夏を迷えど、遥けし恋はますばかり

 契約を交わしたあと、蛇神はくすんだ赤い番傘をゆっくりと開いた。パラパラと雨粒が傘布を叩く音が境内に響く。石畳の上を草履が擦っているはずなのに、その足音だけは何故か聞こえてこなかった。
 枯れた紫陽花が雨の重みに耐えかねて項垂れている。その茂みの前で、蛇神の輪郭がふわりとほどけた。霧に溶けたわけではなく、ただそこにあった存在の密度がさらさらと薄まるように、静かに雨の中へと還っていく。
 最後まで視界に残ったのは、あのくすんだ赤の鮮烈な残像だけ。それも次の瞬間には、降り続く雨の向こうへ跡形もなく消え去っていた。
 境内には、俺一人だけが取り残された。
 ずっと傍で見守ってくれるわけではないらしい。まぁ、当たり前か。神様にそこまでの奉仕を求めるのは、流石に贅沢すぎるのかもしれない。

 そんなことよりも今は、この契約の効力が本物かどうかを確かめるのが先決だ。
 けれど、それが証明されるのは――太輔にキスをして、あいつが一日を無傷で過ごし、俺があの気味の悪い影を見なくなってから。
 すべては、その後の話だった。



 目が覚めると空は雨上がりの薄い青で、蝉が鳴いていた。
 朝の八時前に顔を合わせるなんて、泊まりのとき以外にはない。それでも俺は、いつもより三十分も早く家を出ていた。
 太輔の家までの道。自転車で行けば五分もかからないのに、今日はなぜか歩いていた。急ぐべき用件があるはずなのに、足が思うように前へ進まない。
 道沿いの田んぼが、昨日の雨で水かさを増している。朝の光が水面に細かく反射して、思わず目を細めるほどに眩しかった。

 太輔は今頃、何をしているだろう。まだ寝ているかもしれない。昨日あんな事故に遭ったのだから、今日くらいはゆっくり寝かせてやるべきなんだろうけれど。
 そう考えながら、俺は太輔の家の前に立った。おじさんとおばさんの車がもう無くなっている。
 鍵のかかっていない玄関を、少しだけ躊躇(ためら)ってから勢いよく開けた。

「はぁ!? お前、来んの早すぎだろ。どんだけせっかちなんだよ」
「いいから入れろよ。おばさんたち、もう居ねぇの?」
「昨日、俺が事故って職場の人に色々迷惑かけたからさ。二人とも早出したわ」

 太輔は歯ブラシを咥えたまま、口元を白い泡まみれにして立っていた。めちゃくちゃ間抜けな顔だ。
 昨日は救急車で運ばれてあんなに大変だったのに、こうしていつも通りに顔を合わせられたことに、安堵の混じった溜息が漏れる。
 俺は玄関のドアをぴったりと閉めて、吸い寄せられるように鍵のつまみを下ろした。カチャン、と硬い音が響く。そうしたのは、「今からすることを誰にも見られたくない」という、後ろめたさのせいなのかもしれない。

 太輔は洗面所で口をゆすぎ、腕で雫を拭いながら、自室へと続く階段を慎重に上がっていった。
 俺はその後ろ姿を追いかけながら、スマートフォンの時計を確認する。

 ――午前七時五十八分。

 蛇神との約束、八時二分まで、あと四分しかなかった。

「……太輔、ごめん」
「え? 何で光希が謝るんだよ。てか、何に対して?」
「いや……なんとなく……」

 理由は言えなかった。
 お前に「罰が当たればいい」と最低な呪いを願ってしまったこと。そして、その身勝手な祈りのせいで、お前が立て続けに怪我や事故に遭っているんじゃないかという罪悪感。
 何でも話せる幼馴染——太輔はずっと、俺にとってそんな存在だった。だからこそ、今さら否定されるのが怖かった。
 自分の中の一番暗く濁った部分を見せて引かれることも、「お前のせいじゃねぇだろ」と笑って流されることも、今の俺には同じくらい耐えがたい恐怖だった。
 伝えようと思えば、いくらでも機会はあったはずなのに。言葉は喉の入り口でいつも形を失い、臆病な沈黙を選び続けていた。

「まあ、お前のことだから、どうせ『俺がもっと早く家を出てれば』とか何とか、自分を責めてんだろ」

 言い方は相変わらずムカつく。けれど、それも図星だった。俺は何も言葉を返せず、ただ視線を泳がせた。
 太輔の勉強机の上に置かれた、蓄光の時計が目に入る。八時ちょうど。――あと二分。
 何のために三十分も早く家を出てきたんだ。このままじゃ全部、意味がなくなる。

「逆にさ、光希が来なくて良かったよ。あんなとこにお前までいたら、巻き込まれてたかもしんねぇじゃん」
「いや……良いとか、悪いとか。そういう話じゃねぇだろ。お前、怪我したんだぞ」

 昨日、あの神社の境内で蛇神と交わした契約。それを一から話すつもりだったのに、肝心なことは何一つ口にできないまま、刻一刻と猶予だけが削られていく。
 もう、いい。ここで説明して、信じてもらえなくて、無駄に抵抗されるのも面倒だ。
 そんな半分やけくそのような、けれどどこか切実な衝動に突き動かされて、俺は隣に座る太輔に向き直った。

「……太輔、ちょっと目ぇ閉じて」
「あ? なんだよ。俺の話聞けよ、今めちゃくちゃカッコいいこと言ったぞ」
「……いいから。瞼のところに、なんか髪の毛ついてる。取ってやるよ」

 太輔は一瞬だけ怪訝そうに眉を寄せたが、すぐに「絶対痛くすんなよ」と呟いて両目を閉じた。
 苦しまぎれの幼稚な嘘なのに、こういうところだけは昔からバカみたいに素直だ。

 両目を閉じた太輔の顔を、至近距離でじっと見つめる。
 正面から、こんなにまじまじとあいつを見るのは、生まれて初めてな気がした。
 何日も、何百日も、何千日も隣にいたはずなのに。
 子供の頃に比べて、肌は日に焼けて逞しくなり、顎のラインも鋭くなった。黙っていればずいぶん精悍に見える顔だ。
 軽口が止まったその顔を見ていると、普段の「幼馴染」という記号の裏側に隠れていた輪郭が、ひとつ、またひとつと浮かび上がってきた。

「おい、早く取れよ。……無言なのが逆にこえーんだけど」
「待ってろ。手が滑ったら目潰しだから、絶対目ぇ開けんなよ」

 視線が吸い寄せられるように太輔の唇に落ちて、金縛りにあったようにそこから動かすことが出来なかった。

(……これは義務だ。やらなきゃいけない儀式。太輔を守るための、ただの手段だ——)

 自分に言い聞かせるための呪文を頭の中で繰り返そうとして、途中で言葉が途切れた。
 顔を近づけていく最中、呼吸をどうすればいいのか分からず、吐くでも吸うでもない中途半端な状態で、じりじりと距離が縮まっていく。

 キスなんて、したことがない。
 真正面から突っ込んでは、鼻の頭がぶつかってうまくできないことも、この土壇場で初めて知った。
 少しだけ首を傾け、不器用な角度をつける。
 そうしてようやく、その場所に、唇が届こうとしていた。

「光希……?」

 ほんの少し、触れただけだった。それでも太輔の唇の感触が、恐ろしく鮮明に伝わってきた。
 カサついていて、けれど柔らかくて、唇と唇が触れ合っている面積がどれほど小さくても、そこだけが切り取られたみたいに際立っていた。
 首筋のあたりから、体から滲み出たような男の匂いと、さっきの歯磨き粉のミントが混ざりあった匂いがする。
 どれくらいの時間だったのかは分からない。
 長くはなかったはずなのに、離れた瞬間に自分の心臓がひどくうるさく打っているのに気づいて、頬のあたりがじわ……と熱くなる。

「っ、お前、今……何して――」

 ふ、と視界が開けた先で、太輔が耳の付け根まで真っ赤にして狼狽えている。
 その奥にある蓄光の時計が、ぎりぎり八時二分を指していて、俺は心底安心した。
 これで、今日一日は大丈夫。蛇神が太輔のことを守ってくれる。
 胸を撫で下ろす俺に置いてきぼりにされた太輔は、面白いくらいに口をパクパクさせていた。お前は池の錦鯉か、と言いたくなる。

「まっ……マジでありえねーんだけど! お前、なに考えてんだよ!?」
「……そんなに騒ぐなよ。別に減るもんじゃないし、そもそもお前、初めてじゃないだろ」

 俺にとっては、正真正銘の初めてだったけれど、太輔は中学の時、先輩と付き合っていた時期がある。たかだか二、三ヶ月の短い交際だったけれど、その時、龍が「そろそろ、ヤることやったん?」と卑猥な手つきで茶化したのを、今でも覚えている。
 その時、顔を真っ赤にしながらも「当然だろ」と言い返していて、年頃の男子が通る道は、こいつの方が一足早く一通り済ませているものだと思い込んでいた。

「……だっつの」
「えっ?」
「今のがファーストキスだっつってんだよ!」

 首筋までゆで上がったような赤色に染めて、人生最大のショックを受けたと言わんばかりに両手で頭を抱え、ベッドの上で悶絶し始める。その反応があまりに予想外すぎて、俺は呆気にとられてしまった。

「え、美和先輩と……したこと、あるんじゃねーの。お前」
「……し、してねーっつってんだろ! する前に別れたし!」
「でも、龍には『やることやった』って……」
「だ、だから! ……手ぇ繋いで帰っただけだよ。ダサいと思われたくなかったから、あいつらの前では見栄張って嘘ついたんだよ!」

 太輔は膝の上に視線を落とし、大声で白状した。
 すべてが虚勢だったと分かった途端、さっきまで暴れていた鼓動の熱が、さらにじんじんと体中へ広がっていく。

「え、マジでごめん。……許して」
「いや、謝れって言ってるわけじゃなくて。なんでキスしたのかって聞いてんの! アイツらと仕組んだ、ドッキリか何か?」

 ボウズや龍、トモたちが仕組んだ悪趣味な悪戯かと問い詰められ、慌てて首を振る。
 蛇神のことを話そう。そう決めて、小さく拳を握り込んでから、一度深く息を吐き出した。

「違う。その……ちゃんと、理由があるんだ。太輔を守るためっていうか……」
「はぁ? マジで何言ってんの。お前、熱でもあんのか。加藤醫院行くか?」

 ほら、やっぱりな。脳内のもう一人の自分が、予想通りの太輔の反応にふんぞり返って腕を組んでいる。
 そもそものきっかけになった、あの夏祭りの夜まで遡って、必死に説明の順序を整理しようとしていた、その時だ。
 背後で、太輔のベッドがギシッ、と重く軋んだ。
 二人同時に、弾かれたように後ろを振り返る。
 そこには、シーツの上に寝そべって頬杖をつき、あの不敵な薄笑いを浮かべながら俺たちを観察している蛇神の姿があった。
 白銀の髪が枕の上に扇状に広がり、赤い瞳がゆったりと俺たちを射抜いている。
 まるで、極上の見世物でも楽しんでいるかのようだった。

「なんだ、つまらないな。百年前の男どもはもっと深く、互いの魂を啜り合うように接吻していたというのに。……最近は、その程度の慎ましやかな触れ合いを接吻と呼んでいるのかい?」

 喉の奥でクックッと、愉悦を隠しきれない様子で蛇神は言った。
 「なんで、よりによって今出てくるんだ」と毒づきかけた俺より先に、隣の太輔が弾かれたように動いた。驚愕のあまり声にならない悲鳴を上げながら、ベッドから勢いよく後ずさる。
 その背中が、俺の腕に激しくぶつかった。太輔はパニック状態で向き直るなり、俺の腕を両手で、骨が軋むほどの力で掴んできた。

「……光希、俺、なんかヤベぇのがそこに居る……っ! 階段から落ちた時、頭の神経までイカれちまったのかな!? 百パー見えちゃいけないヤツが見えてんだけど……!」

 早口で捲し立てる太輔の声は、隠しようもなく震えていた。俺の腕を掴む指先が、その恐怖の深さを物語っている。
 けれど、俺は一歩も動かなかった。逃げようとも、怯えようともしない俺の様子を見て、太輔は混乱の極みにありながらも、蛇神がゆっくりとあぐらをかいて座り直すその一挙手一投足を、蛇に睨まれた蛙のように見つめていた。
 蛇神の圧倒的な存在感に、否定することも、目を逸らすことさえも、出来ないでいるようだった。

「光希、お前にも……これ、見えてんのか……?」

 震える声で問う太輔の視線の先で、蛇神は赤い瞳を細め、獲物を値踏みするような眼差しを太輔へと向けた。

「タイスケ、私がお前を今日から守る。私とミツキが契約を結んだ。お前に降りかかる災難は、私の力で全て払いのけてやる」

 蛇神の声は、相変わらず静かで、よく通る。
 太輔の手は、助けを求めるように俺の腕を強く掴んだままだった。

「……俺の名前、なんで知って……つーか、何なんだよお前。オバケか?」
「蛇神様、とミツキには呼ばれているよ」
「えっ……蛇神様って……あの、山の上の!? じゃあ、光希が……あそこに行って、本当にお願いをしてきたってことか?」

 この町で育ち、親から「あそこの神様だけは冷やかしで近づくな」と言い聞かされてきたのは、太輔も同じだ。その禁忌の重さを、ちゃんと理解している。
 太輔が信じられないと言った様子で俺を振り返ると、掴んでいた手の力がさらに一段と強くなった。

「お前がまた怪我したり、事故に遭うかもって思ったら怖くなったから。……信じらんねーかもしんないけど、本物だよ」

 太輔に蛇神の姿が視えているのなら、もはや説明の必要もないだろう。祈るような心地でその目を見つめると、太輔は激しい動揺を隠しきれないまま、一度乱暴に頭をかき、腹を括ったように言い切った。

「信じるも何も、光希が嘘をつかないことくらい、俺が一番知ってる。……それに、実際に見えてるしな。信じねーわけにいかねーだろ。要するに、お前が蛇神様に……俺を助けてくれって、頼み込んでくれたんだよな?」

 静かに、一度だけ頷く。
 すると蛇神は、俺たちの深刻な空気などどこ吹く風と言った様子で立ち上がった。音もなく部屋の中を四角く歩き、太輔の学習机に飾られた、野球選手の首振り人形を扇子の先で気まぐれにつつき、「ほう」と興味深そうに眺めている。

「……あぁ、タイスケにも教えておこう。私が力を送り込むためには、毎朝八時二分までにミツキとの接吻が必要となる。一分でも過ぎれば、その日一日は守護を解く。そのことをお前もしっかりと肝に銘じておくことだ」
「はぁ!? せっ……接吻って……これから毎日、光希とキスしなきゃいけないってことかよ!?」

 なんだそりゃ、と露骨に顔を歪ませる太輔に、俺はたまらず視線を床へ落とした。

「待てよ、その……キス以外の方法はないのか? なんかこう、神様っぽく手をかざしてパワーを流すとかさ」
「……無理らしい。……俺だって、お前とキスなんてキモいからしたくねぇよ。でも、仕方ないだろ。もう契約しちゃったんだから」

 口に出した瞬間、自分のついた嘘が、小さな棘のように胸に引っかかった。
 ――キモいなんて、本当は少しも思っても居ないくせに。
 胸の奥の深い場所から、そんな問いかけが聞こえてくる気がして、俺は逃げるように黙り込んだ。

「待て。……その契約って、一体いつまで続くんだ? 毎日しないと守れないなら、これから一生、俺たちは……」

 太輔が蛇神に詰め寄ると、神は扇子を閉じ、優雅な動作で顎に当てながら、今度は目覚まし時計の方へと歩み寄った。
 着物の袖を風になびかせ、自分の庭でも歩くように振る舞うその姿は、この狭い子供部屋の空気からはあまりに浮世離れしている。蛇神が歩く場所だけ、温度が数度下がっているような錯覚さえ覚えた。

「おい、答えろよ。期限みたいなのはないのか!」

 太輔の切羽詰まった問いかけに、蛇神は扇子の影から赤い瞳だけを覗かせて、冷淡に言い放った。

「……さぁな。私は全知全能ではない。お前の身にいつまで厄災が続くかまでは、私の知るところではない」

 それだけ言うと、蛇神はまた扇子の先で首振り人形を小刻みに突き始めた。カチ、カチ、という規則的な音が、気まずい沈黙を埋めていく。太輔は心底呆れたように、深いため息を吐き出した。

「光希! お前なぁ……あー、言いたいことは山ほどあるけどよ! 契約するにしても、もう少し考えろって。お前、頭いいのになんでこういう無茶苦茶なことするかなぁ……」
「だって、『二度あることは三度ある』って言うだろ。今度こそもっと取り返しのつかない怪我とか……そういうのを考えたら、怖くなったんだよ」
「でも、そしたらお前の一生のお願いは、もうこれっきりなんだぞ。……本当に、俺なんかのために、それでいいのかよ」

 太輔は、胸が痛くなるほど申し訳なさそうな顔をしていて、「やめろ」と叫びたくなった。
 俺はお前が思っているような、清らかな善人じゃない。
 お前のためにこの道を選んだように見えて、本当のところは、自分の心を救いたかっただけなんだ。

 太輔が傷つくたびに、俺の中で何かが悲鳴を上げて軋む。その不快な軋みに耐えられなくて、耐えきれない自分が嫌で、だから神に縋った。
 太輔を守りたいという気持ちは本物だけれど、それと同じくらい――いや、もしかしたらそれ以上に、その「喪失」が怖かっただけだ。
 太輔が死ぬかもしれない世界に、俺は一秒も耐えられない。それは献身なんかじゃなくて、俺の身勝手な弱さだった。
 自分が壊れたくないから、お前という存在をこの世に繋ぎ止める契約を選んだ。その事実が、胃の奥でじくじくと醜く疼く。

 お前が謝る必要なんて、どこにもない。
 謝るべきは俺の方で、しかもその本当の理由すら、きっとお前には一生言えないんだから。

「別に。俺、それ以外に本気で叶えてほしいことなんて、ひとつも思いつかなかったし」
「……まあ、まだ正直、目の前のこいつのことは信じられねーけど……。俺らのことをずっと見守ってた神社の神様だってんなら、少しは安心か。……ありがとな。そこまで心配させて、マジでごめん」

 記憶が一日ひとつずつ消えていくことも、言えなかった。俺がお前に怪我をさせる原因を作った張本人かもしれないことも。罪悪感を隠したまま、ただ短くうなずく。それだけで精一杯だった。

 漂う気まずさを振り払うように、太輔はおっさんくさい「ヨッコラショ」という掛け声を上げながら立ち上がった。

「え、どこ行くんだよ」
「……お前が来たんだから、いつものアレ。食うだろ?」

 それだけ言い残して、太輔は階段をゆっくりと降りていく。
 二人きりになった部屋で、蛇神は扇子を帯の中に収めると、感情の読めない瞳を向けてきた。

「言わなくて良かったのか? 自分がかけた呪詛のことはさておき……ミツキ、お前がこの町を出るまで、その記憶が保つ可能性は極めて低いぞ」
「……言わない。記憶がなくなるなんて知ったら、太輔は絶対に、あいつ自身の『一生のお願い』を使って俺を助けようとするから」

 それだけは、必ず避けなければならない。自分のことなんて、一番後回しでいいんだ。
 太輔が守られて、俺を信じて、毎朝のキスさえ受け入れてくれるなら。それで充分だ。

 やがて、階段を慎重に上がってくる足音が聞こえてきた。太輔が木の丸いお盆を両手で大切そうに抱えて戻ってくる。
 中央にあるローテーブルの上に、安っぽい知育菓子のパッケージと、水の入ったコップを並べ始めた。

「え、何これ」
「光希がコップにしろってうるさいから、今日は学習してコップ有りバージョンにしてみた」
「……違う。そうじゃなくて、何でこんな、子どもみたいなお菓子なんだよって言ってんの」

 俺のことバカにしてるのか。キスの仕返しかよ、と心の中で毒づきながら太輔の顔を見やる。けれど太輔は、ピクリとも笑っていなかった。

「何その顔」
「……いや、それこっちの台詞。お前、うちに来たら絶対ねるねる食ってたくせに、いきなり何? 俺が怪我したのが心配で、食事が喉を通らねえってか? 折角、怪我人が運んできたってのによぉ」

 そんなヤワじゃねーだろ光希は、と頭をがしがしと撫でられる。
 大きな手のひらだった。雑で、力加減がいつも少しだけ強くて。
 幼い頃から、この手に頭を撫でられるたびに、俺は言い返せなくなった。抵抗する気力を、この手は昔からどこかへ持っていってしまう。
 撫でられながら、記憶が流れ込んできた。
 机の上に粉を盛大にこぼす、小さな手。プラトレーの縁からはみ出しそうになった粉を、慌てて押し戻そうとして余計に散らかす、不器用な指先。

『たいすけの、へたくそ』
『うるせぇなぁ。みつきひとりじゃ、つくれないくせに』

 粉の付いた指を舐めて、笑う太輔の顔。プラトレーの中に出来た、小さな宇宙みたいな泡の色。
 あの泡が弾けるたびに、二人で顔を近づけて覗き込んでいた。
 作れないんじゃない。要は、太輔に甘えたいだけだ。
 そうすれば、その時間は、俺は太輔のことを縛っておけるのを、ガキの頃から分かっていたから。

(……ねるねるが好きだったこと、俺、普通に忘れてた……?)

 太輔が教えてくれなかったら、思い出せないままだったかもしれない。それが怖かった。
 自分の予想よりずっと早く、しかも一番「当たり前」のことから最初に消えた。特別な記憶じゃない。劇的でも、感動的でもない、ただの日常の欠片が——気づかないまま、なくなっていた。
 どれだけ大切な記憶が残っていても、日常の端から崩れていくなら。太輔のことを、俺はどんな順番で忘れていくんだろう。
 次に消えるのは何だ。そう考え始めたら止まらなくなりそうで、俺はねるねるのスプーンを手に取りながら、それ以上考えるのをやめた。考えても、予想して身構えても、もう自分ではどうすることも出来ないのだから。

「あれ……光希。蛇神は? もう帰ったっつーか……消えたのか?」
「えっ?」

 ふと気づいて部屋を見渡すと、蛇神の姿はもう消えていて、太輔の部屋は夏の朝の空気に戻っていた。開けっ放しの窓から、ラジオ体操のはじまりを告げる町内放送のアナウンスが風と一緒に流れ込んでくる。
 ローテーブルの上のねるねる。その横にある学習机に飾られた首振り人形の揺れだけが、さっきまでのことが夢じゃなかったと告げていた。