意識が浮上した瞬間、視界を支配していたのは、揺らめく青緑色だった。
水中に漂う太輔の髪が、海藻のように頼りなく、焦げ茶の輪郭をぼかしている。光を吸い込んで青白く透けた肌には、かつての健康的な日焼けの面影がない。瞼が閉じて、睫毛が水中でゆっくりと揺れていた。
こいつがこんなに静かにしているのを、俺は生まれてから一度も見たことがなかった。
荒れ狂っていた水は凪いでいるけれど、このままじゃ、俺もこいつも溺れ死ぬ。そう確信した俺は、ぬるい水圧を押し退けて、太輔の太い手首を両手で強く引き上げた。
ガボッ、とはじけるような音とともに水面から顔を出して、一気に酸素で肺を満たす。
「――っ、はぁっ、はぁっ……!」
喉が焼けるように痛かった。荒い呼吸が、狭い空間に反響しているのに気付いて、茫然と辺りを見渡す。
そこは異界の屋上ではなく、見慣れた太輔の家の風呂場だった。
ステンレスの浴槽。細い線で点描のように紫陽花が描かれている。花びらの輪郭が、釉薬の盛り上がりで僅かに触ると分かるやつだ。小学生の頃、この家に泊まるたびに指でなぞっていた。床には小石が無数に埋め込まれていて、壁は黒いタイル、古びた白い目地。
棚には、使い古しのシャンプーボトルが何種類も肩を並べている。家族それぞれのものが混在していて、高さも色もバラバラだけど、いつもの順番だ。何もかもが、記憶の中と同じ位置にある。
お世辞にも広いとは言えない浴槽の中で、俺たちは膝を突き合わせるようにして半身を浸していた。冷え切った水が制服を肌に張り付かせ、ワイシャツの白が透けていた。
「……助かった、のか?」
「て、てか……なんで俺ん家の風呂場?」
互いに、さっきまで置かれていた状況をまだ咀嚼できないまま、見つめ合う。
「……今、どっちの味が食いたい? せーの」
「「塩」」
助かったと理解した後に交わした言葉は、あろうことかサッポロラーメンの味についてだった。
あまりの馬鹿馬鹿しさに、二人して吐息を漏らすように笑う。
太輔が乱暴に頭を掻くと、冷え切った風呂の水がパシャッと勢いよく跳ねる。
ふと視線を上げると、よぞら模様の型板ガラスの向こう側は、紺色にじわりと淡いピンクが滲んで、そこからさらに燃えるようなオレンジ色。夜明けのグラデーションが窓一面に広がっていた。
「食ったらさ、塩分で邪気とかも払えそうじゃね?」
「ウケる。でも、ここに俺らが居るってことは、アイツはもう……成仏したってこと?」
「わかんねー。とりあえず、こっから出ようぜ」
ざばぁっ、と大量の水を滴らせながら太輔が浴槽から立ち上がった。
水を吸って重くなったスラックスや肌着を、次々に洗濯機に放り込む。
「これなら着られるだろ」
「うわ、出た。またこのバンTかよ」
「文句言うなよ。一応、俺の手持ちのなかで一番元値は高ぇんだぞ」
借りた太輔の部屋着からは、慣れ親しんだ柔軟剤の匂いがした。
あんなに恐ろしい思いをしたのが嘘みたいに、部屋の中は静かで温かい。
ふとした拍子に、生地の奥から太輔自身の匂いが微かに立ち上った気がした。
そっと袖口に鼻を寄せると、まだどこか張り詰めていた心の強張りが、溶けるようにゆっくりと解けていく。
「え、なに。クサい? ちゃんと洗濯して外干しまでしてんだけど」
「うん、太輔の匂いしかしない。最悪」
「……最悪っていう顔には見えねーけどな」
俺の額を軽く小突いて、台所へ向かった太輔が真っ先に手をかけたのは、あの吊戸棚だった。
『ねるねるねるぜ』のストックが並ぶ棚を一度だけ覗き込んで、何事もなかったかのように扉を閉める。そのまま、電子レンジの横にうず高く積まれたカップ麺の山から、サッポロ一番の袋を無造作に掴み取った。
隣から腕を伸ばして、カチッと電気の紐を引っ張る。けれど、すぐには明るくならなかった。
ヴーン、という虫が飛ぶような低い音が鳴って、蛍光灯がためらうみたいに点滅を繰り返す。白い光と暗闇が交互に来て、その度に太輔の顔が明滅した。見えて、消えて、また見えて——その繰り返しが、さっきまでいた異界を思い出させる。
俺は蛍光灯が安定するまで、目を逸らすように、流し台に渡しにされた木のまな板を眺めた。
使い込まれて、端が黒ずんでいる。その上に、並んで出番を待つ二つの丼があった。
「これ、懐かしいな。まだあったんだ」
「当たり前だろ。俺ん家では『ヴィンテージ食器』って呼ばれてんだぜ」
ふたりで必死にパンを食って、点数を集めて手に入れた、小学生の時に好きだったキャラクターのデザインだった。
あの頃、学校の帰りにスーパーに寄っては買い食いして、応募券を切り取っていたのが懐かしい。
「……あと、何分?」
「今、お湯入れたばっかだろ。せめて二分くらいは待てって」
「うわ、なっげぇ」
文句を言いながら、ふと給湯器のパネルに目を向けると、暗がりに浮かび上がる黄緑色のデジタル数字は、まだ朝五時にもなっていなかった。
太輔は冷蔵庫の奥から真空パックのチャーシューを取り出して、包丁を握った。
「マジでせっかちだよな。俺は赤ん坊の時からお前のことを待ってた、『待ち』のプロだからな。二分くらい余裕だわ」
へらへらと、いつものように軽口を叩く。その横顔を見上げて、俺はこいつが自分より二分だけ早く生まれた「兄貴分」であることを、今更のように思い出した。
二分。カップ麺さえ作れない、ほんの僅かな空白。
けれど、一人で世界に放り出されたその短い時間、こいつは産声の中で俺が来るのをずっと待っていたんだ。
写真でしか知らない、赤ら顔で泣きじゃくる新生児の太輔をぼんやりと思い浮かべた、その時だった。
「光希」
不意に、太輔の手が伸びてきた。
水に濡れて束になった俺の前髪を、大きな手のひらで雑にかき上げる。ほんのりと淡い熱を持った唇が、俺の額に柔らかく触れた。
「お前、なに、何して――」
「好きだなって思って」
「は?」
「いつも心のどっかが、ずっと寂しかった。……でも、今ので全部埋まった気がする」
胸の真ん中あたりを指差す太輔の顔に、じわじわと赤みが差していった。俺の目を真っ直ぐに見つめて、吐き出すようにそれだけ言うと、逃げるみたいに視線をまな板に戻す。
とんでもない爆弾を放り込まれた気がした。
いつもなら反射的に拳が出ていたはずだ。けれど、命拾いをした直後、夜明けの台所というあまりにも無防備なタイミングでぶつけられた本音に、思考が追いつかなかった。
喉まで出かかった罵倒も疑問も、全部が混ざり合って、絞り出せたのは素っ気ない一言だけ。
「……そーかよ」
俺の返事を聞いた太輔は、声を出さなかった。
ただ、緩んだ口元を隠そうともせず、溢れ出しそうな何かを噛み締めるみたいにして、慎重に包丁の先をチャーシューへと沈めていく。
「光希は、チャーシュー何枚食う?」
「んー、二枚」
俺は隣からその手元を覗き込んだ。濡れた髪から滴る水滴が、まな板に小さな点を作っていく。
ふと、流し台の奥、無造作に置かれたコーラの空き瓶に目が留まった。
「……これ」
思わず声が漏れた。そこには、場違いなほど真っ白な一輪の花が挿されている。
細い茎の先に、天を仰ぐように反り返った花弁と、糸のように長い蕊。
本来なら晩夏を過ぎ、秋の気配と共に咲くはずの花だ。
「ん? あぁ、それな。母ちゃんが庭に狂い咲きしてたからって、この前から飾ってんだけどさ。もっとマシな花瓶に挿せよって感じだよな」
夜明けの薄い光を吸い込んだ彼岸花が、白く清らかに透き通っている。
込み上げた吐息を飲み込むようにして、俺は瞼を伏せ、まだ少し冷たい自分の頬を太輔の剥き出しの二の腕にそっと預けた。
ぴくり、と太輔の身体が一瞬こわばるのが伝わってくる。
心臓がうるさくて、恥ずかしさで顔が火を吹きそうだった。けれど、これが今の俺にできる、精一杯の「好き」の表明だ。言葉にするには、まだもう少し時間が要る。
それでも、今はただこの柔らかな熱を肌で感じていたかった。
「うわ、いってぇ!」
「えっ、何、いきなりでけぇ声出すなよ!」
太輔の短く鋭い叫び声に心臓が跳ね、俺は慌てて身体を離した。
視線を落とせば、まな板の上で包丁の刃が不自然な角度で止まり、太輔の左手の指先からは鮮やかな紅い血が粒となって溢れ出している。
「……貸して」
考えるより先に、俺はその指を掴み、熱を帯びた口内へと迎え入れていた。吸い上げた瞬間、鉄の匂いが舌の上で弾ける。
太輔の喉が大きく上下した。指先に絡みつく舌の感触に、動揺しているのが伝わってくる。吸い上げるたびに、太輔の顔が痛み以外の何かに歪んだ、その時だった。
――チリン。
背後で、氷を叩いたような涼やかな音が響いた。
風鈴だ。
けれど、この家にそんな洒落たものがあっただろうか。窓は閉まり、室内には風も吹いていない。それなのに、音は確かに、すぐ耳元で聞こえた。
太輔と二人、引き寄せられるように同時に後ろを振り返る。
静まり返った台所。青白い薄闇と、白み始めた夜明けの光が混ざり合う空間の中で、俺たちは互いの顔を見合わせた。
俺の口から離れた太輔の指先からは、まだ血が滴り、まな板の上に一滴、また一滴と小さな赤い点を作っている。
――チリン。
もう一度、呼びかけるように風鈴が鳴った。
<終>
水中に漂う太輔の髪が、海藻のように頼りなく、焦げ茶の輪郭をぼかしている。光を吸い込んで青白く透けた肌には、かつての健康的な日焼けの面影がない。瞼が閉じて、睫毛が水中でゆっくりと揺れていた。
こいつがこんなに静かにしているのを、俺は生まれてから一度も見たことがなかった。
荒れ狂っていた水は凪いでいるけれど、このままじゃ、俺もこいつも溺れ死ぬ。そう確信した俺は、ぬるい水圧を押し退けて、太輔の太い手首を両手で強く引き上げた。
ガボッ、とはじけるような音とともに水面から顔を出して、一気に酸素で肺を満たす。
「――っ、はぁっ、はぁっ……!」
喉が焼けるように痛かった。荒い呼吸が、狭い空間に反響しているのに気付いて、茫然と辺りを見渡す。
そこは異界の屋上ではなく、見慣れた太輔の家の風呂場だった。
ステンレスの浴槽。細い線で点描のように紫陽花が描かれている。花びらの輪郭が、釉薬の盛り上がりで僅かに触ると分かるやつだ。小学生の頃、この家に泊まるたびに指でなぞっていた。床には小石が無数に埋め込まれていて、壁は黒いタイル、古びた白い目地。
棚には、使い古しのシャンプーボトルが何種類も肩を並べている。家族それぞれのものが混在していて、高さも色もバラバラだけど、いつもの順番だ。何もかもが、記憶の中と同じ位置にある。
お世辞にも広いとは言えない浴槽の中で、俺たちは膝を突き合わせるようにして半身を浸していた。冷え切った水が制服を肌に張り付かせ、ワイシャツの白が透けていた。
「……助かった、のか?」
「て、てか……なんで俺ん家の風呂場?」
互いに、さっきまで置かれていた状況をまだ咀嚼できないまま、見つめ合う。
「……今、どっちの味が食いたい? せーの」
「「塩」」
助かったと理解した後に交わした言葉は、あろうことかサッポロラーメンの味についてだった。
あまりの馬鹿馬鹿しさに、二人して吐息を漏らすように笑う。
太輔が乱暴に頭を掻くと、冷え切った風呂の水がパシャッと勢いよく跳ねる。
ふと視線を上げると、よぞら模様の型板ガラスの向こう側は、紺色にじわりと淡いピンクが滲んで、そこからさらに燃えるようなオレンジ色。夜明けのグラデーションが窓一面に広がっていた。
「食ったらさ、塩分で邪気とかも払えそうじゃね?」
「ウケる。でも、ここに俺らが居るってことは、アイツはもう……成仏したってこと?」
「わかんねー。とりあえず、こっから出ようぜ」
ざばぁっ、と大量の水を滴らせながら太輔が浴槽から立ち上がった。
水を吸って重くなったスラックスや肌着を、次々に洗濯機に放り込む。
「これなら着られるだろ」
「うわ、出た。またこのバンTかよ」
「文句言うなよ。一応、俺の手持ちのなかで一番元値は高ぇんだぞ」
借りた太輔の部屋着からは、慣れ親しんだ柔軟剤の匂いがした。
あんなに恐ろしい思いをしたのが嘘みたいに、部屋の中は静かで温かい。
ふとした拍子に、生地の奥から太輔自身の匂いが微かに立ち上った気がした。
そっと袖口に鼻を寄せると、まだどこか張り詰めていた心の強張りが、溶けるようにゆっくりと解けていく。
「え、なに。クサい? ちゃんと洗濯して外干しまでしてんだけど」
「うん、太輔の匂いしかしない。最悪」
「……最悪っていう顔には見えねーけどな」
俺の額を軽く小突いて、台所へ向かった太輔が真っ先に手をかけたのは、あの吊戸棚だった。
『ねるねるねるぜ』のストックが並ぶ棚を一度だけ覗き込んで、何事もなかったかのように扉を閉める。そのまま、電子レンジの横にうず高く積まれたカップ麺の山から、サッポロ一番の袋を無造作に掴み取った。
隣から腕を伸ばして、カチッと電気の紐を引っ張る。けれど、すぐには明るくならなかった。
ヴーン、という虫が飛ぶような低い音が鳴って、蛍光灯がためらうみたいに点滅を繰り返す。白い光と暗闇が交互に来て、その度に太輔の顔が明滅した。見えて、消えて、また見えて——その繰り返しが、さっきまでいた異界を思い出させる。
俺は蛍光灯が安定するまで、目を逸らすように、流し台に渡しにされた木のまな板を眺めた。
使い込まれて、端が黒ずんでいる。その上に、並んで出番を待つ二つの丼があった。
「これ、懐かしいな。まだあったんだ」
「当たり前だろ。俺ん家では『ヴィンテージ食器』って呼ばれてんだぜ」
ふたりで必死にパンを食って、点数を集めて手に入れた、小学生の時に好きだったキャラクターのデザインだった。
あの頃、学校の帰りにスーパーに寄っては買い食いして、応募券を切り取っていたのが懐かしい。
「……あと、何分?」
「今、お湯入れたばっかだろ。せめて二分くらいは待てって」
「うわ、なっげぇ」
文句を言いながら、ふと給湯器のパネルに目を向けると、暗がりに浮かび上がる黄緑色のデジタル数字は、まだ朝五時にもなっていなかった。
太輔は冷蔵庫の奥から真空パックのチャーシューを取り出して、包丁を握った。
「マジでせっかちだよな。俺は赤ん坊の時からお前のことを待ってた、『待ち』のプロだからな。二分くらい余裕だわ」
へらへらと、いつものように軽口を叩く。その横顔を見上げて、俺はこいつが自分より二分だけ早く生まれた「兄貴分」であることを、今更のように思い出した。
二分。カップ麺さえ作れない、ほんの僅かな空白。
けれど、一人で世界に放り出されたその短い時間、こいつは産声の中で俺が来るのをずっと待っていたんだ。
写真でしか知らない、赤ら顔で泣きじゃくる新生児の太輔をぼんやりと思い浮かべた、その時だった。
「光希」
不意に、太輔の手が伸びてきた。
水に濡れて束になった俺の前髪を、大きな手のひらで雑にかき上げる。ほんのりと淡い熱を持った唇が、俺の額に柔らかく触れた。
「お前、なに、何して――」
「好きだなって思って」
「は?」
「いつも心のどっかが、ずっと寂しかった。……でも、今ので全部埋まった気がする」
胸の真ん中あたりを指差す太輔の顔に、じわじわと赤みが差していった。俺の目を真っ直ぐに見つめて、吐き出すようにそれだけ言うと、逃げるみたいに視線をまな板に戻す。
とんでもない爆弾を放り込まれた気がした。
いつもなら反射的に拳が出ていたはずだ。けれど、命拾いをした直後、夜明けの台所というあまりにも無防備なタイミングでぶつけられた本音に、思考が追いつかなかった。
喉まで出かかった罵倒も疑問も、全部が混ざり合って、絞り出せたのは素っ気ない一言だけ。
「……そーかよ」
俺の返事を聞いた太輔は、声を出さなかった。
ただ、緩んだ口元を隠そうともせず、溢れ出しそうな何かを噛み締めるみたいにして、慎重に包丁の先をチャーシューへと沈めていく。
「光希は、チャーシュー何枚食う?」
「んー、二枚」
俺は隣からその手元を覗き込んだ。濡れた髪から滴る水滴が、まな板に小さな点を作っていく。
ふと、流し台の奥、無造作に置かれたコーラの空き瓶に目が留まった。
「……これ」
思わず声が漏れた。そこには、場違いなほど真っ白な一輪の花が挿されている。
細い茎の先に、天を仰ぐように反り返った花弁と、糸のように長い蕊。
本来なら晩夏を過ぎ、秋の気配と共に咲くはずの花だ。
「ん? あぁ、それな。母ちゃんが庭に狂い咲きしてたからって、この前から飾ってんだけどさ。もっとマシな花瓶に挿せよって感じだよな」
夜明けの薄い光を吸い込んだ彼岸花が、白く清らかに透き通っている。
込み上げた吐息を飲み込むようにして、俺は瞼を伏せ、まだ少し冷たい自分の頬を太輔の剥き出しの二の腕にそっと預けた。
ぴくり、と太輔の身体が一瞬こわばるのが伝わってくる。
心臓がうるさくて、恥ずかしさで顔が火を吹きそうだった。けれど、これが今の俺にできる、精一杯の「好き」の表明だ。言葉にするには、まだもう少し時間が要る。
それでも、今はただこの柔らかな熱を肌で感じていたかった。
「うわ、いってぇ!」
「えっ、何、いきなりでけぇ声出すなよ!」
太輔の短く鋭い叫び声に心臓が跳ね、俺は慌てて身体を離した。
視線を落とせば、まな板の上で包丁の刃が不自然な角度で止まり、太輔の左手の指先からは鮮やかな紅い血が粒となって溢れ出している。
「……貸して」
考えるより先に、俺はその指を掴み、熱を帯びた口内へと迎え入れていた。吸い上げた瞬間、鉄の匂いが舌の上で弾ける。
太輔の喉が大きく上下した。指先に絡みつく舌の感触に、動揺しているのが伝わってくる。吸い上げるたびに、太輔の顔が痛み以外の何かに歪んだ、その時だった。
――チリン。
背後で、氷を叩いたような涼やかな音が響いた。
風鈴だ。
けれど、この家にそんな洒落たものがあっただろうか。窓は閉まり、室内には風も吹いていない。それなのに、音は確かに、すぐ耳元で聞こえた。
太輔と二人、引き寄せられるように同時に後ろを振り返る。
静まり返った台所。青白い薄闇と、白み始めた夜明けの光が混ざり合う空間の中で、俺たちは互いの顔を見合わせた。
俺の口から離れた太輔の指先からは、まだ血が滴り、まな板の上に一滴、また一滴と小さな赤い点を作っている。
――チリン。
もう一度、呼びかけるように風鈴が鳴った。
<終>



