病院の中で足音を立てるのが良くないことも、大きな声を出してはいけないことも分かっている。
それでも俺の足は、廊下を駆け足に近い速度で進んでいた。荒い息切れは、収まる気配がない。
ナースステーションのカウンターにしがみつくようにして、そこにいた看護師に縋るように声をかけた。
「藤原太輔の病室って、何号室ですか……!?」
案内された病室の引き戸を、はやる気持ちのまま勢いよく開ける。
すると太輔は、ベッドの上で上体を起こし、拍子抜けするほど「なんでもない」という顔でそこに居た。
点滴すら繋がっていない。薄い掛け布団を膝の上まで被り、いつもの派手な黄色いカバーがついたスマホを眺めている。俺に気づくと、あ、という抜けた顔をした。
「夕方には退院できるってさ」
「……俺の全力疾走を返せ」
「いや、どうやって? 返したくても、返せねーよ」
いつもの待ち合わせより少しだけ早く、あのカーブミラーの傍で待っていた太輔に、一時不停止の軽トラが突っ込んできたらしい。幸い、奇跡的に軽い打撲で済んだのだという。
「心配させんな」という言葉が喉元までせり上がった。けれどそれを口にすれば、こいつがさらに調子に乗って俺を弄り倒すのは目に見えている。
俺は代わりに息を吐いて、ベッドの脇の丸椅子を引き寄せた。脚のゴムが床を擦り、ギギギ……と間抜けな音が響く。
「マジでふざけんなよ。こんなデカい病院に運ばれたって聞いて、大怪我だったらどうしようかと……」
「あー、はいはい。すいませんっした。でも一応、レントゲンとかCTも撮ったんだぞ。光希ってあの機械の中に入ったことねぇだろ? すっげーうるさくてさ、しかも超狭いの。俺、閉所恐怖症になるかと思っ――」
「お前、声でけぇって。他の人も居るんだから、静かにしろよ」
太輔のどうでもいいCT自慢をいなしながら、俺はさっきまでの自分を棚に上げた。農道を全力で飛ばした足の疲れが、今頃になってふくらはぎの辺りに出てくる。
ぱっと顔を上げると、視界の端で淡い色のカーテンが揺れた。
エアコンの風にしては、動き方が違う気がした。ここは四人部屋で、病室の入り口に太輔以外の名前札はなかったはずだ。
けれど、太輔のベッドの向かい側。
薄いカーテンの隙間に、さっきから黒っぽい人影が見えている。輪郭がある。
確かにそこに、誰かがいる。
「え? ここ、今は俺しか居ねぇけど」
「居るだろうが、アホ。失礼だからもっと小さい声で話せよ」
「だって、さっき看護師さんに『大部屋だけど、のびのび使えてラッキーだね』って……」
しっ、と唇の前に人差し指を立てる。俺たちの話を聞いていたら、向こうだって気まずいだろう。声を落として、目線だけでカーテンの方を示した。
でも太輔は、きょとんとした顔のまま、カーテンの方を見ようともしない。
「つーかさ。昨日のケガといい、今日の事故といい。俺、二連続ってヤバくね? お祓いとか行った方がいいのかな」
太輔は笑いながら言った。何気ない一言だった。たぶん本人には、深い意味なんてない。
けれど、俺は何も言葉を返せなかった。
こっちに向かっているというボウズたちに「そんなに急がなくても大丈夫」と、片手でメッセージを打ち込む。
太輔が男の厄年について話しているのが聞こえたけれど、うまく頭に入ってこなかった。トーク画面を見ているのか、見ていないのか、自分でも分からない。胸の真ん中には、「俺のせいかもしれない」という気持ちがあった。
昨日の階段落ちも、今日の事故も、俺が引き寄せてしまったんじゃないかという不安が、胸の底にべったりと張り付いて離れない。
言霊なんて、あるわけない。偶然だ、って思いたい。
でも、あの夏祭りの帰り。神社を出る前に、俺は思ってしまったのだ。
“なんで、引き留めてくれねぇんだよ。太輔なんか、神様の罰が当たって、痛い目に遭えばいいのに”
ほんの一瞬だったし、口には出さなかった。すぐに打ち消した。それでも思ったことに変わりはない。
そして、その気持ちはずっと心の中に沈んだまま、腐らずに今も残っている。
俺は窓際に置きっぱなしにしていたサコッシュの紐を、乱暴に手に取った。
「……もう、今日は帰る。とりあえず様子見に、お前ん家にまた行くから」
「おう! わざわざ来てくれてサンキューな、光希」
横顔にぶつけてきた笑顔が、バカみたいに眩しかった。さっき事故に遭った人間の顔とは、到底思えない。こんな顔をされたら、俺は何も言えなくなる。昔から、ずっとそうだった。どれだけ冷たく接しようが、太輔はいつもこうやって、俺の一面日陰みたいな心に光を当てようとする。
呆れたような顔をしてみせ、何も言わずに病室を出た。
廊下に出てからも、太輔の笑顔がしばらく瞼の裏に残り続けているのはどうしてだろう。
「失礼します。床頭台の清掃、入らせていただきますね」
入れ違いに、掃除の担当者が何人か病室にやって来た。銀色のカートに、半透明の大きな青いビニール袋がかかっている。太輔の向かい、さっき人影を見たベッドのカーテンをシャッと引き開ける音がして、足を止めて振り返った。
がらんとした、空のベッド。
マットレスだけが残されて、枕もなく、シーツも剥がされている。誰かがそこに居た痕跡は無い。
(……俺の見間違い、だったのか?)
消毒液の匂いが濃くなった。白い床には、自分の足音だけが響いている。歩きながら、それでも胸にこびりついた違和感は完全には拭えなかった。
あの部屋に入った瞬間から、俺は確かに感じていたのだ。太輔と俺以外の、冷え冷えとした「誰か」の気配。
ただの見間違いだと自分に言い聞かせようとしても、その言葉はざらついた砂のように、うまく腑に落ちてはくれなかった。
それでも俺の足は、廊下を駆け足に近い速度で進んでいた。荒い息切れは、収まる気配がない。
ナースステーションのカウンターにしがみつくようにして、そこにいた看護師に縋るように声をかけた。
「藤原太輔の病室って、何号室ですか……!?」
案内された病室の引き戸を、はやる気持ちのまま勢いよく開ける。
すると太輔は、ベッドの上で上体を起こし、拍子抜けするほど「なんでもない」という顔でそこに居た。
点滴すら繋がっていない。薄い掛け布団を膝の上まで被り、いつもの派手な黄色いカバーがついたスマホを眺めている。俺に気づくと、あ、という抜けた顔をした。
「夕方には退院できるってさ」
「……俺の全力疾走を返せ」
「いや、どうやって? 返したくても、返せねーよ」
いつもの待ち合わせより少しだけ早く、あのカーブミラーの傍で待っていた太輔に、一時不停止の軽トラが突っ込んできたらしい。幸い、奇跡的に軽い打撲で済んだのだという。
「心配させんな」という言葉が喉元までせり上がった。けれどそれを口にすれば、こいつがさらに調子に乗って俺を弄り倒すのは目に見えている。
俺は代わりに息を吐いて、ベッドの脇の丸椅子を引き寄せた。脚のゴムが床を擦り、ギギギ……と間抜けな音が響く。
「マジでふざけんなよ。こんなデカい病院に運ばれたって聞いて、大怪我だったらどうしようかと……」
「あー、はいはい。すいませんっした。でも一応、レントゲンとかCTも撮ったんだぞ。光希ってあの機械の中に入ったことねぇだろ? すっげーうるさくてさ、しかも超狭いの。俺、閉所恐怖症になるかと思っ――」
「お前、声でけぇって。他の人も居るんだから、静かにしろよ」
太輔のどうでもいいCT自慢をいなしながら、俺はさっきまでの自分を棚に上げた。農道を全力で飛ばした足の疲れが、今頃になってふくらはぎの辺りに出てくる。
ぱっと顔を上げると、視界の端で淡い色のカーテンが揺れた。
エアコンの風にしては、動き方が違う気がした。ここは四人部屋で、病室の入り口に太輔以外の名前札はなかったはずだ。
けれど、太輔のベッドの向かい側。
薄いカーテンの隙間に、さっきから黒っぽい人影が見えている。輪郭がある。
確かにそこに、誰かがいる。
「え? ここ、今は俺しか居ねぇけど」
「居るだろうが、アホ。失礼だからもっと小さい声で話せよ」
「だって、さっき看護師さんに『大部屋だけど、のびのび使えてラッキーだね』って……」
しっ、と唇の前に人差し指を立てる。俺たちの話を聞いていたら、向こうだって気まずいだろう。声を落として、目線だけでカーテンの方を示した。
でも太輔は、きょとんとした顔のまま、カーテンの方を見ようともしない。
「つーかさ。昨日のケガといい、今日の事故といい。俺、二連続ってヤバくね? お祓いとか行った方がいいのかな」
太輔は笑いながら言った。何気ない一言だった。たぶん本人には、深い意味なんてない。
けれど、俺は何も言葉を返せなかった。
こっちに向かっているというボウズたちに「そんなに急がなくても大丈夫」と、片手でメッセージを打ち込む。
太輔が男の厄年について話しているのが聞こえたけれど、うまく頭に入ってこなかった。トーク画面を見ているのか、見ていないのか、自分でも分からない。胸の真ん中には、「俺のせいかもしれない」という気持ちがあった。
昨日の階段落ちも、今日の事故も、俺が引き寄せてしまったんじゃないかという不安が、胸の底にべったりと張り付いて離れない。
言霊なんて、あるわけない。偶然だ、って思いたい。
でも、あの夏祭りの帰り。神社を出る前に、俺は思ってしまったのだ。
“なんで、引き留めてくれねぇんだよ。太輔なんか、神様の罰が当たって、痛い目に遭えばいいのに”
ほんの一瞬だったし、口には出さなかった。すぐに打ち消した。それでも思ったことに変わりはない。
そして、その気持ちはずっと心の中に沈んだまま、腐らずに今も残っている。
俺は窓際に置きっぱなしにしていたサコッシュの紐を、乱暴に手に取った。
「……もう、今日は帰る。とりあえず様子見に、お前ん家にまた行くから」
「おう! わざわざ来てくれてサンキューな、光希」
横顔にぶつけてきた笑顔が、バカみたいに眩しかった。さっき事故に遭った人間の顔とは、到底思えない。こんな顔をされたら、俺は何も言えなくなる。昔から、ずっとそうだった。どれだけ冷たく接しようが、太輔はいつもこうやって、俺の一面日陰みたいな心に光を当てようとする。
呆れたような顔をしてみせ、何も言わずに病室を出た。
廊下に出てからも、太輔の笑顔がしばらく瞼の裏に残り続けているのはどうしてだろう。
「失礼します。床頭台の清掃、入らせていただきますね」
入れ違いに、掃除の担当者が何人か病室にやって来た。銀色のカートに、半透明の大きな青いビニール袋がかかっている。太輔の向かい、さっき人影を見たベッドのカーテンをシャッと引き開ける音がして、足を止めて振り返った。
がらんとした、空のベッド。
マットレスだけが残されて、枕もなく、シーツも剥がされている。誰かがそこに居た痕跡は無い。
(……俺の見間違い、だったのか?)
消毒液の匂いが濃くなった。白い床には、自分の足音だけが響いている。歩きながら、それでも胸にこびりついた違和感は完全には拭えなかった。
あの部屋に入った瞬間から、俺は確かに感じていたのだ。太輔と俺以外の、冷え冷えとした「誰か」の気配。
ただの見間違いだと自分に言い聞かせようとしても、その言葉はざらついた砂のように、うまく腑に落ちてはくれなかった。



