蜩の声が、燃えるような夕暮れの通学路に絶え間なく降り注いでいる。カナカナカナ、と高く透き通った反復音。それは鼓膜を通り越して、ただひたすらに鬱陶しく、それでいてどうしようもなく物悲しい。
道路の両脇に生い茂る木々は、夏が深まるごとにその密度を増し、アスファルトの足元へどろりと濃い影を落としている。それほどまでに深く枝葉を伸ばしていながら、一向に風を通そうとはしてくれない。
わずかな救いは、左脇の用水路を流れる小川のせせらぎだった。
ちょろ、ちょろ。
水面にひとひらの葉を浮かべて運び、岩の肌を撫でるように滑っていくそれは、肌にまとわりつく湿り気を何一つ奪ってはくれない。ただ耳を掠めていく、音だけの涼だった。
「あー、あっつ……。暑すぎだろ。八月になったらどうなっちまうんだ、コレ」
「太輔が禿げ散らかしたオッサンになる頃には、四十度超えが当たり前の世の中だってこの前テレビでやってた」
「俺がオッサンなら、光希も同じようにオッサンになってるけどな。……つーかさぁ、俺らガキの頃って、こんなに暑くなかったよな? 三十度超えただけで、皆で大騒ぎしてた気がする」
「俺らが成長してる間に、地球温暖化も進んだんじゃねぇの。……知らんけど」
首筋を、脇を、背中を――汗がたらりと伝い落ちる。
スラックスのベルト部分はぐっしょりと湿り、ワイシャツは背中に張り付いて剥がれない。授業の間に熱を蓄えた自転車のサドルは、ついさっきまで誰かがそこに座っていたかのような、不快な温度をもっていた。
「太輔。喉乾いたから、一旦ストップ。さっきのコーラ、俺のと交換して」
「ん、いいよ。ほら」
道路の脇にふたりで自転車を寄せ、昇降口の自販機で帰りがけに買ったコーラとサイダーを交換する。
汗を拭いながら仰ぎ見る先には、同じくらいずつ残っていたペットボトルの中身。あとでこうなることが最初から分かっているから、お互いそのつもりで半分残しておくのが、俺たちの暗黙の了解だった。
不意に吹いた風で自転車が倒れないよう、ハンドルのグリップを強く握り込む。ゴムの表面に滲んだ手汗が、まるで誰かにじっとりと手を握られているような生々しい感触を伝えてきた。
「来週から、二本買うかガチで悩むんだけど」
「だったら、太輔のと合わせて……四種類飲めるってこと? めっちゃアリでしかない」
空になったペットボトルを自転車の前カゴに放り込み、再びサドルにまたがる。
隣を走る太輔は、制服の第二ボタンまでを外して、俺の一歩先を漕ぎ進み始めた。低く身を沈めてペダルを踏む背中。その剥き出しの首筋が、傾いた夕陽を浴びて、うっすらと黄金色に光っている。
ただの汗だ。そんなことは、分かっている。けれど、流れる雫の軌道から、俺はどうしても目を離すことができなかった。
「ただいま」
「お邪魔しまーす」
夏休みの課題は、配布されたその日に太輔の家で半分を片付け、三日以内にすべてを終わらせる。それが俺とコイツの間で、いつの間にか出来上がっていた不文律だった。
小学生の頃から、ずっとそうしてきた。言葉にして約束したことなんて一度もない。けれど、毎年夏が来るたびに、当たり前のように互いの部屋に集まり、同じ風に吹かれながらペンを動かす。そういうものが、俺たちには幾つもあった。
けれど、高校二年生の夏。その「伝統」は、これで終わりを迎えようとしている。
三年に進級すれば、嫌でも受験という二文字が俺たちを切り離すだろう。来年の夏、俺たちはきっと、それぞれの机の前で、別々の未来を見据えて座っている。
そう予感した瞬間、ワークや参考書が詰まった鞄の重みが、ずしりと肩に食い込んだ。それは単なる紙の重さではなく、もうすぐ手放さなければならない、この季節そのものの重さのように感じられた。
「あら、みーくん。いらっしゃい。さっき、ねるねる買ってきたのよ、いつものラムネ味」
「マジ? やった。おばさん最高じゃん」
「いつもの所にしまってあるから、好きなだけ食べてね」
俺と太輔は、母親同士が町の産院で同じ病室だった頃からの腐れ縁だ。
数時間の差で陣痛が始まり、隣り合う分娩室で、わずか二分差で産声をあげた。悔しいけれど、一歩先にこの世の空気を吸ったのは太輔の方だ。
退院してからも、目と鼻の先に住んでいた母さんたちはお互いを支え合い、心細い初めての育児を二人三脚で乗り越えてきた。いわば、戦友みたいなものだ。
だから俺の傍には、物心ついたときから太輔がいるのが当たり前だった。
兄弟ではない、家族でもない。そんなことは幼心にもわかっていた。それでも、太輔の隣は俺、俺の隣は太輔というのが、気づけば当たり前になっていた。
成長するにつれ、周囲から「距離感が近すぎる」とからかわれることも増えた。けれど、それをどうしてなのかと自問したり、おかしいのではないかと疑ったりすることは、ただの一度もなかった。
疑う必要がないほどに、俺たちはあまりにも純粋な、共生関係の中にいたからだ。
「おふくろ、あんま光希のこと甘やかすなよ。コイツのねるねる作るの、もう十年も俺の仕事になってんだぞ!」
「なに言ってんの。アンタの方が二分早く生まれてんだから、それくらいやってあげなさいよ。もう、ホントに尻の穴がちっさい男ねぇ!」
どちらが可愛がられているのかわからないくらい、息子に辛辣だ。そのやりとりを尻目に、俺はさっとローファーを脱いで、勝手知ったる太輔の家の台所へ向かった。吊り戸棚の、いつもの定位置。俺の大好物の「ねるねるねるぜ」がストックされている。
育ち盛りの男ふたりの体重を受け、古い木造の階段がギイギイと不規則に軋んだ。
部屋に入るなり、太輔は手際よく廊下と部屋の窓をすべて開け放ち、首振り扇風機のスイッチを足で押した。銀色の網の奥で、うっすらと埃を被った青い羽根が、重そうに回り始める。
学校に行っている間にじっとりと籠もった熱気が、扇風機のぶぅんぶぅんという低い唸りに押し出されるようにして、ゆっくりと夕暮れの空へ逃げていった。
「てか、光希。模試の結果はどうだったんだよ」
「余裕のA判定。残り三つの滑り止めは、全部S判定」
今日、夏休みの課題配布と一緒に返却された、あの大きな判定シートの話だ。
まさか、太輔の口から大学の話題が出てくるとは思っていなかった。あの夏祭りの夜以来、「その話には触れない」という空気が、俺たちの間には静かに横たわっていたから。
太輔と十六年もの間一緒にいて、あんなに気まずい空気が何日も続いたのは初めてだった。
「うわ、エグすぎ。じゃあ、俺らの最強の腐れ縁も、ここまでってことだな」
「おう。つーか、大学生になってまで離れられなかったら、もはや呪いだろ」
「それな。……でも、まぁ……母さんたちは、俺らが離れ離れになったら悲しむんじゃねえの」
そう言うと、太輔は俺の方を向いているようで、その実、視線はどこか別の場所に落ちていた。縹色の地に涼しげな朝顔が描かれた座布団。その上に無造作に置いた、俺の手の甲のあたりをじっと見つめている。
それは、これ以上この話題に踏み込まれたくない、あるいは対話を切り上げたいと思っている時の、太輔の無意識な拒絶の癖だった。
(……逃げてんじゃねーよ。大学のこと、話し始めたのは、お前の方だろうが)
それを熟知しているからこそ、俺は胸の奥で小さく毒づいた。自分から話題を振っておいて、核心に触れそうになるとこれだ。
「太輔、課題終わったら『ねるねる』作って」
「はいはい。早く食いたいなら、さっさと解いて写させろよ」
「……そんなんだから、いつまでも赤点常習犯なんだぞ。お前、大学受験を舐めすぎ」
「だって、別に俺はぶっちゃけ大学に行く必要なんてねぇと思ってるし。最悪でも、K大なら入れるだろ? 定員割れしてるし」
それは、この県にひとつだけ存在する国公立大学の名前だった。
あまりのど田舎にあるうえ、偏差値も底をついている。地元では「そろそろ存続自体が危ういんじゃないか」なんて不名誉な噂が絶えない場所だ。絶望的に勉強が苦手だが、どうしても大卒の肩書きだけは手に入れたい――そんな連中の最後の受け皿として、半ば冷やかし混じりに扱われているような大学。
太輔がこういう適当な名前を口にするとき、そこに本気なんてひと欠片も込もっていない。
ただ、この場を凌ぎたいだけ。これ以上、自分の内側に踏み込ませたくないだけだということも、嫌というほど俺は分かっている。
「あー、面倒くせーな。ちゃっちゃと済ますか……」
俺は太輔が本格的に不機嫌になる前に、夏休みの課題一覧表を確認し、楽勝なものから片づけることにした。
隣で太輔が、俺の答えをさらさらとなんの躊躇もなく写していく。ちなみに、この不正行為はおばさん公認だ。留年させるくらいなら、とボヤいているのを何度も聞いたことがある。おばさんは、俺のことを「ねるねるねるぜ」で雇える便利な家庭教師だと思っているらしい。
「まぁ、俺も頭がよければ光希と一緒に東京に行けたんだろうけど。……いつか、遊びに行くわ」
「それ、絶対来ねぇやつじゃん」
言葉を返しながら、自分の声が少し乾いていることに気づいた。
その「いつか」がもし訪れたとして、俺は一体、どんな顔をして太輔の前に立てばいいんだろう。呼吸をするように毎日一緒にいたこいつと、数ヶ月の空白を隔てて再会して――何を喋ればいい?
積もった話をするのか、何もなかったみたいに笑うのか。どちらも、霧がかかったみたいにうまく想像できなかった。
太輔はその時きっと、ボウズや龍やトモ……他の幼馴染たちと、俺のいない毎日を過不足なく生きているはずだ。俺がいなくても、太輔の時計は止まらない。
それはあまりにも当然のことなのに。胸の奥には、いつまでも正体の知れないざらついた何かが居座り、呼吸をするたびに肋骨の内側をじりじりと擦っていく。その、地味で執拗な痛みが、俺に「選ばなかった未来」の重さを突きつけてくるようで、たまらなく不快だった。
「高二の今なら、まだ挽回できるかもしれねぇじゃん。ちょっとは自分で努力してみろよ」
「んー、明日から本気出すわ」
「……『明日やろうは馬鹿野郎』って言葉、まさに太輔にピッタリだよな」
太輔はそれを否定するでもなく、シャーペンのノック部分を右頬に押し当てたまま、俺の答案が埋まるのをじっと待っている。答えが出るやいなや、それを殴り書きで自分のワークへ写し取っていく。
いつもと変わらない横顔だった。変わらなさすぎて、俺は少しだけ腹が立っていた。
扇風機の風が、ゆるく首を振るたびに部屋を横切る。聚楽壁に画鋲で留められた七月のカレンダーが、その風を受けてぺらりと捲れて、また戻る。
浮かれて書いたんだろう、赤い中太マジックの文字が目に入った。
“光希と花火!”
丸みのある字だった。感嘆符まで付けて、どんだけ楽しみにしてたんだ。
書いたときの太輔の顔が、なんとなく目に浮かぶ。そういう表情の全てを、俺はひとつ残らず知っていた。十六年という歳月をかけて、嫌でも全部覚えてしまっている。
もう無かったことにはできない、別々の進路を歩もうと告げた夜の前に書かれた文字。
その鮮やかすぎる赤が、今の自分には直視できないほどに痛い。
俺は逃げるようにして、まだ空白の目立つ解答欄へと視線を戻した。



