夏を迷えど、遥けし恋はますばかり

【side:藤原太輔】

「光希、これ当日の衣装。試着して、問題ないか確認しといてね」

 文化祭委員の女子から衣装を手渡された光希が「最悪……」と(こぼ)す。
 俺はその隣で、隠しきれないニマニマとした笑みを浮かべていた。
 楽しげに手を振って去っていく女子たちに、俺が代わりにひらひらと手を振り返すと、光希が猛烈な勢いでこちらを振り向いた。目が合った瞬間、ギッと睨みつけられる。

「……え、なんでそんな怒ってんの?」
「いちいち聞くんじゃねーよ、ノンデリ野郎」

 文化祭は夏休み明けすぐだから、看板作りやら何やら、とにかく模擬店の準備の時間が足りないらしい。
 クラスのグループラインには、給仕係になっている奴と文化祭委員は、今日一日だけ教室に集まって、製作物を手伝ったり、衣装合わせをするから来るように、というお達しが出ていた。
 学年準備室は、廊下の突き当たりにある。普段は鍵がかかっていて、担任が教材を取り出す時くらいしか使われない部屋だ。
 ふたりでドアを開け、光希が衣装の入った袋の中を覗き込む。その横顔が、みるみる曇っていった。

「結局、着せられる運命だったんだな。二年連続の女装、おめでとうございます!」

 『今のお気持ちは?』とインタビュアーのように質問すると、光希は手の中にあるメイド服の入った袋に視線を落として答えた。

「一ミリも嬉しくねーよ。当日の欠席を検討中だ」
「そんなことしたら、女子から非難轟々だぞ。まぁ、諦めることだな」

 忠告するようにそう言って、学年準備室の奥にある窓のカーテンを閉める。

「冷房効いてねーから、あっちぃな。さっさと着替えてどっかでサボろうぜ」

 光希はメイド服で、俺はウエイター風のスラックスとベストだ。そもそもスラックスは制服のだし、ベストは羽織れば試着なんて秒で終わる。
 教室でのメニュー表やら看板作りから逃亡するため、悪知恵を働かせ、試着を口実にここへ逃げ込んできたというわけだ。

 今朝、俺と光希はいつもより早く待ち合わせをして、学校でキスをした。
 本当は校舎の中でするつもりなんてなかった。この前の高架下に移動したけれど、今日は車が途切れなかったせいだ。
 一台過ぎるたびに息を詰めて、来る、また来る——そのじれったさに耐えかねて、俺の方から「今日だけ場所を移そう」と提案した。
 早歩きで校門をくぐって、一階の保健室がある廊下の奥。
 先生くらいしか使わない、不気味な男子トイレの個室に入って鍵を掛けた瞬間、光希は戸惑った様子で俺のワイシャツを掴んで来た。

『緊張してんの? そろそろ慣れろよ』
『太輔が平気でも、俺はそんな簡単に……』

 光希は緊張と、また誰かが怪我をするかもしれないという不安を感じているのか、手が震えていた。
 それに俺が気づいて、上から包むように握り込む。大丈夫だと安心させたい一心だった。
 顎に添えた左手に少しだけ力を込めて唇を重ねると、光希は指を絡ませるように、俺の右手をより深く握り込んできた。細い指なのに、力が強い。

(……ぶっちゃけ、この前から思ってたけど。光希の唇って、めちゃくちゃ柔らかくね……?)

 高校に入って、ガキの頃よりはガタイも良くなったけど、唇だけはその薄そうな見た目に反して、柔らかすぎる。
 触れるたびに思う。こんなに柔らかいのに、どうしていつもあんなに尖ったことばかり言うんだろう、と。

 唇が重なっている部分から、体温が溶けてくるみたいだった。
 自分のものと光希のものの境界が、曖昧になっていく感覚がする。

『……光希、口開けろって』
『っ……バカ! 舌入れたら、根本から噛み千切るぞ』

 物騒な言葉。死なないためのキスなのに、光希はよく俺を殺したがる。
 そういう照れ隠しだと分かっているけど、鉄壁の暴言を並べて、自分を必死に守り続けている姿に、毎回「なんでだよ」と思ってしまう。
 唇が離れる瞬間、粘りつくような銀の糸が一本だけ、名残惜しそうに引いた。
 トイレの狭く薄暗い空間の中で、その細い線が微かな光を反射して――あっけなく途切れると、光希の唇の端を伝い落ちる。
 その隙間から覗く、湿った赤い舌に目を奪われる。薄く開かれた唇の間からは、浅い吐息が逃げ場を探すようにこぼれ落ちていた。

(光希って……こんな顔で、キスすんのな)

 白かった頬が燃えるように赤く染まり、肩を震わせて息を乱している。十六年も一緒にいて、あいつのことは何から何まで知っているつもりだったのに。この顔だけは、知らなかった。ぼんやりとした薄暗がりの中、光希の瞳はまだ泳いでいて、睫毛が小刻みに震えている。

 ――俺を守るための、まじないのような儀式だったはずなのに。

 いつの間にか、胸の奥で「ただ触れていたい」という剥き出しの欲望にすり替わっているような気がして、それが何より恐ろしかった。
 この感情に名前をつけてしまえば、もう二度と、ただの幼馴染には戻れない。けれど、名前をつけないままでいられるほど、俺の心はもう、光希の熱に対して無防備ではいられなかった。

『……あー、暑いし狭いし、めっちゃクサい。太輔、さっさと出ようぜ』

 換気扇が回り続けていて、タイルの冷たさと二人分の体温が混ざり合って、湿っぽさのなかに温かさがあった。汚い場所のはずなのに、居心地がよかったのは俺だけか。

『なぁ、光希』

 トイレを出た後、光希が俺の声に反応して振り返る。薄緑色のすりガラスに、朝の光が差し込んでいた。オレンジがかった斜めの光が、すりガラスの凹凸で砕けて柔らかく広がっている。
 その光の中に、光希が立っている。逆光でもなく、順光でもなく、光に溶けるでもなく。ただそこにいるだけなのに、これまでに一度も見たことのないような雰囲気を纏っていた。

『……無理させてごめん』
『いや、勝手に契約したのは俺だし。こんなんで太輔が助かるなら、まぁ……いいんじゃねーの』

 見慣れた顔のはずなのに、その一瞬だけ、光希がこの世のものじゃないみたいな、今にもふっと消えてしまいそうな幽霊のように見えた。
 そんな風に見えるようになったのは、暑さで俺の頭がもっとバカになってるせいなのか。それとも――

「え、何これ。去年のより丈がエグくね?」
「うわ、短すぎんじゃねーの、それ。下にジャージ履いてみれば」

 スラックスを足首まで落としたまま、目の前でメイド服を着た光希が狼狽えていた。

「このフリフリが腿のところに当たって、めっちゃゾワゾワする。きっしょいわ……」

 溜息をつきながら、光希はスカートの下にジャージを重ね履きし、ウエストの紐を限界まで絞って結び始める。

「てか、俺……昨日、家に帰ってから考えたんだけどさ」

 ベストを畳み終え、椅子に座って頬杖をつく。
 光希は袋に入っていたフリルのカチューシャをそっと頭にのせて、資料棚のガラス扉の反射でその姿を確認すると、速攻でそれを袋に戻しながら返事した。

「うん、なに?」
「もしかしたら……蛇神が守ってくれてる、悪霊みたいなのって、俺らの周りの人間を傷つけるのが目的なんじゃなくてさ。本当の狙いは光希で、そのために近くに居る人間を攻撃しているんじゃないかって思って。まぁ、外れてるかもしんねーけど」

 それが当たっている自信はない。けれど、光希が俺のことを守ってくれるというのなら、俺も光希を守りたい。
 そのために、蛇神と俺が契約するにはどうしたらいいのか。
 やり方を教えてほしくて尋ねようとしたけれど、光希は着替えの手を止めて、少しだけ間をおいてから言った。

「なぁ、タイスケ。後ろの……ファスナー、噛んだっぽい。下ろしてくんない?」

 背中を向けて、右手と左手をなんとか伸ばして金具を探そうとしている。指先が届かなくて、肩を動かすたびにメイド服の生地が背中の上で滑っていた。
 俺は椅子から立ち上がって、「貸せよ」とその手を払うと、ファスナーの金具に触れた。噛まないようにゆっくりと、引き手を持って下げていく。
 ジジジ……と、布の抵抗を解きながら、ファスナーが背骨をなぞるように降りていった。生地が左右に割れて、白い背中が現れる。
 肩甲骨の輪郭が見えた瞬間——俺は視線をさっと横に逸らした。

「全然、噛んでねーよ。ただ光希が不器用なだけじゃ……」

 誤魔化すように話している途中で、光希が振り返った。

「……タイスケ」

 その勢いで俺は一歩後ずさり、ぶつかりそうになる光希を腕で受け止めながら見下ろす。
 急にどうしたんだ、と内心焦っていると、光希は自分を守るようにもじもじと両腕を胸の前で交差させて、視線を泳がせていた。

「さっきの話だけどさ……俺のこと、守りたいって思ってくれてるってことなのか?」
「……当たり前だろ、光希だって俺のことそう思うから、蛇神と……」

 そう答えた瞬間、光希の頬が分かりやすいほど赤くなった。首筋まで、薄く朱が差している。
 さっき閉めたはずのカーテンの隙間から光が一筋だけ漏れて、光希の顔を照らしていた。顔の右半分と左半分を斜めに分けるようなその光の下で、ずる……とメイド服の前が肩から滑り落ちた。長い指先で、布地を押さえている。

「そっか。……俺だけなのかなって、ずっと思ってたから。なんか嬉しい」

 男にしては薄い肩に、白い肌。細い鎖骨のくぼみが、くっきりと影を落としていた。肘の辺りまで布地が腕を滑って、止まる。
 なにより目を引きつけられたのは——鎖骨の間にある、赤い印だった。
 二匹の蛇が無限大を描くように絡み合うような形で、皮膚の上に浮かんでいる。それを見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。

「光希、お前、それ――」
「そんなに見んなよ」
「……は?」

 光希は楽しそうに笑いながら言った。
 けれど、声のトーンが違った。いつもより粘りがあって、ゆっくりと鼓膜に張りつくような声だった。

「タイスケ、さっきから俺のことエロい目で見てるじゃん」

 口元が弧を描いた。光希がこんな笑い方をするのを、俺は見たことがない。
 顎を少しだけ引いて、上目遣いに俺を見上げながら、唇の端だけを引き上げる。挑発するような、それでいて期待するような――光希の顔をした、光希じゃない「何か」の笑い方だった。
 違和感が、肌の内側に刺さるように広がっていく。こいつがこんな喋り方をするわけがない。こんなことも言うはずがない。
 俺は一歩後ろへ下がって、目の前にいる「ミツキ」と距離を置いた。

「おまえ、光希じゃないだろ」
「なんで? ……どうしてそう思うんだよ」
「……こういう会話のくだりならな、光希は俺のことあだ名で呼ぶんだよ。『たいスケベ(・・・・・)』って」

 下がっても、すぐに距離を詰めてくる。光希の足は、音もなく床を滑るように近づいてきた。
 前を押さえていた腕を惜しげもなくパッと離すと、上半身裸のジャージ姿のまま、俺のワイシャツの襟を力任せに片手で掴む。

「っ、何すんだよ」

 次の瞬間、光希は逆手持ちで思い切り何かを俺の頭に振り下ろして、鈍い音がした。
 激痛と共に視界が一瞬白くなって、カツン、という乾いた音と同時に床に何かが散らばる。
 大きめの懐中電灯と、その中から飛び出した二本の乾電池が、それぞれ違う方向へ転がっていく。
 たら……と何かが流れる感覚がして手を添えると、手のひらに濡れた温かさ。濃い血の色が滲んでいた。

「ああ、やっぱりこの身体じゃ体格的に不利か。……殺し損なったな」

 声が変わっていった。ピッチを指先で急に絞るみたいに、みるみる低くなって、歪んで、光希の声の形をした別の何かになった。

(なんだよこれ……どうなってんだよ!)

 夢か何かだと思いたかった。
 目の前にいるのは、光希の顔をして、光希の声をして、光希の体温を持っている別人だ。
 俺の知っている嶋田光希じゃない。光希はこんな笑い方をしない。こんなふうに、人を試すように舌を見せたりしない。
 光希の身体をグッと押し返すと「それ」は一瞬だけ驚いた顔をして、嘲笑って見せた。

「本当にお前は、どこまでもしぶとい男だな」
「その声……お前、まさか蛇神か? なんで光希に取り憑いて……」

 光希の黒々とした大きな瞳が、血のように濁った赤に変わっている。瞳孔が縦長に裂けて、見開いた瞬間に光の中でぎらりと輝いた。

「夏祭りの夜。お前に無碍(むげ)にされ、絶望したこの子が……『罰が当たればいい』と呪ったのを知らないだろう?」

 言葉の合間合間に、舌先がぺろっと唇の端から覗いた。濡れた赤を見せつけるようなそれは、蛇が空気を舌で確かめる時の仕草だった。
 あの夜、確かに光希はこの町を出て行くと言った。
 俺はそれを引き止めなかった。引き止められなかった。自分にそんな資格も権利も、無いと思ったからだ。
 けれど、光希が傷ついているようには見えなかったし、俺に対してそんな風に思っていたなんて、全然気が付かなかった。

「……この町を百年以上さまよって、ようやくまた(・・)会えたんだ。相変わらず……離れる勇気がないくせに、傷つくのが怖くて自分から手を離す。そうしておきながら、『どうして引き止めてくれないの』と絶望に身を浸す。私の前で泣き喚いていた時となに一つ変わっていないところが、堪らなく可愛いよ」
「また会えた? 百年前……? どういうことだよ」
「言葉通りだ。あの子の魂がまた私の前に現れるのを、あの忌々しい(やしろ)の裏で、ずっと、ずっと……。指折り数えて待っていたんだ」

 こいつが、諸悪の根源だったのか。
 神様だの守るだの、そんな言葉の裏で、本当に欲しかったのは光希だったのか。
 思いを巡らせながら俺が固まっていると、蛇神は光希の手を持ち上げて、その指先を自身の頬へと滑らせ、瞼を閉じた。

「……ミツキの絶望が、私には分かるよ。『永遠に離れたくない』と願いながら、この世界のどこにも、お前と添い遂げる未来なんて見出せなかったのさ」

 愛おしそうに、人間の姿形を確かめるように、指先が頬から顎、首筋へ這う。白い皮膚の上を、爪がゆっくりと立っていく。細い首に、薄い赤い線がいくつも浮かび上がった。

「本当はもっと早く、この魂を手にするはずだった。それを阻み続けていたのが、タイスケ、お前の存在だ。赤ん坊の時から片時も離れず、ミツキの身を包む強力な結界となって守り続けてきた」
「結界? そんなの、俺は——」
「自覚すら持たぬ未熟な力だ。だが、それゆえに厄介だった。……お前たちの間に決定的な亀裂が生じ、一度綻べば、食い破るのは造作もないことだったがな」

 蛇神の言葉は、にわかには信じられなかった。
 霊感の強い家族はいないし、霊が見えたこともない。むしろビビリなほうで——光希と一緒に蛇神と対面したあの時だって、平然としていた光希の隣で、心臓はずっとバクバク鳴りっぱなしだった。

「……すべては、ミツキを私の元へ招くためさ。あの子は期待通りにやってきたよ。自分の身に何が起きるかも知らず、ただお前の無事を神前で祈り続けてね。……記憶が削り取られても、ほんの一時の時間稼ぎに過ぎなくとも構わない――。自分が招いた厄災への懺悔とはいえ、そこまでしてお前を繋ぎ止めようとするなんて。……反吐が出るほど美しい愛だと思わないか?」

 蛇神は間を置き、光希の唇の端をゆっくりと持ち上げた。

「それに比べてお前はどうだ。自分は怪我一つせず、ミツキの『守りたい』という気持ちを盾にこの数日間を過ごして。情けないと思わないのか」

 言葉が深く刺さった。口を開きかけて——そのまま、反論を失う。
 光希の赤い瞳が、まっすぐに俺を射抜いている。
 その顔で一番触れられたくない場所を正確に突かれ、自分の情けなさを、認めざるを得なかった。

「……記憶が消えるって、どういうことだ?」
「言葉通りさ。強すぎる魂の繋がりを断つために、お前との思い出を、ひとつ、またひとつと消している。……無論、本物の蛇神ならそんな対価は求めないし、接吻なんて馬鹿げた真似もさせない。儀式はミツキの身体を通じてお前の力を弱めるためだ」

 蛇神は光希の手で自らの額を押さえ、心底愉快そうに喉を鳴らして笑った。

「お前、本当は何なんだ……。地縛霊か何かか? この世に恨みでもあるのかよ」
「恨み? そんなものはない。ただ私は、あの子の魂を迎えに来ただけだ。今度こそ、誰にも邪魔されぬ常世へと連れて行くためにね」
「じゃあ、光希が見ていた影も……龍たちが怪我をしたのも、本当は……」
「あの子に下心を持つ、羽虫どもを排除してやったにすぎない。ミツキが恐怖するほど、都合も良いからな。お前たちの脆い絆を揺さぶるための、愉快な余興だよ」

 何から何まで、「蛇神」の名を語ったコイツの茶番だったってことか。
 俺の怪我で光希を誘い出して、キスを儀式に見せかけることで——力を吸い取る。
 龍と筒井先輩を傷つけたのも、こんなに怖いことが続くならと、キスをせざるを得ない状況に、ずっと縛りつけておく為。

 ——全部が全部、光希を手に入れるためだったんだ。

 光希の顔が、至近距離まで迫ってきた。唇から覗くその舌先に、鎖骨にある印とは違う、黒い紋様が浮かんでいる。
 見たことのない形だった。古い文字でも、記号でもない。ただ禍々(まがまが)しいとしか言いようのない紋様が、光希の舌の上でぬらぬらと光っている。

「卑怯者。三回目の儀式の時も……この唇に、(たか)ぶりに任せて何度も、何度も唇を重ねていただろう? 隠しきれない下心に負けたんだ。所詮はお前も、幼馴染の顔をした、ただの男だったというわけだ。だがその浅ましさのおかげで、お前の強すぎる守護の力も殆ど吸い取ることができた。感謝しているよ」

 光希が眠っていた朝のことが、一瞬で蘇る。俺は何ひとつ反論できない。

「『行くな』と言えば、あの子の魂がこれほど濁ることはなかった。お前のくだらない見栄で最後まで本音を飲み込んだからこそ、この結末を招いたんだ」

 まるで光希に責められているみたいだった。

「……太輔」

 ほんのわずかな沈黙のあと、穏やかな声にハッとして光希の顔を見た。さっきまでの赤い瞳の中の瞳孔が大きく黒々と広がって、光希の目に戻りかけている。
 光希は自分の喉を掻きむしり、指先を皮膚に深く食い込ませた。内側から何かに押さえつけられているかのように、全身の筋肉が痙攣し、ガタガタと震えている。

「光希、おい……光希!」

 声が途切れると同時に、光希は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。支えることも叶わないまま、その肌の隙間から、滑らかな黒いなにかが、まるで体の内側を裏返すようにして溢れ出していく。

「なんだ、これ――」

 光を吸い込むほどに深い黒が、形を捨てて床を伝う。剥離したそれはどろりと蠢きながら、どす黒い影の柱となって立ち上がった。
 人の形をしている。
 顔はなかった。ただ黒い人の輪郭だけがそこに立っていて、それがゆっくりと俺の方へ向く。向いた、と分かったのは顔があったからじゃない。その気配が、まっすぐに俺を捉えたからだ。
 次の瞬間、それは俺の両目に向かって、勢いよく飛び込んで来た。