【side:嶋田光希】
気づけば、見知らぬ場所に立っていた。
季節は夏のはずなのに、辺りには場違いな新緑と桜の木が広がっていて、花びらがいくつも舞っている。それらが頬を掠めるたび、甘く切ない香りが鼻をくすぐった。
どこかおかしい。現実の時間軸から、決定的にずれている。
(……何だここ。来たことなんて、無いはずなのに……)
広大な池が広がる庭園だった。手入れされた木々が池を囲み、その全てを水面が鏡のように映し出している。
池のほとりには、大きな飛び石が点々と並んでいるけれど、その先がどこへ繋がっているのか、俺には分からない。
透き通った水の中を、巨大な錦鯉が緩やかに泳いでいく。赤、白、金。鮮やかな色彩が交差しては、細い波紋を幾重にも立てながら消えていった。
対岸には苔むした岩が横たわり、石灯籠が静かに佇んでいる。池の端には、緩やかな弧を描く小さな反り橋が架けられていた。どこからともなく流れてくるのは、水琴窟の音だ。
ひた、ひた、と地の底を叩くような、細く澄んだ水音。その透明な余韻をなぞるように、等間隔に鹿威しの硬い音が響いていた。
これは、きっと夢のはずだ。そうでなければ説明がつかない。
けれど、足の裏に伝わる地面の硬さと、肌にまとわりつく空気の重みは現実味を帯びていた。
「おいで、■■■」
声が、背後から降ってきた。
親しげな声だった。誰かを急かすでもなく、命じるでもなく。大切なものに呼びかけるような、柔らかくて低い声。その声を聞いた瞬間、胸の奥の何かがほんの少しだけ緩んだけれど、理由は分からなかった。
振り返った先には、若い男が立っていた。コートのような黒い二重まわしを羽織っていて、重そうだけれど、その人の体に沿うように自然に落ちている。
どこかで、この顔を見たことがある。そう思った瞬間、勝手に口が動いた。
「……旦那様。てっきり、来て下さらないのかと……」
「約束したんだ、そんなはずがないだろう。……けれど、こんなことになってしまって御免ね」
その声は穏やかだった。けれど、表情には悲しみと——本当に愛おしいものを前にした時の、静かな熱のようなものが同時に宿っていた。
複雑な二つの感情が、この人の顔の中では矛盾なく同居している。
「じゃあ、始めようか。これ以上先延ばしにして、屋敷の者たちに見つかると面倒だ」
男は俺の手首を取り、赤い細紐を丁寧に巻き始めた。それから自分の手首も静かに添え、隙間なくくっつけ合わせるようにして、紐を幾重にも巻き結んでいく。
急いではいなかった。乱暴でも強引でもなかった。
まるで始めからそうすることが決まっていたかのように、練習を繰り返してきたかのように、その動作には微塵の迷いもなかった。
意味が分からないのに、どうしても抵抗する気になれない。手首に食い込んでいく赤い紐の感触を、俺はただ黙って受け入れている。
……いや、それを見つめているのは「俺」じゃない。この白く細い手首も、爪の間に土が残る荒れた指先も、俺のものではなかった。
やがて、男が俯けていた顔をゆっくりと上げると、視線が真っ向からぶつかった。
「……緊張しているのかい?」
その問いに、俺の喉が勝手に震えた。自分の意識を強引に押し退けて、魂の奥底に眠っていた「誰か」の言葉が、切実な熱を持ってせり上がってくる。
「左様かもしれません。ですが、決して厭わしいのではございません。こうして旦那様と永久に添い遂げられるのだと思うと、悦びで胸が塞がるようで……」
「あぁ、そうか。……ならよかった。その心持ちは、私も同じだよ。愛する人の願いは、私が叶えてあげたい」
目の前の男は、あの蛇神に恐ろしいほど顔立ちがよく似ていた。
けれど、その瞳は赤くない。白い糸が束になったようだった髪は、黒々としている。そして何より、あの禍々しさがない。
池の水面が、風とともにわずかに波立った。
鮮やかな新緑の影がゆらりと歪んでは、また鏡のような静寂に戻っていく。鹿威しが再び乾いた音を立て、庭園の風に吸い込まれて消えた。
「これで、私達は離れない。もう二度とね」
池の面に、桜の花びらが集まって白い島を作っていた。また、ひとひらがそっと水面を滑って止まる。
夢の中の時間は、現実よりずっとゆっくり流れているように思えた。
「旦那様……。死ぬる間際というものは、やはり、それほどまでに苦しいものなのでございましょうか」
「……溺れ死ぬまで苦しいのは、せいぜい二分というところだろう。意識を失ってしまえば、それ以上の苦しみなど、よもや感じはせぬはずだよ」
彼は紐を結び終えると、唇を重ねてきた。
けれど、その口付けは愛おしさからくるというよりは、どこか諦めを含んだ全てを終わらせる前のひとつの儀式のようだった。
彼の頬に、一筋の涙が流れている。
口付けに対して、不思議と抵抗感はなかった。心中することが最初から決まっていたような、ずっと前から知っていたような感覚がして、俺はただその温度を受け取っていた。
唇が触れている一点だけが温かくて、それ以外の全てが夢の中の出来事みたいに遠かった。水琴窟の音だけが、ひたひたと続いている。この夢の中の「俺」が、心地よいものとして記憶しているようだった。
――唇が離れた。
彼は俯いたまま、俺の鎖骨の間に顔を寄せてくる。唇が着物の隙間から覗く肌に触れて、小さな熱がそこに灯る。自分のものだと、印を残したいらしい。
それから彼は顔を上げないまま、俺の身体を抱き寄せた。黒い二重回しの生地が頬に触れて、その下に彼の心臓の音が聞こえた。速くて、乱れていて、この人も怖いのかもしれない——そう思いながらも、彼の足は止まらなかった。俺の足も、止まらなかった。
「身分にも、性別にも制約されない。何ものにも生まれ変わらない。私と君は、ふたりで永久になるんだ」
その言葉を最後に俺は彼に抱きかかえられ、身体の重みに引きずられるようにして池に落ちた。
水が全身を包んだ瞬間、水琴窟も、鹿威しも、桜の散る気配も——全ての音が遮断された。水底の冷たさが、指先から腕へ、腕から胸へ、芯まで満ちていく。
(っ、苦しい……息が……息が出来ない!)
さっきまでの心に反して、身体は必死でもがいていた。肺が空気を求めて収縮する。けれど、手首に食い込んだ赤い紐はほどけない。
水の中で、彼の輪郭が揺れていた。
二重回しが広がって、墨が溶けるようにゆっくりと揺れている。彼は目を閉じていて、もう意識がないのだと思った。
眠っているような、静かな表情。苦しみの中にひとり取り残された俺の胸を、恐怖だけが締めつける。
(旦那様……旦那様……!)
水底へ届くわずか数寸手前で、手首に残っていた紐がほどけた。
繋いでいた手首から、掌が離れる。
俺は重い水を必死に掻いた。意識が白濁していくなかで、生存本能だけが身体を上へと突き動かす。
圧倒的な青が揺らめいていた。透過する水の色か、遥か彼方の空の色か、判別がつかない。ただ、天から降り注ぐ光の柱が、ゆらゆらと揺れている。
視線を落とせば――深い紺碧の底へ、彼が沈んでいく。
漆黒の二重まわしが、大輪の黒い花のように一度だけ大きく広がったのを最後に、彼は池の底へと溶けるように消えた。
重力に逆らう泡とともに、身体が光の爆ぜる水面を目指す。
まぶたを押し上げた瞬間、眩い太陽の光と、二つの掌が視界に飛び込んできた。
「おい、しっかりしやがれ……っ! 息をしろ!」
池の縁へと両腕を引き摺られ、身体が引き上げられる。
ずぶ濡れの身体で肩を激しく上下させながら、俺はただ自分の手首を見つめていた。旦那様が最後に結んだ赤い紐が緩く絡んで残っている。
水滴がいつまでも滴り続けて、手の甲に落ちていく。
永遠を誓い、一蓮托生を約束した彼を——あの暗い底にひとり残したまま、自分が生き延びてしまった事実だけが、胸の中を静かに満たしていく。
「その紐……お前、まさか……」
両肩を強く掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。
背後から差す強烈な逆光に、思わず目を細めた。顔の造作は仄暗い影に沈んでいる。けれど、真っ直ぐに俺を射抜く瞳の光だけは、見紛うはずがなかった。
――太輔だ。
名前を呼ぶより早く、魂がその存在を確信していた。
あんなにも親しげに笑っていたはずの幼馴染が、いま、怒りに震える目で俺を見下ろしている。
なんで、どうしてお前がここにいるんだ。
死に損なった俺の前に、招かれざる「光」が無理やり割り込んできたようだった。
気づけば、見知らぬ場所に立っていた。
季節は夏のはずなのに、辺りには場違いな新緑と桜の木が広がっていて、花びらがいくつも舞っている。それらが頬を掠めるたび、甘く切ない香りが鼻をくすぐった。
どこかおかしい。現実の時間軸から、決定的にずれている。
(……何だここ。来たことなんて、無いはずなのに……)
広大な池が広がる庭園だった。手入れされた木々が池を囲み、その全てを水面が鏡のように映し出している。
池のほとりには、大きな飛び石が点々と並んでいるけれど、その先がどこへ繋がっているのか、俺には分からない。
透き通った水の中を、巨大な錦鯉が緩やかに泳いでいく。赤、白、金。鮮やかな色彩が交差しては、細い波紋を幾重にも立てながら消えていった。
対岸には苔むした岩が横たわり、石灯籠が静かに佇んでいる。池の端には、緩やかな弧を描く小さな反り橋が架けられていた。どこからともなく流れてくるのは、水琴窟の音だ。
ひた、ひた、と地の底を叩くような、細く澄んだ水音。その透明な余韻をなぞるように、等間隔に鹿威しの硬い音が響いていた。
これは、きっと夢のはずだ。そうでなければ説明がつかない。
けれど、足の裏に伝わる地面の硬さと、肌にまとわりつく空気の重みは現実味を帯びていた。
「おいで、■■■」
声が、背後から降ってきた。
親しげな声だった。誰かを急かすでもなく、命じるでもなく。大切なものに呼びかけるような、柔らかくて低い声。その声を聞いた瞬間、胸の奥の何かがほんの少しだけ緩んだけれど、理由は分からなかった。
振り返った先には、若い男が立っていた。コートのような黒い二重まわしを羽織っていて、重そうだけれど、その人の体に沿うように自然に落ちている。
どこかで、この顔を見たことがある。そう思った瞬間、勝手に口が動いた。
「……旦那様。てっきり、来て下さらないのかと……」
「約束したんだ、そんなはずがないだろう。……けれど、こんなことになってしまって御免ね」
その声は穏やかだった。けれど、表情には悲しみと——本当に愛おしいものを前にした時の、静かな熱のようなものが同時に宿っていた。
複雑な二つの感情が、この人の顔の中では矛盾なく同居している。
「じゃあ、始めようか。これ以上先延ばしにして、屋敷の者たちに見つかると面倒だ」
男は俺の手首を取り、赤い細紐を丁寧に巻き始めた。それから自分の手首も静かに添え、隙間なくくっつけ合わせるようにして、紐を幾重にも巻き結んでいく。
急いではいなかった。乱暴でも強引でもなかった。
まるで始めからそうすることが決まっていたかのように、練習を繰り返してきたかのように、その動作には微塵の迷いもなかった。
意味が分からないのに、どうしても抵抗する気になれない。手首に食い込んでいく赤い紐の感触を、俺はただ黙って受け入れている。
……いや、それを見つめているのは「俺」じゃない。この白く細い手首も、爪の間に土が残る荒れた指先も、俺のものではなかった。
やがて、男が俯けていた顔をゆっくりと上げると、視線が真っ向からぶつかった。
「……緊張しているのかい?」
その問いに、俺の喉が勝手に震えた。自分の意識を強引に押し退けて、魂の奥底に眠っていた「誰か」の言葉が、切実な熱を持ってせり上がってくる。
「左様かもしれません。ですが、決して厭わしいのではございません。こうして旦那様と永久に添い遂げられるのだと思うと、悦びで胸が塞がるようで……」
「あぁ、そうか。……ならよかった。その心持ちは、私も同じだよ。愛する人の願いは、私が叶えてあげたい」
目の前の男は、あの蛇神に恐ろしいほど顔立ちがよく似ていた。
けれど、その瞳は赤くない。白い糸が束になったようだった髪は、黒々としている。そして何より、あの禍々しさがない。
池の水面が、風とともにわずかに波立った。
鮮やかな新緑の影がゆらりと歪んでは、また鏡のような静寂に戻っていく。鹿威しが再び乾いた音を立て、庭園の風に吸い込まれて消えた。
「これで、私達は離れない。もう二度とね」
池の面に、桜の花びらが集まって白い島を作っていた。また、ひとひらがそっと水面を滑って止まる。
夢の中の時間は、現実よりずっとゆっくり流れているように思えた。
「旦那様……。死ぬる間際というものは、やはり、それほどまでに苦しいものなのでございましょうか」
「……溺れ死ぬまで苦しいのは、せいぜい二分というところだろう。意識を失ってしまえば、それ以上の苦しみなど、よもや感じはせぬはずだよ」
彼は紐を結び終えると、唇を重ねてきた。
けれど、その口付けは愛おしさからくるというよりは、どこか諦めを含んだ全てを終わらせる前のひとつの儀式のようだった。
彼の頬に、一筋の涙が流れている。
口付けに対して、不思議と抵抗感はなかった。心中することが最初から決まっていたような、ずっと前から知っていたような感覚がして、俺はただその温度を受け取っていた。
唇が触れている一点だけが温かくて、それ以外の全てが夢の中の出来事みたいに遠かった。水琴窟の音だけが、ひたひたと続いている。この夢の中の「俺」が、心地よいものとして記憶しているようだった。
――唇が離れた。
彼は俯いたまま、俺の鎖骨の間に顔を寄せてくる。唇が着物の隙間から覗く肌に触れて、小さな熱がそこに灯る。自分のものだと、印を残したいらしい。
それから彼は顔を上げないまま、俺の身体を抱き寄せた。黒い二重回しの生地が頬に触れて、その下に彼の心臓の音が聞こえた。速くて、乱れていて、この人も怖いのかもしれない——そう思いながらも、彼の足は止まらなかった。俺の足も、止まらなかった。
「身分にも、性別にも制約されない。何ものにも生まれ変わらない。私と君は、ふたりで永久になるんだ」
その言葉を最後に俺は彼に抱きかかえられ、身体の重みに引きずられるようにして池に落ちた。
水が全身を包んだ瞬間、水琴窟も、鹿威しも、桜の散る気配も——全ての音が遮断された。水底の冷たさが、指先から腕へ、腕から胸へ、芯まで満ちていく。
(っ、苦しい……息が……息が出来ない!)
さっきまでの心に反して、身体は必死でもがいていた。肺が空気を求めて収縮する。けれど、手首に食い込んだ赤い紐はほどけない。
水の中で、彼の輪郭が揺れていた。
二重回しが広がって、墨が溶けるようにゆっくりと揺れている。彼は目を閉じていて、もう意識がないのだと思った。
眠っているような、静かな表情。苦しみの中にひとり取り残された俺の胸を、恐怖だけが締めつける。
(旦那様……旦那様……!)
水底へ届くわずか数寸手前で、手首に残っていた紐がほどけた。
繋いでいた手首から、掌が離れる。
俺は重い水を必死に掻いた。意識が白濁していくなかで、生存本能だけが身体を上へと突き動かす。
圧倒的な青が揺らめいていた。透過する水の色か、遥か彼方の空の色か、判別がつかない。ただ、天から降り注ぐ光の柱が、ゆらゆらと揺れている。
視線を落とせば――深い紺碧の底へ、彼が沈んでいく。
漆黒の二重まわしが、大輪の黒い花のように一度だけ大きく広がったのを最後に、彼は池の底へと溶けるように消えた。
重力に逆らう泡とともに、身体が光の爆ぜる水面を目指す。
まぶたを押し上げた瞬間、眩い太陽の光と、二つの掌が視界に飛び込んできた。
「おい、しっかりしやがれ……っ! 息をしろ!」
池の縁へと両腕を引き摺られ、身体が引き上げられる。
ずぶ濡れの身体で肩を激しく上下させながら、俺はただ自分の手首を見つめていた。旦那様が最後に結んだ赤い紐が緩く絡んで残っている。
水滴がいつまでも滴り続けて、手の甲に落ちていく。
永遠を誓い、一蓮托生を約束した彼を——あの暗い底にひとり残したまま、自分が生き延びてしまった事実だけが、胸の中を静かに満たしていく。
「その紐……お前、まさか……」
両肩を強く掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。
背後から差す強烈な逆光に、思わず目を細めた。顔の造作は仄暗い影に沈んでいる。けれど、真っ直ぐに俺を射抜く瞳の光だけは、見紛うはずがなかった。
――太輔だ。
名前を呼ぶより早く、魂がその存在を確信していた。
あんなにも親しげに笑っていたはずの幼馴染が、いま、怒りに震える目で俺を見下ろしている。
なんで、どうしてお前がここにいるんだ。
死に損なった俺の前に、招かれざる「光」が無理やり割り込んできたようだった。



