現代文と英語のホチキス止めされた薄いプリントが終わる頃には、日はとっくに暮れて、部屋が薄青い闇に染まりはじめていた。扇風機の風がようやく涼しく感じられるくらいには、暑さも和らいでいる。
「ねるねるの水、持ってくるから、待ってろ」
「んー、了解」
白いプラトレーの端についた、あんな小さな窪みを満たすためだけに、あの巨大な男が小指の先ほどの三角カップを大事に握りしめ、わざわざ階段を降りていく。その姿は、客観的に見ればかなり滑稽で、救いようがないほど効率が悪い。二階に上がる時に最初から汲んでくればいいものを、太輔はいつだって、わざわざ後から取りに行く。
俺は肘をついたまま、開け放たれたドアの向こうへ消えていくその広い背中を、ぼんやりと見送った。
階段を軋ませる足音が遠ざかり、階下の台所で水道をひねる音がかすかに届く。俺はその気配を耳で追いながら、手元のプラトレーを眺めた。
魚に星、それから……説明書きによれば「犬」らしい、よくわからない動物の形。全然犬には見えないけれど、そんなことはどうでもよかった。
太輔はいつだって、この知育菓子の「水を運び、練り上げてくれる係」を、当然のような顔をして引き受けてくれる。俺はそんな献身に、もう数え切れないほど甘えてきた。幼馴染という、免罪符に近い特権を振りかざして、顎で使って作らせる。
そんな不格好な関係を「業務」と称して維持し続けていられるのは、太輔が俺の我儘を、絶対に突き放さないと確信しているからだ。
そして、台所から戻ってくるまでの間、あいつは必ずどこかに寄り道をする。
冷蔵庫を勝手に開けて何かをつまみ食いしたり、勝手口に居座る野良猫にちょっかいを出したり。そうやって寄り道をして、ようやく戻ってきた太輔の手には、表面張力でいっぱいいっぱいの水が入ったカップが握られている。
階段の途中に、点々と、あいつの足跡のような水滴をこぼしながら。
「太輔、まだ?」
「うっせーな、急かすなよ。今、運んでるから! もうちょい待って」
十年も作っているくせに、一番と二番の粉を一気に混ぜずに、毎回律儀に一袋ずつ開けては粉をこぼす。最初の袋を開ける時の角度が毎回同じで、同じ方向に粉が飛ぶ。俺の膝とか、畳の目の間とか。そろそろ熟練の職人とも言える歴のはずなのに、一ミリも成長しない。注意すると「うるせー」と言って、また同じことをする。
そういう、どうしようもない全部を含めて、アホなところが好きだった。
「あ、太輔。お母さん、ちょっと回覧板まわして、そのあと町内会の集まりに行くから。夜ご飯、サッポロラーメンで良いなら、みーくんと二人で作って食べてね!」
階下からおばさんの明るい声が届いた。
返事をするのが面倒なのか、太輔の代わりに俺が慌てて「はーい、行ってらっしゃい!」とドアに向かって叫ぶ。やがて玄関ドアが音を立てて閉まり、おばさんの気配が表へと消えていく。
鍵をかける習慣はない。カーテンも、家の中を隠すことなく開きっ放しのまま。物騒な事件が起きたことのないこの町では、どの家もそれがデフォルトだった。
「おい、早くしろって」
遅い。たぶん今頃、台所から廊下へと忍び足で戻ってきている最中だ。水をコップに入れてくれば済む話なのに、何回言ってもそうしない。やっぱりアイツは究極のバカだ。
「分かってるっつーの! だから今、こぼさねぇように慎重に……っ、うわ!」
あーあ、こぼしたか。
そう思った次の瞬間、階段から何かが転がり落ちるような音がして、俺は慌てて太輔の部屋のドアを開けた。
「え、マジか!」
「マジかじゃねぇよ。さっさと助けろ」
「待って、ウケるんだけど。……写真一枚だけ撮らして」
あろうことか、太輔は階段の一番下で無様に仰向けに倒れていた。
空っぽになった三角カップを握りしめ、手足をもたつかせている姿があまりにも間抜けすぎて、俺は咄嗟にポケットからスマホを抜き出した。震える手でその決定的瞬間をレンズに収める。
「ひっ……ふふっ、あはは! 何やってんだよ、マジで……っ」
「光希、笑いすぎ」
腹がよじれるほどの笑いが込み上げ、呼吸がうまくできない。俺は込み上げる笑いを噛み締めながら、一段ずつ、階段を降りていった。
部活で鍛えた抜群の運動神経を誇るはずの太輔が、こんなに盛大に、重力に負けてすっ転ぶなんて初めて見た。
無敵だと思っていた幼馴染の、あまりにも情けない隙。
その姿を見下ろしながら、俺はさっきまで胸に溜まっていた不満が、笑い声と一緒に少しだけ晴れていくのを感じていた。
「なんでコケたの? つるっと滑ったとか?」
「いや、なんか足がつかなかったっていうか」
「は? 何それ」
「……何かに跳ね返されるみたいに、段差を踏めなかったんだよ」
「なに意味わかんねーこと言ってんの、お前。頭打ったなら、加藤醫院行くか?」
太輔の家から五軒隣にある、超金持ちの礼子の親がやっているかかりつけの病院。太輔がこの町で嫌いな場所、ぶっちぎりのナンバーワンだ。
「行くわけねーだろ」という軽口を交わしながら、太輔の手を引っ張って起こそうとする。体格のいい、無駄に筋肉のある身体は重くて、起こすだけで一苦労だった。
「デカいし重いし、大きなカブだわ」
「誰がカブだよ。うわー、マジでいてぇ。ここんとこ、すっげぇジンジンする」
「どれ? 見せてみ」
太輔が制服のワイシャツを脱いで、Tシャツを捲り上げた。脇腹に、赤い痣のようなものができていた。俺はしゃがんで、それを覗き込む。近くで見ると、太輔の肌は汗で薄く光っていた。そして、うっすらと鳥肌が立っている。
「とりあえず、湿布でも貼っておけば治るんじゃねーの」
「わかんねぇよ、ガチで骨折してるかも。骨が飛び出てる気がする」
「だる絡み、ウゼぇって。ちょっと黙って、そこで待っとけ」
居間にある四角い藤籠を引き出して、救急セットを取り出す。冷感タイプのそれをフィルムに書かれた番号通りに剥がすのが面倒で、適当に引き伸ばして太輔の脇腹に貼りつけてやった。
「いってぇ! もっと優しく貼れねーのかよ」
「あぁ? 文句があんなら自分でやれよ。どうせ何枚も皺くちゃにして、おばさんにキレられんのがオチなの分かってるくせに」
その湿布の下――肌とスラックスの境目、腰骨のあたり。
そこには、もう随分薄くなっているけれど、皮膚がいびつに盛り上がった、人差し指ほどの長さの傷痕が残っていた。俺は思わず目を逸らす。
「……なに。もう気にすんなって言ってんだろ」
「いや、分かってるけど。ただ目についただけ」
小学生の時に、俺のせいで負わせた傷だった。太輔はずっと「男の勲章」と言い張っているけれど、俺にとっては見るたびに胸の奥が暗く沈んで、それ以上何も言えなくなる。何年経っても、それだけは変わらなかった。
しばらく黙ったまま湿布の端を押さえていると、太輔が先に口を開いた。
「んで、サッポロラーメンは何味にすんの? 塩と味噌、あるけど」
「普通に、太輔が食いたい方と反対の味」
「はいはい。んじゃあ、味噌ということで」
台所のまな板の上に、二袋のサッポロラーメンが並んでいる。洗い物がまだシンクに残っていて、蛍光灯の光が薄く濡れた食器を照らしていた。俺たちはそれを一瞥し、太輔は脇を片手でさすりながら、また水を汲み直す。
「なぁ、太輔。もう一回転んで見せて」
「は? お前、性格悪すぎだろ」
「んなこと、今更かよ。さっき転ぶ瞬間、動画で撮りたかった」
俺には目もくれず、笑いながら慎重に階段を上っていく。
その背中を見つめながら、俺は何となく、さっきの傷痕のことをまだ考えていた。
「ねるねるの水、持ってくるから、待ってろ」
「んー、了解」
白いプラトレーの端についた、あんな小さな窪みを満たすためだけに、あの巨大な男が小指の先ほどの三角カップを大事に握りしめ、わざわざ階段を降りていく。その姿は、客観的に見ればかなり滑稽で、救いようがないほど効率が悪い。二階に上がる時に最初から汲んでくればいいものを、太輔はいつだって、わざわざ後から取りに行く。
俺は肘をついたまま、開け放たれたドアの向こうへ消えていくその広い背中を、ぼんやりと見送った。
階段を軋ませる足音が遠ざかり、階下の台所で水道をひねる音がかすかに届く。俺はその気配を耳で追いながら、手元のプラトレーを眺めた。
魚に星、それから……説明書きによれば「犬」らしい、よくわからない動物の形。全然犬には見えないけれど、そんなことはどうでもよかった。
太輔はいつだって、この知育菓子の「水を運び、練り上げてくれる係」を、当然のような顔をして引き受けてくれる。俺はそんな献身に、もう数え切れないほど甘えてきた。幼馴染という、免罪符に近い特権を振りかざして、顎で使って作らせる。
そんな不格好な関係を「業務」と称して維持し続けていられるのは、太輔が俺の我儘を、絶対に突き放さないと確信しているからだ。
そして、台所から戻ってくるまでの間、あいつは必ずどこかに寄り道をする。
冷蔵庫を勝手に開けて何かをつまみ食いしたり、勝手口に居座る野良猫にちょっかいを出したり。そうやって寄り道をして、ようやく戻ってきた太輔の手には、表面張力でいっぱいいっぱいの水が入ったカップが握られている。
階段の途中に、点々と、あいつの足跡のような水滴をこぼしながら。
「太輔、まだ?」
「うっせーな、急かすなよ。今、運んでるから! もうちょい待って」
十年も作っているくせに、一番と二番の粉を一気に混ぜずに、毎回律儀に一袋ずつ開けては粉をこぼす。最初の袋を開ける時の角度が毎回同じで、同じ方向に粉が飛ぶ。俺の膝とか、畳の目の間とか。そろそろ熟練の職人とも言える歴のはずなのに、一ミリも成長しない。注意すると「うるせー」と言って、また同じことをする。
そういう、どうしようもない全部を含めて、アホなところが好きだった。
「あ、太輔。お母さん、ちょっと回覧板まわして、そのあと町内会の集まりに行くから。夜ご飯、サッポロラーメンで良いなら、みーくんと二人で作って食べてね!」
階下からおばさんの明るい声が届いた。
返事をするのが面倒なのか、太輔の代わりに俺が慌てて「はーい、行ってらっしゃい!」とドアに向かって叫ぶ。やがて玄関ドアが音を立てて閉まり、おばさんの気配が表へと消えていく。
鍵をかける習慣はない。カーテンも、家の中を隠すことなく開きっ放しのまま。物騒な事件が起きたことのないこの町では、どの家もそれがデフォルトだった。
「おい、早くしろって」
遅い。たぶん今頃、台所から廊下へと忍び足で戻ってきている最中だ。水をコップに入れてくれば済む話なのに、何回言ってもそうしない。やっぱりアイツは究極のバカだ。
「分かってるっつーの! だから今、こぼさねぇように慎重に……っ、うわ!」
あーあ、こぼしたか。
そう思った次の瞬間、階段から何かが転がり落ちるような音がして、俺は慌てて太輔の部屋のドアを開けた。
「え、マジか!」
「マジかじゃねぇよ。さっさと助けろ」
「待って、ウケるんだけど。……写真一枚だけ撮らして」
あろうことか、太輔は階段の一番下で無様に仰向けに倒れていた。
空っぽになった三角カップを握りしめ、手足をもたつかせている姿があまりにも間抜けすぎて、俺は咄嗟にポケットからスマホを抜き出した。震える手でその決定的瞬間をレンズに収める。
「ひっ……ふふっ、あはは! 何やってんだよ、マジで……っ」
「光希、笑いすぎ」
腹がよじれるほどの笑いが込み上げ、呼吸がうまくできない。俺は込み上げる笑いを噛み締めながら、一段ずつ、階段を降りていった。
部活で鍛えた抜群の運動神経を誇るはずの太輔が、こんなに盛大に、重力に負けてすっ転ぶなんて初めて見た。
無敵だと思っていた幼馴染の、あまりにも情けない隙。
その姿を見下ろしながら、俺はさっきまで胸に溜まっていた不満が、笑い声と一緒に少しだけ晴れていくのを感じていた。
「なんでコケたの? つるっと滑ったとか?」
「いや、なんか足がつかなかったっていうか」
「は? 何それ」
「……何かに跳ね返されるみたいに、段差を踏めなかったんだよ」
「なに意味わかんねーこと言ってんの、お前。頭打ったなら、加藤醫院行くか?」
太輔の家から五軒隣にある、超金持ちの礼子の親がやっているかかりつけの病院。太輔がこの町で嫌いな場所、ぶっちぎりのナンバーワンだ。
「行くわけねーだろ」という軽口を交わしながら、太輔の手を引っ張って起こそうとする。体格のいい、無駄に筋肉のある身体は重くて、起こすだけで一苦労だった。
「デカいし重いし、大きなカブだわ」
「誰がカブだよ。うわー、マジでいてぇ。ここんとこ、すっげぇジンジンする」
「どれ? 見せてみ」
太輔が制服のワイシャツを脱いで、Tシャツを捲り上げた。脇腹に、赤い痣のようなものができていた。俺はしゃがんで、それを覗き込む。近くで見ると、太輔の肌は汗で薄く光っていた。そして、うっすらと鳥肌が立っている。
「とりあえず、湿布でも貼っておけば治るんじゃねーの」
「わかんねぇよ、ガチで骨折してるかも。骨が飛び出てる気がする」
「だる絡み、ウゼぇって。ちょっと黙って、そこで待っとけ」
居間にある四角い藤籠を引き出して、救急セットを取り出す。冷感タイプのそれをフィルムに書かれた番号通りに剥がすのが面倒で、適当に引き伸ばして太輔の脇腹に貼りつけてやった。
「いってぇ! もっと優しく貼れねーのかよ」
「あぁ? 文句があんなら自分でやれよ。どうせ何枚も皺くちゃにして、おばさんにキレられんのがオチなの分かってるくせに」
その湿布の下――肌とスラックスの境目、腰骨のあたり。
そこには、もう随分薄くなっているけれど、皮膚がいびつに盛り上がった、人差し指ほどの長さの傷痕が残っていた。俺は思わず目を逸らす。
「……なに。もう気にすんなって言ってんだろ」
「いや、分かってるけど。ただ目についただけ」
小学生の時に、俺のせいで負わせた傷だった。太輔はずっと「男の勲章」と言い張っているけれど、俺にとっては見るたびに胸の奥が暗く沈んで、それ以上何も言えなくなる。何年経っても、それだけは変わらなかった。
しばらく黙ったまま湿布の端を押さえていると、太輔が先に口を開いた。
「んで、サッポロラーメンは何味にすんの? 塩と味噌、あるけど」
「普通に、太輔が食いたい方と反対の味」
「はいはい。んじゃあ、味噌ということで」
台所のまな板の上に、二袋のサッポロラーメンが並んでいる。洗い物がまだシンクに残っていて、蛍光灯の光が薄く濡れた食器を照らしていた。俺たちはそれを一瞥し、太輔は脇を片手でさすりながら、また水を汲み直す。
「なぁ、太輔。もう一回転んで見せて」
「は? お前、性格悪すぎだろ」
「んなこと、今更かよ。さっき転ぶ瞬間、動画で撮りたかった」
俺には目もくれず、笑いながら慎重に階段を上っていく。
その背中を見つめながら、俺は何となく、さっきの傷痕のことをまだ考えていた。



