない不安が、毒のようにじわじわと胸の中を侵食していくのを、俺はただ黙って耐えるしかなかった。
体温が上がり、呼吸がわずかに乱れ始めた頃、視界の先に緑と白の幅広いストライプの幕が見えてきた。色褪せたトタン屋根の下、低く垂れ下がったその日除け布は、熱を含んだ風が吹くたびに、やるせなく、ゆるく揺れている。
看板には「松田商店」の文字。俺たちが物心つく前から、時が止まったように佇んでいる駄菓子屋だ。
店先には真っ赤な筐体のガチャガチャが四台、日焼けしたまま並んでいる。店外に置かれたアイスクリームの什器はすっかり年季が入り、ひび割れた赤と白の太陽マークが掲げられた木のベンチは、今にも道路へ滑り出しそうな勢いでせり出していた。
子供の頃から、何ひとつ変わらない。この町には、そうやって十数年以上も形を変えず、居座り続けているものが多すぎる。
ベンチのあたりには、龍とボウズ、それにトモが、いつも通りの退屈を絵に描いたような顔でたむろしていた。
「おー、来た来た。おっせーよ、お前ら」
ボウズが、口に咥えた棒付きキャンディーを転がしながら、片手をひらつかせた。
俺は太輔と少しだけ距離を置いて歩きながら、まだ熱を帯びている気がする唇を手の甲で拭う。
「わりぃ、ちょっと手間取ってさ」
太輔が、何でもない風を装って答える。その声がいつもより低く響いたのは、気のせいだろうか。
俺たちは、いつもと同じ顔を作って、その輪の中へと入っていった。
「太輔。お前、もう出歩いて大丈夫なん?」
龍が言った。心配しているのに、どこか飄々とした声だった。
「ああ、別に大したことない。打撲で済んだし」
「ならいいけど。お前は昔っから、ああいうピンチには強運よなー。さすが、持ってる男」
太輔は返事をするより先に、店の奥に向かって歩いていった。薄暗い店内の奥に、おばちゃんの小さな背中が見える。
「おばちゃん、コーラふたつ!」
バカでかい声だった。いつもより更にもう一段、音量が上がっている。おばちゃんはそれでもよく聞こえていないらしく、こちらへ顔を向けるだけで動かない。俺たちが子供の頃から「おばちゃん」と呼んでいたその人は、いつの間にかおばあちゃんになってしまっていた。それでもおばちゃんは、おばちゃんとしか呼びようがない。呼び方すら、昔のまま取り残されている。
「だーかーら、こ、お、ら!」
太輔が耳元で叫ぶようにして声を張り上げ、小銭を差し出す。おばちゃんは「あいよ」と短く応じると、受け取った硬貨を数えるでもなく、そこらへんに無造作に置いた。
「好きなの持っていきな」ということなのだろう。レジの数字を打ち込むことさえ、今は難しいのかもしれない。
かつて俺たちが、放課後の悪ふざけで「クソババアチャレンジ」なんてくだらない遊びを仕掛けた時は、あんなに元気だったのに。
語尾が消えないうちにレジ横から猛然と飛び出してきたおばちゃんは、逃げる俺たちの脳天に鋭いゲンコツを五発も叩き込んだ。敗因は、あまりに重すぎたランドセルと、おばちゃんの規格外の瞬発力だった。
「うわー、めっちゃギンギンに冷えてる。最高でしかないわ」
太輔は冷えた瓶コーラを二本抱えて店から戻ってくると、一度も目を合わせないまま、俺の胸元へぐいと押しつけるように片方を渡した。そうして、逃げるようにさっさとトモの隣へ腰を下ろす。
(……何だよそれ。いきなり、よそよそしくすんなボケ。かえって不自然に思われるだろうが)
俺は少しの間、不満に似た怒りを抱えて、瓶を持ったまま動けなかった。
「あー、暑すぎる。そんで、この猛暑の中でカップ麺食ってる俺らは確実にイカれてる」
「学校のプールにでも不法侵入できねぇかな。全身ぶち込みたい気分だわ」
ボウズと龍が、駄菓子屋特有のあの安っぽいカップ麺をプラフォークですすりながら言った。熱い湯気が立ち上るそばから、乾いた空気に溶けて消えていく。
二対のベンチの前、熱を持ったアスファルトの上には、すでに飲み干されたり結露したりしている全員分のコーラ瓶が並んでいた。
「侵入したところで、プールは屋上だろ。あそこの鍵が開いてなきゃ無理ゲーだって。大人しく秋が来るのを待つしかねーよ」
トモが、俺が喉元まで出かかっていたツッコミを代弁してくれた。それから「光希も食う?」と、真っ赤に染まった酢だこを数個、手のひらに分けてくれる。こういう何気ない気遣いができるのが、トモの憎めないところだ。
俺はようやくベンチの端に座り、コーラの瓶に唇を寄せた。勢いよく弾けた炭酸が、瓶の口から溢れそうになる。
「てか、文化祭の模擬店って結局、なにすることに決まったんだっけ?」
麺を啜り終えたボウズが、ずり落ちた黒縁眼鏡を指でくいっと押し上げながら聞いた。俺はわざわざ口に出したくなくて黙り込んでいたが、代わりに太輔が面倒くさそうに答える。
「喫茶店だってよ」
「へぇ。……ってことは、光希。お前、また女装すんのか?」
龍の茶化すような問いに、俺は露骨に顔をしかめた。嫌悪感と憂鬱が混ざり合った表情を、取り繕う気力すら湧かない。
うちの高校の文化祭は、一般開放といっても来場者なんて近所の住人くらいで、規模も小さい。八月の末、夏休み明けにたった一日だけ開催される、地域に根ざしたささやかな催しだ。
それでも、小中高とほとんど変わらない顔ぶれで過ごす、数少ない特別な行事のひとつだった。
「……いや、断る。去年もやらされたし、今年はもう絶対やらねーって決めてるから」
「何かと白羽の矢が立つよな、お前は。合唱コンのピアノだって、結局この前、先生に拝み倒されてただろ」
トモが憐みの目を向けて言う。確かにそうだ。俺は学校の中では成績が良い方だし、決して目立つタイプではない。けれど、「困ったら嶋田に頼めばいい」という空気がクラスにはあって、たぶん皆も先生もそう思っている。
ピアノに関しても、この辺りには音楽教室なんて一軒もないから、そもそも弾ける奴がいない。俺が弾けるのは、母が昔かなり力を入れてピアノをやっていた名残で、物心がつく前から叩き込まれたようなものだ。自分で希望したわけでもないのに、気がついたら当然のように「弾ける役」として枠に組み込まれている。
龍が「足りねえ」と言い出し、すでに瓶を空にしていた太輔を誘って、追加の駄菓子を漁りに店の中へ入っていく。
あいつらの背中が暖簾の向こうに消えるのを見届けてから、視線を手元に戻した時、ボウズがちょっとだけ言いにくそうに、でも我慢できないといった様子で口を開いた。
「俺、今『ピアノ』って聞いてアレ思い出した。小学校の時、太輔がさ……」
「バカ。それ太輔の前で言ったら、マジで殺されるぞ」
トモがたしなめるように、ボウズの坊主頭を平手でベチッと叩く。決して洒落ではない。ツルツルに剃り上げられたその頭は、叩くと実にいい音が鳴る。俺たちの間では、もはや景気づけの太鼓代わりみたいなものだ。
ボウズは「いてっ」と大袈裟に頭を押さえながらも、ニヤニヤとした笑みを崩さない。
「何だよ、なんの話?」
「えっ、あの……小四の時のことだよ。光希がピアノの伴奏に選ばれたとき、タケシがさ」
タケシ――。そんな名前の奴、うちの学年にいたっけか。
俺の怪訝そうな表情を読み取ったボウズは、信じられないものを見るような顔をした後、焦ったように身振り手振りを交えて早口で説明し始めた。
「光希、マジで忘れてんのかよ? タケシがお前のこと『男のくせにピアノなんか弾いて、顔も女みたいだし、チンコ付いてねーんじゃねぇの?』って揶揄って、無理やりズボン下げようとしただろ。そんで、太輔がブチギレてさ……。タケシの前歯、折ったじゃん」
そこまで説明されてようやく、記憶の底の方に沈んでいたものが、浮かび上がってきた。
放課後の、埃っぽい小学校の教室。
窓際に置かれた古いオルガンの前に座っていた俺は、音楽会に向けたピアノの練習の真っ最中だった。そこへ、当時ガキ大将として君臨していたタケシが、図体の大きな影を落として近づいてきたのだ。
太輔もクラスの中心人物ではあったけれど、タケシとは似ているようで、実際には対極にいた。
太輔は直情的だが正義感が強く、おかしいことはおかしいとはっきり言う。対してタケシは、すべてを自分の思い通りに支配しなければ気が済まない、傲慢な子供だった。
あいつが太輔を猛烈にライバル視していたのは子供心に分かったけれど、その性根はどこまでも卑劣だった。
顔の造作は霞がかかったように曖昧なのに、殴られた後に差し歯になった一本の前歯だけが、白浮きしていたのを思い出す。
「あんな大事件を忘れるとか、相当なボケだろ」
「あぁ、そういえばそうだったかも。……タケシ、って結局どうなったんだっけ」
「元々、あちこちに敵作ってたからな。居心地悪くなって、五年に上がる前に引っ越したんじゃなかったか?」
トモも当時、タケシにパシリにされては、誰にも言えない愚痴を俺にだけこっそり打ち明けていた。いつか二人でボコボコにしてやろう、なんて子供じみた復讐計画を立てていたけれど、それを実行する前に、太輔がひとりで完遂してしまったのだ。それも、再起不能なほど徹底的に。
教室の床に押し倒されたタケシに馬乗りになって、周囲の制止も耳に入らない様子で拳を振るっていた様子を思い浮かべる。
あの時の太輔の瞳は、俺が知っているいつもの穏やかな光を失い、文字通り怒り狂っていた。
『――タケシ、光希に謝れ! 謝れって言ってんだろ!』
耳の奥に蘇るその怒号。そんな大切な記憶さえ、俺は自分でも気づかないうちにどこかへ追いやってしまっていたらしい。
トモたちが居てくれてよかった、と思うけれど、違和感は拭いきれなかった。
(……俺、本当にこれで『思い出せた』って言えんのか……?)
不思議と心が動かないのはどうしてだろう。太輔が俺のためにどれほど怒り、どれほど拳を痛めたのか。
思い出せても、まるで他人の武勇伝を聞いた後のような、どこか冷めた温度でそれを見つめ返している自分が居た。
「今思えばさ、あれってタケシは光希のことが好きだったからやったのかな」
「はぁ? なんでそうなるんだよ」
「だって、好きな奴ほどいじめたくなるって言うじゃん。ブスじゃねぇのにブスって言ったりさ」
ボウズが俺の顔をまじまじと見ながら無責任な推測を口にしたが、トモが間髪容れずに、はっきりとした口調で首を横に振った。
「違うと思う。光希を傷つけたのは、タケシが本当に好きだった相手が太輔だったからだろ。……多分アイツは、太輔の一番になりたかったんだよ」
トモなりに、タケシの歪んだ深層心理までを見抜いていたのかと、数年越しの鋭い洞察に静かに感心してしまった。
俺はてっきり、太輔への嫉妬や対抗意識だと思っていた。けれど、そうではなかったのかもしれない。タケシの心の奥底には、眩しいほどの憧れや、もっと近くにいたいという形にならない渇望があって、叶わない怒りがすべてを攻撃に変えていた。そういうことだったんだろうか。
「でもさ、そんなの無理だろ。太輔の親友は光希。それは不動だ。俺らが入る隙もねーよ」
「まあな。だからこそ腹が立ったんじゃねぇの。どうあがいても入れ替われないから、一番邪魔な光希を傷つけたい、みたいなさ」
幼馴染たちの目にも、俺と太輔の腐れ縁は、それほどまでに強固なものとして映っている。
その事実を改めて突きつけられ、俺はいたたまれなくなって自分の膝の上に視線を落とした。
まさか、さっきまでその太輔とキスをしていたなんて、口が裂けても言えない。それも二回も。あまつさえ、あいつに舌まで突っ込まれそうになったなんて――。
「おーい。なんの話してんの?」
「いや、なんでもねー」
大袋のポテトチップスを片手に、太輔が戻ってきた。反対の手には、俺が一番好きな小さなヨーグルがふたつ。
「光希、ほら。お前が好きなやつ」
「……おう、サンキュ」
ぽいっとそれを俺の前に放り出してから、太輔はポテチの袋をパーティ開けしてベンチの真ん中に置いた。それを合図に、みんなが遠慮なく一斉に手を突っ込んで中身を奪い合う。
俺も一枚口に運ぼうとしたその時、ふいに肩を叩かれた。
顔を上げた先では、龍がポテチを二枚、アヒルのくちばしのように唇でくわえておどけている。もはや定番すぎるその悪ふざけに、俺は呆れながらも、ついつい噴き出してしまった。
「マジで馬鹿。いつまでやるつもりだよ、それ」
「光希がハタチになってもやってやるぜ。だってお前、絶対笑うじゃん」
ポテチを咥えたままのくぐもった声で、したり顔に答える龍。その言葉が、胸の奥にある棘みたいな場所にチクリと引っかかった。
ハタチになっても、龍は当たり前のように俺と一緒にいるつもりでいる。太輔以外のみんなに、この町を出て行くことをまだ何も言えていない。後ろめたい気持ちがこみ上げてくるのを感じながら、この空気を壊してまで打ち明ける勇気はなくて、俺はただ曖昧に笑い返した。
ふと視線を感じて横を向くと、太輔が俺を見ていた。一瞬だけ目が合って、それだけで太輔はすぐに顔を背ける。何もなかったみたいに、視線なんて最初から交わっていなかったかのように。
「光希、チューしようぜ。ほら、ブチュ~」
「やめろ、キモい。粉がつくだろ!」
龍がポテチのくちばしを無理やり、俺の口元に押し付けてくる。
その肩を押し返してふざけ合っていると、不意に視界の端を、ゆらりとした黒い影が掠めた。
「奪っちゃった♡ なーんつって……」
ボウズもトモも呆れて笑っている。けれど、その直後だった。
俺と龍の座っているベンチが、ミシ……と低く、何かが限界を迎えたような音で軋んだ気がして、視線を落とした次の瞬間。
バキッ、という大きな破壊音が弾けた。
龍が座っていた左側のベンチの脚が、二本とも同時にへし折れる。支えを唐突に失った龍の体は、横へと勢いよく傾いていき、受け身を取る間もないまま、剥き出しのコンクリートに頭を打ち付けた。
「龍! 大丈夫かよ!?」
パラパラと道路に散る木片を踏みながら、俺はすぐに龍の肩へ手を添えて、おそるおそる体を抱き起こした。
「うわ……ちょい、待って。無理、すげぇ痛ぇんだけど……」
龍はそのまま前のめりに俺へもたれかかってきた。顔を打った方の耳のあたりから、真っ赤な血が垂れている。それが顎を伝い、首筋を静かに流れて、俺の白いTシャツへと広がっていく。
「ヤバくね? 加藤醫院連れてくか……それより先に、龍の親に連絡したほうがいい?」
「待って! 龍の父ちゃん、今日は地鎮祭があるって言ってたからスマホ出らんねぇかも。俺の兄ちゃん呼んで、車出して貰おうぜ!」
太輔は龍のポケットからスマホを引っ張り出し、親父さんに留守電を残し始めた。
トモがその隣で自分の兄貴に必死に連絡を取っているのを確認した俺は、立ち尽くしているボウズに向かって叫ぶ。
「ボウズ、おばちゃんにタオルと氷もらってきて! 早く!」
「こ、氷? でも、そんなのあるかどうか……」
「いいから早く! 袋に氷……なければ、アイスでもいいから詰めろ! 冷やさないとだろ!」
怪我の手当てなんて、保健の授業で習った程度の知識しかない。この炎天下のせいか、龍の傷口からは血が絶え間なく溢れ、止まる気配がない。止血しなきゃ、という焦りだけが俺の体を突き動かしていた。
ボウズが店の中へと走り去るのを見送った時、ふと、太輔と視線がぶつかった。向こうも、血の気の引いた顔でこっちを見ている。
お互いに同じことを考えているのが、言葉にしなくても痛いほど分かった。
「光希、これ使え! ……おばちゃんに消毒液とか包帯ないか、俺も一緒に聞いてくる」
手渡された、太輔のいつも使っているスポーツタオル。
龍を支える腕に伝わる重みが、そのまま罪悪感の重さになってのしかかる。
言いようのない不安が、毒のようにじわじわと胸の中を侵食していくのを、俺はただ黙って耐えるしかなかった。



