夏を迷えど、遥けし恋はますばかり

「それで、筒井先輩は?」

 図書館のエントランスは、朝の時間帯はまだ人が少なかった。受付の職員が奥にいる気配だけがして、他に利用者はいない。
 俺たちはそこへパイプ椅子を並べて座り、声を潜めて話し込んでいた。

「病院までは行かなくていいって言ってたけど……脚立の、飛びだしてたネジが頭に当たったみたいで……」

 大した怪我じゃないと先輩は笑っていたけれど、頭の怪我だ。少しでもずれていたら、もっと大きな事故に繋がっていたかもしれない。
 先輩のお父さんは、こんな風に脚立を出しっぱなしにしておくことなんて普段はないのに、と自分の失念を責めながら、頭にぐるりと包帯を巻いた先輩の肩に手を置いていた。
 先輩は「大丈夫だって」とまだ笑っていたけれど、それは少しだけ力が入った笑い方だった。

「……影は見えたのか」

 太輔が、手を組んで床を見ながら言った。

「うん。でも……あれは影って言うよりも、もっと……」
「なんだよ」
「ドロドロしてた。前より濃くなって……めちゃくちゃ気持ち悪かった」

 言葉にしようとすればするほど、上手く言えなかった。
 龍が怪我をした時に見えたのは、一瞬の影だった。視界を滑るような、形の曖昧なもの。でも今日見えたのは、すべての光を吸収するような黒。前よりずっと色が濃くて、形がはっきりしている。
 ゆっくりと先輩の肩に食い込んでいくさまは、影というより、意志を持った生命体のように見えた。

「でも、手口は同じだよな」

 ようやく顔を上げて、お互いに前のめりのまま視線が合う。

「周りにあるものを使って、致命傷の一歩手前で止めてる気がする。俺の時も、龍の時も、筒井先輩も……全部そうだ。殺すんじゃなくて、怪我をさせる。一体、何が本当の狙いなんだろうな」

 冷房の風がエントランスの掲示物をひらり、ひらりと揺らし、俺たちの間にはその後しばらく言葉がなかった。

「……なぁ、光希。金木(かねき)さんに相談してみるか?」
「えっ、でも。俺らがガキの頃にはおじいちゃんだったんだから、もう九十歳は過ぎてるだろ。話が通じるとは思えねえよ」

 金木さん、というのは、あの神社の神主の名前だ。俺らが小学校へ通学する時、いつも竹箒であの参道を穿いていた姿を覚えている。
 けれど、強力な霊感を持っていると噂されていたのは、昔から巫女として神社にまつわる神事を執り行っていた奥さんの方だ。
 この地域に古くから伝わる祭りや、社務所の管理、目に見えないものとの折衝。そういったことを全部、巫女として担っていたけれど、その奥さんも数年前に亡くなり、今は金木のおじいちゃんが一人で御朱印と神棚飾りだけを細々と取り扱っている。
 それ以上のことは、もう体力的に出来ないのだと、年末に紙垂(しで)を買いに行った母さんが話していた。

「でも、お祓い……みたいなのとか。奥さんの傍に居て、色々な知識は持ってる気がする。何もしないよりはいいんじゃねーかな」

 太輔はそう言うと、静かに深く息を吐いた。膝の上で手を組んで、少し前のめりのまま、また床の一点を見つめる。
 まるで自分が蛇神に守られたことで、他の人が怪我をするようになった、と言いたげな溜息だった。

(――違う、太輔のせいなんかじゃない)

 そもそもの原因を作ったのは、俺だ。
 あの夜、太輔への罰を願ったのも、黒い影を招き寄せたのも、蛇神と契約を結んだのも――全部、俺なんだから。太輔が自責の念に駆られる必要なんて、これっぽっちもありはしない。
 被害者が増えるたび、自分が元凶だと打ち明けることへの抵抗感も増していく。吐き出してしまえば、この重荷から解放されて楽になれるのかもしれない。けれど、そんな甘えを自分に与えることだけは許せなかった。
 太輔は、きっと俺を赦してしまう。絶対に俺を責めない。それが分かっているからこそ、俺は沈黙という罰を選び続けていた。

「……光希、どうしたんだよ」

 言葉を返せずに俯く俺の前で、自動ドアが開いた。
 人が通りもしないのに、ガコッ、ガコンと一定のリズムを持たない、不規則な開閉を繰り返している。
 開いて、途中で止まって、閉じきる前にまた開く。太輔と二人、その動きを無言で見つめる。
 気づいたら、俺の手がちょっとだけ太輔の方に動いていて、太ももにぶつかって行き止まった。

「なに、ビビってんの。ただの誤作動だろ。……怖いならヨシヨシしてやろうか?」
「いや、ただビックリしただけだし。お前こそ手とか握ってきてんじゃねぇよ。女子でもねぇのによ」

 俺の手の甲を覆うように、太輔の手が重なっていた。いつの間にそうなったのか、どちらが先に動いたのかは分からない。分からないけれど、お互いの手の震えについては、無視することにした。
 今度は扉が開くたびに二つに割れて、閉じるたびにまた一つに戻る。
 割れて、戻る。割れて、戻る。
 どう考えても偶然には思えないその不気味な繰り返しを、琥珀色の光が差したガラスの中の俺たちは、黙って見つめていた。