神社からの帰り、俺と太輔はのろのろとお互いに自分のつま先を見るようにして農道を歩いていた。
「なぁ、太輔。榊が言った『無償の愛』が、悪霊への慈悲……みたいなものだとしたら。心を込めて弔えば、あいつ、満足して消えてくれたりしねぇかな」
「……弔うって、どうやって」
「それは……花を供えるとか。好きそうなお供え物を用意するとか」
「そんなの、影の正体がわからないとやりようがないだろ。正体も、目的も知らないのに、何を供えろって言うんだよ。それとも片っ端から試すつもりか?」
言葉が途切れると、田んぼの向こうから風が渡ってくる音だけが続く。夏草の匂いと、水を張った田んぼの泥の匂いが混ざり合って、むわりと体に纏わりついてくる。
奥に入道雲が見えた。ビニールハウスの横にある防風林は、大きく太い三本指のように空へ向かって伸びていて、風を受けるたびに、これでもかと生い茂った濃い緑の葉をわさわさと揺らしていた。
「……それは」
「そもそも、自分を二回も怪我させるような奴に、花なんて供える気になれるかよ。俺は、そんなワケわかんないやつにまで、そこまで優しくなれねーよ」
太輔の声は、怒っているというより疲れていた。投げやりでもなく、諦めているわけでもなくて——ただ、限界まで考え続けた時の声だった。
「……じゃあ、どうすればいいんだよ。お祓いもダメ、弔うのもダメ。このままじゃ、いくら蛇神が太輔のことだけは守るとしても、誰かが怪我をし続けるだろうし、俺も……」
自分が、自分でなくなってしまう。
喉元までせり上がったその言葉を、俺は必死に押し殺した。農道の端、用水路を流れる低いせせらぎだけが、静かに響いている。
今日、筒井先輩に問いかけられた時もそうだった。
太輔と夏祭りに行ったことを、俺は本気で忘れていた。あの花火を、並んで見上げたことも。すべての始まりだった、あの夜の出来事さえ。
契約の代償として、太輔との記憶が欠片となって削り取られていく。その空白が増えるたびに、自分が感情任せにとんでもない契約をしてしまったことに気付かされる。
いつか、太輔の顔さえ思い出せなくなる日が来るかもしれない。それだけは、死んでも本人には言えなかった。
もし知れば、こいつは自分を犠牲にしてでも契約を止めようとするだろう。
「弔うなんて、聞こえはいいけどさ……。結局、あいつを追い払うための手段だろ。それのどこが『無償の愛』なんだよ」
太輔の言葉が、俺の胸を突いた。そんなこと言ったら元も子もない。振り出しに戻ってしまう。何もできないまま、毎日誰かが怪我をするのを、また黙って見ていることになる。
その歯がゆさと、全てを投げ出すような太輔の諦め方に、俺は気づけば強い口調になっていた。
「俺は、これ以上周りの人に怪我をしてほしくないだけだ。もしかしたら、今よりもっと酷いことだって起きるかもしれないだろ。それなのに、何もしないわけには……」
「だから、それが無謀だって言ってんだよ! 光希。お前、なに突然一人で勝手に抱え込んで、格好つけようとしてんだよ」
太輔の声が割れた。怒鳴っているのに、怒りじゃない何かが混じっている。
俺はその声を正面から受け止めながら、喉の奥が締め付けられるような感覚を堪えていた。
(……記憶が削れても、俺の全部を差し出してでも。そのアホ面で笑ってて欲しいだけなのに)
口にすれば二度と取り返せないその言葉を、唾液と一緒に飲み込む。
言ってしまえばすべてが変わる。けれど言えないから、俺は止まった時間の中で一人足掻き続けるしかない。
太輔からしてみれば、ただのお節介な幼馴染が、独り善がりを気取っているように映っているのだろう。その認識の差が、俺たちの間に分厚い透明な壁となって立ちはだかっている。
「……俺は一人でもどうにかする。やっぱり、守ってもらうだけじゃなくて、根本が無くならなきゃダメだ。この先もずっと毎朝、お前とキス出来るわけじゃねぇし」
いつか、俺はここを出て行くから。
出て行かなかったとしても、二人で数十年もキスし続ける未来なんて考えられない。考えようとすると、頭の中がざわざわして、うまく像を結ばない。
太輔もそれは分かっているから、頭をがしがしと掻いて焦ったように言った。
「……そんなこと言わせたかったんじゃない。お前が俺を心配してくれてんのは分かってるよ。分かってるけど……お前一人でどうにか全部解決しようとするのが、腹立つんだよ」
太輔は足を止めて、一歩前を行く俺の肩を引いた。農道の真ん中で、二人分の足音が止まる。用水路の水音だけが、変わらず続いていた。
「俺たち、十六年も一緒にいんだぞ。お前ひとりで突っ走るなって。焦らずに、一緒に考えて行こうって言ってんだよ。どうしたらいいのかは、ぶっちゃけ何も分かんねえ。でも、お前が一人で苦しむのは、なんつーか……すげぇ嫌なんだよ」
飾らない言葉だった。
普段はお調子者で、目立ちたがり屋の太輔が、それを全部かなぐり捨てたみたいにそんなことを言うのは、初めてな気がした。
俺はまた唾を飲み込むだけで、返す言葉が出てこなかった。
太輔は恥ずかしそうに手をポケットに突っ込んで、真っ直ぐに笑って言った。
「だから、一人で抱え込むな。お前の横には俺がいるだろ。もはや呪いレベルの腐れ縁をナメんなよ」
「別に舐めてねーよ。先に思考放棄したのはお前だろ、バカ太輔」
「おう。俺、馬鹿だもん」
そう言って、また屈託なく笑うから、眩しかった。
夏の雲の隙間から差し込む光ほどじりじりしていないのに、太輔にはなぜか薄暗さを全部吹き飛ばすような、からりとした明るさがある。
昔からそうだ。俺が暗い方へ暗い方へと考えている時、太輔は気づかないふりをしながら、ちゃんと気づいて、黙ってそこに居てくれる。
(太輔……やっぱり俺、お前のこと嫌いだわ)
優しくされるたびに悪口で誤魔化して、素直に「ありがとう」と言えないことも。
その優しさを当たり前みたいに受け取り続けてきた自分のことも。
そして、そんな俺にまだ「一緒に考えよう」と言ってくる太輔のことも。全部ひっくるめて、嫌いだった。
嫌いという言葉でしか、この感情を処理できない自分は、太輔を越える大馬鹿野郎だ。
(こんなに優しくされたら、余計に離れられなくなる……)
俺は、こいつに頼ってばかりの自分が嫌で。
でも、頼ることをやめられなくて、だからこそこの町を離れるなんて極端な形でしか距離を取れないから、そう言ったのに。
用水路の縁を歩く太輔の、ガキの頃より広くなった逞しい背中。
Tシャツの生地が肩甲骨の動きに合わせて引っ張られて、歩くたびに形が変わる。
こんなに大きくなったのに、歩き方だけは昔と同じだった。少しだけ外股で、右肩がちょっとだけ前に出る。
「おい、光希。なにしてんだよ、行こうぜ」
あぁ、そうだよな。
こいつ、俺を置いて行くなんてことは、今までの人生で一度だってしなかった。
子供の頃、夏の終わりの庭で太輔と見つめた、線香花火の最後の赤い玉。
じりじりと熱を持ち、震えながら、今にも落ちそうで、けれど必死に縋り付いて落ちない。落ちたくなくて、消えたくなくて、周囲の空気を震わせながら、それでも重力には抗えずに――ただ、その瞬間が来るまで、燃え続けている。
俺の中にある、名前を付けることさえ躊躇われるこの気持ちも、きっと同じだ。
とうに限界を超えているのに、ずっと前から、痛いくらいに赤く灯り続けている。
「なぁ、途中で爆弾焼き食ってから帰りたい」
「出た、光希のワガママ。……まぁ、俺も腹減ったし。食ってから帰るか」
太輔はいつものように呆れた顔をしながらも、「あ、でも金欠かも」と独り言を漏らし、小銭の詰まったメッシュのポーチを覗き込んだ。
ジャラジャラと鳴る硬貨の音。その枚数を確認する真剣な横顔を見れば、当たり前のように、俺の分まで支払うつもりなのが分かってしまう。
気づかないふりをしていただけだ。あの日から、あるいはもっとずっと前から。
この胸の火が消えたことなんて、ただの一度もなかったんだ。
「なぁ、太輔。榊が言った『無償の愛』が、悪霊への慈悲……みたいなものだとしたら。心を込めて弔えば、あいつ、満足して消えてくれたりしねぇかな」
「……弔うって、どうやって」
「それは……花を供えるとか。好きそうなお供え物を用意するとか」
「そんなの、影の正体がわからないとやりようがないだろ。正体も、目的も知らないのに、何を供えろって言うんだよ。それとも片っ端から試すつもりか?」
言葉が途切れると、田んぼの向こうから風が渡ってくる音だけが続く。夏草の匂いと、水を張った田んぼの泥の匂いが混ざり合って、むわりと体に纏わりついてくる。
奥に入道雲が見えた。ビニールハウスの横にある防風林は、大きく太い三本指のように空へ向かって伸びていて、風を受けるたびに、これでもかと生い茂った濃い緑の葉をわさわさと揺らしていた。
「……それは」
「そもそも、自分を二回も怪我させるような奴に、花なんて供える気になれるかよ。俺は、そんなワケわかんないやつにまで、そこまで優しくなれねーよ」
太輔の声は、怒っているというより疲れていた。投げやりでもなく、諦めているわけでもなくて——ただ、限界まで考え続けた時の声だった。
「……じゃあ、どうすればいいんだよ。お祓いもダメ、弔うのもダメ。このままじゃ、いくら蛇神が太輔のことだけは守るとしても、誰かが怪我をし続けるだろうし、俺も……」
自分が、自分でなくなってしまう。
喉元までせり上がったその言葉を、俺は必死に押し殺した。農道の端、用水路を流れる低いせせらぎだけが、静かに響いている。
今日、筒井先輩に問いかけられた時もそうだった。
太輔と夏祭りに行ったことを、俺は本気で忘れていた。あの花火を、並んで見上げたことも。すべての始まりだった、あの夜の出来事さえ。
契約の代償として、太輔との記憶が欠片となって削り取られていく。その空白が増えるたびに、自分が感情任せにとんでもない契約をしてしまったことに気付かされる。
いつか、太輔の顔さえ思い出せなくなる日が来るかもしれない。それだけは、死んでも本人には言えなかった。
もし知れば、こいつは自分を犠牲にしてでも契約を止めようとするだろう。
「弔うなんて、聞こえはいいけどさ……。結局、あいつを追い払うための手段だろ。それのどこが『無償の愛』なんだよ」
太輔の言葉が、俺の胸を突いた。そんなこと言ったら元も子もない。振り出しに戻ってしまう。何もできないまま、毎日誰かが怪我をするのを、また黙って見ていることになる。
その歯がゆさと、全てを投げ出すような太輔の諦め方に、俺は気づけば強い口調になっていた。
「俺は、これ以上周りの人に怪我をしてほしくないだけだ。もしかしたら、今よりもっと酷いことだって起きるかもしれないだろ。それなのに、何もしないわけには……」
「だから、それが無謀だって言ってんだよ! 光希。お前、なに突然一人で勝手に抱え込んで、格好つけようとしてんだよ」
太輔の声が割れた。怒鳴っているのに、怒りじゃない何かが混じっている。
俺はその声を正面から受け止めながら、喉の奥が締め付けられるような感覚を堪えていた。
(……記憶が削れても、俺の全部を差し出してでも。そのアホ面で笑ってて欲しいだけなのに)
口にすれば二度と取り返せないその言葉を、唾液と一緒に飲み込む。
言ってしまえばすべてが変わる。けれど言えないから、俺は止まった時間の中で一人足掻き続けるしかない。
太輔からしてみれば、ただのお節介な幼馴染が、独り善がりを気取っているように映っているのだろう。その認識の差が、俺たちの間に分厚い透明な壁となって立ちはだかっている。
「……俺は一人でもどうにかする。やっぱり、守ってもらうだけじゃなくて、根本が無くならなきゃダメだ。この先もずっと毎朝、お前とキス出来るわけじゃねぇし」
いつか、俺はここを出て行くから。
出て行かなかったとしても、二人で数十年もキスし続ける未来なんて考えられない。考えようとすると、頭の中がざわざわして、うまく像を結ばない。
太輔もそれは分かっているから、頭をがしがしと掻いて焦ったように言った。
「……そんなこと言わせたかったんじゃない。お前が俺を心配してくれてんのは分かってるよ。分かってるけど……お前一人でどうにか全部解決しようとするのが、腹立つんだよ」
太輔は足を止めて、一歩前を行く俺の肩を引いた。農道の真ん中で、二人分の足音が止まる。用水路の水音だけが、変わらず続いていた。
「俺たち、十六年も一緒にいんだぞ。お前ひとりで突っ走るなって。焦らずに、一緒に考えて行こうって言ってんだよ。どうしたらいいのかは、ぶっちゃけ何も分かんねえ。でも、お前が一人で苦しむのは、なんつーか……すげぇ嫌なんだよ」
飾らない言葉だった。
普段はお調子者で、目立ちたがり屋の太輔が、それを全部かなぐり捨てたみたいにそんなことを言うのは、初めてな気がした。
俺はまた唾を飲み込むだけで、返す言葉が出てこなかった。
太輔は恥ずかしそうに手をポケットに突っ込んで、真っ直ぐに笑って言った。
「だから、一人で抱え込むな。お前の横には俺がいるだろ。もはや呪いレベルの腐れ縁をナメんなよ」
「別に舐めてねーよ。先に思考放棄したのはお前だろ、バカ太輔」
「おう。俺、馬鹿だもん」
そう言って、また屈託なく笑うから、眩しかった。
夏の雲の隙間から差し込む光ほどじりじりしていないのに、太輔にはなぜか薄暗さを全部吹き飛ばすような、からりとした明るさがある。
昔からそうだ。俺が暗い方へ暗い方へと考えている時、太輔は気づかないふりをしながら、ちゃんと気づいて、黙ってそこに居てくれる。
(太輔……やっぱり俺、お前のこと嫌いだわ)
優しくされるたびに悪口で誤魔化して、素直に「ありがとう」と言えないことも。
その優しさを当たり前みたいに受け取り続けてきた自分のことも。
そして、そんな俺にまだ「一緒に考えよう」と言ってくる太輔のことも。全部ひっくるめて、嫌いだった。
嫌いという言葉でしか、この感情を処理できない自分は、太輔を越える大馬鹿野郎だ。
(こんなに優しくされたら、余計に離れられなくなる……)
俺は、こいつに頼ってばかりの自分が嫌で。
でも、頼ることをやめられなくて、だからこそこの町を離れるなんて極端な形でしか距離を取れないから、そう言ったのに。
用水路の縁を歩く太輔の、ガキの頃より広くなった逞しい背中。
Tシャツの生地が肩甲骨の動きに合わせて引っ張られて、歩くたびに形が変わる。
こんなに大きくなったのに、歩き方だけは昔と同じだった。少しだけ外股で、右肩がちょっとだけ前に出る。
「おい、光希。なにしてんだよ、行こうぜ」
あぁ、そうだよな。
こいつ、俺を置いて行くなんてことは、今までの人生で一度だってしなかった。
子供の頃、夏の終わりの庭で太輔と見つめた、線香花火の最後の赤い玉。
じりじりと熱を持ち、震えながら、今にも落ちそうで、けれど必死に縋り付いて落ちない。落ちたくなくて、消えたくなくて、周囲の空気を震わせながら、それでも重力には抗えずに――ただ、その瞬間が来るまで、燃え続けている。
俺の中にある、名前を付けることさえ躊躇われるこの気持ちも、きっと同じだ。
とうに限界を超えているのに、ずっと前から、痛いくらいに赤く灯り続けている。
「なぁ、途中で爆弾焼き食ってから帰りたい」
「出た、光希のワガママ。……まぁ、俺も腹減ったし。食ってから帰るか」
太輔はいつものように呆れた顔をしながらも、「あ、でも金欠かも」と独り言を漏らし、小銭の詰まったメッシュのポーチを覗き込んだ。
ジャラジャラと鳴る硬貨の音。その枚数を確認する真剣な横顔を見れば、当たり前のように、俺の分まで支払うつもりなのが分かってしまう。
気づかないふりをしていただけだ。あの日から、あるいはもっとずっと前から。
この胸の火が消えたことなんて、ただの一度もなかったんだ。



