「……光希、光希。いい加減起きろよ」
夢すら見ていなかった。真っ暗で、真っ黒で、何もない。意識が完全に沈んでいて、自分がどこにいるのかも、今が何時なのかも分からなかった。深い水の底に閉じ込められているような感覚。声が届いたのは、そのずっと後だ。
呼びかける声の主が太輔だという認識が、ようやく霧の向こうから立ち上がってくる。同時に、また新しい朝が来たのだと悟った。
眠りの底から無理やり引き上げられながら、「なんで太輔が俺の部屋にいるんだ?」という疑問がぼんやりと浮かんでは、また微睡みのなかに引きずり戻される。
ベッドの端が沈み込む感触。スプリングが鈍く軋む音がして、次の瞬間には肩を強く掴んで揺さぶられた。不快になるほど、容赦のない力強さ。
「キスする時間だろ。早くしようぜ」
おおよそキスの前とは思えない、苛立ちを含んだ口調だった。
言葉の中身と声のトーンが、まるで噛み合っていない。重い瞼が上がりきらず、カーテンの隙間から差し込む朝の光が逆光となって太輔の表情を塗り潰していた。ただ、髪の毛先だけが光の縁に白く浮かんでいて、顔のすぐ傍に太輔の手が置かれる気配がした。
「……起きねぇなら、もう勝手にするからな」
マットレスが、もう一段深く沈み込んだ。
返事をするより先に両手首を押さえつけられ、抗う間もなく唇が重なる。角度を変えて、もう一度。
「ん、ん……」
これは夢なんじゃないかと思った。だって、太輔が二回もキスするわけない。だとしても、ちょっと生々しすぎないか。
唇から伝わる、微かな湿り気と熱。覆いかぶさる太輔の手が、押さえていた手首から這うようにゆっくりと上へ滑り――指と指のあわいに、節立った指が型を嵌めるみたいに収まってきた。そのまま、吸い付くようにそっと握られる。
「……光希」
あぁ、こんなに指の太さが違うのか。水かきいっぱいまで広げられるような感覚に、俺も無意識にその手を握り返していた。
なぜそうしたのか、自分でも分からない。考えるより先に身体が動き、脳のすべての神経が「そうしろ」と命じているような気がした。それが自分の意志なのか、眠すぎて判別がつかない。
「ん、たい……」
手のひらの、丘のように盛り上がった部分にいくつものマメがあるのが分かった。皮膚が厚く硬くなっていて、触れるたびに独特の感触が伝わってくる。
(……コイツ、中学の時は野球やってたもんな……)
俺がそこに混じっていた記憶はない。指を怪我したらピアノが弾けなくなる、という母の言いつけを守っていたから。グラウンドから立ち上る土の匂いも、金属バットが空を切る音も、俺にとってはいつだって別世界の出来事だった。
ミントブルーの金網越し。仲間から「ナイピ」と声をかけられる太輔が、アンダーシャツで乱暴に額の汗を拭う仕草。キャップのツバを掴んでぐっと引き下げる姿を、いつも日陰から、盗み見るようにして視界に収めていた。
目が離せなくて、何かを期待しているわけでもないのに、その場所から動きたくなくて。あれが無くなってから、もう何年になるんだろう。
ふと沸き上がった違和感に、俺は弾かれたように勢いよく起き上がった。
「うわっ、いってぇ!」
「――っ、! オイてめぇ、なに勝手に俺の部屋入ってんだよ!」
太輔が頭を押さえて悶絶している。互いの額が激突したらしく、ズキズキとした痛みが脳天に突き抜ける。眠気など一瞬で吹っ飛ぶほどの衝撃だ。血が出ていないか手のひらで確かめ、俺は太輔を思い切り睨みつけた。
対する太輔は、弁解するように両手を挙げて降参のポーズをとる。反省の色など微塵もない、開き直った顔だった。
「待ってたけど、光希が来ねぇからだろ。ダッシュでお前ん家来たら爆睡してるし。あと二分で過ぎるところだったんだぞ!」
我に返って枕元のスマホを見ると、表示された時刻は確かに限界ギリギリだった。
とりあえず、太輔は今日も死なない。その事実だけで安心しきってしまい、一瞬張り詰めた気持ちがゆっくりと弛緩していく。
太輔はベッドから下りると、そのまま床に座って背を預けた。俺のベッドには座らず、床に座る。昔から変わらない、あいつの定位置だ。
(コイツ、なんか二回くらいキスしてた気がするんだけど……夢だったのか?)
境界線が溶けていたあの曖昧な時間に触れた熱。現実だったのか、それとも夢だったのか。
俺はそれを確認しないことに決めた。今ここで問い詰めたら、このありふれた朝の空気までもが、二度と戻らなくなってしまう気がしたから。
「課題の残り、やっちまおうぜ。中途半端に残ってるし」
「あー、うん。……図書館行かね? そっちの方が捗る気がする」
そう言いながら、本音は違った。太輔と自分の部屋で二人きりになるのが、どうしようもなく怖かった。「気まずい」なんて言葉では到底足りない感情に押し潰されそうで、俺は逃げるように鞄を引き寄せた。
「いいけど。俺、新しい自転車……まだ届いてねぇから歩きでもいいか?」
「うん。ちょい、着替えるから待ってて」
町役場の敷地内にある図書館は、蔵書数も少なく、新刊も数えるほど。職員も数人で回している分室のような場所だが、俺はあの場所が嫌いじゃなかった。
「おっけ、準備完了―。行こうぜ、太輔」
「……光希、シャツの襟、中に入ってる。ほら」
呼びかけると、太輔の視線が俺の首筋に落ちた。そのまま、呼吸をするように自然な動作で手が伸び、襟の折れを直される。
首を傾けて任せると、太輔は直し終えた合図のように俺の肩を一度だけぽんと叩き、自分の荷物を担ぎ直した。
「途中で自販、寄っていい?」
「ん、いーけど。俺、今日はジンジャエールが飲みたいかも」
「あー、それな。今、俺も言おうと思ってた」
たわいもない、いつも通りの会話。さっき唇に感じたあの異常な熱を、そんな無意味な言葉の応酬で必死に薄めていく。
勉強道具を鞄に詰め込んで、部屋のドアを開けた、その時。
出勤の準備をしていた母さんが、片耳にピアスをはめながら廊下を通りかかった。
「あら、たいちゃん! おはよう、今日は早いのね。……光希、ちょうど良かった。昨日、隣の高田さんに桃をいただいたの。遊びに行くなら、筒井さんのお家によってお裾分けしてきてくれない?」
「遊びじゃない。太輔と図書館で課題するんだよ」
「図書館? じゃあ、なおさら通り道じゃない。ちょこっと寄るだけよ、頼んだわね!」
有無を言わさぬ特有の圧。母さんはすれ違いざまに太輔の肩を叩き、「体の具合はどう?」と優しく声をかける。
太輔の事故は、すでに近所の隅々まで知れ渡っている。この閉鎖的な田舎では、どんなワイドショーよりも特大のニュースだった。
「本当に心配したんだから。でも、軽い怪我で済んで良かったわね」
「あー、すんません。光希にも、おばさんにも、めちゃくちゃ心配かけちゃって」
太輔がいつもの調子でへらりと笑うと、母さんは洗面所の鏡越しに「いってらっしゃい、気を付けるのよ」と微笑んだ。その眼差しは、太輔をもう一人の息子として可愛がっているのが見て取れた。
「太輔、先に行ってろよ。俺、筒井先輩んちに寄ったら追いかけるから」
「分かった。エアコンガンガン効いてる席、確保しとくわ」
「……気をつけろよ」
車もさほど通らない、平和な通学路だ。そんなことは分かっている。
けれど、あの事故以来、俺の胸から不安が消えることはなかった。俺が傍にいたところで何ができるわけでもないのに。それでも、あいつを一人にさせるのが、今の俺には耐え難い恐怖だった。
不意に漏れた俺の気遣いに、太輔は一瞬だけ呆けたように固まった。いつもの減らず口が返ってこず、空白が生まれる。
「大丈夫だろ。……今朝もキスしたし」
太輔は、俺を安心させるように、親指を立ててニッと笑った。その顔があまりにも屈託なくて、胸の鼓動が一段と早くなる。
それらを悟られないよう、俺は玄関にしゃがみ込むと、解けてもいない靴紐をいつもより丁寧に結び直し、顔を伏せたまま必死に時間を稼いだ。
夢すら見ていなかった。真っ暗で、真っ黒で、何もない。意識が完全に沈んでいて、自分がどこにいるのかも、今が何時なのかも分からなかった。深い水の底に閉じ込められているような感覚。声が届いたのは、そのずっと後だ。
呼びかける声の主が太輔だという認識が、ようやく霧の向こうから立ち上がってくる。同時に、また新しい朝が来たのだと悟った。
眠りの底から無理やり引き上げられながら、「なんで太輔が俺の部屋にいるんだ?」という疑問がぼんやりと浮かんでは、また微睡みのなかに引きずり戻される。
ベッドの端が沈み込む感触。スプリングが鈍く軋む音がして、次の瞬間には肩を強く掴んで揺さぶられた。不快になるほど、容赦のない力強さ。
「キスする時間だろ。早くしようぜ」
おおよそキスの前とは思えない、苛立ちを含んだ口調だった。
言葉の中身と声のトーンが、まるで噛み合っていない。重い瞼が上がりきらず、カーテンの隙間から差し込む朝の光が逆光となって太輔の表情を塗り潰していた。ただ、髪の毛先だけが光の縁に白く浮かんでいて、顔のすぐ傍に太輔の手が置かれる気配がした。
「……起きねぇなら、もう勝手にするからな」
マットレスが、もう一段深く沈み込んだ。
返事をするより先に両手首を押さえつけられ、抗う間もなく唇が重なる。角度を変えて、もう一度。
「ん、ん……」
これは夢なんじゃないかと思った。だって、太輔が二回もキスするわけない。だとしても、ちょっと生々しすぎないか。
唇から伝わる、微かな湿り気と熱。覆いかぶさる太輔の手が、押さえていた手首から這うようにゆっくりと上へ滑り――指と指のあわいに、節立った指が型を嵌めるみたいに収まってきた。そのまま、吸い付くようにそっと握られる。
「……光希」
あぁ、こんなに指の太さが違うのか。水かきいっぱいまで広げられるような感覚に、俺も無意識にその手を握り返していた。
なぜそうしたのか、自分でも分からない。考えるより先に身体が動き、脳のすべての神経が「そうしろ」と命じているような気がした。それが自分の意志なのか、眠すぎて判別がつかない。
「ん、たい……」
手のひらの、丘のように盛り上がった部分にいくつものマメがあるのが分かった。皮膚が厚く硬くなっていて、触れるたびに独特の感触が伝わってくる。
(……コイツ、中学の時は野球やってたもんな……)
俺がそこに混じっていた記憶はない。指を怪我したらピアノが弾けなくなる、という母の言いつけを守っていたから。グラウンドから立ち上る土の匂いも、金属バットが空を切る音も、俺にとってはいつだって別世界の出来事だった。
ミントブルーの金網越し。仲間から「ナイピ」と声をかけられる太輔が、アンダーシャツで乱暴に額の汗を拭う仕草。キャップのツバを掴んでぐっと引き下げる姿を、いつも日陰から、盗み見るようにして視界に収めていた。
目が離せなくて、何かを期待しているわけでもないのに、その場所から動きたくなくて。あれが無くなってから、もう何年になるんだろう。
ふと沸き上がった違和感に、俺は弾かれたように勢いよく起き上がった。
「うわっ、いってぇ!」
「――っ、! オイてめぇ、なに勝手に俺の部屋入ってんだよ!」
太輔が頭を押さえて悶絶している。互いの額が激突したらしく、ズキズキとした痛みが脳天に突き抜ける。眠気など一瞬で吹っ飛ぶほどの衝撃だ。血が出ていないか手のひらで確かめ、俺は太輔を思い切り睨みつけた。
対する太輔は、弁解するように両手を挙げて降参のポーズをとる。反省の色など微塵もない、開き直った顔だった。
「待ってたけど、光希が来ねぇからだろ。ダッシュでお前ん家来たら爆睡してるし。あと二分で過ぎるところだったんだぞ!」
我に返って枕元のスマホを見ると、表示された時刻は確かに限界ギリギリだった。
とりあえず、太輔は今日も死なない。その事実だけで安心しきってしまい、一瞬張り詰めた気持ちがゆっくりと弛緩していく。
太輔はベッドから下りると、そのまま床に座って背を預けた。俺のベッドには座らず、床に座る。昔から変わらない、あいつの定位置だ。
(コイツ、なんか二回くらいキスしてた気がするんだけど……夢だったのか?)
境界線が溶けていたあの曖昧な時間に触れた熱。現実だったのか、それとも夢だったのか。
俺はそれを確認しないことに決めた。今ここで問い詰めたら、このありふれた朝の空気までもが、二度と戻らなくなってしまう気がしたから。
「課題の残り、やっちまおうぜ。中途半端に残ってるし」
「あー、うん。……図書館行かね? そっちの方が捗る気がする」
そう言いながら、本音は違った。太輔と自分の部屋で二人きりになるのが、どうしようもなく怖かった。「気まずい」なんて言葉では到底足りない感情に押し潰されそうで、俺は逃げるように鞄を引き寄せた。
「いいけど。俺、新しい自転車……まだ届いてねぇから歩きでもいいか?」
「うん。ちょい、着替えるから待ってて」
町役場の敷地内にある図書館は、蔵書数も少なく、新刊も数えるほど。職員も数人で回している分室のような場所だが、俺はあの場所が嫌いじゃなかった。
「おっけ、準備完了―。行こうぜ、太輔」
「……光希、シャツの襟、中に入ってる。ほら」
呼びかけると、太輔の視線が俺の首筋に落ちた。そのまま、呼吸をするように自然な動作で手が伸び、襟の折れを直される。
首を傾けて任せると、太輔は直し終えた合図のように俺の肩を一度だけぽんと叩き、自分の荷物を担ぎ直した。
「途中で自販、寄っていい?」
「ん、いーけど。俺、今日はジンジャエールが飲みたいかも」
「あー、それな。今、俺も言おうと思ってた」
たわいもない、いつも通りの会話。さっき唇に感じたあの異常な熱を、そんな無意味な言葉の応酬で必死に薄めていく。
勉強道具を鞄に詰め込んで、部屋のドアを開けた、その時。
出勤の準備をしていた母さんが、片耳にピアスをはめながら廊下を通りかかった。
「あら、たいちゃん! おはよう、今日は早いのね。……光希、ちょうど良かった。昨日、隣の高田さんに桃をいただいたの。遊びに行くなら、筒井さんのお家によってお裾分けしてきてくれない?」
「遊びじゃない。太輔と図書館で課題するんだよ」
「図書館? じゃあ、なおさら通り道じゃない。ちょこっと寄るだけよ、頼んだわね!」
有無を言わさぬ特有の圧。母さんはすれ違いざまに太輔の肩を叩き、「体の具合はどう?」と優しく声をかける。
太輔の事故は、すでに近所の隅々まで知れ渡っている。この閉鎖的な田舎では、どんなワイドショーよりも特大のニュースだった。
「本当に心配したんだから。でも、軽い怪我で済んで良かったわね」
「あー、すんません。光希にも、おばさんにも、めちゃくちゃ心配かけちゃって」
太輔がいつもの調子でへらりと笑うと、母さんは洗面所の鏡越しに「いってらっしゃい、気を付けるのよ」と微笑んだ。その眼差しは、太輔をもう一人の息子として可愛がっているのが見て取れた。
「太輔、先に行ってろよ。俺、筒井先輩んちに寄ったら追いかけるから」
「分かった。エアコンガンガン効いてる席、確保しとくわ」
「……気をつけろよ」
車もさほど通らない、平和な通学路だ。そんなことは分かっている。
けれど、あの事故以来、俺の胸から不安が消えることはなかった。俺が傍にいたところで何ができるわけでもないのに。それでも、あいつを一人にさせるのが、今の俺には耐え難い恐怖だった。
不意に漏れた俺の気遣いに、太輔は一瞬だけ呆けたように固まった。いつもの減らず口が返ってこず、空白が生まれる。
「大丈夫だろ。……今朝もキスしたし」
太輔は、俺を安心させるように、親指を立ててニッと笑った。その顔があまりにも屈託なくて、胸の鼓動が一段と早くなる。
それらを悟られないよう、俺は玄関にしゃがみ込むと、解けてもいない靴紐をいつもより丁寧に結び直し、顔を伏せたまま必死に時間を稼いだ。



