【side:嶋田光希】
気づけば、見知らぬ場所に立っていた。
季節は夏のはずなのに、辺りには場違いな新緑と桜の木が広がっていて、花びらがいくつも舞っている。それらが頬を掠めるたび、甘く切ない香りが鼻をくすぐった。どこかおかしい。現実の時間軸から、決定的にずれている。
(……何だここ。来たことなんて、無いはずなのに……)
広大な池が広がる庭園だった。手入れされた木々が池を囲み、その全てを水面が鏡のように映し出している。池のほとりには、大きな飛び石が点々と並んでいるけれど、その先がどこへ繋がっているのか、俺には分からない。
透き通った水の中を、巨大な錦鯉が緩やかに泳いでいく。赤、白、金。鮮やかな色彩が交差しては、細い波紋を幾重にも立てながら消えていった。
対岸には苔むした岩が横たわり、石灯籠が静かに佇んでいる。池の端には、緩やかな弧を描く小さな反り橋が架けられていた。どこからともなく流れてくるのは、水琴窟の音だ。
ひた、ひた、と地の底を叩くような細く澄んだ水音。その透明な余韻をなぞるように、等間隔に鹿威しの硬い音が響いていた。
これは、きっと夢のはずだ。そうでなければ説明がつかない。けれど足の裏に伝わる地面の硬さと、肌にまとわりつく空気の重みは現実味を帯びていた。
「おいで、■■■」
声が、背後から親しげな声が降ってきた。誰かを急かすでもなく、命じるでもなく。大切なものに呼びかけるような、柔らかくて低い声。その声を聞いた瞬間、胸の奥の何かがほんの少しだけ緩んだけれど、理由は分からなかった。
振り返った先には、若い男が立っていた。コートのような黒い二重まわしを羽織っていて、重そうだけれどその人の体に沿うように自然に落ちている。
どこかで、この顔を見たことがある。そう思った瞬間、勝手に口が動いた。
「……旦那様。てっきり、来て下さらないのかと……」
「約束したんだ、そんなはずがないだろう。……けれど、こんなことになってしまって御免ね」
その声は穏やかだった。けれど、表情には悲しみと――本当に愛おしいものを前にした時の、静かな熱のようなものが同時に宿っていた。複雑な二つの感情が、この人の顔の中では矛盾なく同居している。
「じゃあ、始めようか。これ以上先延ばしにして、屋敷の者たちに見つかると面倒だ」
男は俺の手首を取り、赤い細紐を丁寧に巻き始めた。それから自分の手首も静かに添え、隙間なくくっつけ合わせるようにして、紐を幾重にも巻き結んでいく。
急いではいなかった。乱暴でも強引でもなかった。まるで始めからそうすることが決まっていたかのように、練習を繰り返してきたかのように、その動作には微塵の迷いもなかった。
意味が分からないのに、どうしても抵抗する気になれない。手首に食い込んでいく赤い紐の感触を、俺はただ黙って受け入れている。
……いや、それを見つめているのは「俺」じゃない。この白く細い手首も、爪の間に土が残る荒れた指先も、俺のものではなかった。
やがて、男が俯けていた顔をゆっくりと上げると、視線が真っ向からぶつかった。
「……緊張しているのかい?」
その問いに、俺の喉が勝手に震えた。自分の意識を強引に押し退けて、魂の奥底に眠っていた「誰か」の言葉が、切実な熱を持ってせり上がってくる。
「左様かもしれません。ですが、決して厭わしいのではございません。こうして旦那様と永久に添い遂げられるのだと思うと、悦びで胸が塞がるようで……」
「あぁ、そうか。……ならよかった。その心持ちは、私も同じだよ。愛する人の願いは、私が叶えてあげたい」
目の前の男は、あの蛇神に恐ろしいほど顔立ちがよく似ていた。
けれど、その瞳は赤くない。白い糸が束になったようだった髪は、黒々としている。そして何より、あの禍々しさがない。
池の水面が、風とともにわずかに波立った。鮮やかな新緑の影がゆらりと歪んでは、また鏡のような静寂に戻っていく。鹿威しが再び乾いた音を立て、庭園の風に吸い込まれて消えた。
「これで、私達は離れない。もう二度とね」
池の面に、桜の花びらが集まって白い島を作っていた。また、ひとひらがそっと水面を滑って止まる。夢の中の時間は、現実よりずっとゆっくり流れているように思えた。
「旦那様……。死ぬる間際というものは、やはり、それほどまでに苦しいものなのでございましょうか」
「……溺れ死ぬまで苦しいのは、せいぜい二分というところだろう。意識を失ってしまえば、それ以上の苦しみなどよもや感じはせぬはずだよ」
彼は紐を結び終えると、唇を重ねてきた。けれどその口付けは、愛おしさからくるというよりは、どこか諦めを含んだ全てを終わらせる前のひとつの儀式のようだった。
彼の頬に、一筋の涙が流れている。口付けに対して、不思議と抵抗感はなかった。心中することが最初から決まっていたような、ずっと前から知っていたような感覚がして、俺はただその温度を受け取っていた。
「んっ……は、っ……」
唇が触れている一点だけが温かくて、それ以外の全てが夢の中の出来事みたいに遠かった。水琴窟の音だけが、ひたひたと続いている。この夢の中の「俺」が、心地よいものとして記憶しているようで――不意に唇が離れた。
彼は俯いたまま、俺の鎖骨の間に顔を寄せてくる。唇が着物の隙間から覗く肌に触れて、小さな熱がそこに灯る。自分のものだと印を残したいらしい。
それから彼は顔を上げないまま、俺の身体を抱き寄せた。黒い二重回しの生地が頬に触れて、その下に彼の心臓の音が聞こえた。速くて、乱れていて、この人も怖いのかもしれない。そう思いながらも、彼の足は止まらなかった。俺の足も、止まらなかった。
「身分にも、性別にも制約されない。何ものにも生まれ変わらない。私と君は、ふたりで永久になるんだ」
その言葉を最後に俺は彼に抱きかかえられ、身体の重みに引きずられるようにして池に落ちた。
水が全身を包んだ瞬間。水琴窟も鹿威しも、桜の散る気配も、全ての音が遮断された。水底の冷たさが指先から腕へ、腕から胸へ芯まで満ちていく。
(っ、苦しい……息が……息が出来ない!)
さっきまでの心に反して、身体は必死でもがいていた。肺が空気を求めて収縮する。けれど、手首に食い込んだ赤い紐はほどけない。
水の中で、彼の輪郭が揺れていた。二重回しが広がって、墨が溶けるようにゆっくりと揺れている。彼は目を閉じていて、もう意識がないのだと思った。
眠っているような、静かな表情。苦しみの中にひとり取り残された俺の胸を、恐怖だけが締めつける。
(旦那様……旦那様……!)
水底へ届くわずか数寸手前で、手首に残っていた紐がほどけた。繋いでいた手首から、掌が離れる。俺は重い水を必死に掻いた。意識が白濁していくなかで、生存本能だけが身体を上へと突き動かす。
圧倒的な青が揺らめいていた。透過する水の色か、遥か彼方の空の色か判別がつかない。ただ、天から降り注ぐ光の柱が、ゆらゆらと揺れている。
視線を落とせば――深い紺碧の底へ、彼が沈んでいく。
漆黒の二重まわしが、大輪の黒い花のように一度だけ大きく広がったのを最後に、彼は池の底へと溶けるように消えた。
重力に逆らう泡とともに、身体が光の爆ぜる水面を目指す。まぶたを押し上げた瞬間、眩い太陽の光と二つの掌が視界に飛び込んできた。
「おい、しっかりしやがれ……っ! 息をしろ!」
池の縁へと両腕を引き摺られ、身体が引き上げられる。
ずぶ濡れの身体で肩を激しく上下させながら、俺はただ自分の手首を見つめていた。旦那様が最後に結んだ赤い紐が緩く絡んで残っている。水滴がいつまでも滴り続けて、手の甲に落ちていく。
永遠を誓い、一蓮托生を約束した彼をあの暗い底にひとり残したまま、自分が生き延びてしまった事実だけが、胸の中を静かに満たしていく。
「その紐……お前、まさか……」
両肩を強く掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。背後から差す強烈な逆光に、思わず目を細めた。顔の造作は仄暗い影に沈んでいる。けれど、真っ直ぐに俺を射抜く瞳の光だけは、見紛うはずがなかった。――太輔だ。
名前を呼ぶより早く、魂がその存在を確信していた。あんなにも親しげに笑っていたはずの幼馴染が、怒りに震える目で俺を見下ろしている。なんで、どうしてお前がここにいるんだ。
死に損なった俺の前に、招かれざる「光」が無理やり割り込んできたようだった。
瞬きをひとつした瞬間、風景が剥がれ落ちる。目の前にあったはずの光り輝く庭園は消え、代わりに現れたのは、行灯の頼りない火に照らされた古びた仏間の天井だった。
(なんで……なんで俺、こんなところに……?)
顔を横へ向けると、薄い綿布団とくくり枕の上に、自分が横たわっているのが分かった。
部屋の奥に、煤けた黒塗りの巨大な仏壇がある。その中では、たった一本の線香が、細く頼りない灰色の糸を天井へとのぼらせていた。その煙が行灯の光をかすかに揺らしながら、空気にゆっくりと溶けていく。
ぐるりと部屋を取り囲む長押の上には、幾枚もの遺影が並んでいる。額縁の中の人々は、刷り込みが薄れたようにどれも顔立ちが酷く曖昧だ。
ふと、襖の向こう側から、くぐもった声が忍び込んできた。
「若旦那様がお亡くなりになって半年だというのに……心中しそこなった恥さらしが、いつまで我が物顔でこの家に居座るつもりなのかしら」
「……あいつが泣いて縋ったんだろう? あのお方も、こんな下男に毒されさえしなければ、今頃は立派な官吏として名を馳せておられただろうな」
「まあ……自業自得ですわね。あの部屋で死んだあとは、庭師の男にでも担がせて、寺の前に投げ捨てておくよう、奥様が申し付けておいででしたわ」
男女の声が、向こうへ遠ざかっていく。仏壇の中央にある小さな写真立てへ視線を移すと、そこには、焦げ茶の縁取りがなされた写真が収められていた。色褪せた白黒写真の中で、あの蛇神と同じ顔をした男が凛とした眼差しでこちらを見据えている。その瞳と目が合った瞬間、思考を介さず、喉の奥から声が漏れた。
「旦那様……今日も斯様に浅ましく生き永らえてしまい、面目次第もございません」
冷静にこの夢の中の「俺」が口にする言葉を、感覚を共有したまま、どこか俯瞰するように見つめている自分がいる。
季節は巡り、死に損ねた俺は――旦那様の家族とかつて暮らした屋敷の仏間で、線香の煙に巻かれながら、一日中寝起きをしているらしかった。
「うっ……うぅ、あぁっ……」
堰を切ったように両目から涙が溢れ出す。猛烈な後悔と罪悪感が、暗い津波となって心を飲み込んでいく。一緒に死ぬと約束した。それなのに、あの冷たい水底で俺は彼の手を振りほどき、浅ましくも生を求めて浮上してしまった。
愛していた。心から愛していたはずなのに。俺は自分だけを救うために、あの人を永遠の孤独に沈めた。
かつて「旦那様」と呼んで縋った人は、いまは冷たい硝子の向こう側、遺影の中に閉じ込められている。
五臓六腑を締め上げるような自己嫌悪が、肺の奥を焼く。自分という存在を、根底から否定したくなるほどの絶望だった。自分の意志に関係なく、祈りとも呪いともつかない激情が、滝に打たれるような勢いで溢れ出す。
ふと、視界が滲むなかで、先程とは反対の襖が勢いよく音を立てて開く音がした。逆光とともに、夏の暴力的な熱気が仏間になだれ込んでくる。
「おい、入るぞ」
大きな体躯の男。紺の股引に、汗を吸って色濃くなった腹掛け。泥にまみれた地下足袋で、畳の汚れなど一顧だにせず、土足のまま仏間から繋がる縁側の境目に、どかりと腰を下ろす。
――太輔だ。
全身から立ち昇る土の匂いと、荒々しい生の熱気。それは線香の香りに満ちたこの場所には、あまりにも不釣り合いで、場違いな力強さだった。
男は腰に下げた剪定鋏をガチャリと鳴らし、俺を見下ろす。
「この前も言っただろ。俺がお屋敷で仕事してる間くらいはこの襖を開けておけ。手のひらだけでもいい、お天道様を浴びねぇと、体の中に黴が生えて寝たきりのままになっちまうぞ」
口調こそ荒っぽいが、その声の響きは聞き慣れたあいつのものだ。
開け放たれた襖の先には、手入れの行き届いた庭園が広がっていた。飛び石の周囲には、燃え上がるような赤と白の彼岸花が群生している。
呆然としたまま、半身を起こすことすらできない俺をじっと見つめ、男は腕で額の汗を拭った。それから、縁側に置かれた竹皮の包みから握り飯をひとつ掴むと、膝をついて俺の枕元へとずいっと差し出した。
「ほら、食うか。どうせまた、残飯しか出されてないんだろ?」
指の隙間にこびりついた泥。握り飯に微かに移った土の匂い。俺はふるふると弱々しく首を振った。
男は不服そうに眉を寄せると、「強情だな」と吐き捨てるように言って立ち上がり、腰に手を当てて秋風に揺れる庭の彼岸花を見下ろした。
その背中越しに差し込む陽光が眩しくて、思わずその逞しい輪郭をなぞるように目を細める。
「……ほら、やるよ。少しくらい手折ってもバレないだろ、これだけあれば」
そう言って男は赤い彼岸花を一本手折り、俺の枕元にそっと置いた。俯いたまま、ゆっくりと手に取り、じっと見つめる。綺麗だとか、こんなにも赤いのかという感想は確かに浮かんだ。それなのに、なぜか心は動かないままだった。
「赤い彼岸花はな、毎年同じ時期に咲くから『また会う日を楽しみに』って花言葉があるんだ」
男は何気なく言った。けれどそのたった一言で、俺が心中に失敗した今でも旦那様に心を取り残され続けていることを、ちゃんと知っているということが静かに伝わってきた。
ありがとうも言えない。どうしてこんなことをするのか、どうして自分なんかに構うのか。そんな問いが、水底の砂が舞い上がって濁りを作るようにふわりと現れては、流れに身を任せて消えていく。
さっきからだんまりを決め込んで俯く俺に、男はさらに言葉を継いだ。
「……あんたの心に誰がいようと構わねぇ。俺は、あんたがこの庭の風に吹かれて、明日も息をしてりゃ、それでいいんだ」
そう言って男は、庭の隅に咲いていた白い彼岸花を一本摘み、赤い花の隣にそっと並べた。それから竹の皮をくしゃくしゃと丸め、紐でゆるく縛る。
そのまま剪定鋏を手に取り、太い枝の前に立つと、俺に声をかけるでも、振り返るでもなく、黙って庭の手入れを始めた。
旦那様を失い、残された針のむしろのようなこの屋敷の中で、男がくれる優しさは、いったいどこから来るのだろう。……きっと、俺を慕っているから。守りたいと思っているから。そうであれば、なおさら、受け取り方がわからなかった。
(旦那様をこんな風にした俺が、幸せになって良いわけがない)
そう自分を律しているはずなのに。
鋏が枝を断つ無骨な音や、男の大きな身体から漂ってくる陽だまりのような匂いに、どうしようもなく胸の奥が騒ぐのを止められない。死を願う俺の冷え切った指先に、この男が強引に分け与えた熱だけが、いつまでも消えずに残っている。
この男の隣にいたい。この匂いを、もっと知っていたい。
必死に圧し込んでいる本音は、旦那様への愛を裏切るような、猛烈な愛と生への渇望だった。
――チリン。
不意に、縁側に吊るされたままの風鈴が、呼びかけるように鳴った。そして、ためらうようにもう一度。吸い寄せられるように遺影へ視線を戻したその瞬間、息が止まった。
遺影の中の彼の頬を、一筋の滴が伝っている。それはやがて遺影の枠を越え、溢れんばかりの水となって仏壇から畳へとこぼれ落ち始めた。
最初はほんの一点だった染みが、じわり、じわりと広がって、畳の目に沿って滲み、縁を消しながら仏間の畳をゆっくりと塗り替えていく。
布団に横たわる俺の襦袢から、じんと骨まで染み込んでくるような冷たさは、あの日の池の底を思わせた。
太輔の居た方を振り返った時、その姿はもうそこにはなかった。
縁側の向こうは、晴れやかな青空。なのに俺のいる仏間だけは、全ての扉を閉じ切ったように暗く、薄水色の光がひとすじ、畳の上に細く落ちているだけだ。その光の境界線は、縁側との間でくっきりと割れていて、俺はその境の手前に、ただどうすることも出来ずに居る。水はいつの間にか、布団の上の彼岸花を濡らしていた。
顔を上げると、天井の節目から、ぽつ、ぽつ、と滴が落ち始めている。遺影の涙が、この部屋ごと泣いているみたいだった。あまりにも悲しい、恋と怪異の夢。主人の怨念に心身を苛まれ続け、安らぎを求めることさえ許されない、地獄のような日々。それが、俺の前世だった。
気づけば、見知らぬ場所に立っていた。
季節は夏のはずなのに、辺りには場違いな新緑と桜の木が広がっていて、花びらがいくつも舞っている。それらが頬を掠めるたび、甘く切ない香りが鼻をくすぐった。どこかおかしい。現実の時間軸から、決定的にずれている。
(……何だここ。来たことなんて、無いはずなのに……)
広大な池が広がる庭園だった。手入れされた木々が池を囲み、その全てを水面が鏡のように映し出している。池のほとりには、大きな飛び石が点々と並んでいるけれど、その先がどこへ繋がっているのか、俺には分からない。
透き通った水の中を、巨大な錦鯉が緩やかに泳いでいく。赤、白、金。鮮やかな色彩が交差しては、細い波紋を幾重にも立てながら消えていった。
対岸には苔むした岩が横たわり、石灯籠が静かに佇んでいる。池の端には、緩やかな弧を描く小さな反り橋が架けられていた。どこからともなく流れてくるのは、水琴窟の音だ。
ひた、ひた、と地の底を叩くような細く澄んだ水音。その透明な余韻をなぞるように、等間隔に鹿威しの硬い音が響いていた。
これは、きっと夢のはずだ。そうでなければ説明がつかない。けれど足の裏に伝わる地面の硬さと、肌にまとわりつく空気の重みは現実味を帯びていた。
「おいで、■■■」
声が、背後から親しげな声が降ってきた。誰かを急かすでもなく、命じるでもなく。大切なものに呼びかけるような、柔らかくて低い声。その声を聞いた瞬間、胸の奥の何かがほんの少しだけ緩んだけれど、理由は分からなかった。
振り返った先には、若い男が立っていた。コートのような黒い二重まわしを羽織っていて、重そうだけれどその人の体に沿うように自然に落ちている。
どこかで、この顔を見たことがある。そう思った瞬間、勝手に口が動いた。
「……旦那様。てっきり、来て下さらないのかと……」
「約束したんだ、そんなはずがないだろう。……けれど、こんなことになってしまって御免ね」
その声は穏やかだった。けれど、表情には悲しみと――本当に愛おしいものを前にした時の、静かな熱のようなものが同時に宿っていた。複雑な二つの感情が、この人の顔の中では矛盾なく同居している。
「じゃあ、始めようか。これ以上先延ばしにして、屋敷の者たちに見つかると面倒だ」
男は俺の手首を取り、赤い細紐を丁寧に巻き始めた。それから自分の手首も静かに添え、隙間なくくっつけ合わせるようにして、紐を幾重にも巻き結んでいく。
急いではいなかった。乱暴でも強引でもなかった。まるで始めからそうすることが決まっていたかのように、練習を繰り返してきたかのように、その動作には微塵の迷いもなかった。
意味が分からないのに、どうしても抵抗する気になれない。手首に食い込んでいく赤い紐の感触を、俺はただ黙って受け入れている。
……いや、それを見つめているのは「俺」じゃない。この白く細い手首も、爪の間に土が残る荒れた指先も、俺のものではなかった。
やがて、男が俯けていた顔をゆっくりと上げると、視線が真っ向からぶつかった。
「……緊張しているのかい?」
その問いに、俺の喉が勝手に震えた。自分の意識を強引に押し退けて、魂の奥底に眠っていた「誰か」の言葉が、切実な熱を持ってせり上がってくる。
「左様かもしれません。ですが、決して厭わしいのではございません。こうして旦那様と永久に添い遂げられるのだと思うと、悦びで胸が塞がるようで……」
「あぁ、そうか。……ならよかった。その心持ちは、私も同じだよ。愛する人の願いは、私が叶えてあげたい」
目の前の男は、あの蛇神に恐ろしいほど顔立ちがよく似ていた。
けれど、その瞳は赤くない。白い糸が束になったようだった髪は、黒々としている。そして何より、あの禍々しさがない。
池の水面が、風とともにわずかに波立った。鮮やかな新緑の影がゆらりと歪んでは、また鏡のような静寂に戻っていく。鹿威しが再び乾いた音を立て、庭園の風に吸い込まれて消えた。
「これで、私達は離れない。もう二度とね」
池の面に、桜の花びらが集まって白い島を作っていた。また、ひとひらがそっと水面を滑って止まる。夢の中の時間は、現実よりずっとゆっくり流れているように思えた。
「旦那様……。死ぬる間際というものは、やはり、それほどまでに苦しいものなのでございましょうか」
「……溺れ死ぬまで苦しいのは、せいぜい二分というところだろう。意識を失ってしまえば、それ以上の苦しみなどよもや感じはせぬはずだよ」
彼は紐を結び終えると、唇を重ねてきた。けれどその口付けは、愛おしさからくるというよりは、どこか諦めを含んだ全てを終わらせる前のひとつの儀式のようだった。
彼の頬に、一筋の涙が流れている。口付けに対して、不思議と抵抗感はなかった。心中することが最初から決まっていたような、ずっと前から知っていたような感覚がして、俺はただその温度を受け取っていた。
「んっ……は、っ……」
唇が触れている一点だけが温かくて、それ以外の全てが夢の中の出来事みたいに遠かった。水琴窟の音だけが、ひたひたと続いている。この夢の中の「俺」が、心地よいものとして記憶しているようで――不意に唇が離れた。
彼は俯いたまま、俺の鎖骨の間に顔を寄せてくる。唇が着物の隙間から覗く肌に触れて、小さな熱がそこに灯る。自分のものだと印を残したいらしい。
それから彼は顔を上げないまま、俺の身体を抱き寄せた。黒い二重回しの生地が頬に触れて、その下に彼の心臓の音が聞こえた。速くて、乱れていて、この人も怖いのかもしれない。そう思いながらも、彼の足は止まらなかった。俺の足も、止まらなかった。
「身分にも、性別にも制約されない。何ものにも生まれ変わらない。私と君は、ふたりで永久になるんだ」
その言葉を最後に俺は彼に抱きかかえられ、身体の重みに引きずられるようにして池に落ちた。
水が全身を包んだ瞬間。水琴窟も鹿威しも、桜の散る気配も、全ての音が遮断された。水底の冷たさが指先から腕へ、腕から胸へ芯まで満ちていく。
(っ、苦しい……息が……息が出来ない!)
さっきまでの心に反して、身体は必死でもがいていた。肺が空気を求めて収縮する。けれど、手首に食い込んだ赤い紐はほどけない。
水の中で、彼の輪郭が揺れていた。二重回しが広がって、墨が溶けるようにゆっくりと揺れている。彼は目を閉じていて、もう意識がないのだと思った。
眠っているような、静かな表情。苦しみの中にひとり取り残された俺の胸を、恐怖だけが締めつける。
(旦那様……旦那様……!)
水底へ届くわずか数寸手前で、手首に残っていた紐がほどけた。繋いでいた手首から、掌が離れる。俺は重い水を必死に掻いた。意識が白濁していくなかで、生存本能だけが身体を上へと突き動かす。
圧倒的な青が揺らめいていた。透過する水の色か、遥か彼方の空の色か判別がつかない。ただ、天から降り注ぐ光の柱が、ゆらゆらと揺れている。
視線を落とせば――深い紺碧の底へ、彼が沈んでいく。
漆黒の二重まわしが、大輪の黒い花のように一度だけ大きく広がったのを最後に、彼は池の底へと溶けるように消えた。
重力に逆らう泡とともに、身体が光の爆ぜる水面を目指す。まぶたを押し上げた瞬間、眩い太陽の光と二つの掌が視界に飛び込んできた。
「おい、しっかりしやがれ……っ! 息をしろ!」
池の縁へと両腕を引き摺られ、身体が引き上げられる。
ずぶ濡れの身体で肩を激しく上下させながら、俺はただ自分の手首を見つめていた。旦那様が最後に結んだ赤い紐が緩く絡んで残っている。水滴がいつまでも滴り続けて、手の甲に落ちていく。
永遠を誓い、一蓮托生を約束した彼をあの暗い底にひとり残したまま、自分が生き延びてしまった事実だけが、胸の中を静かに満たしていく。
「その紐……お前、まさか……」
両肩を強く掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。背後から差す強烈な逆光に、思わず目を細めた。顔の造作は仄暗い影に沈んでいる。けれど、真っ直ぐに俺を射抜く瞳の光だけは、見紛うはずがなかった。――太輔だ。
名前を呼ぶより早く、魂がその存在を確信していた。あんなにも親しげに笑っていたはずの幼馴染が、怒りに震える目で俺を見下ろしている。なんで、どうしてお前がここにいるんだ。
死に損なった俺の前に、招かれざる「光」が無理やり割り込んできたようだった。
瞬きをひとつした瞬間、風景が剥がれ落ちる。目の前にあったはずの光り輝く庭園は消え、代わりに現れたのは、行灯の頼りない火に照らされた古びた仏間の天井だった。
(なんで……なんで俺、こんなところに……?)
顔を横へ向けると、薄い綿布団とくくり枕の上に、自分が横たわっているのが分かった。
部屋の奥に、煤けた黒塗りの巨大な仏壇がある。その中では、たった一本の線香が、細く頼りない灰色の糸を天井へとのぼらせていた。その煙が行灯の光をかすかに揺らしながら、空気にゆっくりと溶けていく。
ぐるりと部屋を取り囲む長押の上には、幾枚もの遺影が並んでいる。額縁の中の人々は、刷り込みが薄れたようにどれも顔立ちが酷く曖昧だ。
ふと、襖の向こう側から、くぐもった声が忍び込んできた。
「若旦那様がお亡くなりになって半年だというのに……心中しそこなった恥さらしが、いつまで我が物顔でこの家に居座るつもりなのかしら」
「……あいつが泣いて縋ったんだろう? あのお方も、こんな下男に毒されさえしなければ、今頃は立派な官吏として名を馳せておられただろうな」
「まあ……自業自得ですわね。あの部屋で死んだあとは、庭師の男にでも担がせて、寺の前に投げ捨てておくよう、奥様が申し付けておいででしたわ」
男女の声が、向こうへ遠ざかっていく。仏壇の中央にある小さな写真立てへ視線を移すと、そこには、焦げ茶の縁取りがなされた写真が収められていた。色褪せた白黒写真の中で、あの蛇神と同じ顔をした男が凛とした眼差しでこちらを見据えている。その瞳と目が合った瞬間、思考を介さず、喉の奥から声が漏れた。
「旦那様……今日も斯様に浅ましく生き永らえてしまい、面目次第もございません」
冷静にこの夢の中の「俺」が口にする言葉を、感覚を共有したまま、どこか俯瞰するように見つめている自分がいる。
季節は巡り、死に損ねた俺は――旦那様の家族とかつて暮らした屋敷の仏間で、線香の煙に巻かれながら、一日中寝起きをしているらしかった。
「うっ……うぅ、あぁっ……」
堰を切ったように両目から涙が溢れ出す。猛烈な後悔と罪悪感が、暗い津波となって心を飲み込んでいく。一緒に死ぬと約束した。それなのに、あの冷たい水底で俺は彼の手を振りほどき、浅ましくも生を求めて浮上してしまった。
愛していた。心から愛していたはずなのに。俺は自分だけを救うために、あの人を永遠の孤独に沈めた。
かつて「旦那様」と呼んで縋った人は、いまは冷たい硝子の向こう側、遺影の中に閉じ込められている。
五臓六腑を締め上げるような自己嫌悪が、肺の奥を焼く。自分という存在を、根底から否定したくなるほどの絶望だった。自分の意志に関係なく、祈りとも呪いともつかない激情が、滝に打たれるような勢いで溢れ出す。
ふと、視界が滲むなかで、先程とは反対の襖が勢いよく音を立てて開く音がした。逆光とともに、夏の暴力的な熱気が仏間になだれ込んでくる。
「おい、入るぞ」
大きな体躯の男。紺の股引に、汗を吸って色濃くなった腹掛け。泥にまみれた地下足袋で、畳の汚れなど一顧だにせず、土足のまま仏間から繋がる縁側の境目に、どかりと腰を下ろす。
――太輔だ。
全身から立ち昇る土の匂いと、荒々しい生の熱気。それは線香の香りに満ちたこの場所には、あまりにも不釣り合いで、場違いな力強さだった。
男は腰に下げた剪定鋏をガチャリと鳴らし、俺を見下ろす。
「この前も言っただろ。俺がお屋敷で仕事してる間くらいはこの襖を開けておけ。手のひらだけでもいい、お天道様を浴びねぇと、体の中に黴が生えて寝たきりのままになっちまうぞ」
口調こそ荒っぽいが、その声の響きは聞き慣れたあいつのものだ。
開け放たれた襖の先には、手入れの行き届いた庭園が広がっていた。飛び石の周囲には、燃え上がるような赤と白の彼岸花が群生している。
呆然としたまま、半身を起こすことすらできない俺をじっと見つめ、男は腕で額の汗を拭った。それから、縁側に置かれた竹皮の包みから握り飯をひとつ掴むと、膝をついて俺の枕元へとずいっと差し出した。
「ほら、食うか。どうせまた、残飯しか出されてないんだろ?」
指の隙間にこびりついた泥。握り飯に微かに移った土の匂い。俺はふるふると弱々しく首を振った。
男は不服そうに眉を寄せると、「強情だな」と吐き捨てるように言って立ち上がり、腰に手を当てて秋風に揺れる庭の彼岸花を見下ろした。
その背中越しに差し込む陽光が眩しくて、思わずその逞しい輪郭をなぞるように目を細める。
「……ほら、やるよ。少しくらい手折ってもバレないだろ、これだけあれば」
そう言って男は赤い彼岸花を一本手折り、俺の枕元にそっと置いた。俯いたまま、ゆっくりと手に取り、じっと見つめる。綺麗だとか、こんなにも赤いのかという感想は確かに浮かんだ。それなのに、なぜか心は動かないままだった。
「赤い彼岸花はな、毎年同じ時期に咲くから『また会う日を楽しみに』って花言葉があるんだ」
男は何気なく言った。けれどそのたった一言で、俺が心中に失敗した今でも旦那様に心を取り残され続けていることを、ちゃんと知っているということが静かに伝わってきた。
ありがとうも言えない。どうしてこんなことをするのか、どうして自分なんかに構うのか。そんな問いが、水底の砂が舞い上がって濁りを作るようにふわりと現れては、流れに身を任せて消えていく。
さっきからだんまりを決め込んで俯く俺に、男はさらに言葉を継いだ。
「……あんたの心に誰がいようと構わねぇ。俺は、あんたがこの庭の風に吹かれて、明日も息をしてりゃ、それでいいんだ」
そう言って男は、庭の隅に咲いていた白い彼岸花を一本摘み、赤い花の隣にそっと並べた。それから竹の皮をくしゃくしゃと丸め、紐でゆるく縛る。
そのまま剪定鋏を手に取り、太い枝の前に立つと、俺に声をかけるでも、振り返るでもなく、黙って庭の手入れを始めた。
旦那様を失い、残された針のむしろのようなこの屋敷の中で、男がくれる優しさは、いったいどこから来るのだろう。……きっと、俺を慕っているから。守りたいと思っているから。そうであれば、なおさら、受け取り方がわからなかった。
(旦那様をこんな風にした俺が、幸せになって良いわけがない)
そう自分を律しているはずなのに。
鋏が枝を断つ無骨な音や、男の大きな身体から漂ってくる陽だまりのような匂いに、どうしようもなく胸の奥が騒ぐのを止められない。死を願う俺の冷え切った指先に、この男が強引に分け与えた熱だけが、いつまでも消えずに残っている。
この男の隣にいたい。この匂いを、もっと知っていたい。
必死に圧し込んでいる本音は、旦那様への愛を裏切るような、猛烈な愛と生への渇望だった。
――チリン。
不意に、縁側に吊るされたままの風鈴が、呼びかけるように鳴った。そして、ためらうようにもう一度。吸い寄せられるように遺影へ視線を戻したその瞬間、息が止まった。
遺影の中の彼の頬を、一筋の滴が伝っている。それはやがて遺影の枠を越え、溢れんばかりの水となって仏壇から畳へとこぼれ落ち始めた。
最初はほんの一点だった染みが、じわり、じわりと広がって、畳の目に沿って滲み、縁を消しながら仏間の畳をゆっくりと塗り替えていく。
布団に横たわる俺の襦袢から、じんと骨まで染み込んでくるような冷たさは、あの日の池の底を思わせた。
太輔の居た方を振り返った時、その姿はもうそこにはなかった。
縁側の向こうは、晴れやかな青空。なのに俺のいる仏間だけは、全ての扉を閉じ切ったように暗く、薄水色の光がひとすじ、畳の上に細く落ちているだけだ。その光の境界線は、縁側との間でくっきりと割れていて、俺はその境の手前に、ただどうすることも出来ずに居る。水はいつの間にか、布団の上の彼岸花を濡らしていた。
顔を上げると、天井の節目から、ぽつ、ぽつ、と滴が落ち始めている。遺影の涙が、この部屋ごと泣いているみたいだった。あまりにも悲しい、恋と怪異の夢。主人の怨念に心身を苛まれ続け、安らぎを求めることさえ許されない、地獄のような日々。それが、俺の前世だった。



