瞬きをひとつした瞬間、風景が剥がれ落ちた。
目の前にあったはずの光り輝く庭園は消え、代わりに現れたのは、行灯の頼りない火に照らされた古びた仏間の天井だった。
(なんで……なんで俺、こんなところに……?)
顔を横へ向けると、薄い綿布団とくくり枕の上に、自分が横たわっているのが分かった。
部屋の奥に、煤けた黒塗りの巨大な仏壇がある。その中では、たった一本の線香が、細く頼りない灰色の糸を天井へとのぼらせていた。
その煙が、行灯の光をかすかに揺らしながら、空気にゆっくりと溶けていく。
ぐるりと部屋を取り囲む長押の上には、幾枚もの遺影が並んでいる。額縁の中の人々は、刷り込みが薄れたようにどれも顔立ちが酷く曖昧だ。
ふと、襖の向こう側から、くぐもった声が忍び込んできた。
「若旦那様がお亡くなりになって半年だというのに……心中しそこなった恥さらしが、いつまで我が物顔でこの家に居座るつもりなのかしら」
「……あいつが泣いて縋ったんだろう? あのお方も、こんな下男に毒されさえしなければ、今頃は立派な官吏として名を馳せておられただろうな」
「まあ……自業自得ですわね。あの部屋で死んだあとは、庭師の男にでも担がせて、寺の前に投げ捨てておくよう、奥様が申し付けておいででしたわ」
男女の声が、向こうへ遠ざかっていく。仏壇の中央にある小さな写真立てへ視線を移すと、そこには、焦げ茶の縁取りがなされた写真が収められていた。色褪せた白黒写真の中で、あの蛇神と同じ顔をした男が凛とした眼差しでこちらを見据えている。
その瞳と目が合った瞬間、思考を介さず、喉の奥から声が漏れた。
「旦那様……今日も斯様に浅ましく生き永らえてしまい、面目次第もございません」
冷静にこの夢の中の「俺」が口にする言葉を、感覚を共有したまま、どこか俯瞰するように見つめている自分がいる。
季節は巡り、死に損ねた俺は――旦那様の家族とかつて暮らした屋敷の仏間で、線香の煙に巻かれながら、一日中寝起きをしているらしかった。
「うっ……うぅ、あぁっ……」
堰を切ったように両目から涙が溢れ出す。猛烈な後悔と罪悪感が、暗い津波となって心を飲み込んでいく。
一緒に死ぬと約束した。それなのに、あの冷たい水底で、俺は彼の手を振りほどき、浅ましくも生を求めて浮上してしまった。
愛していた。心から愛していたはずなのに。俺は、自分だけを救うために、あの人を永遠の孤独に沈めた。
かつて「旦那様」と呼んで縋った人は、いまは冷たい硝子の向こう側、遺影の中に閉じ込められている。
五臓六腑を締め上げるような自己嫌悪が、肺の奥を焼く。自分という存在を、根底から否定したくなるほどの絶望だった。
自分の意志に関係なく、祈りとも呪いともつかない激情が、滝に打たれるような勢いで溢れ出す。
ふと、視界が滲むなかで、先程とは反対の襖が勢いよく音を立てて開く音がした。
逆光とともに、夏の暴力的な熱気が仏間になだれ込んでくる。
「おい、入るぞ」
大きな体躯の男。紺の股引に、汗を吸って色濃くなった腹掛け。泥にまみれた地下足袋で、畳の汚れなど一顧だにせず、土足のまま仏間から繋がる縁側の境目に、どかりと腰を下ろす。
――太輔だ。
全身から立ち昇る土の匂いと、荒々しい生の熱気。
それは、線香の香りに満ちたこの場所には、あまりにも不釣り合いで、場違いな力強さだった。
男は腰に下げた剪定鋏をガチャリと鳴らし、俺を見下ろす。
「この前も言っただろ。俺がお屋敷で仕事してる間くらいはこの襖を開けておけ。手のひらだけでもいい、お天道様を浴びねぇと、体の中に黴が生えて寝たきりのままになっちまうぞ」
口調こそ荒っぽいが、その声の響きは聞き慣れたあいつのものだ。
開け放たれた襖の先には、手入れの行き届いた庭園が広がっていた。飛び石の周囲には、燃え上がるような赤と白の彼岸花が群生している。
呆然としたまま、半身を起こすことすらできない俺をじっと見つめ、男は腕で額の汗を拭った。それから、縁側に置かれた竹皮の包みから握り飯をひとつ掴むと、膝をついて俺の枕元へとずいっと差し出した。
「ほら、食うか。どうせまた、残飯しか出されてないんだろ?」
掌の、指の隙間にこびりついた泥。握り飯に微かに移った土の匂い。俺はふるふると弱々しく首を振った。
男は不服そうに眉を寄せると、「強情だな」と吐き捨てるように言って立ち上がり、腰に手を当てて、秋風に揺れる庭の彼岸花を見下ろした。
その背中越しに差し込む陽光が眩しくて、思わず、その逞しい輪郭をなぞるように目を細める。
「……ほら、やるよ。少しくらい手折ってもバレないだろ、これだけあれば」
そう言って男は赤い彼岸花を一本手折り、俺の枕元にそっと置いた。俯いたまま、ゆっくりと手に取り、じっと見つめる。
綺麗だとか、こんなにも赤いのかという感想は確かに浮かんだ。それなのに、なぜか心は動かないままだった。
「赤い彼岸花はな、毎年同じ時期に咲くから『また会う日を楽しみに』って花言葉があるんだ」
男は何気なく言った。けれど、そのたった一言で、俺が心中に失敗した今でも旦那様に心を取り残され続けていることを、ちゃんと知っているということが静かに伝わってきた。
ありがとうも言えない。どうしてこんなことをするのか、どうして自分なんかに構うのか。
そんな問いが、水底の砂が舞い上がって濁りを作るようにふわりと現れては、流れに身を任せて消えていく。
さっきからだんまりを決め込んで俯く俺に、男はさらに言葉を継いだ。
「……あんたの心に誰がいようと構わねぇ。俺は、あんたがこの庭の風に吹かれて、明日も息をしてりゃ、それでいいんだ」
そう言って男は、庭の隅に咲いていた白い彼岸花を一本摘み、赤い花の隣にそっと並べた。それから竹の皮をくしゃくしゃと丸め、紐でゆるく縛る。
そのまま剪定鋏を手に取り、太い枝の前に立つと、俺に声をかけるでも、振り返るでもなく、黙って庭の手入れを始めた。
旦那様を失い、残された針のむしろのようなこの屋敷の中で、男がくれる優しさは、いったいどこから来るのだろう。
きっと、俺を慕っているから。守りたいと思っているから。
そうであれば、なおさら、受け取り方がわからなかった。
(……旦那様をこんな風にした俺が、幸せになって良いわけがない……)
そう自分を律しているはずなのに。
鋏が枝を断つ無骨な音や、男の大きな身体から漂ってくる陽だまりのような匂いに、どうしようもなく胸の奥が騒ぐのを止められない。死を願う俺の冷え切った指先に、この男が強引に分け与えた熱だけが、いつまでも消えずに残っている。
この男の隣にいたい。この匂いを、もっと知っていたい。
必死に圧し込んでいる本音は、旦那様への愛を裏切るような、猛烈な愛と生への渇望だった。
――チリン。
不意に、縁側に吊るされたままの風鈴が、呼びかけるように鳴った。そして、ためらうようにもう一度。
吸い寄せられるように遺影へ視線を戻したその瞬間、息が止まった。
遺影の中の彼の頬を、一筋の滴が伝っている。
それはやがて遺影の枠を越え、溢れんばかりの水となって仏壇から畳へとこぼれ落ち始めた。
最初はほんの一点だった染みが、じわり、じわりと広がって、畳の目に沿って滲み、縁を消しながら仏間の畳をゆっくりと塗り替えていく。
布団に横たわる俺の襦袢から、じんと骨まで染み込んでくるような冷たさは、あの日の池の底を思わせた。
太輔の居た方を振り返った時、その姿はもうそこにはなかった。
縁側の向こうは、晴れやかな青空。なのに俺のいる仏間だけは、全ての扉を閉じ切ったように暗く、薄水色の光がひとすじ、畳の上に細く落ちているだけだ。その光の境界線は、縁側との間でくっきりと割れていて、俺はその境の手前に、ただどうすることも出来ずに居る。
水はいつの間にか、布団の上の彼岸花を濡らしていた。
顔を上げると、天井の節目から、ぽつ、ぽつ、と滴が落ち始めている。遺影の涙が、この部屋ごと泣いているみたいだった。
あまりにも悲しい、恋と怪異の夢。
主人の怨念に心身を苛まれ続け、安らぎを求めることさえ許されない、地獄のような日々。それが、俺の前世だった。
目の前にあったはずの光り輝く庭園は消え、代わりに現れたのは、行灯の頼りない火に照らされた古びた仏間の天井だった。
(なんで……なんで俺、こんなところに……?)
顔を横へ向けると、薄い綿布団とくくり枕の上に、自分が横たわっているのが分かった。
部屋の奥に、煤けた黒塗りの巨大な仏壇がある。その中では、たった一本の線香が、細く頼りない灰色の糸を天井へとのぼらせていた。
その煙が、行灯の光をかすかに揺らしながら、空気にゆっくりと溶けていく。
ぐるりと部屋を取り囲む長押の上には、幾枚もの遺影が並んでいる。額縁の中の人々は、刷り込みが薄れたようにどれも顔立ちが酷く曖昧だ。
ふと、襖の向こう側から、くぐもった声が忍び込んできた。
「若旦那様がお亡くなりになって半年だというのに……心中しそこなった恥さらしが、いつまで我が物顔でこの家に居座るつもりなのかしら」
「……あいつが泣いて縋ったんだろう? あのお方も、こんな下男に毒されさえしなければ、今頃は立派な官吏として名を馳せておられただろうな」
「まあ……自業自得ですわね。あの部屋で死んだあとは、庭師の男にでも担がせて、寺の前に投げ捨てておくよう、奥様が申し付けておいででしたわ」
男女の声が、向こうへ遠ざかっていく。仏壇の中央にある小さな写真立てへ視線を移すと、そこには、焦げ茶の縁取りがなされた写真が収められていた。色褪せた白黒写真の中で、あの蛇神と同じ顔をした男が凛とした眼差しでこちらを見据えている。
その瞳と目が合った瞬間、思考を介さず、喉の奥から声が漏れた。
「旦那様……今日も斯様に浅ましく生き永らえてしまい、面目次第もございません」
冷静にこの夢の中の「俺」が口にする言葉を、感覚を共有したまま、どこか俯瞰するように見つめている自分がいる。
季節は巡り、死に損ねた俺は――旦那様の家族とかつて暮らした屋敷の仏間で、線香の煙に巻かれながら、一日中寝起きをしているらしかった。
「うっ……うぅ、あぁっ……」
堰を切ったように両目から涙が溢れ出す。猛烈な後悔と罪悪感が、暗い津波となって心を飲み込んでいく。
一緒に死ぬと約束した。それなのに、あの冷たい水底で、俺は彼の手を振りほどき、浅ましくも生を求めて浮上してしまった。
愛していた。心から愛していたはずなのに。俺は、自分だけを救うために、あの人を永遠の孤独に沈めた。
かつて「旦那様」と呼んで縋った人は、いまは冷たい硝子の向こう側、遺影の中に閉じ込められている。
五臓六腑を締め上げるような自己嫌悪が、肺の奥を焼く。自分という存在を、根底から否定したくなるほどの絶望だった。
自分の意志に関係なく、祈りとも呪いともつかない激情が、滝に打たれるような勢いで溢れ出す。
ふと、視界が滲むなかで、先程とは反対の襖が勢いよく音を立てて開く音がした。
逆光とともに、夏の暴力的な熱気が仏間になだれ込んでくる。
「おい、入るぞ」
大きな体躯の男。紺の股引に、汗を吸って色濃くなった腹掛け。泥にまみれた地下足袋で、畳の汚れなど一顧だにせず、土足のまま仏間から繋がる縁側の境目に、どかりと腰を下ろす。
――太輔だ。
全身から立ち昇る土の匂いと、荒々しい生の熱気。
それは、線香の香りに満ちたこの場所には、あまりにも不釣り合いで、場違いな力強さだった。
男は腰に下げた剪定鋏をガチャリと鳴らし、俺を見下ろす。
「この前も言っただろ。俺がお屋敷で仕事してる間くらいはこの襖を開けておけ。手のひらだけでもいい、お天道様を浴びねぇと、体の中に黴が生えて寝たきりのままになっちまうぞ」
口調こそ荒っぽいが、その声の響きは聞き慣れたあいつのものだ。
開け放たれた襖の先には、手入れの行き届いた庭園が広がっていた。飛び石の周囲には、燃え上がるような赤と白の彼岸花が群生している。
呆然としたまま、半身を起こすことすらできない俺をじっと見つめ、男は腕で額の汗を拭った。それから、縁側に置かれた竹皮の包みから握り飯をひとつ掴むと、膝をついて俺の枕元へとずいっと差し出した。
「ほら、食うか。どうせまた、残飯しか出されてないんだろ?」
掌の、指の隙間にこびりついた泥。握り飯に微かに移った土の匂い。俺はふるふると弱々しく首を振った。
男は不服そうに眉を寄せると、「強情だな」と吐き捨てるように言って立ち上がり、腰に手を当てて、秋風に揺れる庭の彼岸花を見下ろした。
その背中越しに差し込む陽光が眩しくて、思わず、その逞しい輪郭をなぞるように目を細める。
「……ほら、やるよ。少しくらい手折ってもバレないだろ、これだけあれば」
そう言って男は赤い彼岸花を一本手折り、俺の枕元にそっと置いた。俯いたまま、ゆっくりと手に取り、じっと見つめる。
綺麗だとか、こんなにも赤いのかという感想は確かに浮かんだ。それなのに、なぜか心は動かないままだった。
「赤い彼岸花はな、毎年同じ時期に咲くから『また会う日を楽しみに』って花言葉があるんだ」
男は何気なく言った。けれど、そのたった一言で、俺が心中に失敗した今でも旦那様に心を取り残され続けていることを、ちゃんと知っているということが静かに伝わってきた。
ありがとうも言えない。どうしてこんなことをするのか、どうして自分なんかに構うのか。
そんな問いが、水底の砂が舞い上がって濁りを作るようにふわりと現れては、流れに身を任せて消えていく。
さっきからだんまりを決め込んで俯く俺に、男はさらに言葉を継いだ。
「……あんたの心に誰がいようと構わねぇ。俺は、あんたがこの庭の風に吹かれて、明日も息をしてりゃ、それでいいんだ」
そう言って男は、庭の隅に咲いていた白い彼岸花を一本摘み、赤い花の隣にそっと並べた。それから竹の皮をくしゃくしゃと丸め、紐でゆるく縛る。
そのまま剪定鋏を手に取り、太い枝の前に立つと、俺に声をかけるでも、振り返るでもなく、黙って庭の手入れを始めた。
旦那様を失い、残された針のむしろのようなこの屋敷の中で、男がくれる優しさは、いったいどこから来るのだろう。
きっと、俺を慕っているから。守りたいと思っているから。
そうであれば、なおさら、受け取り方がわからなかった。
(……旦那様をこんな風にした俺が、幸せになって良いわけがない……)
そう自分を律しているはずなのに。
鋏が枝を断つ無骨な音や、男の大きな身体から漂ってくる陽だまりのような匂いに、どうしようもなく胸の奥が騒ぐのを止められない。死を願う俺の冷え切った指先に、この男が強引に分け与えた熱だけが、いつまでも消えずに残っている。
この男の隣にいたい。この匂いを、もっと知っていたい。
必死に圧し込んでいる本音は、旦那様への愛を裏切るような、猛烈な愛と生への渇望だった。
――チリン。
不意に、縁側に吊るされたままの風鈴が、呼びかけるように鳴った。そして、ためらうようにもう一度。
吸い寄せられるように遺影へ視線を戻したその瞬間、息が止まった。
遺影の中の彼の頬を、一筋の滴が伝っている。
それはやがて遺影の枠を越え、溢れんばかりの水となって仏壇から畳へとこぼれ落ち始めた。
最初はほんの一点だった染みが、じわり、じわりと広がって、畳の目に沿って滲み、縁を消しながら仏間の畳をゆっくりと塗り替えていく。
布団に横たわる俺の襦袢から、じんと骨まで染み込んでくるような冷たさは、あの日の池の底を思わせた。
太輔の居た方を振り返った時、その姿はもうそこにはなかった。
縁側の向こうは、晴れやかな青空。なのに俺のいる仏間だけは、全ての扉を閉じ切ったように暗く、薄水色の光がひとすじ、畳の上に細く落ちているだけだ。その光の境界線は、縁側との間でくっきりと割れていて、俺はその境の手前に、ただどうすることも出来ずに居る。
水はいつの間にか、布団の上の彼岸花を濡らしていた。
顔を上げると、天井の節目から、ぽつ、ぽつ、と滴が落ち始めている。遺影の涙が、この部屋ごと泣いているみたいだった。
あまりにも悲しい、恋と怪異の夢。
主人の怨念に心身を苛まれ続け、安らぎを求めることさえ許されない、地獄のような日々。それが、俺の前世だった。



