太輔の病院からの帰り道、強い雨が降り始めた。
アスファルトの凹んだところに水たまりがいくつもできていて、自転車のタイヤがそこを踏むたびに泥混じりの水が跳ね上がる。ズボンの裾が濡れていくのも構わずに漕ぎながら、俺はあの夜のことを思い返していた。
神社の前の石畳。その一番下の段から見上げる、夏祭りの夜の俺たちの姿。
太輔は白いTシャツを着て、焼きそばをひとりで二つも食っていた。その隣に座った俺は、太輔に奢らせた電球ソーダを飲んでいた。
花火が上がるたびに、太輔の横顔が白く光る。そのたびに俺は、なんとなく正面を向いたまま、視線だけを盗むようにして、隣を見ていた。
思い返せば思い返すほど、あの時の自分が間違っていたことに気づかされる。自分の思い通りにならないからといって、軽率な神頼みで怒りをぶつけるのは間違っている。太輔はただ、俺の話を聞いてくれていただけなのに。
「……ちゃんとお願いすれば、一度言ったことを取り消すことって、出来んのかな……」
雨の中、自転車を脇に停めて、濡れた石畳をサンダルで一段ずつ登る。水たまりを覗き込むと、そこにはちょっと緊張したような、それでいて弱り切った情けない自分の顔が映っていた。
雨粒が落ちるたびに波紋が広がって、その輪郭が波打つように揺れる。
狛犬たちのあいだを通り抜けた先、太い藁で編まれた巨大なしめ縄飾りと、本殿にかかる濃紫色の幕が見える。この古びた障子の奥がどうなっているのか、この年まで見たことは一度もない。
ただ、この土地では蛇神が祀られていて、水と再生のご利益があるというのは知って居た。
昔から祀られていることもあってか、町の人々は神社の正式名称では呼ばずに、親しみを込めてこの場所そのものを「蛇神様」と呼んでいる。
賽銭箱の横には大きな御影石で出来た蛇の置物が飾られていて、脱皮する姿から生命の更新や不死を象徴するとかで、ある言い伝えが有名だった。
——この土地に棲む者の願いを、一生に一度、一言で、善事も悪事も必ず叶える。
だからこそ、ここでお願いをする時は慎重に。考えなしにぽんと気軽にお願い事をしてはいけない。
それは親からも、近所の爺婆からも、学校の先生からですら、耳にタコができるくらい言い聞かせられてきた。それほどまでに、その力は強烈な威力を発揮するらしい。
俺はそれを幼心にちゃんと守っていた。夏祭りの時だって、両手を合わせたり、太輔に罰を当ててほしいと正式にお願いをしたわけじゃない。ただ、心の端でそう思っただけだ。それでも、あの一瞬が「一生に一度の悪事」として叶えられてしまったような気がして、どうしても頭から離れなかった。
雨が強くなり、石畳を叩く音が境内に満ちていく。俺は小銭を一枚、賽銭箱に投げ入れた。
「……罰を当てて欲しいと言ったのを、取り消します。だから、お願いします……太輔が、これ以上怪我をしないように、怪我や事故から守ってください。その為なら、何でもします……」
声に出すと、思ったより小さかった。情けない。誰にも聞かれたくない、と思ったせいなのかもしれない。
もしあのお願いがカウントされているとしたら、これはただの神頼みに過ぎない。それでも、立て続けに怪我をした太輔のあの眩しい笑顔を見てしまったら、こうするしかなかった。たった一言、ごめんと言えない自分のプライドの高さが嫌だった。
(……そもそも、太輔がもっとちゃんと俺のことを引き留めてくれてたら、あんな気持ちにはならなかったのに)
そう思う自分が、未練がましくて、みっともなくて。全部太輔のせいにしようとしていると分かっていて、それでも完全には消せなかった。
とにかく、もう事故は繰り返して欲しくない。
二度あることは三度あるなんて言葉があるくらいだ。太輔がもっとひどい怪我をする瞬間を想像すると、全身の肌がひりひりと痛んで、「お願いだから許してほしい」と何かに願いたくなる程辛くなる。
最後の一礼を終え、深々と下げていた頭を上げようとした、その瞬間だった。
どこからともなく、ねっとりと生暖かい風が首筋を撫でる。しめ縄から飛び出した藁が、かすかに揺れている。
雨に濡れた石畳と砂利から立ち上る、重たい土の匂いに混じって、枯れた花でもない、もっと古く、淀んだ水の底から沸き出してきたような湿った匂いがした。
そして、雨の音に混じって人の気配がある。自分の後ろに誰か並んでいる。
けれど、それは参拝の順番を待つ他人の距離感ではなかった。もっと近く、もっと執拗な――首の後ろの産毛が逆立つほどの至近距離に、確かに「それ」は佇んでいた。
ドクン、と心臓が一拍だけ大きく跳ね、額に冷たい汗の粒が浮かぶ。
俺は金縛りに遭ったような身体を無理やり動かし、俯き加減のまま、ゆっくりと背後へ視線を投げた。
視界に飛び込んできたのは、雨に濡れそぼり、土に汚れた草履を履いた青白い足。
視線を吸い寄せられるように上へ辿れば、そこには周囲の風景から浮き上がるほどくすんだ、赤の番傘があった。
そして、その影の中には、真っ白な着物に身を包んだ男が立っていた。
「その願いを叶えてあげよう」
ゆらぎを含んだ声だった。低くも高くもなく、けれど不思議と耳に心地好く馴染む声。雨音の中なのに、それは耳元で告げられたかのように、はっきりと聞こえた。
肌が不気味なほど白い。この世のものではないと一目で分かる。なのに、俺は逃げも隠れもせずにそこに立ち尽くしていた。
ほぼ直感だった。目の前に居るこの人が蛇神様で、あの言い伝えは本物だったという確証を、どこか腹の底で得てしまっていた。驚きが足を縫い止め、声が出せない。
蛇神様は、俺の願いを叶える為にわざわざ姿を現してくれたんだろうか。
「ミツキがそう思うなら、きっとそうなんだろうね」
心の中を読み、俺の名前を知っている。それだけで、背筋に冷たいものが走った。
「私と魂の契約をすれば、お前の願う相手を全ての厄災から守ってやることが出来る」
——契約? 何だそれ。ただ叶えてくれるわけじゃないのか。
そう思った瞬間、心を読まれたかもしれないと焦った。慌てて頭の中を空白にしようとしても、余計に上手くいかない。蛇神はそんな焦りなど気にも留めないように、ゆっくりとした動作で番傘を傾けた。
「俺の一生に一度のお願いを、叶えに来てくれた……ってことですか」
「そうだ。お前が私を必要として、願ったから来た。それ以外に姿を現す理由なんてない」
髪が雨の中でなびいている。着物と全く同じ色の、切り揃えられた白銀。その下から現れた顔は彫刻のように整っていて、人間のものとは思えない、陶器のような滑らかさがあった。
これが初めての「一生に一度のお願い」のチャンスなら、太輔の怪我は俺の願いとして叶えられた訳ではないという事になる。それなら、どうしてこんなに怪我や事故が立て続けに起こるんだ。
太輔だけじゃない。霊感も無いのに、黒い影が俺にだけ見えたのは、何かに取り憑かれたせいなんだろうか。
「お願いします、叶えてください! それで、もう太輔が怪我とか事故に遭わなくなるなら……」
「ミツキ、そう焦るな。そんな簡単に決めて良いことではないからな。……お前の命が尽きた時、俺がその魂を貰い受けることが契約の条件だ。そしてもう一つ、煩わしい儀式をせねばならぬ」
そう言って蛇神は、ゆったりと微笑んだ。
条件とか、煩わしいとか、なんだかひどく人間くさい言い方だ。神様の口から出る言葉とは思えなかった。
神様というのは、俺の中ではもっと崇めたくなるような、近寄りがたいオーラがあるものだと思っていた。でも、そうじゃない。
どこか人を試すような、それでいて見下しているのが、言葉の端々や仕草の隅々に表れている。何よりそう感じさせたのは、扇子の陰から覗く唇の形だった。
「おや? そんな風に思われるのは心外だな」
「ごめんなさい……あの、なんていうか……俺が想像していた神様のイメージと、結構違うなって思って」
幼い頃から、神の概念は受け入れられても、オカルトの類だけは切り捨てて生きてきた。幽霊も天国も、死後の世界なんてのも、等しくフィクションだ。人は死ねばただの灰と骨になる。そこに魂が宿り続けるなんて、有り得ない。
だから、目の前の蛇神を畏れる気持ちはあっても、対価として俺の魂を回収するなんて話は半信半疑だった。
今の俺の頭にあるのは、太輔を救うこと、ただそれだけ。数十年後、寿命を迎えた後の自分には意識なんか無いのだから、何が起きようが知ったことじゃない。好きにすればいい、という投げやりな気持ちすらあった。
「……儀式って、どんなことをするんですか? 俺に出来ることなんだったら、なんでも……」
目の前の赤い瞳をよく見れば、その瞳孔は黒い縦長の形をしている。蛇のそれと、まったく同じだ。虹彩の赤の中で、その黒が静かに俺を捕らえていた。
見つめ返すと、吸い込まれるような感覚がする。底がなくて、どこまで見ても終わりがない。
やっぱり、人の目じゃない。形が人に似ているだけで、この目の奥にあるものは、俺には一生分からないものだと思った。
「なんでも? そうか、なら苦ではあるまい。守りたい相手と毎日、ある時刻までに接吻の儀式をするだけだ」
接吻。
キス。
俺と、太輔が?
「えっ……」
その理由を考えるより先に声が出た。自分でも分かるくらい顔が歪んでいる。蛇神は、薄い笑みを口元に浮かべたまま、その表情を崩さずに涼しい顔をしていた。
こちらの動揺を、ある程度初めから見越していたような態度だった。
「ある時刻って、一体いつですか」
「ミツキが生まれた時刻。午前八時二分だ」
また名前を呼ばれた。一方的に、俺のことを知っている。生まれた時刻までぴったりと正確に言い当てられて薄気味悪いと思うのに、それより俺の脳を大きく占領しているのは、蛇神の放った「接吻」という単語だった。
「どうしてキス、なんですか。手をつなぐとか、そういうのじゃ……」
流石に、それは無理がある。
俺が百歩譲って覚悟を決めたとしても、太輔は絶対に嫌がる。今度は俺が「頭がどうかしてるから、加藤醫院に行け」と言われかねない。何なら、殴られるかもしれない。
どうにかして別の方法を頼みたかったのに、蛇神はゆらりと首を傾げた。人間がするには少しだけ角度がおかしい、骨や関節を無視した滑らかな動きだった。
「契約したお前の身体を経由して、俺の力をその対象の人間に送り込むためだ。接吻が最も効率がいい。粘膜から粘膜へ、直接触れ合うことが出来るのだから」
蛇神は、それが本気で何でもないことのように言った。
本当なら、太輔自身がお祓いに行くとか、目の前のこの蛇神様に「守って下さい」と頼めば済むことなのかもしれない。
けれど、太輔の罰を願ったのは自分だ。あいつの一生に一度のお願いを、俺のせいで使わせるわけにはいかない。それだけは、どうしても嫌だった。
俺の言霊がたまたまそういう怪我を呼んでいて、もう取り消すことができないのなら——後生一生のお願いを使ってでも、太輔への罪滅ぼしがしたかった。
「お願いします。事故だけじゃなくて……病院で人影が見えたのも、気味が悪くて。太輔が何か悪いものに取り憑かれたのかもしれないし。その原因を作ったのは、きっと俺だから」
声に出しながら、頭の中で病室のカーテンが揺れた。あの影が、俺の方を振り向いていたような気がする。
幽霊なんて信じたことがなかったけれど、今はあの病室で感じた気配がそうだったのかもしれないと思う。太輔には見えなくて、俺にだけ見えていたのだから。
あの夜、神社の前で暗い気持ちを抱えたまま、太輔にバチが当たればいいと思ったあの瞬間に——あらぬものを、引き寄せてしまったのかもしれない。
たまたまじゃない。全部、繋がっているように思えてならない。そしてその糸の端を手繰っていくと、必ず自分のところへ戻ってくる気がした。
「ただし……これは魂の契約だから、守ってやる代わりに、代価としてお前の記憶が消えることも教えておこう。無から奇跡は生まれん。お前の願いを叶えるために、その記憶を捧げてもらう」
「記憶を……捧げる?」
「そうだ。お前とその人間を繋ぎ止めている感情の質量を、奇跡の代価として燃やす。一日にひとつ、最も美しく輝いている思い出から順に灰となり、消える。……消えた部分は『欠落』ではなく『最初から無かったこと』として定着する。他者に指摘されない限り、自分が何を失ったのかにさえ気付けない」
魂の契約の条件に加えて、代価まで払わなきゃいけないのか。客観的に見たら、圧倒的に不利な立場だった。
それでも、その二つさえ呑めば太輔は全ての厄災から守られる。このまま事故が続いたら、太輔が死ぬかもしれないという最悪の未来を、確実に避けることができる。その一点だけが、俺の中で光っていた。
「さぁ、どうする。私はあまり気が長い方ではないからな。この雨が上がる前に決めなければ――」
「もう契約してもらえない、ってことですか」
「勿論。私も暇じゃないんだ。ここの村人の願いを等しく叶える機会があるわけでもない。条件も、代価も、その人間に見合ったものを提示している。その上での、一生に一度だ」
自分の魂が死後に持っていかれることも、記憶の代価を払うことも、今この瞬間の俺にはひどく軽く感じられた。軽い、というより遠かった。死後の話なんて、実感が持てない。死ぬのはずっと先のこと。だから怖くなかった。
目の前にあるのは、今日明日の太輔のことだった。俺に出来ることがこの契約なら、そうするべきじゃないか。
俺と太輔の思い出は、数えようとしても数え切れない。下手したら家族より長い時間を隣で過ごしてきて、親にも言えないことをふたりの間だけに留めてきた。十六年分。それだけあれば、きっと大丈夫なんじゃないか。
毎日キスをし続けて、いつか太輔との思い出が全て消える日が来ても、それまでの間は守ってあげられる。時間稼ぎができる。東京に行けば、どのみちあいつとは会わなくなる。忘れていくのと、そんなに違わないかもしれない。
それだったら、尚更。
「お願いします。太輔を守ってください」
「……本当にそれでいいんだな。この願い事は一生に一度きり。もう二度と、変えることも、なかったことにも出来ないぞ」
一瞬だけ、躊躇った。
自分の願いがこれきりだからではない。いつか、太輔そのものを忘れる日が来るかもしれない未来が、あまりにもはっきりと目の前に現れたからだ。
だけど、それ以外の道はどこにも繋がっていない。太輔が俺にキスなんてさせるわけがないのは分かっているけれど、言葉巧みに騙してでも、あるいは強引にでも、その唇を重ねさせなきゃいけない。
これは、あらぬものとの分の悪い根競べだ。
何の保証もない。太輔に危害を加えるのをいつ諦めるのか、本当に離れていくのか、確かな証拠なんて一つもない。けれど、俺がこの町を離れるまでの間に、因縁の糸みたいなものが断ち切られて、向こうも執着を失うんじゃないか。
「……蛇神様、俺の願いを叶えてください」
蛇神の唇が、三日月の形に歪んだ。
長く、血の気のない指先が、空気をなぞるようにゆっくりとこちらへ伸びてくる。指先が触れるより先に、その芯まで凍てつくような冷たさが肌に伝わってきた。なぜだろう、俺はこの冷気に見覚えがある気がしてならなかった。
蛇神の着物の袖口から、ぬるりと滑り落ちるようにして二匹の白蛇が姿を現し、吸い付くような動きで俺の手首に巻き付いた。生き物らしい心音も体温もなく、ただひたすらに滑らかな鱗の感触だけが、腕を這い上がってくる。
蛇はTシャツの薄い生地の下へと潜り込み、肋骨をなぞり、逃げ場のない皮膚の内側の熱を根こそぎ奪い去っていく。その冷感は、まるで二つの円を描くようにして胸の真ん中、鎖骨の間へと収束していった。
あまりのおぞましさに、俺は呼吸の仕方を忘れたように息を詰めた。
もし今、一度でも声を漏らしてしまえば、自分という存在が足元から崩れ去ってしまう。そんな本能的な恐怖に縛り付けられていた。
やがて、胸元にいたはずの二匹の蛇は、いつの間にか俺の身体から離れ、主である蛇神の着物の中へと、吸い込まれるように戻っていった。残されたのは、骨まで冷え切ったような、奇妙な虚脱感だけ。
「これで、契約完了だ」
おそるおそるTシャツの襟元を引っ張り、中を覗き込む。
けれど、自分の目では肝心な場所が見えない。そっと肌に指先を滑らせると、鎖骨の中央にいびつな起伏が出来ている。
その紋様は、さっきまで蛇たちが這っていた道筋の終わりを結ぶように、くっきりと皮膚に浮き上がっていた。
アスファルトの凹んだところに水たまりがいくつもできていて、自転車のタイヤがそこを踏むたびに泥混じりの水が跳ね上がる。ズボンの裾が濡れていくのも構わずに漕ぎながら、俺はあの夜のことを思い返していた。
神社の前の石畳。その一番下の段から見上げる、夏祭りの夜の俺たちの姿。
太輔は白いTシャツを着て、焼きそばをひとりで二つも食っていた。その隣に座った俺は、太輔に奢らせた電球ソーダを飲んでいた。
花火が上がるたびに、太輔の横顔が白く光る。そのたびに俺は、なんとなく正面を向いたまま、視線だけを盗むようにして、隣を見ていた。
思い返せば思い返すほど、あの時の自分が間違っていたことに気づかされる。自分の思い通りにならないからといって、軽率な神頼みで怒りをぶつけるのは間違っている。太輔はただ、俺の話を聞いてくれていただけなのに。
「……ちゃんとお願いすれば、一度言ったことを取り消すことって、出来んのかな……」
雨の中、自転車を脇に停めて、濡れた石畳をサンダルで一段ずつ登る。水たまりを覗き込むと、そこにはちょっと緊張したような、それでいて弱り切った情けない自分の顔が映っていた。
雨粒が落ちるたびに波紋が広がって、その輪郭が波打つように揺れる。
狛犬たちのあいだを通り抜けた先、太い藁で編まれた巨大なしめ縄飾りと、本殿にかかる濃紫色の幕が見える。この古びた障子の奥がどうなっているのか、この年まで見たことは一度もない。
ただ、この土地では蛇神が祀られていて、水と再生のご利益があるというのは知って居た。
昔から祀られていることもあってか、町の人々は神社の正式名称では呼ばずに、親しみを込めてこの場所そのものを「蛇神様」と呼んでいる。
賽銭箱の横には大きな御影石で出来た蛇の置物が飾られていて、脱皮する姿から生命の更新や不死を象徴するとかで、ある言い伝えが有名だった。
——この土地に棲む者の願いを、一生に一度、一言で、善事も悪事も必ず叶える。
だからこそ、ここでお願いをする時は慎重に。考えなしにぽんと気軽にお願い事をしてはいけない。
それは親からも、近所の爺婆からも、学校の先生からですら、耳にタコができるくらい言い聞かせられてきた。それほどまでに、その力は強烈な威力を発揮するらしい。
俺はそれを幼心にちゃんと守っていた。夏祭りの時だって、両手を合わせたり、太輔に罰を当ててほしいと正式にお願いをしたわけじゃない。ただ、心の端でそう思っただけだ。それでも、あの一瞬が「一生に一度の悪事」として叶えられてしまったような気がして、どうしても頭から離れなかった。
雨が強くなり、石畳を叩く音が境内に満ちていく。俺は小銭を一枚、賽銭箱に投げ入れた。
「……罰を当てて欲しいと言ったのを、取り消します。だから、お願いします……太輔が、これ以上怪我をしないように、怪我や事故から守ってください。その為なら、何でもします……」
声に出すと、思ったより小さかった。情けない。誰にも聞かれたくない、と思ったせいなのかもしれない。
もしあのお願いがカウントされているとしたら、これはただの神頼みに過ぎない。それでも、立て続けに怪我をした太輔のあの眩しい笑顔を見てしまったら、こうするしかなかった。たった一言、ごめんと言えない自分のプライドの高さが嫌だった。
(……そもそも、太輔がもっとちゃんと俺のことを引き留めてくれてたら、あんな気持ちにはならなかったのに)
そう思う自分が、未練がましくて、みっともなくて。全部太輔のせいにしようとしていると分かっていて、それでも完全には消せなかった。
とにかく、もう事故は繰り返して欲しくない。
二度あることは三度あるなんて言葉があるくらいだ。太輔がもっとひどい怪我をする瞬間を想像すると、全身の肌がひりひりと痛んで、「お願いだから許してほしい」と何かに願いたくなる程辛くなる。
最後の一礼を終え、深々と下げていた頭を上げようとした、その瞬間だった。
どこからともなく、ねっとりと生暖かい風が首筋を撫でる。しめ縄から飛び出した藁が、かすかに揺れている。
雨に濡れた石畳と砂利から立ち上る、重たい土の匂いに混じって、枯れた花でもない、もっと古く、淀んだ水の底から沸き出してきたような湿った匂いがした。
そして、雨の音に混じって人の気配がある。自分の後ろに誰か並んでいる。
けれど、それは参拝の順番を待つ他人の距離感ではなかった。もっと近く、もっと執拗な――首の後ろの産毛が逆立つほどの至近距離に、確かに「それ」は佇んでいた。
ドクン、と心臓が一拍だけ大きく跳ね、額に冷たい汗の粒が浮かぶ。
俺は金縛りに遭ったような身体を無理やり動かし、俯き加減のまま、ゆっくりと背後へ視線を投げた。
視界に飛び込んできたのは、雨に濡れそぼり、土に汚れた草履を履いた青白い足。
視線を吸い寄せられるように上へ辿れば、そこには周囲の風景から浮き上がるほどくすんだ、赤の番傘があった。
そして、その影の中には、真っ白な着物に身を包んだ男が立っていた。
「その願いを叶えてあげよう」
ゆらぎを含んだ声だった。低くも高くもなく、けれど不思議と耳に心地好く馴染む声。雨音の中なのに、それは耳元で告げられたかのように、はっきりと聞こえた。
肌が不気味なほど白い。この世のものではないと一目で分かる。なのに、俺は逃げも隠れもせずにそこに立ち尽くしていた。
ほぼ直感だった。目の前に居るこの人が蛇神様で、あの言い伝えは本物だったという確証を、どこか腹の底で得てしまっていた。驚きが足を縫い止め、声が出せない。
蛇神様は、俺の願いを叶える為にわざわざ姿を現してくれたんだろうか。
「ミツキがそう思うなら、きっとそうなんだろうね」
心の中を読み、俺の名前を知っている。それだけで、背筋に冷たいものが走った。
「私と魂の契約をすれば、お前の願う相手を全ての厄災から守ってやることが出来る」
——契約? 何だそれ。ただ叶えてくれるわけじゃないのか。
そう思った瞬間、心を読まれたかもしれないと焦った。慌てて頭の中を空白にしようとしても、余計に上手くいかない。蛇神はそんな焦りなど気にも留めないように、ゆっくりとした動作で番傘を傾けた。
「俺の一生に一度のお願いを、叶えに来てくれた……ってことですか」
「そうだ。お前が私を必要として、願ったから来た。それ以外に姿を現す理由なんてない」
髪が雨の中でなびいている。着物と全く同じ色の、切り揃えられた白銀。その下から現れた顔は彫刻のように整っていて、人間のものとは思えない、陶器のような滑らかさがあった。
これが初めての「一生に一度のお願い」のチャンスなら、太輔の怪我は俺の願いとして叶えられた訳ではないという事になる。それなら、どうしてこんなに怪我や事故が立て続けに起こるんだ。
太輔だけじゃない。霊感も無いのに、黒い影が俺にだけ見えたのは、何かに取り憑かれたせいなんだろうか。
「お願いします、叶えてください! それで、もう太輔が怪我とか事故に遭わなくなるなら……」
「ミツキ、そう焦るな。そんな簡単に決めて良いことではないからな。……お前の命が尽きた時、俺がその魂を貰い受けることが契約の条件だ。そしてもう一つ、煩わしい儀式をせねばならぬ」
そう言って蛇神は、ゆったりと微笑んだ。
条件とか、煩わしいとか、なんだかひどく人間くさい言い方だ。神様の口から出る言葉とは思えなかった。
神様というのは、俺の中ではもっと崇めたくなるような、近寄りがたいオーラがあるものだと思っていた。でも、そうじゃない。
どこか人を試すような、それでいて見下しているのが、言葉の端々や仕草の隅々に表れている。何よりそう感じさせたのは、扇子の陰から覗く唇の形だった。
「おや? そんな風に思われるのは心外だな」
「ごめんなさい……あの、なんていうか……俺が想像していた神様のイメージと、結構違うなって思って」
幼い頃から、神の概念は受け入れられても、オカルトの類だけは切り捨てて生きてきた。幽霊も天国も、死後の世界なんてのも、等しくフィクションだ。人は死ねばただの灰と骨になる。そこに魂が宿り続けるなんて、有り得ない。
だから、目の前の蛇神を畏れる気持ちはあっても、対価として俺の魂を回収するなんて話は半信半疑だった。
今の俺の頭にあるのは、太輔を救うこと、ただそれだけ。数十年後、寿命を迎えた後の自分には意識なんか無いのだから、何が起きようが知ったことじゃない。好きにすればいい、という投げやりな気持ちすらあった。
「……儀式って、どんなことをするんですか? 俺に出来ることなんだったら、なんでも……」
目の前の赤い瞳をよく見れば、その瞳孔は黒い縦長の形をしている。蛇のそれと、まったく同じだ。虹彩の赤の中で、その黒が静かに俺を捕らえていた。
見つめ返すと、吸い込まれるような感覚がする。底がなくて、どこまで見ても終わりがない。
やっぱり、人の目じゃない。形が人に似ているだけで、この目の奥にあるものは、俺には一生分からないものだと思った。
「なんでも? そうか、なら苦ではあるまい。守りたい相手と毎日、ある時刻までに接吻の儀式をするだけだ」
接吻。
キス。
俺と、太輔が?
「えっ……」
その理由を考えるより先に声が出た。自分でも分かるくらい顔が歪んでいる。蛇神は、薄い笑みを口元に浮かべたまま、その表情を崩さずに涼しい顔をしていた。
こちらの動揺を、ある程度初めから見越していたような態度だった。
「ある時刻って、一体いつですか」
「ミツキが生まれた時刻。午前八時二分だ」
また名前を呼ばれた。一方的に、俺のことを知っている。生まれた時刻までぴったりと正確に言い当てられて薄気味悪いと思うのに、それより俺の脳を大きく占領しているのは、蛇神の放った「接吻」という単語だった。
「どうしてキス、なんですか。手をつなぐとか、そういうのじゃ……」
流石に、それは無理がある。
俺が百歩譲って覚悟を決めたとしても、太輔は絶対に嫌がる。今度は俺が「頭がどうかしてるから、加藤醫院に行け」と言われかねない。何なら、殴られるかもしれない。
どうにかして別の方法を頼みたかったのに、蛇神はゆらりと首を傾げた。人間がするには少しだけ角度がおかしい、骨や関節を無視した滑らかな動きだった。
「契約したお前の身体を経由して、俺の力をその対象の人間に送り込むためだ。接吻が最も効率がいい。粘膜から粘膜へ、直接触れ合うことが出来るのだから」
蛇神は、それが本気で何でもないことのように言った。
本当なら、太輔自身がお祓いに行くとか、目の前のこの蛇神様に「守って下さい」と頼めば済むことなのかもしれない。
けれど、太輔の罰を願ったのは自分だ。あいつの一生に一度のお願いを、俺のせいで使わせるわけにはいかない。それだけは、どうしても嫌だった。
俺の言霊がたまたまそういう怪我を呼んでいて、もう取り消すことができないのなら——後生一生のお願いを使ってでも、太輔への罪滅ぼしがしたかった。
「お願いします。事故だけじゃなくて……病院で人影が見えたのも、気味が悪くて。太輔が何か悪いものに取り憑かれたのかもしれないし。その原因を作ったのは、きっと俺だから」
声に出しながら、頭の中で病室のカーテンが揺れた。あの影が、俺の方を振り向いていたような気がする。
幽霊なんて信じたことがなかったけれど、今はあの病室で感じた気配がそうだったのかもしれないと思う。太輔には見えなくて、俺にだけ見えていたのだから。
あの夜、神社の前で暗い気持ちを抱えたまま、太輔にバチが当たればいいと思ったあの瞬間に——あらぬものを、引き寄せてしまったのかもしれない。
たまたまじゃない。全部、繋がっているように思えてならない。そしてその糸の端を手繰っていくと、必ず自分のところへ戻ってくる気がした。
「ただし……これは魂の契約だから、守ってやる代わりに、代価としてお前の記憶が消えることも教えておこう。無から奇跡は生まれん。お前の願いを叶えるために、その記憶を捧げてもらう」
「記憶を……捧げる?」
「そうだ。お前とその人間を繋ぎ止めている感情の質量を、奇跡の代価として燃やす。一日にひとつ、最も美しく輝いている思い出から順に灰となり、消える。……消えた部分は『欠落』ではなく『最初から無かったこと』として定着する。他者に指摘されない限り、自分が何を失ったのかにさえ気付けない」
魂の契約の条件に加えて、代価まで払わなきゃいけないのか。客観的に見たら、圧倒的に不利な立場だった。
それでも、その二つさえ呑めば太輔は全ての厄災から守られる。このまま事故が続いたら、太輔が死ぬかもしれないという最悪の未来を、確実に避けることができる。その一点だけが、俺の中で光っていた。
「さぁ、どうする。私はあまり気が長い方ではないからな。この雨が上がる前に決めなければ――」
「もう契約してもらえない、ってことですか」
「勿論。私も暇じゃないんだ。ここの村人の願いを等しく叶える機会があるわけでもない。条件も、代価も、その人間に見合ったものを提示している。その上での、一生に一度だ」
自分の魂が死後に持っていかれることも、記憶の代価を払うことも、今この瞬間の俺にはひどく軽く感じられた。軽い、というより遠かった。死後の話なんて、実感が持てない。死ぬのはずっと先のこと。だから怖くなかった。
目の前にあるのは、今日明日の太輔のことだった。俺に出来ることがこの契約なら、そうするべきじゃないか。
俺と太輔の思い出は、数えようとしても数え切れない。下手したら家族より長い時間を隣で過ごしてきて、親にも言えないことをふたりの間だけに留めてきた。十六年分。それだけあれば、きっと大丈夫なんじゃないか。
毎日キスをし続けて、いつか太輔との思い出が全て消える日が来ても、それまでの間は守ってあげられる。時間稼ぎができる。東京に行けば、どのみちあいつとは会わなくなる。忘れていくのと、そんなに違わないかもしれない。
それだったら、尚更。
「お願いします。太輔を守ってください」
「……本当にそれでいいんだな。この願い事は一生に一度きり。もう二度と、変えることも、なかったことにも出来ないぞ」
一瞬だけ、躊躇った。
自分の願いがこれきりだからではない。いつか、太輔そのものを忘れる日が来るかもしれない未来が、あまりにもはっきりと目の前に現れたからだ。
だけど、それ以外の道はどこにも繋がっていない。太輔が俺にキスなんてさせるわけがないのは分かっているけれど、言葉巧みに騙してでも、あるいは強引にでも、その唇を重ねさせなきゃいけない。
これは、あらぬものとの分の悪い根競べだ。
何の保証もない。太輔に危害を加えるのをいつ諦めるのか、本当に離れていくのか、確かな証拠なんて一つもない。けれど、俺がこの町を離れるまでの間に、因縁の糸みたいなものが断ち切られて、向こうも執着を失うんじゃないか。
「……蛇神様、俺の願いを叶えてください」
蛇神の唇が、三日月の形に歪んだ。
長く、血の気のない指先が、空気をなぞるようにゆっくりとこちらへ伸びてくる。指先が触れるより先に、その芯まで凍てつくような冷たさが肌に伝わってきた。なぜだろう、俺はこの冷気に見覚えがある気がしてならなかった。
蛇神の着物の袖口から、ぬるりと滑り落ちるようにして二匹の白蛇が姿を現し、吸い付くような動きで俺の手首に巻き付いた。生き物らしい心音も体温もなく、ただひたすらに滑らかな鱗の感触だけが、腕を這い上がってくる。
蛇はTシャツの薄い生地の下へと潜り込み、肋骨をなぞり、逃げ場のない皮膚の内側の熱を根こそぎ奪い去っていく。その冷感は、まるで二つの円を描くようにして胸の真ん中、鎖骨の間へと収束していった。
あまりのおぞましさに、俺は呼吸の仕方を忘れたように息を詰めた。
もし今、一度でも声を漏らしてしまえば、自分という存在が足元から崩れ去ってしまう。そんな本能的な恐怖に縛り付けられていた。
やがて、胸元にいたはずの二匹の蛇は、いつの間にか俺の身体から離れ、主である蛇神の着物の中へと、吸い込まれるように戻っていった。残されたのは、骨まで冷え切ったような、奇妙な虚脱感だけ。
「これで、契約完了だ」
おそるおそるTシャツの襟元を引っ張り、中を覗き込む。
けれど、自分の目では肝心な場所が見えない。そっと肌に指先を滑らせると、鎖骨の中央にいびつな起伏が出来ている。
その紋様は、さっきまで蛇たちが這っていた道筋の終わりを結ぶように、くっきりと皮膚に浮き上がっていた。



