「つき……光希!」
鼓膜を叩く太輔の鋭い声。それに弾かれるようにして、俺は跳ね起きた。
並んだ机と椅子、黒板。見慣れたはずの景色なのに、得体の知れない違和感が肌にまとわりつく。窓の外は、まるで底なしの闇に塗り潰されたような夜だった。校庭の夜間照明すら消え、校舎には完全に人の気配がない。夏とは思えないほど芯まで冷える空気が、腕に鳥肌を立たせていた。
「た、太輔……ここ、どこだよ……」
「わかんねぇ。……けど、現実の世界じゃねぇのは確かだ」
記憶を手繰ろうとした。確かに太輔と二人で、誰もいない学年準備室で着替えを始めたはずだ。けれど、そこから先が深い霧に覆われたように思い出せない。記憶が切り取られたみたいに、不自然な空白が生まれている。
代わりにあの「前世」の記憶が鮮明に脳裏をよぎる。混乱する俺に、太輔は絞り出すような声で告げた。
「いいか、光希。蛇神は神様なんかじゃない。ずっとお前のことを狙ってる『影』だったんだよ! 俺に罰が当たればいいってお前が願ったから、あいつは近づくための口実として怪我をさせた。お前が救いを乞うように仕向けてから、蛇神の面を被って現れたんだ。……全部、自作自演だったんだよ。キスを契約に混ぜたのも、儀式に見せかけて俺の力を奪うためだって、あいつが……」
太輔の口から、俺が心の最深部に秘めていた呪いが暴かれていく。最悪の形で知られてしまった羞恥と、拒絶されるのではないかという恐怖が同時に押し寄せてくる。自分への非難を遮るように、俺は震える声で言葉を重ねた。
「待って……太輔の力って、何なんだよ。どういうことだよ!」
「俺にも詳しくは分からねぇんだ。ただ、俺は昔から無意識にお前を、そういう……良くないものから遠ざけてたっぽいんだ。あいつは、それが邪魔だったんだよ」
太輔はどこか決まり悪そうに目を逸らした。荒唐無稽な話のはずなのに、あの夢の中で、泥だらけの手で俺を守ろうとしていた庭師の姿を知ってしまった今、それは重い真実味を持って胸に響いていた。
「太輔……ごめん。俺、あの夏祭りの夜、あんなこと思って……」
「謝んなよ。……お前にそんなこと願わせるまで追い詰めた、俺が悪い」
「は……? 何言ってんだよ。どう考えたって、俺が悪いだろ!」
「そうじゃねぇんだよ」
言葉は、太輔の強い拒絶に遮られた。俺の罪悪感なんてとっくに見透かしていたように、真っ直ぐにこっちを見据えている。こんな目に遭わせてもなお、その優しさは俺が知っている「幼馴染の太輔」のままだった。その熱に触れて、少しだけ泣きそうになる。
「俺があの時、自分の気持ちをちゃんと言わなかった。言わなくても伝わってるはずだって、お前の優しさに甘えて……逃げてた俺のせいなんだ」
お前の気持ちってなんだよ。その問いに答える代わりに、太輔は俺の肩に引っかかっていただけのワイシャツに腕を通させ、ボタンを一つずつ留め始めた。
いつも不敵に笑って、何でもねぇよと俺を安心させてきた手。その指先が、小さく震えていることに気づいた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「よし、行くぞ」
「行くって……どこに?」
「考えてねぇ。けど、ここにいちゃいけないことだけは、分かるだろ」
太輔が苦笑いを浮かべて、顎で教卓の方を指し示す。
そこには、絶対にあるはずのないものが在った。教壇の天板から、どろりとした塊が染み出している。墨汁よりも濃い、光を返さない黒。それは粘り気を持った有機的な液体となって、天板の縁から床へと糸を引いて垂れ落ちていく。
――ぼたっ。ぼとっ。
静けさの中でその音だけが、鼓膜を叩くような嫌な響きを立てた。一滴ごとに床に落ち、広がりながら蠢いている。机の脚から、椅子の脚、下から上へと這い上がっていく。床に溜まった黒い水面が急激に収縮して、中央で泡立ち、せり上がっていく。水底から這い上がってくる蛇のようにのたうちながら、それは人の形を成し始めていた。
「あれが蛇神の正体だ。……走るぞ、光希!」
太輔に力任せに腕を引かれて、ふたりで廊下へ飛び出した。階段を一段飛ばしで駆け上がりながら、一度だけ背後を振り返る。開け放たれた教室のドアから、ゆらぁ……と影が染み出していた。いつまでも動きの定まらない、泥のような人影。それが意志を持って、音もなくこちらへ滑り出してくる。あるのはただ、俺たちを追っているという確信だけだった。
「太輔、待って……! 上に行ったら、屋上で袋小路になる。外に逃げられない!」
「俺もそう思ったけどよ。見ろ! そんな余裕ねえんだよ」
踊り場で足を止めた太輔が、鼻で短く笑った。強がりで塗り固めたその横顔は、今にも崩れそうなほど余裕がなく、額に汗が滲んでいる。
太輔が指し示した階段の下――俺たちが今しがた駆け抜けたフロアの底から、それは押し寄せていた。コールタールのような真っ黒な水が、階段から溢れ出して濁流となって迫ってくる。波頭が階段を一段ずつじりじりと呑み込んでいって、その速度は少しずつ上がっていた。
黒い水面は蛍光灯の残光を跳ね返し、まるで内臓から溢れた体液のような、ぬらりとした光沢を放っている。不意にどこかから、ごぼり、と水音がした。連続したそれは重く低い唸り声のようでもあり、男の呻き声にも聞こえた。
「止まっちゃ駄目だ、もっと上に行かないと!」
「あー、もう! マジで怖がらせにくんじゃねーよ、クソが!」
太輔の罵声が、逃げ場のない階段に反響した。壁に跳ね返って、また跳ね返って、重なって消えていく。それでも黒い水は止まらない。俺たちの足首を狙うみたいに、一段、また一段と水位を上げながら迫ってくる。
「光希、上だ! 屋上まで登って、ドアぶっ壊すしかねぇ!」
太輔の声が背中を叩いて、俺の足が動いた。止まったら終わりだという感覚だけが全身を貫く。闇の底から逃れるように、この異界の出口も見えないまま。俺たちはさらに高く、上へ上へと足を踏み出し続ける。
普段は鍵がかかっているはずの屋上の扉に、二人がかりで体当たりすると、あっけなくそれは開いた。そんな都合のよさすら、ここが現実の場所ではないと裏付けているように思える。
屋上には、夏の水泳の授業でしか使われないプールがある。その水面には大量の枯れ葉や藻が浮いていて、この間まで俺たちが授業で入った透き通る水の面影は、どこにも残っていなかった。腐った水が夜の空気の中で淀んで、饐えた臭いをかすかに漂わせている。
「光希、こっちに上がれ!」
太輔に手を差し出されて、貯水槽の上によじ登る。息切れしながら二人で隣同士に座り込むと、俺はあの影が追いつくまでの間、何とかこの事態を切り抜けようと必死で頭を動かしていたけれど――口から出たのは、現実逃避そのものの言葉だった。
「……腹減った」
「おい、この状況で言うかよ普通」
太輔が呆れたような、それでいてどこか楽しそうな声で笑った。その笑い方がいつもと同じで、俺は少しだけ楽に息ができるようになった気がする。
「まぁ、でも……戻れたら何食いたい?」
太輔も軽く視線を外して俯いた。心の中に、食べたいものを浮かべているような顔だった。俺はなんとなく、こいつと同じものを考えているような気がして、「せーの」と前振りをしてやった。
「「サッポロラーメン」」
綺麗にハモった。それがあまりにも予想通りすぎて、俺たちは噴き出して笑う。声を出して笑ったら、こんな状況でも怖さが薄れる。薄れたのは一瞬だったけれど、その一瞬が、今は何よりも必要だった。
「……なあ、太輔。もし、このあと……どっちかが殺されたら」
「縁起でもないこと言ってんじゃねーよ」
大真面目な顔だった。なんで、という言葉を口にせずとも、太輔は言葉を継ぎ足した。
「映画だとそれ、よくある死亡フラグじゃん。俺の頭ん中では、光希は死なない前提だから。でも、もし俺が助からなかったらさ――」
「おい、なんでお前が一人で死んでんだよ。その時はぶん殴るぞ」
「いや、死体蹴りすんな。せめて死んだあとくらい、優しくしろよな」
「……戻れたらしてやるよ」
コイツが最後のお願いみたいに言うから、俺は居心地が悪くなって、またしても可愛げのないことを言ってしまう。
その時、屋上のプールを取り囲むプールサイドの石が、真っ黒い粘り気のあるそれに浸食されていくのが見えた。
震えながら太輔の方に手のひら一つ分だけ体を寄せると、シャツ越しにその体温が伝わってくる。
「……光希。あのニセモノと契約してから、記憶がひとつずつ消えてるって、本当なのか」
「あぁ、うん。自分じゃ、何を失くしたのかさえ思い出せないんだけど。……太輔が俺のために喧嘩してくれたことも、二人で夏祭りに行ったことも……言われるまで、綺麗さっぱり忘れてたみたいで……」
「俺の家でねるねる食ってたのも、本当は忘れてたんだろ?」
「……うん」
消えていく思い出の重みに声が震える。すると太輔は静かに、確かめるような声で問いかけた。
「じゃあ、さっきから普通にここに居られるのは……『溺れた記憶』が消えてるからか」
「えっ……?」
「お前、ガキの時に池で溺れてから、水がすげぇ苦手だっただろ。プールなんて見るのも嫌だって言って授業も全部休んで、いつも一人で保健室でプリントやってたじゃん」
池で溺れた記憶。そんなの、今の俺の頭の中には欠片も残っていない。
(そうか、一日一つ。今日、あいつに喰われたのはその記憶だったのか)
「お前、あの時死にかけたんだよ。放し飼いの犬に追いかけられて、パニックになって……そのまま池にドボン。俺が飛び込んで引きずり出したんだ。その後、お前は猛烈な犬嫌いにもなってさ。松本のおばあちゃんちの犬まで睨みつけて、『犬なんて全部ホットドッグにしてやる』なんて息巻いてたんだぞ」
「……よく、そんな昔の細かいことまで覚えてんな」
太輔は黙ってTシャツをめくって、腰骨のあたりの傷痕を見せた。
あぁ、そうだ。この傷。池からびしょ濡れで帰った俺たちを見て、母さん達が大騒ぎして。加藤醫院で太輔の手術が終わるまで、泣きながら病院の長椅子に座って待っていたっけ。
「光希のことは全部覚えてるよ。もしお前がこれから先なにかを忘れても、俺が何百回でも、何千回でも言って思い出させてやるよ」
目頭が熱くなって、泣きそうになった。どうして、お前はこんなに俺を大事にするんだ。俺は傲慢で、ずるくて、救いようがないほど我儘なのに、って。
本当は太輔の傍にいたいのに、どうしても素直になれない。
「俺にはお前が必要だ、どこにも行くな」――。
そんな言葉を太輔に言わせたかった。言わせたいくせに自分から縋るのは嫌で、当てつけみたいに東京に行くなんて言ったのに。
水面が、夜風を受けて不気味にうねる。プールサイドの暗がりの向こう。一つの黒い塊が、俺たちの方へと近づいてきた。
「でも……アイツの狙いは俺なんだよ! 俺が連れて行かれて、太輔が助かるなら、それで……」
「行かせるわけねぇだろうが!」
「でもこのままじゃ、太輔だって狙われ続ける! もし太輔がアイツに殺されるくらいなら、俺の人生はここで終わったほうがマシだっつってんだよ!」
「あー、マジでこの頑固野郎! そこまで言うなら……そんなに俺のことが大事なら、なんで俺のことを置いて東京に行くなんて言ったんだよ!」
こんな大声で、みっともなく本音をぶつけ合うのは、たぶん十数年ぶりだった。子どもの頃、どっちが正しいかなんて本当にくだらないことで、激しく口論したっけ。
数えきれないほどある、どうでもいい思い出のひとつ。そんな喧嘩を繰り返してから、こんなふうに太輔とぶつかりあうことはなかった。
互いに大人になって、言葉を選んで、本当のことを言わなくなって。それがずっと、息苦しかった。
(……太輔は、俺が思ってるよりずっと寂しかったってことかよ。なのに、俺……どこまでも自分のことばっかで……)
けれど、もう、死ぬかもしれないなら。これが最後かもしれないなら。
十六年間、傍に居たコイツに言いたい最後の言葉は、もう決まっていた。
「太輔の優しいところが好きで。……それと同じくらい、その優しさが嫌いだった」
その言葉が太輔の口を塞いだ。正面から見据え、崩れ落ちそうな俺を支えようと手を伸ばす。けれど、その手が俺に届くことはなかった。
ただ、何も掴めないままの五指が、夜の空気に虚しく浮かんでいる。
「一緒にいると、どんどん自分がダメになりそうなくらい、お前は俺に優しくするから……。それが凄くしんどいんだよ。俺ばっか好きになって……幼馴染以上の気持ちが……膨らみ続けるじゃんか。なんでそれだけ、ずっと気付いてくれねぇんだよ……っ」
喉の奥が、どんどん細くなったように締め付けられた。
言った、とうとう伝えてしまった。これでもう二度と、今までの「幼馴染」には戻れない。
「この気持ちのまま傍に居たら、俺たちの何もかもが壊れそうで怖いんだよ。だから突き放した。……けど、本当の、本当は……太輔に引き止めてほしかった。『俺にはお前が必要だ』って、力ずくでも思わせて欲しかった」
言葉が途切れた。声が涙で震えている。
太輔は、俺の涙声ごと、全部受け止めるみたいに言った。
「その気持ちを知ってたら、なりふり構わず抱きしめてた」
「な、なんで……?」
「俺だって、ずっと光希と同じ気持ちだったからだよ。俺はいつだって、お前の隣にいるつもりでいたんだ。なのに、勝手に東京に行くなんて言われて、俺がどんな気持ちになったか……お前、少しは考えたことあんのかよ。いいか、俺が居ないってことは、もう一生『ねるねる』が食えなくなるってことだぞ! 俺以外の誰がお前のために、台所から水を運んで来るなんて、面倒くせぇことすると思ってんだよ!!」
太輔は、俺の顔を真正面から見つめて、怒りも恥ずかしさも、全部ひっくるめてぶつけるように大きな声で言った。
「……っ、面倒くせぇなら、もっと早くそう言えよ」
声が掠れていた。笑いそうになったのか、泣きそうになったのか、自分でも分からなかった。たぶん、両方だった。
「面倒くさかろうが何だろうが、作るに決まってんだろ。……光希が俺に、あんな風に素直に甘えてくんの、あの時間だけだって分かってたからな」
「お前……本当にアホじゃねーの。俺、常にめちゃくちゃワガママ言ってたじゃん」
「……いいか、俺にとってお前の『我儘』と『甘え』は別物なんだよ。我儘は、俺の物とか力を使って何かを欲しがることだろ? けど、甘えはもっと……俺そのものを振り回して、お前のためだけに、時間と、俺自身を使い込ませることじゃん。……そんなん、光希にしかやるわけねぇだろ!」
太輔の顔を見上げる。その後ろに広がる夜空には、無数の星が瞬いていた。
今が何時なのかも分からない。ここが現実ではないのなら、時間なんて何の意味も持たないのかもしれない。
互いの本音を曝け出した気恥ずかしさに耐えきれず、黙って夜空を仰いでいると、不意に腕へぞわっと鳥肌が立った。
星の瞬きが、おかしい。目を凝らせば、それは不規則に開いて、閉じて、また開く。目だ。星なんかじゃない。夜空の黒にびっしりと張り付いた、無数の人間の目。
瞳孔が縦に裂け、大きさもバラバラな瞳が、一斉にこちらを見下ろしている。俺たち二人を逃さず捉えた次の瞬間――波が伝わるように、一面の目が連鎖して瞬きをした。
「あー……太輔、俺もう無理かも。キモすぎる、何なんだよこれ」
あまりの生理的な嫌悪感に声を震わせると、隣の太輔が、場違いなほど穏やかな声で返してきた。
「でも、こんなバケモノの目に見つめられるより、光希に真っ直ぐ見つめられる方が、俺の心臓は保たねーけどな」
「はぁ!? 何だよそれ、今言うことじゃねーだろ。この状況で茶化すな!」
「本気で思ってるから言っただけだぞ」
人の形をなした「黒」が、ゆらりゆらりと揺れていた。蛇神の面影などそこにはない。ただの不気味な人影が、俺たちを追い詰めるのを愉しむかのように、急ぐ様子もなく近づいてくる。頭上には、逃げ場などどこにもないと言わんばかりに、一面の瞳が夜空を埋め尽くしていた。
「……光希。一生のお願い。俺の隣にずっといるって約束しろよ」
「てめーの人生、何回あんだよ! お前の『一生のお願い』なんて、ガキの頃からもう何百回も聞いてんのに」
「これで最後にする、もう二度と言わない。神頼みもこりごりだ。……だから光希が俺の願いを叶えろよ」
「……っ、お前が……俺についてくれば良いだけだろ!」
それは、俺が心の奥底に隠し持ち、密かに願い続けていた淡い夢だった。
太輔と二人で新しい街へ行き、一緒に大学へ通い、狭いアパートで「ただいま」を言い合う。布団の中で、絶対に叶わないと想像し続けたそんな未来。
それは「ここに残れ」という引き留めよりも、ずっと眩しく、俺が欲してやまない光だった。
「……おう、それもアリかもしんねーな。だったら、やっぱ生きて帰るしかなくね?」
腐敗した泥のような粘り気を持って、黒い腕が俺の足首を掴もうとした。もう、これ以上逃げ場はない。
かつて蛇神を名乗っていた「それ」は、心中し損ねた男の怨嗟に煮詰められ、もはや神でも霊でもない、別の何かに変貌していた。愛する人と心中しようとしたあの男の報われなかった全てが、黒い密度を持って凝り固まったもののように見える。
顔も、目も、鼻も、何一つとして存在しない。けれど、俺たちの存在を確かに認識している。視線ではなく、じっとりと湿った何かで全身を舐り回されているような、悍ましい気配がまとわりついて離れない。まるで、恨めしさそのものが形を持っているようだった。
「……う……うぅぅ、うううう」
それが、呻いた。獣の咆哮とも、断末魔ともつかない振動。空気が震えるのではなく、内臓を直接掴んで振り回されるような、骨の髄まで軋む不快な共鳴。耳を塞いでも無駄だった。それは鼓膜を通り越し、脳に刻みつけられる。
プールの水面が、その不吉な唸りに呼応して、無数の波紋を狂ったように広げていた。
「……ミツ……キ……」
ザラザラとした砂嵐のような音の奥から、人の言葉が浮かび上がってきた。
もう一度、さっきよりもはっきりと。呼んでいるのか、引き寄せようとしているのか、それとも――ただ、死にきれなかった相手に届けたくて、百年分の孤独を吐き出しているだけなのか。
真っ黒な皮膚が融解して、垂れ下がる指先が俺を求めてどろりどろりと崩れる。二人とも、本当にここで死ぬのかもしれない。
そう思った瞬間、俺は縋るように太輔のTシャツを掴み、その胸に顔を埋めた。
伝わってくる温かさに、胸の奥が震える。ずっと、ずっとこれが欲しかったんだ。陽だまりのような匂い。そして奥に混じる、どこか懐かしい香り。
この匂いを、俺はもっとずっと前から。何度も何度も、こうして確かめたかった気がする。
「……ここで死んだとしても、何度生まれ変わったとしても、光希は絶対に渡さねぇ。こいつを捕まえて離さないのは、神様でも幽霊でもなくて――俺だけだからな」
震えを誤魔化すように浮かべた笑みは、今にも崩れそうなほど歪だった。それでも太輔は俺にだけは恐怖を悟らせまいと、不遜な態度を崩さないまま、宥めるように俺の頭を何度も撫でる。
どう考えても絶体絶命で、目の前は真っ暗なのに。今この瞬間に泣き崩れて、こいつの手を離すことになるのだけは、死んでも嫌だと思った。
「……あーあ。光希と大学生になって同棲できるなら、やる気しか出ねーわ。明日から本気出して勉強すっかなぁ」
その場にそぐわない、あまりに真っ直ぐな未来を見据えた言葉に、はっとして顔を上げる。滲んだ視界の裏側で、フラッシュバックのように溢れ出したのは、やっぱりあの代わり映えのしないいつもの光景だった。
太輔の部屋で、肩を並べて宿題を解いて。空色の小さな宇宙――あのソーダの泡に、キラキラと砕いた飴の星を振りかけて。
『光希、ほら。出来た』
ずっと、ずっと変わらない。
誇らしげで、どこか幼い、あの頃と同じ太輔の笑顔だった。
「太輔、『明日やろう』は――」
「……馬鹿野郎」
俺の気持ちを全部欲しがるように、太輔の唇が重なる。今までのそれとは、全然違う。契約だから、守るために。仕方なく。そういう薄い言い訳の膜が、いつも俺と太輔の間にあって、それがあることで俺は自分を保っていたのに。
大きな手が後頭部を強引に包み、髪に指が沈む。逃がさない。角度を変えて、抉るようにキスが深くなる。その瞬間、耳元で何かが凄まじい音を立てて軋んだ。
怨霊の気配が、波が引くように遠のいていく。名前を呼ぶ声が、砂嵐の奥へと沈んでいく。
「ミツキ、ミツキ。うぅううう、うぅうう!」
断末魔と共に形を失った蛇神が、鉛色の泥となって崩れ落ちる。脳内に流れ込むのは、仏間に置かれた赤い彼岸花が、凄まじい速度でどす黒い朱に腐り、塵へと変わる光景。それでも俺をこの世界に繋ぎ止めているのは、唇から流れ込んでくる太輔の体温だった。喉の奥まで出かかった愛おしさを、熱い吐息と一緒に飲み込む。
俺には太輔が必要で、太輔にも俺が必要なんだと、もう認めるほかない。自分勝手な理屈でいい。俺を狂うほど欲しがってほしいし、俺も、剥き出しの心でお前をもっと振り回したい。
この温もりも、髪を掻き乱す不器用な手のひらも、俺の我儘を「わがまま」として叶えてくれるコイツの全部を、誰にも渡したくない。
太輔のシャツを掴む指が白くなるほど、力を込める。心音の重なる距離で、俺たちはただ、お互いという名の祈りに縋りついていた。
あらゆる雑音が真空へと吸い込まれたかのような静けさに驚いて、お互いの唇が離れた瞬間。足元の貯水槽が耐えきれなくなったように、一気に砕け散った。
「光希!」
「太輔……っ!」
支えを失った俺たちの体が、同時に傾く。台風のような突風が吹き抜け、真上で渦巻いていた無数の目が一斉に掻き消えた。
太輔の腕が俺を強く引き寄せたのと、満月を映した水面が眼下に迫ったのは、ほぼ同時だった。派手な水飛沫と鈍い音。水が全身を包む。
水底から這い上がってくる冷たさが一瞬で体温を奪い、腐った水の匂いが鼻を突いた。
夜よりも深い闇の中、渦巻く枯れ葉が何度も頬を掠める。上も下も、生と死の境界さえも分からなくなるほどの昏い濁流だった。
恐怖よりも先に浮かんだのは、奇妙な静けさだった。溺れているのに、頭の中は落ち着いている。微かに目が慣れた瞬間――ぐいっ、と強烈な力で左手を引かれた。
(っ、これ……まさかあの時の……っ!)
人の手じゃない。
細い何かが手首に巻き付いている。右手を握る太輔から目を逸らして振り返ると、そこには赤い紐が何重にも螺旋を描くようにきつく食い込んでいた。
その奥の黒い濁流の深みに、蛇神の目だけが紅く光って、俺を見つめている。
まばたきひとつしない目だった。憎しみとも、渇望ともつかない何かを湛えて、ただひたすら俺だけを見ていた。濁流の中でさえ、その視線は揺れていない。
怨念を孕んだその双眸は、一点の曇りなく俺を捉え、逃さないと言わんばかりに紐を底へと引きずり込んでいく。手首が引っ張られるたびに、右手を握る太輔の指が遠ざかる気がした。
(太輔、離せ! このままじゃお前まで――)
死の道連れを求める力。太輔もろとも沈んでしまう。
恐怖に震える俺の右手には、力強い太輔の指があった。あいつは死ぬかもしれないと分かっていて、それでも絶対に離さなかった。
もがくほどに靴が脱げ落ち、水を含んだジャージが重く纏わりつく。
必死に抗う俺の左手。呪いの紐が食い込むその場所に、太輔が自分の右手を重ねた、その瞬間。あいつの手から、あの夢で感じた陽だまりのような熱が爆ぜた。
肉を断つ勢いだった赤い紐が、水の中だというのに炎に焼かれる花のようにみるみる黒ずみ、ぼろぼろと崩れ落ちていく。
自由になった俺の体を、太輔が力任せに抱き寄せた。骨がきしむほどの強さで、本当だったら殴ってやりたいくらい苦しい。
太輔が前世の記憶を覚えているのかは分からないけれど、胸から伝わる激しい鼓動が、雄弁に物語っていた。たとえ百年という歳月が流れても、こいつの「守りたい」という意志は、少しも削り取られてなどいないのだと。その切実な祈りが、肌を通じて俺の心へ直接流れ込んでくる。
俺も、もう迷わない。俺を光へ引きずり戻そうとするこの手を、この温もりを、今度こそ絶対に離さない。
冥い水に呑まれながら、魂がずっと求めていたこの背中に、しがみつくように腕を回した。
鼓膜を叩く太輔の鋭い声。それに弾かれるようにして、俺は跳ね起きた。
並んだ机と椅子、黒板。見慣れたはずの景色なのに、得体の知れない違和感が肌にまとわりつく。窓の外は、まるで底なしの闇に塗り潰されたような夜だった。校庭の夜間照明すら消え、校舎には完全に人の気配がない。夏とは思えないほど芯まで冷える空気が、腕に鳥肌を立たせていた。
「た、太輔……ここ、どこだよ……」
「わかんねぇ。……けど、現実の世界じゃねぇのは確かだ」
記憶を手繰ろうとした。確かに太輔と二人で、誰もいない学年準備室で着替えを始めたはずだ。けれど、そこから先が深い霧に覆われたように思い出せない。記憶が切り取られたみたいに、不自然な空白が生まれている。
代わりにあの「前世」の記憶が鮮明に脳裏をよぎる。混乱する俺に、太輔は絞り出すような声で告げた。
「いいか、光希。蛇神は神様なんかじゃない。ずっとお前のことを狙ってる『影』だったんだよ! 俺に罰が当たればいいってお前が願ったから、あいつは近づくための口実として怪我をさせた。お前が救いを乞うように仕向けてから、蛇神の面を被って現れたんだ。……全部、自作自演だったんだよ。キスを契約に混ぜたのも、儀式に見せかけて俺の力を奪うためだって、あいつが……」
太輔の口から、俺が心の最深部に秘めていた呪いが暴かれていく。最悪の形で知られてしまった羞恥と、拒絶されるのではないかという恐怖が同時に押し寄せてくる。自分への非難を遮るように、俺は震える声で言葉を重ねた。
「待って……太輔の力って、何なんだよ。どういうことだよ!」
「俺にも詳しくは分からねぇんだ。ただ、俺は昔から無意識にお前を、そういう……良くないものから遠ざけてたっぽいんだ。あいつは、それが邪魔だったんだよ」
太輔はどこか決まり悪そうに目を逸らした。荒唐無稽な話のはずなのに、あの夢の中で、泥だらけの手で俺を守ろうとしていた庭師の姿を知ってしまった今、それは重い真実味を持って胸に響いていた。
「太輔……ごめん。俺、あの夏祭りの夜、あんなこと思って……」
「謝んなよ。……お前にそんなこと願わせるまで追い詰めた、俺が悪い」
「は……? 何言ってんだよ。どう考えたって、俺が悪いだろ!」
「そうじゃねぇんだよ」
言葉は、太輔の強い拒絶に遮られた。俺の罪悪感なんてとっくに見透かしていたように、真っ直ぐにこっちを見据えている。こんな目に遭わせてもなお、その優しさは俺が知っている「幼馴染の太輔」のままだった。その熱に触れて、少しだけ泣きそうになる。
「俺があの時、自分の気持ちをちゃんと言わなかった。言わなくても伝わってるはずだって、お前の優しさに甘えて……逃げてた俺のせいなんだ」
お前の気持ちってなんだよ。その問いに答える代わりに、太輔は俺の肩に引っかかっていただけのワイシャツに腕を通させ、ボタンを一つずつ留め始めた。
いつも不敵に笑って、何でもねぇよと俺を安心させてきた手。その指先が、小さく震えていることに気づいた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「よし、行くぞ」
「行くって……どこに?」
「考えてねぇ。けど、ここにいちゃいけないことだけは、分かるだろ」
太輔が苦笑いを浮かべて、顎で教卓の方を指し示す。
そこには、絶対にあるはずのないものが在った。教壇の天板から、どろりとした塊が染み出している。墨汁よりも濃い、光を返さない黒。それは粘り気を持った有機的な液体となって、天板の縁から床へと糸を引いて垂れ落ちていく。
――ぼたっ。ぼとっ。
静けさの中でその音だけが、鼓膜を叩くような嫌な響きを立てた。一滴ごとに床に落ち、広がりながら蠢いている。机の脚から、椅子の脚、下から上へと這い上がっていく。床に溜まった黒い水面が急激に収縮して、中央で泡立ち、せり上がっていく。水底から這い上がってくる蛇のようにのたうちながら、それは人の形を成し始めていた。
「あれが蛇神の正体だ。……走るぞ、光希!」
太輔に力任せに腕を引かれて、ふたりで廊下へ飛び出した。階段を一段飛ばしで駆け上がりながら、一度だけ背後を振り返る。開け放たれた教室のドアから、ゆらぁ……と影が染み出していた。いつまでも動きの定まらない、泥のような人影。それが意志を持って、音もなくこちらへ滑り出してくる。あるのはただ、俺たちを追っているという確信だけだった。
「太輔、待って……! 上に行ったら、屋上で袋小路になる。外に逃げられない!」
「俺もそう思ったけどよ。見ろ! そんな余裕ねえんだよ」
踊り場で足を止めた太輔が、鼻で短く笑った。強がりで塗り固めたその横顔は、今にも崩れそうなほど余裕がなく、額に汗が滲んでいる。
太輔が指し示した階段の下――俺たちが今しがた駆け抜けたフロアの底から、それは押し寄せていた。コールタールのような真っ黒な水が、階段から溢れ出して濁流となって迫ってくる。波頭が階段を一段ずつじりじりと呑み込んでいって、その速度は少しずつ上がっていた。
黒い水面は蛍光灯の残光を跳ね返し、まるで内臓から溢れた体液のような、ぬらりとした光沢を放っている。不意にどこかから、ごぼり、と水音がした。連続したそれは重く低い唸り声のようでもあり、男の呻き声にも聞こえた。
「止まっちゃ駄目だ、もっと上に行かないと!」
「あー、もう! マジで怖がらせにくんじゃねーよ、クソが!」
太輔の罵声が、逃げ場のない階段に反響した。壁に跳ね返って、また跳ね返って、重なって消えていく。それでも黒い水は止まらない。俺たちの足首を狙うみたいに、一段、また一段と水位を上げながら迫ってくる。
「光希、上だ! 屋上まで登って、ドアぶっ壊すしかねぇ!」
太輔の声が背中を叩いて、俺の足が動いた。止まったら終わりだという感覚だけが全身を貫く。闇の底から逃れるように、この異界の出口も見えないまま。俺たちはさらに高く、上へ上へと足を踏み出し続ける。
普段は鍵がかかっているはずの屋上の扉に、二人がかりで体当たりすると、あっけなくそれは開いた。そんな都合のよさすら、ここが現実の場所ではないと裏付けているように思える。
屋上には、夏の水泳の授業でしか使われないプールがある。その水面には大量の枯れ葉や藻が浮いていて、この間まで俺たちが授業で入った透き通る水の面影は、どこにも残っていなかった。腐った水が夜の空気の中で淀んで、饐えた臭いをかすかに漂わせている。
「光希、こっちに上がれ!」
太輔に手を差し出されて、貯水槽の上によじ登る。息切れしながら二人で隣同士に座り込むと、俺はあの影が追いつくまでの間、何とかこの事態を切り抜けようと必死で頭を動かしていたけれど――口から出たのは、現実逃避そのものの言葉だった。
「……腹減った」
「おい、この状況で言うかよ普通」
太輔が呆れたような、それでいてどこか楽しそうな声で笑った。その笑い方がいつもと同じで、俺は少しだけ楽に息ができるようになった気がする。
「まぁ、でも……戻れたら何食いたい?」
太輔も軽く視線を外して俯いた。心の中に、食べたいものを浮かべているような顔だった。俺はなんとなく、こいつと同じものを考えているような気がして、「せーの」と前振りをしてやった。
「「サッポロラーメン」」
綺麗にハモった。それがあまりにも予想通りすぎて、俺たちは噴き出して笑う。声を出して笑ったら、こんな状況でも怖さが薄れる。薄れたのは一瞬だったけれど、その一瞬が、今は何よりも必要だった。
「……なあ、太輔。もし、このあと……どっちかが殺されたら」
「縁起でもないこと言ってんじゃねーよ」
大真面目な顔だった。なんで、という言葉を口にせずとも、太輔は言葉を継ぎ足した。
「映画だとそれ、よくある死亡フラグじゃん。俺の頭ん中では、光希は死なない前提だから。でも、もし俺が助からなかったらさ――」
「おい、なんでお前が一人で死んでんだよ。その時はぶん殴るぞ」
「いや、死体蹴りすんな。せめて死んだあとくらい、優しくしろよな」
「……戻れたらしてやるよ」
コイツが最後のお願いみたいに言うから、俺は居心地が悪くなって、またしても可愛げのないことを言ってしまう。
その時、屋上のプールを取り囲むプールサイドの石が、真っ黒い粘り気のあるそれに浸食されていくのが見えた。
震えながら太輔の方に手のひら一つ分だけ体を寄せると、シャツ越しにその体温が伝わってくる。
「……光希。あのニセモノと契約してから、記憶がひとつずつ消えてるって、本当なのか」
「あぁ、うん。自分じゃ、何を失くしたのかさえ思い出せないんだけど。……太輔が俺のために喧嘩してくれたことも、二人で夏祭りに行ったことも……言われるまで、綺麗さっぱり忘れてたみたいで……」
「俺の家でねるねる食ってたのも、本当は忘れてたんだろ?」
「……うん」
消えていく思い出の重みに声が震える。すると太輔は静かに、確かめるような声で問いかけた。
「じゃあ、さっきから普通にここに居られるのは……『溺れた記憶』が消えてるからか」
「えっ……?」
「お前、ガキの時に池で溺れてから、水がすげぇ苦手だっただろ。プールなんて見るのも嫌だって言って授業も全部休んで、いつも一人で保健室でプリントやってたじゃん」
池で溺れた記憶。そんなの、今の俺の頭の中には欠片も残っていない。
(そうか、一日一つ。今日、あいつに喰われたのはその記憶だったのか)
「お前、あの時死にかけたんだよ。放し飼いの犬に追いかけられて、パニックになって……そのまま池にドボン。俺が飛び込んで引きずり出したんだ。その後、お前は猛烈な犬嫌いにもなってさ。松本のおばあちゃんちの犬まで睨みつけて、『犬なんて全部ホットドッグにしてやる』なんて息巻いてたんだぞ」
「……よく、そんな昔の細かいことまで覚えてんな」
太輔は黙ってTシャツをめくって、腰骨のあたりの傷痕を見せた。
あぁ、そうだ。この傷。池からびしょ濡れで帰った俺たちを見て、母さん達が大騒ぎして。加藤醫院で太輔の手術が終わるまで、泣きながら病院の長椅子に座って待っていたっけ。
「光希のことは全部覚えてるよ。もしお前がこれから先なにかを忘れても、俺が何百回でも、何千回でも言って思い出させてやるよ」
目頭が熱くなって、泣きそうになった。どうして、お前はこんなに俺を大事にするんだ。俺は傲慢で、ずるくて、救いようがないほど我儘なのに、って。
本当は太輔の傍にいたいのに、どうしても素直になれない。
「俺にはお前が必要だ、どこにも行くな」――。
そんな言葉を太輔に言わせたかった。言わせたいくせに自分から縋るのは嫌で、当てつけみたいに東京に行くなんて言ったのに。
水面が、夜風を受けて不気味にうねる。プールサイドの暗がりの向こう。一つの黒い塊が、俺たちの方へと近づいてきた。
「でも……アイツの狙いは俺なんだよ! 俺が連れて行かれて、太輔が助かるなら、それで……」
「行かせるわけねぇだろうが!」
「でもこのままじゃ、太輔だって狙われ続ける! もし太輔がアイツに殺されるくらいなら、俺の人生はここで終わったほうがマシだっつってんだよ!」
「あー、マジでこの頑固野郎! そこまで言うなら……そんなに俺のことが大事なら、なんで俺のことを置いて東京に行くなんて言ったんだよ!」
こんな大声で、みっともなく本音をぶつけ合うのは、たぶん十数年ぶりだった。子どもの頃、どっちが正しいかなんて本当にくだらないことで、激しく口論したっけ。
数えきれないほどある、どうでもいい思い出のひとつ。そんな喧嘩を繰り返してから、こんなふうに太輔とぶつかりあうことはなかった。
互いに大人になって、言葉を選んで、本当のことを言わなくなって。それがずっと、息苦しかった。
(……太輔は、俺が思ってるよりずっと寂しかったってことかよ。なのに、俺……どこまでも自分のことばっかで……)
けれど、もう、死ぬかもしれないなら。これが最後かもしれないなら。
十六年間、傍に居たコイツに言いたい最後の言葉は、もう決まっていた。
「太輔の優しいところが好きで。……それと同じくらい、その優しさが嫌いだった」
その言葉が太輔の口を塞いだ。正面から見据え、崩れ落ちそうな俺を支えようと手を伸ばす。けれど、その手が俺に届くことはなかった。
ただ、何も掴めないままの五指が、夜の空気に虚しく浮かんでいる。
「一緒にいると、どんどん自分がダメになりそうなくらい、お前は俺に優しくするから……。それが凄くしんどいんだよ。俺ばっか好きになって……幼馴染以上の気持ちが……膨らみ続けるじゃんか。なんでそれだけ、ずっと気付いてくれねぇんだよ……っ」
喉の奥が、どんどん細くなったように締め付けられた。
言った、とうとう伝えてしまった。これでもう二度と、今までの「幼馴染」には戻れない。
「この気持ちのまま傍に居たら、俺たちの何もかもが壊れそうで怖いんだよ。だから突き放した。……けど、本当の、本当は……太輔に引き止めてほしかった。『俺にはお前が必要だ』って、力ずくでも思わせて欲しかった」
言葉が途切れた。声が涙で震えている。
太輔は、俺の涙声ごと、全部受け止めるみたいに言った。
「その気持ちを知ってたら、なりふり構わず抱きしめてた」
「な、なんで……?」
「俺だって、ずっと光希と同じ気持ちだったからだよ。俺はいつだって、お前の隣にいるつもりでいたんだ。なのに、勝手に東京に行くなんて言われて、俺がどんな気持ちになったか……お前、少しは考えたことあんのかよ。いいか、俺が居ないってことは、もう一生『ねるねる』が食えなくなるってことだぞ! 俺以外の誰がお前のために、台所から水を運んで来るなんて、面倒くせぇことすると思ってんだよ!!」
太輔は、俺の顔を真正面から見つめて、怒りも恥ずかしさも、全部ひっくるめてぶつけるように大きな声で言った。
「……っ、面倒くせぇなら、もっと早くそう言えよ」
声が掠れていた。笑いそうになったのか、泣きそうになったのか、自分でも分からなかった。たぶん、両方だった。
「面倒くさかろうが何だろうが、作るに決まってんだろ。……光希が俺に、あんな風に素直に甘えてくんの、あの時間だけだって分かってたからな」
「お前……本当にアホじゃねーの。俺、常にめちゃくちゃワガママ言ってたじゃん」
「……いいか、俺にとってお前の『我儘』と『甘え』は別物なんだよ。我儘は、俺の物とか力を使って何かを欲しがることだろ? けど、甘えはもっと……俺そのものを振り回して、お前のためだけに、時間と、俺自身を使い込ませることじゃん。……そんなん、光希にしかやるわけねぇだろ!」
太輔の顔を見上げる。その後ろに広がる夜空には、無数の星が瞬いていた。
今が何時なのかも分からない。ここが現実ではないのなら、時間なんて何の意味も持たないのかもしれない。
互いの本音を曝け出した気恥ずかしさに耐えきれず、黙って夜空を仰いでいると、不意に腕へぞわっと鳥肌が立った。
星の瞬きが、おかしい。目を凝らせば、それは不規則に開いて、閉じて、また開く。目だ。星なんかじゃない。夜空の黒にびっしりと張り付いた、無数の人間の目。
瞳孔が縦に裂け、大きさもバラバラな瞳が、一斉にこちらを見下ろしている。俺たち二人を逃さず捉えた次の瞬間――波が伝わるように、一面の目が連鎖して瞬きをした。
「あー……太輔、俺もう無理かも。キモすぎる、何なんだよこれ」
あまりの生理的な嫌悪感に声を震わせると、隣の太輔が、場違いなほど穏やかな声で返してきた。
「でも、こんなバケモノの目に見つめられるより、光希に真っ直ぐ見つめられる方が、俺の心臓は保たねーけどな」
「はぁ!? 何だよそれ、今言うことじゃねーだろ。この状況で茶化すな!」
「本気で思ってるから言っただけだぞ」
人の形をなした「黒」が、ゆらりゆらりと揺れていた。蛇神の面影などそこにはない。ただの不気味な人影が、俺たちを追い詰めるのを愉しむかのように、急ぐ様子もなく近づいてくる。頭上には、逃げ場などどこにもないと言わんばかりに、一面の瞳が夜空を埋め尽くしていた。
「……光希。一生のお願い。俺の隣にずっといるって約束しろよ」
「てめーの人生、何回あんだよ! お前の『一生のお願い』なんて、ガキの頃からもう何百回も聞いてんのに」
「これで最後にする、もう二度と言わない。神頼みもこりごりだ。……だから光希が俺の願いを叶えろよ」
「……っ、お前が……俺についてくれば良いだけだろ!」
それは、俺が心の奥底に隠し持ち、密かに願い続けていた淡い夢だった。
太輔と二人で新しい街へ行き、一緒に大学へ通い、狭いアパートで「ただいま」を言い合う。布団の中で、絶対に叶わないと想像し続けたそんな未来。
それは「ここに残れ」という引き留めよりも、ずっと眩しく、俺が欲してやまない光だった。
「……おう、それもアリかもしんねーな。だったら、やっぱ生きて帰るしかなくね?」
腐敗した泥のような粘り気を持って、黒い腕が俺の足首を掴もうとした。もう、これ以上逃げ場はない。
かつて蛇神を名乗っていた「それ」は、心中し損ねた男の怨嗟に煮詰められ、もはや神でも霊でもない、別の何かに変貌していた。愛する人と心中しようとしたあの男の報われなかった全てが、黒い密度を持って凝り固まったもののように見える。
顔も、目も、鼻も、何一つとして存在しない。けれど、俺たちの存在を確かに認識している。視線ではなく、じっとりと湿った何かで全身を舐り回されているような、悍ましい気配がまとわりついて離れない。まるで、恨めしさそのものが形を持っているようだった。
「……う……うぅぅ、うううう」
それが、呻いた。獣の咆哮とも、断末魔ともつかない振動。空気が震えるのではなく、内臓を直接掴んで振り回されるような、骨の髄まで軋む不快な共鳴。耳を塞いでも無駄だった。それは鼓膜を通り越し、脳に刻みつけられる。
プールの水面が、その不吉な唸りに呼応して、無数の波紋を狂ったように広げていた。
「……ミツ……キ……」
ザラザラとした砂嵐のような音の奥から、人の言葉が浮かび上がってきた。
もう一度、さっきよりもはっきりと。呼んでいるのか、引き寄せようとしているのか、それとも――ただ、死にきれなかった相手に届けたくて、百年分の孤独を吐き出しているだけなのか。
真っ黒な皮膚が融解して、垂れ下がる指先が俺を求めてどろりどろりと崩れる。二人とも、本当にここで死ぬのかもしれない。
そう思った瞬間、俺は縋るように太輔のTシャツを掴み、その胸に顔を埋めた。
伝わってくる温かさに、胸の奥が震える。ずっと、ずっとこれが欲しかったんだ。陽だまりのような匂い。そして奥に混じる、どこか懐かしい香り。
この匂いを、俺はもっとずっと前から。何度も何度も、こうして確かめたかった気がする。
「……ここで死んだとしても、何度生まれ変わったとしても、光希は絶対に渡さねぇ。こいつを捕まえて離さないのは、神様でも幽霊でもなくて――俺だけだからな」
震えを誤魔化すように浮かべた笑みは、今にも崩れそうなほど歪だった。それでも太輔は俺にだけは恐怖を悟らせまいと、不遜な態度を崩さないまま、宥めるように俺の頭を何度も撫でる。
どう考えても絶体絶命で、目の前は真っ暗なのに。今この瞬間に泣き崩れて、こいつの手を離すことになるのだけは、死んでも嫌だと思った。
「……あーあ。光希と大学生になって同棲できるなら、やる気しか出ねーわ。明日から本気出して勉強すっかなぁ」
その場にそぐわない、あまりに真っ直ぐな未来を見据えた言葉に、はっとして顔を上げる。滲んだ視界の裏側で、フラッシュバックのように溢れ出したのは、やっぱりあの代わり映えのしないいつもの光景だった。
太輔の部屋で、肩を並べて宿題を解いて。空色の小さな宇宙――あのソーダの泡に、キラキラと砕いた飴の星を振りかけて。
『光希、ほら。出来た』
ずっと、ずっと変わらない。
誇らしげで、どこか幼い、あの頃と同じ太輔の笑顔だった。
「太輔、『明日やろう』は――」
「……馬鹿野郎」
俺の気持ちを全部欲しがるように、太輔の唇が重なる。今までのそれとは、全然違う。契約だから、守るために。仕方なく。そういう薄い言い訳の膜が、いつも俺と太輔の間にあって、それがあることで俺は自分を保っていたのに。
大きな手が後頭部を強引に包み、髪に指が沈む。逃がさない。角度を変えて、抉るようにキスが深くなる。その瞬間、耳元で何かが凄まじい音を立てて軋んだ。
怨霊の気配が、波が引くように遠のいていく。名前を呼ぶ声が、砂嵐の奥へと沈んでいく。
「ミツキ、ミツキ。うぅううう、うぅうう!」
断末魔と共に形を失った蛇神が、鉛色の泥となって崩れ落ちる。脳内に流れ込むのは、仏間に置かれた赤い彼岸花が、凄まじい速度でどす黒い朱に腐り、塵へと変わる光景。それでも俺をこの世界に繋ぎ止めているのは、唇から流れ込んでくる太輔の体温だった。喉の奥まで出かかった愛おしさを、熱い吐息と一緒に飲み込む。
俺には太輔が必要で、太輔にも俺が必要なんだと、もう認めるほかない。自分勝手な理屈でいい。俺を狂うほど欲しがってほしいし、俺も、剥き出しの心でお前をもっと振り回したい。
この温もりも、髪を掻き乱す不器用な手のひらも、俺の我儘を「わがまま」として叶えてくれるコイツの全部を、誰にも渡したくない。
太輔のシャツを掴む指が白くなるほど、力を込める。心音の重なる距離で、俺たちはただ、お互いという名の祈りに縋りついていた。
あらゆる雑音が真空へと吸い込まれたかのような静けさに驚いて、お互いの唇が離れた瞬間。足元の貯水槽が耐えきれなくなったように、一気に砕け散った。
「光希!」
「太輔……っ!」
支えを失った俺たちの体が、同時に傾く。台風のような突風が吹き抜け、真上で渦巻いていた無数の目が一斉に掻き消えた。
太輔の腕が俺を強く引き寄せたのと、満月を映した水面が眼下に迫ったのは、ほぼ同時だった。派手な水飛沫と鈍い音。水が全身を包む。
水底から這い上がってくる冷たさが一瞬で体温を奪い、腐った水の匂いが鼻を突いた。
夜よりも深い闇の中、渦巻く枯れ葉が何度も頬を掠める。上も下も、生と死の境界さえも分からなくなるほどの昏い濁流だった。
恐怖よりも先に浮かんだのは、奇妙な静けさだった。溺れているのに、頭の中は落ち着いている。微かに目が慣れた瞬間――ぐいっ、と強烈な力で左手を引かれた。
(っ、これ……まさかあの時の……っ!)
人の手じゃない。
細い何かが手首に巻き付いている。右手を握る太輔から目を逸らして振り返ると、そこには赤い紐が何重にも螺旋を描くようにきつく食い込んでいた。
その奥の黒い濁流の深みに、蛇神の目だけが紅く光って、俺を見つめている。
まばたきひとつしない目だった。憎しみとも、渇望ともつかない何かを湛えて、ただひたすら俺だけを見ていた。濁流の中でさえ、その視線は揺れていない。
怨念を孕んだその双眸は、一点の曇りなく俺を捉え、逃さないと言わんばかりに紐を底へと引きずり込んでいく。手首が引っ張られるたびに、右手を握る太輔の指が遠ざかる気がした。
(太輔、離せ! このままじゃお前まで――)
死の道連れを求める力。太輔もろとも沈んでしまう。
恐怖に震える俺の右手には、力強い太輔の指があった。あいつは死ぬかもしれないと分かっていて、それでも絶対に離さなかった。
もがくほどに靴が脱げ落ち、水を含んだジャージが重く纏わりつく。
必死に抗う俺の左手。呪いの紐が食い込むその場所に、太輔が自分の右手を重ねた、その瞬間。あいつの手から、あの夢で感じた陽だまりのような熱が爆ぜた。
肉を断つ勢いだった赤い紐が、水の中だというのに炎に焼かれる花のようにみるみる黒ずみ、ぼろぼろと崩れ落ちていく。
自由になった俺の体を、太輔が力任せに抱き寄せた。骨がきしむほどの強さで、本当だったら殴ってやりたいくらい苦しい。
太輔が前世の記憶を覚えているのかは分からないけれど、胸から伝わる激しい鼓動が、雄弁に物語っていた。たとえ百年という歳月が流れても、こいつの「守りたい」という意志は、少しも削り取られてなどいないのだと。その切実な祈りが、肌を通じて俺の心へ直接流れ込んでくる。
俺も、もう迷わない。俺を光へ引きずり戻そうとするこの手を、この温もりを、今度こそ絶対に離さない。
冥い水に呑まれながら、魂がずっと求めていたこの背中に、しがみつくように腕を回した。



