夏を迷えど、遥けし恋はますばかり

 蛇神との契約の効力が発揮されたのか、あのあと太輔の家でゲームをして過ごしたけれど、俺が黒い影を見ることも、太輔が怪我をすることもなかった。
 キスの後だけあって、確かに気まずい空気が流れた。けれどそれは、夏祭りの後に漂っていた、隔たりを感じるものとは決定的に質が違っていた。

「……太輔、お前練るの早すぎなんだよ。気泡めっちゃ入ってんじゃん、最悪」
「うるせーな。お前が急かすからだろ……。少しでも膨らんだ方が美味そうかと思ってやってんのに」
「十年も作ってて一向に上達しねぇよな。もっと優しく混ぜろよ、優しく」

 一番の粉を入れた瞬間に広がる、不自然なほどケミカルな空色。部屋に充満する、どこか懐かしくて甘ったるいソーダの匂い。
 花火の夜の気まずさが、底冷えする水に足を踏み入れてしまったような、二度と引き返せない寂しさを含んでいたとするなら。
 今のそれは、もっと熱っぽく、じりじりと肌を焼くような感覚だった。
 触れれば溶けて、一度混ざり合ってしまったら二度と元には戻れない。そんな怖さと恥ずかしさがあるからこそ、お互いが腫れ物に触るように、決定的な話題を避け合っていた。

「光希、早く助けに来て。気づいたら雑魚が大量に湧いて、めっちゃ囲まれてるんだけど」
「お前、操作ガバすぎだろ。俺は装備強化済みだから無双してやるよ」

 ゲームの画面を眺めているふりをしながら、俺は何度も太輔の唇を盗み見た。コントローラーのボタンを押す指先に集中しようとしても、視線は勝手にそっちへ流れていく。面と向かって話している時はもっと始末に負えない。

「つーかさ、事故のせいで光希の答案写し終わってねーわ。三日で終わらせる計画だったのに」
「あー……龍たちも同じこと言ってた。トモ以外は一人三千円で写させてやろうかな」
「ウケる。お前、そんなに金稼いでどうすんだよ」

 太輔が何かを喋るたびに、その口の動きをいつもより丁寧に追ってしまう自分がいる。声の内容より先に、唇の形が目に入る。そんな事実に気付いて、得体の知れない自己嫌悪に苛まれ、俺はそっと奥歯を噛みしめていた。



 翌朝。待ち合わせ場所は、いつもと同じ。太輔が事故に遭ったあのカーブミラーの下だ。
 時刻は七時四十五分。いつもより、十五分早い。キスをすることを見越して、それなりのゆとりを持って設定した時間なのだけれど、自分でも可笑しいような、恥ずかしいような気持ちになった。

「行こうぜ」

 太輔が短く言った。おはようの挨拶も、これからのことへの確認も省いた、ひどく素っ気ない響き。

「……どこでするんだよ」

 問い返した自分の声が、情けないほどわずかに上ずった。太輔は呆れたように鼻を鳴らす。

「アホ。こんな目立つ場所でできるかよ。……人のいねー所に決まってんだろ」

 それだけ言って、太輔は俺を促すように前を歩き出した。
 カーブミラーの向かい側――石垣とコンクリートの外壁に囲まれた家の側溝には、あの日、軽トラがこすりつけた白い塗料が傷跡のように生々しく残っていた。雨にも風にも消えることなく、乾燥したアスファルトの上で白く浮き上がっている。
 太輔は、そこへ目を向けようとはしなかった。あえて顔を背けるように視線を逸らし、高架下の暗がりへと入っていく。その強張った横顔に、俺は言葉をかけることができなかった。

「……蛇神は、ついて来てねぇのか?」

 歩きながら、太輔がぽつりと尋ねた。視線は前を向いたままだけれど、その声のトーンは柔らかい。

「うん。でも……見えなくても、ちゃんと守ってくれてると思う」

 太輔の家でふと姿を消して以来、蛇神は俺の家にも現れなかった。朝起きたら枕元にいた、なんてホラーな展開もない。神様というのは、これほどまでに気まぐれなものなのだろうか。それとも、あの蛇神特有の性分なのか。俺にはまだ、計り知れなかった。
 前方から、もみじマークを貼ったグレーのセダンがゆっくりと走ってくる。一昨日の雨が残した水たまりが、アスファルトの窪みで朝の光を鈍く溜めていた。セダンのタイヤがそこへ差し掛かった瞬間、濁った飛沫が鋭い弧を描いてこっちへ向かってくる。

「危ねっ」

 不意に、太輔の手が俺の手首を掴んだ。素早く、けれど乱暴ではない動き。水たまりの飛沫が、俺たちがさっきまで立っていた場所にピチャリと音を立てて散った。
 引き寄せられた先、掴まれた手首から伝わってくる太輔の体温を、俺は振りほどこうとは思わなかった。

「これって、光希からする縛りとか……ルールみたいなのって、あんの?」

 コンクリートの壁に背を預け、腕を組みながら太輔が言った。
 俺は当然、自分からするつもりでいた。太輔の方からしてもらうなんて、想像の範疇にすら入っていなかったから、その問いかけはかなり意外だった。

(……は? こいつ、自分から俺にキスする気あんのかよ)

 そんな疑問が、水面に浮かぶ細かい気泡みたいに、ぷつぷつと浮かんでは消えた。主導権を握りたいのか。それとも、俺からされるのがそんなに嫌なのか。
 聞けるわけもないまま、それらは言葉になる前に弾けて消える。
 胸の奥が、少しだけ変な感じがした。ドキッとしたのか、戸惑ったのか、自分でもよく分からない。

「いや、分かんねぇけど……俺が契約してるんだし、俺からじゃないとダメなんじゃねぇかな」
「……じゃあ、光希からして。さっさと済ませようぜ」

 まるで、溜まった宿題を片づけるような言い草だった。「こんなのなんてことない」と言わんばかりに、平然を装うような響きが言葉の端々に滲んでいる。
 俺は今朝からずっと、このことばかりを頭の隅へ追いやったり引き戻したりして、どうしようもなく翻弄され続けてきたというのに。

「太輔は……俺とすんのに、抵抗ないのかよ」
「心づもりはしてきた。……光希は嫌だろうけどさ」

 格好つけた言い方。でも、自分のせいで俺に無理をさせている、という申し訳なさが声の奥に混じっているのが分かった。
 俺たちの会話は、いつだって上辺をなぞるばかりだ。肝心なことは何ひとつ言葉にしようとしない。
 その代わり、仕草や表情、わずかな間の取り方で、互いの腹の内を読み合う。それは「察しろ」という甘えではなく、幼い頃からずっと隣にいたからこそ、嫌でも分かってしまうのだ。言語化するより先に、肌が、細胞が理解しているような感覚。
 だから太輔の「嫌だろうけど」が、本当は「ごめんな」という意味を含んでいることも、痛いほど伝わっていた。

 視線を逸らしたまま、一歩だけその距離を詰めた。
 太輔の胸板に、そっと掌を当てる。厚くて、驚くほど高い体温。Tシャツ越しに鼓動の位置が突き刺さるように伝わってきて、俺は逃げ出したくなるのを堪え、指先にわずかな力を込めた。

「太輔、ちょっと……届かない。屈めよ」

 絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。喉の奥に熱い塊が詰まっている気がして、いつもの自分の声じゃないみたいだった。

「はいはい」

 太輔が、どこか投げやりな様子で少しだけ膝を折る。前髪がさらりと落ちて、目が隠れた。さっきまで見えていた二重瞼に縁どられた目が前髪の向こうに沈んで、代わりに鼻筋とか、頬の輪郭とか、普段はあまり意識しない部分が急に視界に入ってくる。
 近い。
 吐息が触れ合うほどの距離。肌を撫でるこの熱が、夏の風のせいなのか、それとも互いの体温が異常に跳ね上がっているせいなのか、俺は判断することを放棄した。「分からない」ということにしておいた方が、ずっと楽だったから。
 もしどちらかに決めてしまったら、積み木のように積み上げてきた俺たちの関係が、音を立てて崩れ去ってしまう気がした。
 太輔の唇が、目の前にある。
 少しだけ乾いていた。唇の端の皮が、ほんの少しだけめくれている。柔らかそうな粘膜と、そうではない境界線。
 やっぱりな、という一言目に浮かんだ感想は、ずっと前からそれを知っていたことになる気がして、眉を寄せる。
 いつから見ていたんだろう。昨日の朝から? それとも、もっとずっと前から?
 答えは出ない。けれど、俺はずっと前から、無意識のうちにこいつの唇を視線で追っていたのだと、突きつけられた気がした。

 屈んでもらってもなお足りない身長差を埋めるため、俺は太輔のTシャツの襟元を掴むようにして、力を込めて自分の方へ引き寄せた。
 同時に、思い切り背伸びをする。いよいよ逃げ場のない現実が迫ってきて、指先が微かに震えだした。

(こいつ……今、身長何センチだよ)

 恥ずかしさを誤魔化すみたいに、そんな疑問で頭の中を埋め尽くす。そうしていないと、意識がもっといけないところへ引っ張られそうだった。

 浮かんできたのは、四月の体力測定の朝だった。
 体育館の隅で、身長を測り終えた太輔が振り返って「ついに一八〇越え!」とあのバカでかい声で叫んだ瞬間。長袖ジャージを腰に巻いて、龍と笑い合うその横顔。斜めから差し込む朝の光。
 あの時も、俺は見ていた。
 笑い声に混じって、龍の半ば逆上した返事を聞きながら、俺はずっと太輔を見ていた。
 見ていたくせに、知っているくせに、こんなことを考えていないと、気がおかしくなりそうだった。

「……途中で目ぇ開けたら、ぶっ殺すからな」
「ちょい待ち。そもそも、俺を死なせないためのキスじゃねえのかよ」

 うるさい。いちいち減らず口を叩くな。そんな苛立ちに似た焦燥を抱えながら、勢い任せに顔を寄せると、唇が重なった。
 触れて、お互いに静止した。どちらも動かなかった。風が止まったみたいに、周りの音が遠のく。
 太輔の唇は、乾いているのに、温かかった。それだけのことなのに、その感触が唇から心臓まで一本の細い線で繋がるみたいに伝わってくる。目を閉じていると、自分の鼓動が信じられないほどうるさかった。心臓って、こんなにうるさく鳴るものだっけ。


「……っ、ん……」

 男とキスをするなんて、想像しただけで鳥肌が立ちそうなはずなのに。そうならないのは、こいつの命がこの一回に懸かっているという使命感のせいなのか。それとも、相手が他ならぬ太輔だからなのか。
 どちらかの理由を無理やり選ぼうとして、けれど選ぶのが怖くて、俺は全意識を唇の感触だけに無理やり押し込んだ。余計なことを思考の隙間に滑り込ませないように、必死で蓋をする。
 高架下のトンネルを通り抜ける空気は、なぜか薄ら寒かった。真夏の朝のはずなのに、肌を撫でる風だけが季節を間違えたみたいにひんやりとしている。
 それなのに、触れている一点だけが焼けるように熱い。その不自然な温度差が、かえって不気味だった。

 蛇神は、粘膜を通じて力を送り込む、と言っていた。
 その声を思い出した瞬間、背筋を何かが這い上がった。皮膚の内側を、細いものがゆっくり通り抜けていくような感覚。
 虹彩の中心で、縦にまっすぐ割れた瞳孔。赤の中に沈む黒が、見つめ返してくるたびに、自分が何か別のものに作り変えられていくような気がした。
 暗がりの中でぬらりと光る鱗。人の形をしていても、声が人の言葉を喋っていても——あれは確かに、人じゃなかった。
 俺たちはいま、そういうものと契約している。
 その力が、この唇から太輔の中へ流れ込んでいる。今、この瞬間も。
 せめて唇以外にやりようはなかったのか、とぼんやり思った。粘膜を通じて、というなら、他に粘膜同士が触れる場所といえば——と考えて、答えに辿り着いた瞬間、俺は勢いよく顔を背けた。

「もういいだろ」
「おう。……行こうぜ、龍たちが待ってる」

 それぞれに、左右逆の方向へ顔を背けた。耳が熱い。というより、顔ごと熱かった。赤くなっているのをからかわれなくてよかった、と思いながら、ちらりと太輔の顔を見上げる。向こうもやっぱり相当だったみたいで、手の甲を口元にきつく押しつけていた。拳を作るみたいに指を曲げて、唇のあたりを隠している。
 男同士で、幼馴染で、こんなことをしている。冷静に考えれば考えるほど、自分でもよく分からなくなってくる。
 けれど太輔は、俺が想像していたような、唇を拭うとか、露骨に顔をしかめるとか、そういうことはしなかった。ただ手の甲を当てて、押し黙っている。
 その沈黙が、責めているわけでも、嫌がっているわけでもないのがなんとなく分かって、意外で——ほっとした。

「もっと情熱的じゃないと、十分に力を送り込むことが出来ないかもしれんな」

 声が、真横から降ってきた。
 蛇神が、いつの間にかそこに立っていた。どこから現れたのか、気配すら感じなかった。じっとりとした赤い目をこちらへ向けて、扇子を口元に添えながら。扇面の向こうに透けて見える唇が、弧を描いているのが分かる。
 悪趣味なものを心から愉しんでいる顔だった。俺たちが戸惑えば戸惑うほど、その目の奥の光がゆらりと揺れているように見える。

「急に現れるの、びっくりするからやめて欲しいんですけど」

 俺の一言に、蛇神は「はて」と首を傾げた。何のことかととぼけるように、それでいて俺を掌の上で転がしているみたいな顔。
 言葉の一つ一つを、舌の上で確かめながら、転がすような。そういう喋り方だった。

「私はずっと見ているんだ。お前たちに姿が見えないとしても、何を考えて、何をしているかまで——ちゃあんと視えている」

 背筋がうすら寒くなった。それが恥ずかしさからなのか、恐ろしさからなのか、自分でも判断がつかなかった。
 その言葉に、太輔が不愉快そうに眉根を寄せる。
 そしてこともあろうに、蛇神の目の前で、俺の顔を両手で包んだ。熱い手のひらだった。頬骨のあたりに指が触れて、唇の横に親指が添えられて、ゆっくりと上へ向かせられる。

「えっ? ちょっと、太輔――」

 抗議の声が形になる前に、唇を強めに塞がれた。
 さっきのキスとは違った。あれが静止だとするなら、これは意志だ。
 太輔の舌先が、唇の真ん中をわずかに割り開こうとするように動いて、俺は思わず唇をぎゅっと閉じて、その侵入を拒む。
 すると下唇を二度、柔らかく食まれた。一度目より二度目の方が、少しだけ強い。それから、ゆっくりと、唇が離れていった。

「これで満足かよ。光希からするとか、そういう縛りも無いんだろ?」

 呆然と立ち尽くす俺を置き去りにして、太輔は目の前の蛇神に真っ向から喧嘩を売るような、険のあるトーンで言い放った。
 一歩も退かない、硬い声。怒っているのとも違う。意地を張っているのとも違う。俺が知っているいつもの太輔とは、明らかに異質な熱を帯びていた。

「……あぁ、構わないさ」

 蛇神の声には、さっきより少しだけ面白くなさそうな色が混じっていた。扇子をゆっくりと閉じて、目を細める。楽しんでいるのか、苛立っているのか、その表情は相変わらず読めなかった。
 太輔は蛇神にちらりと苛立ったような一瞥をくれてから、俺の手首を掴んだ。さっきより強い力で、返事も待たずにグイグイと引っ張って歩き出す。
 ふたつのはずの足音が、コンクリートの壁に反響して、三つになり、四つになり、どこかから涌いて出た見えない誰かに取り囲まれているみたいな音になった。前からも後ろからも降ってくる足音の残響が、高架下の狭い空間の中で重なり合って、ずれて、また重なる。自分たちの足音なのに、どれが自分のものか分からなくなってくる。
 まるでこの暗がりの中に、俺たちの他にも誰かが歩いているみたいだった。

「っ、待てよ……太輔!」
「待ち合わせに遅れる。早く行こうぜ」

 トンネルを抜けた、その瞬間——まるで幕が上がるみたいに光が降ってきて、夏の朝が目の前に広がった。アスファルトに反射する白い陽光が、手でひさしを作らなければいけない程に眩しい。
 松の木が風に揺れて、光をばらばらに砕いて地面に落としている。影と光が細かく入り混じって、足元でちらちらと揺れていた。
 たった数歩の距離なのに、まるで別の世界へ踏み出したみたいだった。
 あの暗がりの中で冷たい空気に包まれて、太輔の唇が触れて、蛇神が現れて——それは全部、トンネルの向こうで起きた非日常。
 先を歩く太輔は、そう区切りをつけるように、振り切りたいみたいに足を速めた。肩が少しだけ上がっていて、力が入っている。後ろ姿なのに、表情が透けて見えるような気がした。

 こういう時の太輔を、俺はよく知っていた。
 何かを感じているのに、感じていないふりをして。足を速めることで、誤魔化したがる歩き方まで。

「置いて行くなって」

 その背中に、いつもより大きな声で呼びかけた。
 太輔が立ち止まって、振り返る。
 その顔に浮かんでいた表情を、俺はうまく言葉にできなかった。傷ついているみたいな、困っているみたいな、怒っているのとも違う。複数のものが混ざり合って、どれにも名前がつけられないような顔だ。
 朝の光が差し込んで、その目の下の影をいつもより少しだけ濃く見せている。

「それ、お前が言う?」

 太輔の声は、低かった。

「……光希が俺のこと、この町に置いて行くって言ったくせに」

 それは打ち明けるというより、零れ落ちたみたいな言い方だった。
 ずっと飲み込んでいたものが、堪えきれずに出てきた、みたいな。俺はその言葉を受け取ったまま、何も返せなかった。
 返す言葉を持っていなかったのか、それとも持っていたのに出せなかったのか、自分でも分からないまま。
 ただ、その少し後ろを歩くしかなかった。