「あれ? 光希じゃん。どうした、こんな朝早くに」
「筒井先輩。あの、これ……うちの母から、お裾分けです」
ビニール袋を差し出すと、先輩は中を覗き込んで目を細めた。袋の口から、砂糖を溶かしたような濃い香りがふわりと漂ってくる。
袋越しに透けて見える桃の肌は産毛に覆われて、白から薄紅へのグラデーションが朝の光の中でやわらかく光っていた。指で押したら、そのまま沈み込みそうなくらいに熟れている。
「ありがとうな、家族全員で頂くわ。そういえば……この前の夏祭りの花火、光希は誰と見に行ったんだ?」
先輩は桃の袋を片手にぶらさげたまま、俺を見つめた。その後ろに、衣紋掛けが何本も並んでいる。先輩の実家の家紋が入った法被が何十枚も掛けられていて、風を受けてゆっくりと揺れていた。藍染めの生地と白い家紋が、揺れるたびに光と影を交互に連れてくる。
先輩の家は、この地域で何代も続く花火職人の家だ。
先輩のおじいちゃんも、お父さんも家業を継いでいる。先輩もまた、その後を継ぐと公言していて、地域の誰もが知っているような大きな敷地の家に住んでいた。
夏になるたびに空へ上がる花火は、全部この家から生まれてくる。
「えっと……」
思い出せるのは、断片だけだった。
夕空を横切る電線のシルエット。屋台の提灯が連なる手前で、裸の電球がぽつぽつと並んでいたこと。道路をさあっと音を立てて吹き抜けた風。見上げた神社の参道に、なぜか誰もいなかったこと。その記憶はひどく静かで、まるで夢の中の景色みたいだった。
(……いつもの五人で屋台を周って、花火も一緒に観たんだっけか。あれ……違う、何で俺……)
でも、最後の花火だけはハッキリと覚えていた。
大きな冠菊が夜空いっぱいに広がって、光の粒が雨みたいに降ってきた瞬間。あの色と音だけは、鮮明に――。
「あはは、答えにくいよな。……俺のこと、振ったばっかりだし」
そう。俺は夏休みに入る少し前に、先輩から告白されていた。
幼い頃は兄貴みたいに慕っていた人だ。いつも余裕があって、飄々としていて、誰の前でも笑顔を崩さない。そういう人だと思っていた。
だから放課後に呼び出されて、夕暮れの渡り廊下で向かい合った時も、最初は何の話をされているのか分からなかった。
『それって……どういうこと、ですか?』
『俺、恋愛対象が男なんだよ。そんで、ずっと光希のこと、好きで……高校最後の夏祭りは、お前と一緒に行きたいから誘ってる』
先輩の声は、いつもより低くて、少しだけ乱れていた。
いつもの余裕が、一枚だけ剥がれたみたいな声だった。その言葉が耳に届いた瞬間、心臓が肋骨の内側でドクドクと激しく脈打って、俺は返事をするのに随分と時間がかかった。驚きと、それから——どう扱えばいいか分からない、もっと複雑な何かが同時に来て、全身で混乱していた。
「えっと……」
「どうせ、また太輔とふたりで行ったんだろ。仲良すぎて、本当に妬けるわ」
からかうような言い方だった。笑顔も浮かべていた。自分を少しだけ下げるような、軽くいなすような言い方。
でも、先輩が心から楽しい時の笑い方とは、どこかが違った。明るすぎる嫉妬だった。明るければ明るいほど、その裏にあるものの重さが透けて見えるような笑顔で、誤魔化しも何も言えなかった。
「……俺、そろそろ行きますね」
逃げるみたいな言い方だと、自分でも分かっていた。
先輩のことは好きだ。ただ、その好意には応えられない。だからこそ、顔を合わせるたびに気まずさしかない。
好きだからこそ、余計に傷つけてしまった気がして、ちゃんと目を見て話せなかった。
「わざわざ、ありがとうな。届けてくれて」
「あ、いえ。……それじゃ」
それだけで終わるはずだったのに、名残惜しさを我慢しきれないみたいに、先輩の手が俺の腕を引いた。
長い指。俺よりずっと体温が高くて、何の手入れもしていない、夏なのにかさついた手。握られた瞬間、その感触が腕の皮膚に伝わってきた。荒れていて、硬くて、それでも掴む力は丁寧だった。
太輔の手と似ているようで、全然違う。
太輔の手はもっと湿度がある。体温が高いくせに、触れると不思議と落ち着く。どこかに柔らかさが残っている。
そういう細かいことに気づいて、比較してしまう自分が嫌だった。
「ごめん、光希。やっぱり、ちょっと待って」
振り返ると、先輩は眉根を寄せていた。いつもの飄々とした顔じゃなくて、何かをこらえているみたいな、それでいて真っ直ぐな顔だった。
朝陽が斜めから差し込んで、青空を背に先輩の髪を光らせている。
「応えられなくてもいい。けど、俺……まだお前のことを、好きでいてもいい?」
喉が、ひくんと鳴った。夏の渇きとは違う、もっと別の理由からくる乾きだった。先輩の言葉が胸の中で形を持って、溶けずに残った。応えられない、と分かっていながら、それでも好きで居ると言える人の——その重さが俺には眩しくて、直視できなかった。
「……えっ、いや……あの」
「振られたけど、簡単に諦めるの無理だった。……そんくらい、今でも好き」
先輩の顔が太陽と重なって、逆光になった。その瞳から逃げるように目を逸らそうとした、次の瞬間。
先輩の肩に、見えてはいけないものが見えた。重油のような、粘り気を持った黒い手。
絶対に、生きている人の手じゃない。影よりも色が濃くて、指の一本一本の形だけがはっきりしていた。それがゆっくりと、先輩の肩に食い込んでいく。
俺の目はそこに釘付けになり、声が出なかった。喉が凍りついたみたいに、何も言葉が出てこない。
次の瞬間、ガシャン!と俺と先輩の間を引き裂くような、鋭い金属音が響いた。
庭先に立てかけられていた脚立が、まるで何かに押されたように傾いて――先輩に覆いかぶさるように倒れ込んで来る。
「筒井先輩!」
先輩が持っていた袋が、地面に落ちた。ビニールが裂けて、中から桃が転がり出てくる。
ごろ、ごろ、ごろん——。
柔らかな産毛に土埃をまぶした桃が、小石に引っかかりながら足元まで転がってきた。
衝撃で裂けた皮から、じゅくりと果汁が滴る。白い果肉が地面に押しつけられ、潰れた部分だけが赤みがかった色に変わっていた。果汁が伝って、細い川のように広がっていく。
その甘ったるさと、先輩の額から流れ出た血の鉄臭い匂いが混ざり合って、むわっと朝の空気に広がった。
甘さと血の匂いは、本来交わるはずのないものだ。それが一緒になった瞬間、胃の奥から酸っぱいものが込み上げてきて、俺はたまらず口元を手で押さえる。
足元の桃は、まだゆっくりと果汁を土に含ませ、蟻が黒く群がりはじめていた。
「筒井先輩。あの、これ……うちの母から、お裾分けです」
ビニール袋を差し出すと、先輩は中を覗き込んで目を細めた。袋の口から、砂糖を溶かしたような濃い香りがふわりと漂ってくる。
袋越しに透けて見える桃の肌は産毛に覆われて、白から薄紅へのグラデーションが朝の光の中でやわらかく光っていた。指で押したら、そのまま沈み込みそうなくらいに熟れている。
「ありがとうな、家族全員で頂くわ。そういえば……この前の夏祭りの花火、光希は誰と見に行ったんだ?」
先輩は桃の袋を片手にぶらさげたまま、俺を見つめた。その後ろに、衣紋掛けが何本も並んでいる。先輩の実家の家紋が入った法被が何十枚も掛けられていて、風を受けてゆっくりと揺れていた。藍染めの生地と白い家紋が、揺れるたびに光と影を交互に連れてくる。
先輩の家は、この地域で何代も続く花火職人の家だ。
先輩のおじいちゃんも、お父さんも家業を継いでいる。先輩もまた、その後を継ぐと公言していて、地域の誰もが知っているような大きな敷地の家に住んでいた。
夏になるたびに空へ上がる花火は、全部この家から生まれてくる。
「えっと……」
思い出せるのは、断片だけだった。
夕空を横切る電線のシルエット。屋台の提灯が連なる手前で、裸の電球がぽつぽつと並んでいたこと。道路をさあっと音を立てて吹き抜けた風。見上げた神社の参道に、なぜか誰もいなかったこと。その記憶はひどく静かで、まるで夢の中の景色みたいだった。
(……いつもの五人で屋台を周って、花火も一緒に観たんだっけか。あれ……違う、何で俺……)
でも、最後の花火だけはハッキリと覚えていた。
大きな冠菊が夜空いっぱいに広がって、光の粒が雨みたいに降ってきた瞬間。あの色と音だけは、鮮明に――。
「あはは、答えにくいよな。……俺のこと、振ったばっかりだし」
そう。俺は夏休みに入る少し前に、先輩から告白されていた。
幼い頃は兄貴みたいに慕っていた人だ。いつも余裕があって、飄々としていて、誰の前でも笑顔を崩さない。そういう人だと思っていた。
だから放課後に呼び出されて、夕暮れの渡り廊下で向かい合った時も、最初は何の話をされているのか分からなかった。
『それって……どういうこと、ですか?』
『俺、恋愛対象が男なんだよ。そんで、ずっと光希のこと、好きで……高校最後の夏祭りは、お前と一緒に行きたいから誘ってる』
先輩の声は、いつもより低くて、少しだけ乱れていた。
いつもの余裕が、一枚だけ剥がれたみたいな声だった。その言葉が耳に届いた瞬間、心臓が肋骨の内側でドクドクと激しく脈打って、俺は返事をするのに随分と時間がかかった。驚きと、それから——どう扱えばいいか分からない、もっと複雑な何かが同時に来て、全身で混乱していた。
「えっと……」
「どうせ、また太輔とふたりで行ったんだろ。仲良すぎて、本当に妬けるわ」
からかうような言い方だった。笑顔も浮かべていた。自分を少しだけ下げるような、軽くいなすような言い方。
でも、先輩が心から楽しい時の笑い方とは、どこかが違った。明るすぎる嫉妬だった。明るければ明るいほど、その裏にあるものの重さが透けて見えるような笑顔で、誤魔化しも何も言えなかった。
「……俺、そろそろ行きますね」
逃げるみたいな言い方だと、自分でも分かっていた。
先輩のことは好きだ。ただ、その好意には応えられない。だからこそ、顔を合わせるたびに気まずさしかない。
好きだからこそ、余計に傷つけてしまった気がして、ちゃんと目を見て話せなかった。
「わざわざ、ありがとうな。届けてくれて」
「あ、いえ。……それじゃ」
それだけで終わるはずだったのに、名残惜しさを我慢しきれないみたいに、先輩の手が俺の腕を引いた。
長い指。俺よりずっと体温が高くて、何の手入れもしていない、夏なのにかさついた手。握られた瞬間、その感触が腕の皮膚に伝わってきた。荒れていて、硬くて、それでも掴む力は丁寧だった。
太輔の手と似ているようで、全然違う。
太輔の手はもっと湿度がある。体温が高いくせに、触れると不思議と落ち着く。どこかに柔らかさが残っている。
そういう細かいことに気づいて、比較してしまう自分が嫌だった。
「ごめん、光希。やっぱり、ちょっと待って」
振り返ると、先輩は眉根を寄せていた。いつもの飄々とした顔じゃなくて、何かをこらえているみたいな、それでいて真っ直ぐな顔だった。
朝陽が斜めから差し込んで、青空を背に先輩の髪を光らせている。
「応えられなくてもいい。けど、俺……まだお前のことを、好きでいてもいい?」
喉が、ひくんと鳴った。夏の渇きとは違う、もっと別の理由からくる乾きだった。先輩の言葉が胸の中で形を持って、溶けずに残った。応えられない、と分かっていながら、それでも好きで居ると言える人の——その重さが俺には眩しくて、直視できなかった。
「……えっ、いや……あの」
「振られたけど、簡単に諦めるの無理だった。……そんくらい、今でも好き」
先輩の顔が太陽と重なって、逆光になった。その瞳から逃げるように目を逸らそうとした、次の瞬間。
先輩の肩に、見えてはいけないものが見えた。重油のような、粘り気を持った黒い手。
絶対に、生きている人の手じゃない。影よりも色が濃くて、指の一本一本の形だけがはっきりしていた。それがゆっくりと、先輩の肩に食い込んでいく。
俺の目はそこに釘付けになり、声が出なかった。喉が凍りついたみたいに、何も言葉が出てこない。
次の瞬間、ガシャン!と俺と先輩の間を引き裂くような、鋭い金属音が響いた。
庭先に立てかけられていた脚立が、まるで何かに押されたように傾いて――先輩に覆いかぶさるように倒れ込んで来る。
「筒井先輩!」
先輩が持っていた袋が、地面に落ちた。ビニールが裂けて、中から桃が転がり出てくる。
ごろ、ごろ、ごろん——。
柔らかな産毛に土埃をまぶした桃が、小石に引っかかりながら足元まで転がってきた。
衝撃で裂けた皮から、じゅくりと果汁が滴る。白い果肉が地面に押しつけられ、潰れた部分だけが赤みがかった色に変わっていた。果汁が伝って、細い川のように広がっていく。
その甘ったるさと、先輩の額から流れ出た血の鉄臭い匂いが混ざり合って、むわっと朝の空気に広がった。
甘さと血の匂いは、本来交わるはずのないものだ。それが一緒になった瞬間、胃の奥から酸っぱいものが込み上げてきて、俺はたまらず口元を手で押さえる。
足元の桃は、まだゆっくりと果汁を土に含ませ、蟻が黒く群がりはじめていた。



