夏を迷えど、遥けし恋はますばかり

【side:藤原太輔】

 こんなことになるなら、あのとき素直に「浴衣、似合ってるじゃん」と言えばよかった。
 瞼の裏にはずっと、あの夜の光景が焼きついて消えない。眠っても、朝が来ても、何か別のことを考えようとしても、剥がれない。
 金色の火の粉がすだれのように長く垂れさがって、夜空の端から端まで光が降り注いだ、あの瞬間。
 その光を背に受けながら、光希はいつもより少しだけ眉を下げて、唇だけを笑いの形に持ち上げて――

「俺、東京の大学に行く。……この町を出て行くことにした」

 無理やり作ったみたいな笑顔。
 花火の金色がその横顔を一瞬だけ照らして、消えた。



 この辺鄙(へんぴ)な田舎町が一年で最も浮き立つ、夏祭りの夜だった。
 俺はいつもの待ち合わせ場所であるガードレールの下で、金縛りにあったように突っ立っていた。
 外灯の黄色い光の輪の中に、藍色の浴衣姿の光希が現れたせいだ。
 普段の制服やTシャツ姿とは全然違う。うなじの白さが、夏の闇の中に浮かんでいる。帯で締められた腰の細さも、普段は気にしないようにしていた光希の身体の輪郭をよりいっそう際立たせていた。

「お前……なに、浴衣なんか着てきてんだよ」

 咄嗟に出たのは、男として最低の毒づきだった。
 見惚(みと)れたことを悟られたくなくて、あえて突き放すような言い方をしてしまう。いつもそうだ。
 肝心な時に、俺の口は、最悪の言葉を選ぶ。

「は? なにそれ、うっざ。着てけって、母さんに押し付けられただけだし」

 光希は俺を鋭く睨みつけると、顔を合わせてわずか数分で氷のような不機嫌を纏って歩き出した。アスファルトを擦るような雪駄の音が響いて、藍色の後ろ姿が遠ざかっていく。

(やべぇ、あそこまで怒らせるつもりはなかったんだけどな……)

 ガキの頃から、光希は周りの大人が唸るほど整った顔をしていた。
 そんじょそこいらの奴らより、とんでもなく綺麗な顔なんだ——と俺がはっきりと自覚したのは、幼稚園の頃だ。それまでは、近すぎたからこそ分からなかった。
 光希は自分の弟というより、片割れの感覚に近かった。家族のようで家族じゃない、でも他の奴とは絶対的に違う、特別な存在だった。
 泣き虫で体も弱くて、肌身離さず吸入器を持っていて。
 いつも俺の後ろに居た光希が、前を歩いて行く。その後ろ姿に違和感を覚えた。
 もう十六だし、光希は男だし、そうなってもおかしくないのに、認められない自分が居た。

『たいちゃん、みーくんのこと支えてね。……あの子、私の前だと強がって平気な顔をしちゃうから……』

 小学生の時に光希の両親が離婚して、光希の母ちゃんと二人きりになった時にそう言われてから、ますます「俺がコイツの傍に居ないと」という気持ちが強くなった。
 あの言葉は、俺の背骨だった。支えなければいけない。守らなければいけない。それが義務なのか、本心なのか、俺自身もよく分からないまま、そう思い続けてきた。

 それが最も強い形で行動に繋がったのは、公園で光希が犬に追いかけられて、池に落ちた時だった。
 助けようとして俺が怪我をしたことを、光希はひどく自責して、ぽろぽろ泣き出した。俺は猛烈に恥ずかしかった。

『たいすけ、ごめ……ごめんなさいっ……おれのせいで……』

 ヒーローは、誰かを守る時にこんなくそダサい怪我を負わない。加藤醫院で縫うような手術なんて受けない。光希の母ちゃんに、うちの玄関で泣きながら謝らせるようなこともしない。
 だから、俺はただただ強くなりたかった。
 ずっと光希の傍に居て、守って、支えて、笑わす。
 それが当たり前だと思っていたし、そうやって大人になっても生きていくものだと信じていた。

 ――光希が、東京に行くと言い出すまでは。

 焦って追いかけようとした俺の背中に、振り返りざまの光希の声が突き刺さった。

「ほんと、風情のないやつ。行く相手がいねーってボヤいたのは、太輔だろうが」

 吐き捨てるような言葉だった。けれどその瞳は、夜店に並ぶ硝子細工みたいに脆く、ひどく傷ついているように見えた。
 怒っているんじゃない。俺の無神経な一言に、光希は本気で傷ついたんだ。
 それが分かった瞬間、二分前に戻って自分の口を縫い合わせたいほどの後悔が押し寄せてきた。

「光希。悪かったって」
「……お前がいつか彼女と夏祭りに来ても、楽しめなくなる呪いでもかけとくわ」

 そう言った光希は顔を伏せていて、どんな表情をしていたのかは分からない。
 ただ、静かな声が、冗談にも本気にも聞こえた。
 嫌だ、と否定したかった。呪いを掛けられることに対してじゃない。

(彼女とか、もう上辺(うわべ)でも作んねぇよ。お前以外と一緒に来たい訳ねぇのに……)

 溢れ出しそうな反論が頭の中でかき乱され、俺はただ突きつけられた「呪い」に立ち尽くしていた。

「……お詫びに、あれ買って」

 光希が指差したのは、子供騙しの絵が描かれた袋に入った綿菓子だった。なんてことのない、駄菓子屋に売っているのと変わらないやつだ。
 わがままで、自分勝手で、けれど俺が幼稚園の頃から一度も勝てなかった、光希特有のおねだり。その言い方だけは、ずっと変わらない。

「たかだか綿あめに七百円!? ぼったくりじゃん」
「いーじゃん別に。……うわ、これ懐かしい。俺らが見てたアニメのじゃん。太輔、覚えてる?」

 結局、俺はその無邪気すぎる笑顔に抗うことなんてできず、財布から小銭を掻き出した。半分こにするという、守られるはずもない約束を盾にして。
 ちぎった綿菓子を器用に指で摘まみ、口へと運ぶ光希。その薄い唇に、溶けた砂糖が蜜のように艶々と光る。俺はそれを直視できず、盗み見ては、行き場を失った視線を夜店の喧騒へと流すしかなかった。

 電球ソーダが飲みたい。リンゴ飴が食いたい。次は、あっちの屋台に行きたい。
 次から次へと飛び出す光希の我儘に、俺はただ翻弄され、引きずり回される。
 呆れ混じりの溜息をつきながらも、胸の奥のどこかでは――この祭りの熱が冷めず、永遠に続いてくれればいいと願っている。
 その証拠に、俺のポケットの中の小銭入れは、お釣りの百円玉でパンパンに膨らんでいた。
 歩くたびに重く太腿を叩くその感触は、俺がこの夜を少しでも長く引き延ばそうとした、ささやかな抵抗の重みだった。

「太輔」
「何だよ、もうそろそろ金が尽きるぞ」

 そう言って、隣を歩く光希を見下ろす。
 けれど、あいつはその日初めて、俺の目を見て言った。

「お前()楽しい?」

 俺は、内心めちゃくちゃ狼狽えながら、カッコつけの「まぁ、それなりに」を返した。
 屋台の提灯が光希の横顔を橙色に染めるたびに、目を逸らすのに少しだけ時間がかかる。同じ男だと分かってるけど、光希には惹き寄せられるような、独特の色気みたいなのがある。そして、それは高校に入ってから、より一層強く感じていることでもあった。

「うげー、人多すぎ。太輔、やっぱりあそこ行く?」
「だな。これじゃあ、花火見物どころじゃねえし」

 俺たちは人混みを逃れて、中学の時に見つけた秘密の花火見物スポット——神社の石畳の、古い階段へと向かった。遠くでお囃子の音が響いて、生ぬるい風が光希の浴衣の裾をゆっくりと揺らす。夜祭りの喧騒が、少しずつ遠のいていった。

「はい、太輔」

 光希が飲みかけの電球ソーダを差し出してきた。喉が渇いていた俺は何も考えずにストローを咥える。甘ったるいシロップの味が広がって、その様子を見た直後、光希がいたずらっぽく笑った。

「あ、間接キス」
「はぁ……っ!?」

 心臓が跳ねた。小学生の頃から回し飲みなんて数え切れないほどしてきた。なのに、光希の口からその単語が出た瞬間、口の中に残ったわずかな唾液が、喉を焼くような異物感に変わった。

「うわ、照れてる。キモっ」
「照れてねーよ、バカ! いきなり変なこと言うな!」

 からかう光希のペースに、俺は完全に飲み込まれていた。言い返すほどに光希は楽しそうで、それがまた心臓に悪くて。
 やがて、夜空に大輪の花火が弾けた。スマイルマークの花火が崩れて「顔面崩壊だ」と二人で笑い、逆さまに上がったハートの花火を見て俺が「尻じゃん」と茶化す。

たいスケベ(・・・・・)

 光希がいつもの悪口を投げかけてきた。その笑顔があまりに眩しくて、うっせーな、と言い返すのが精一杯だった。ガキ扱いすんなと思いながら、その笑顔から目が離せなかった。
 やがて光希は俺を弄るのをやめて、ただじっと自分の雪駄を見つめていた。花火がクライマックスに向けて一度鳴り止む。

「なぁ、太輔」

 光希が自分の両手の指先を絡め合いながら、顔を上げる。
 ひゅう、という大きな口笛みたいな音が夜空を引き裂いて——最後に打ち上がる、巨大な金色の枝垂れ柳。
 光の粒が雨みたいに降り注いで、夜空が白く照らされた。その光の中に、光希の横顔がある。浴衣を着て、石畳に落ちた雪駄の影。
 全部が金色の光に縁取られて、一枚の絵みたいに綺麗だと思った次の瞬間。静かな声が、鼓膜を震わせた。

「俺、東京の大学に行く。……この町を出て行くことにした」

 心臓が、冷たい水に沈められたような感覚だった。
 花火の余韻が夜空に滲んで、消えていく。光希の言葉だけが、音のない場所に残っていた。

「……そっか」

 ふわり、と湿った夜風が鼻腔を抜けた。
 そこに含まれているのは、火薬が爆ぜたあとの焦げついたような臭いと、鼻をつくツンとした刺激だ。
 遠くの空で散った光の残骸が、灰とともにここまで流れてきている。喉の奥をざらつかせるような花火の匂いに紛れ込ませて、かき消されそうなほど小さな声で、俺はそれしか言えなかった。

「……お前には、一番に教えておこうと思って」
「ふーん。……いいんじゃね。光希は頭いいし、都会のほうが、就職とかも良い所に出来そうだし」

 光希は飲みかけのソーダを石畳の上に置いた。隣には冷めきって脂の浮いた、焼きそばの容器。
 祭りの終わりの虚無感で、よりいっそう身体が気怠くなる。賑やかだった夜が、急に遠い昔のように感じられた。

「太輔はやっぱり、ずっとこの町に残って……親父さんの跡、継ぐんだろ?」

 寂しそうな、それでいて探るような声。
 俺は、目の前の膝に置かれた光希の手を、無性に掴み取りたくなった。
 折れそうなほど細い。
 けれど、俺がどれほど願っても、決して思い通りにはならなかった手首だ。

(いや……待てよ。なんでいきなり……? 俺にそんなこと、今まで一度も言った事ねぇのに。なんで……)

 触りたい、という衝動が指先にまで伝わりながら、俺はあと一歩のところで、どうにか自分を押し留めて、光希の瞳を見つめた。
 そこには拒絶じゃなく、縋るようでいて、全部を諦めたような、相反する熱が混ざり合っていた。
 行ってほしくない。そう言えば、まだ考え直してくれるかもしれない、と思った。

「光希、俺――」

 言いたい言葉は、山ほどあった。行くな。置いていくな。お前がいなきゃ、俺の毎日は色を失う。
 東京なんて知らない場所に行って、俺の知らない顔になるな。俺のことを、忘れて生きていくのかよ。
 なけなしのプライドは、言いたいことの全てを飲み込ませた。

「何?」
「……やっぱ、なんでもねぇ」

 伸ばしかけた手を、空中で強く握り直す。光希の瞳は、俺を映そうとはしなかった。
 打ち上がる機会を失ったまま、湿った火薬が胸の奥でじりじりと燻っている。逃れられない痛み。もう何年も、何年も、燠火(おきび)のように燃えている、それ。

「――おい、待て。光希、待てって」

 家に着くまでの道すがら、光希は早歩きだった。
 俺のことなんかどうでもいい、一秒でも早く帰りたいみたいな、信じられないスピードだ。田んぼの間を抜ける一本道で、街灯もまばらで足元が暗いのに、雪駄でコケそうになるのも構わずにズンズン進んでいく。
 よろけるたびに少しだけ姿勢が崩れて、それでもムッとした顔のまま、強がりを張り付けて歩いていた。

「光希、なんでそんなキレてんだよ」

 光希が急に不機嫌になるのは、これが初めてな訳じゃない。今までも何回かある。いや、何回どころじゃない。俺がそれに気付かなくて、トモに指摘されたことも、龍に説教を食らったこともある。
 親友なんだから、もっと光希の気持ちに寄り添え、とボウズも混じって三人がかりで言われた時は流石に堪えた。
 けれど、いくら腐れ縁でも光希の急な心変わりを読むのは、俺には難しかった。感情には気づける。怒っている、悲しんでいる、それは分かる。
 ただ、その原因がいつも分からなかった。
 あいつは俺のことをエスパーみたいになんでも言い当ててくるのに、俺には光希の内側が最後の一枚だけ、いつまでも見えなかった。

 返事の代わりとでもいうかのように、雪駄を履いた足の甲でふくらはぎに蹴りを入れられた。

「いってぇ!」

 思わず声が出た。見下ろすと、光希はもう歩き出している。蹴っても尚、その怒りは収まらないらしい。それどころか、追いついてくる俺の身体を、何度も何度も殴ってくる。拳じゃなくて、手のひらで。本気じゃないのは分かる。それでも止まらない。

「太輔の馬鹿。バーカ!」

 田んぼしかない道の真ん中で、光希の浴衣の裾に土がついていた。慣れない雪駄のせいで、さっきよろけた時についたんだろう。靴擦れしたのか、ちょっとだけ足を浮かせる歩き方になっている。
 おぶってやろうかと思ったけど、もうガキじゃないし、今の機嫌の悪さじゃ本当にぶっ殺されそうだ。
 俺は黙ってその後ろを歩き続けた。
 夜風が田んぼの上を渡ってきて、光希の浴衣の袖をまた揺らす。
 自分の家の角まで来ると、光希は立ち止まった。

「……じゃあ、光希。また明日な」
「遅刻したら殴るからな」
「さっきも蹴るわ殴るわ、もう十分だろうが」

 そう言って、光希は照れを隠すように「でも、殴る」と茶目っ気たっぷりに笑った。
 また、気分が上書きされたらしい。怒ったり笑ったり、ころころと表情を変える光希に、ふっと笑みがこぼれる。

「おやすみ、太輔。目覚まし、ぜってー忘れんなよ」

 あぁ、この笑い方だ。光希がガキの頃から、困った時や照れた時に見せる癖。眉を少しだけ下げて、口元を手の甲で隠すようにして笑う。
 幼稚園の砂場にいた時からずっと変わらない。何千回、何万回と見せつけられてきたはずなのに、そのたびに、俺はいつもこの笑い方に言葉を失う。

(……ずりいんだよ、マジで。そんな顔されたら……)

 光希の背中が門の中へ吸い込まれていき、アスファルトを叩いていた雪駄の音が遠ざかって、消える。
 一人きりになった道の上で、俺はしばらく動くことができなかった。

「あー……マジか……しんど……」

 本当は、ずっと胸が(えぐ)られたようなショックを感じていた。
 光希が描く未来の中に、俺がいないこと。東京に行く、この町を出て行く――その潔い決意の中に、俺の居場所なんて最初から用意されていなかった。光希の人生は、俺なしでも完結できてしまう。
 当たり前のように隣にいた十六年間が、光希にとっては「切り離せるもの」だったのだと、あの花火の下で突きつけられた。
 どこかで(おご)りがあったのだと思う。光希は俺から離れない。俺がいないと、こいつは何もできない。……そう思い込みたかった。そうなって欲しくて、依存させるようにわざと甘やかしてきた(ずる)い自分が、ずっと内側に居座っていた。
 だからこそ、あの時は「いいんじゃね」なんて、薄っぺらくて格好つけた言葉しか出せなくて。みっともない執着も、行かないでくれという悲鳴も、全部無理やり呑み込んで、それで終わりにするしかなかった。
 そうしていなければ、光希の未来ごと壊してしまいそうだったから。

「……マジで、くそダセぇまんまだな、俺……」

 吐き出した自嘲は、押し寄せるような螽斯(きりぎりす)の鳴き声にかき消された。
 湿った土の匂いを乗せた夜風が、田んぼの向こうから吹き抜けていく。
 寄せては返す騒がしい音の波だけが、いつまでも俺を置き去りにして、あの夜の帰り道を満たしていた。