夏を迷えど、遥けし恋はますばかり

「つき……光希!」

 鼓膜を叩く太輔の鋭い声。それに弾かれるようにして、俺は跳ね起きた。
 並んだ机、椅子、黒板。見慣れたはずの景色なのに、得体の知れない違和感が肌にまとわりつく。
 窓の外は、まるで底なしの闇に塗り潰されたような夜だった。校庭の夜間照明すら消え、校舎には完全に人の気配がない。夏とは思えないほど芯まで冷える空気が、腕に鳥肌を立たせていた。

「た、太輔……ここ、どこだよ……」
「わかんねぇ。……けど、現実の世界じゃねぇのは確かだ」

 記憶を手繰ろうとした。確かに太輔と二人で、誰もいない学年準備室で着替えを始めたはずだ。
 けれど、そこから先が深い霧に覆われたように思い出せない。記憶が切り取られたみたいに、不自然な空白が生まれている。
 代わりにあの「前世」の記憶が鮮明に脳裏をよぎる。混乱する俺に、太輔は絞り出すような声で告げた。

「いいか、光希。あいつは神様なんかじゃない。ずっとお前のことを狙ってる『影』だったんだよ! 俺に罰が当たればいいってお前が願ったから、あいつは近づくための口実として怪我をさせた。お前が救いを乞うように仕向けてから、『蛇神』の面を被って現れたんだ。……全部、自作自演だったんだよ。キスを契約に混ぜたのも、儀式に見せかけて俺の力を奪うためだって、あいつが……」

 太輔の口から、俺が心の最深部に秘めていた「呪い」が暴かれていく。最悪の形で知られてしまった羞恥と、拒絶されるのではないかという恐怖が同時に押し寄せてくる。
 自分への非難を遮るように、俺は震える声で言葉を重ねた。

「待って……太輔の力って、何なんだよ。どういうことだよ!」
「俺にも詳しくは分からねぇんだ。ただ、俺は昔から無意識にお前を、そういう……良くないものから遠ざけてたっぽいんだ。あいつは、それが邪魔だったんだよ」

 太輔はどこか決まり悪そうに目を逸らした。荒唐無稽な話のはずなのに、あの夢の中で、泥だらけの手で俺を守ろうとしていた庭師の姿を知ってしまった今、それは重い真実味を持って胸に響いていた。

「太輔……ごめん。俺、あの夏祭りの夜、あんなこと思って……」
「謝んなよ。……お前にそんなこと願わせるまで追い詰めた、俺が悪い」
「は……? 何言ってんだよ。どう考えたって、俺が悪いだろ!」
「そうじゃねぇんだよ」

 言葉は、太輔の強い拒絶に遮られた。
 俺の罪悪感なんてとっくに見透かしていたように、真っ直ぐにこっちを見据えている。こんな目に遭わせてもなお、その優しさは、俺が知っている「幼馴染の太輔」のままだった。その熱に触れて、少しだけ泣きそうになる。

「俺があの時、自分の気持ちをちゃんと言わなかった。言わなくても伝わってるはずだって、お前の優しさに甘えて……逃げてた俺のせいなんだ」

 お前の気持ちって、なんだよ。その問いに答える代わりに、太輔は俺の肩に引っかかっていただけのワイシャツに腕を通させ、ボタンを一つずつ留め始めた。
 いつも不敵に笑って、何でもねぇよと俺を安心させてきた手。その指先が、小さく震えていることに気づいた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

「よし、行くぞ」
「行くって……どこに?」
「考えてねぇ。けど、ここにいちゃいけないことだけは、分かるだろ」

 太輔が苦笑いを浮かべて、顎で教卓の方を指し示した。
 そこには、絶対にあるはずのないものが、在った。
 教壇の天板から、どろりとした塊が染み出している。墨汁よりも濃い、光を返さない黒。
 それは粘り気を持った有機的な液体となって、天板の縁から床へと糸を引いて垂れ落ちていく。

 ――ぼたっ。ぼとっ。

 静けさの中でその音だけが、鼓膜を叩くような嫌な響きを立てた。一滴ごとに床に落ち、広がりながら蠢いている。机の脚から、椅子の脚、下から上へと這い上がっていく。
 床に溜まった黒い水面が急激に収縮して、中央で泡立ち、せり上がっていく。水底から這い上がってくる蛇のようにのたうちながら、それは人の形を成し始めていた。

「あれが蛇神の正体だ。……走るぞ、光希!」

 太輔に力任せに腕を引かれて、ふたりで廊下へ飛び出した。階段を一段飛ばしで駆け上がりながら、一度だけ背後を振り返る。
 開け放たれた教室のドアから、ゆらぁ……と影が染み出していた。いつまでも動きの定まらない、泥のような人影。
 それが意志を持って、音もなくこちらへ滑り出してくる。あるのはただ、俺たちを追っているという確信だけだった。

「太輔、待って……! 上に行ったら、屋上で袋小路になる。外に逃げられない!」
「俺もそう思ったけどよ。見ろ! そんな余裕ねえんだよ」

 踊り場で足を止めた太輔が、鼻で短く笑った。
 強がりで塗り固めたその横顔は、今にも崩れそうなほど余裕がなく、額に汗が滲んでいる。
 太輔が指し示した階段の下——俺たちが今しがた駆け抜けたフロアの底から、それは押し寄せていた。
 コールタールのような真っ黒な水が、階段から溢れ出して濁流となって迫ってくる。波頭が階段を一段ずつじりじりと呑み込んでいって、その速度は少しずつ上がっていた。
 黒い水面は蛍光灯の残光を跳ね返し、まるで内臓から溢れた体液のような、ぬらりとした光沢を放っている。
 不意に、どこかから、ごぼり、と水音がした。連続したそれは重く低い唸り声のようでもあり、男の呻き声にも聞こえた。

「止まっちゃ駄目だ、もっと上に行かないと!」
「あー、もう! マジで怖がらせにくんじゃねーよ、クソが!」

 太輔の罵声が、逃げ場のない階段に反響した。壁に跳ね返って、また跳ね返って、重なって消えていく。それでも黒い水は止まらない。俺たちの足首を狙うみたいに、一段、また一段と水位を上げながら迫ってくる。

「光希、上だ! 屋上まで登って、ドアぶっ壊すしかねぇ!」

 太輔の声が背中を叩いて、俺の足が動いた。止まったら終わりだという感覚だけが、全身を貫く。
 闇の底から逃れるように、この異界の出口も見えないまま。俺たちはさらに高く、上へ上へと足を踏み出し続けた。