夏を迷えど、遥けし恋はますばかり

「大きな怪我じゃなくて良かったよ、マジで」
「光希の手当て、ナイス判断だったってさ。礼子のかーちゃんが感心してたぞ」
「……あの親子に会うの、普通に気まずかったわ。久しぶりすぎて、どんな会話すればいいか分かんなかったし」
「それな。礼子、このまま東京の女子校卒業したら医大に行くらしいぜ。やっぱ金持ちは住む世界が違うよなー」

 振り返ると、加藤醫院の白い外壁が、ゆらゆらと立ち昇る陽炎の中へと溶けていく。それを背に、俺たちは並んで家路に就いた。
 真夏の日差しは容赦なくアスファルトを焼き、逃げ場のない熱が足元から這い上がってくる。それなのに、不思議と不快感はなかった。龍の怪我に動転して、脳内にアドレナリンが出続けているせいだろう。
 足取りはどこか頼りなく、自分の体が地面から数センチ浮いているような、白昼夢の中を彷徨っているような感覚がずっと続いていた。
 近くの青桐(アオギリ)の木からは、狂ったような蝉の大合唱が押し寄せてくる。俺はたまらず重い溜息を吐き出した。

「……てかさ、さっきの。やっぱ偶然じゃねーよな。あんな不自然にベンチが壊れるなんて、普通ありえねぇし」

 太輔がぽつりと呟く。それは俺に答えを求めるというより、すでに自分の中で出ている結論をなぞるような声だった。
 石畳の階段を下りる。何気なく銀色の手すりに手を伸ばしかけたけれど、火傷しそうな熱を察知して、慌てて指を引っ込めた。

「……俺、龍が怪我する直前、一瞬だけ影が見えた気がする」
「影? なんだよ、それ」
「黒っぽい、人影みたいなやつ。本当に一瞬だったけど……。太輔が入院してた時、向かいのベッドにいたのと、同じやつなんじゃねーかな」

 そこまで言うと、太輔は沈黙した。
 病室でのやりとりを記憶の底から掘り起こしているのか、自分の腕をさすりながら、一段一段、噛み締めるように階段を下りていく。
 猛暑の中だというのに、半袖から覗く太輔の腕には、細かな鳥肌が立っていた。その皮膚の粟立ちをぼんやりと見つめ、すぐに不安を振り払うように視線を前方へと戻す。
 論理的な根拠なんてどこにもない。けれど、心臓の奥が「そうだ」と告げていた。
 太輔を何度も窮地に追い込み、そして今、龍を標的に変えた、この世ならざる何か。
 言葉にすればオカルトじみた空言に聞こえるかもしれないが、今の俺たちにとって、それは何よりも重く根を張っていた。

「俺のことは蛇神が守ったんだとしてもさ。何で、次は龍が狙われたんだ?」
「手を出せない状態だったから……標的を他の奴に変えた、とか?」

 声に出してみた瞬間、自分の言葉が不吉な呪文のように耳に響いた。
 俺のどろりとした感情が霊を呼び寄せ、それが蛇神との契約という防壁に弾き返された結果、行き場を失って龍へと向かったのか。
 そもそも、そんな厄災が人から人へと移ろい、伝播するものなのかさえ俺には分からない。分からないことだらけなのに、あの影が明確な意思を持って動いていることだけは、直感的に悟っていた。
 あれはただ無目的に漂っているのではない。傷つける相手を選び変えながら、執拗に何かを狙っているんだ。

「もしそうだとしたらさ……その影って、やっぱ悪霊の類なのかな」
「わかんねーけど……少なくとも、それに近いモンだろ。太輔には、マジで何も見えないのか?」
「見えない。あの時、お前と龍の様子をずっと見てたけど、そんな黒い影なんてこれっぽっちもなかったと思う」

 自分にしか見えない異形なのだと改めて突きつけられ、胸の奥に小さな穴が開いたような、心許(こころもと)ない孤独が広がった。蛇神の姿は太輔にも捉えられるのに、なぜあの影は俺の目にしか見えないんだろう。
 共有できない恐怖を抱えて歩くのは、隣に誰かがいても、自分ひとりだけが隔絶された異界を歩いているような孤独感があった。すぐ隣で肩を並べている太輔との間に、目に見えない厚い壁を感じる。

「つーか、何なんだよそれ。狙いも正体もさっぱりだ。怨霊とか地縛霊……そういうやつか?」
「……まあ、容赦なく傷つけてくる時点で、ろくでもない存在なのは確かだな」

 ただ、罰が当たればいい。せいぜいそれくらいのことしか願ったつもりはなかった。
 けれど、もしあのまま魂の契約を交わしていなかったら――。龍が流したあの生々しい血と、顔を歪めた苦痛が、そっくりそのまま太輔のものになっていたかもしれない。そう考えただけで、余計に恐ろしくなった。
 肌を焦がすような真夏の熱気の中にいるというのに、芯の方から凍えていく。もっと最悪な出来事が、この先に待ち構えているのではないか。そんな予感が、剥がれない影のようにぴったりと背中に貼り付いていた。

「おーい、蛇神様。どうせ俺たちのこと、どっかで覗いてんだろ? あんたの意見を聞かせてくれよ」

 太輔が苛立ちを紛らわせるように、前後をキョロキョロと振り返る。蛇神が常に俺たちを監視しているのなら、今の異常事態だって把握しているはずだ。
 けれど、不敵な笑い声が返ることも、肌を撫でる冷ややかな気配も、何ひとつとしてなかった。石畳の上に木漏れ日が不規則に揺れ、蝉の鳴き声が鼓膜を打つ。ただそれだけの、ありふれた夏の昼下がり。一体、蛇神はどこから俺を見ているのか。その問いは答えを得られないままだ。
 「居ねぇのかよ」と毒づく背中に、「シカトされてるのジワる」と短く返し、俺たちは再び重い足取りで石段を降り始めた。

「とにかく、あの影が見えた後は必ず何かが起きてる。……せめて、未然に防ぐことさえ出来れば」

 喋っている途中で、唐突に足元がガクンと沈んだ。
 一段を丸ごと踏み外したような感覚。重力に裏切られたみたいに、体の重心が一気に前へと崩れ去る。視界が暴力的に傾き、角の尖った石畳が眼前に迫ってくる。

 ――あ、落ちる。

 全身の毛が逆立つような死の予感に喉が引き攣った瞬間、背後から腰のあたりを強く、ありったけの力で掴み寄せられた。

「――光希ッ!」

 石段の脇に生い茂る竹林が、太輔の背後でざわめき、青く揺れる。
 衝撃に備えて反射的に目を瞑ったが、痛みは来なかった。代わりに、俺の体は太輔の腕の中に収まり、後ろから抱きしめられている。

「っ、は……あ、……ヤバ、めっちゃ心臓止まるかと思った……」

 胸の内で、バクバクと心臓が狂ったように暴れていた。俺が蹴ったのか、それとも太輔が踏ん張った際のものか、数個の小石がカツン、カツンと小さな音を立てて数段下まで転がり落ちていく。その音が途絶えると、まるで世界から全ての音が吸い取られたように静まり返った。
 あんなに鼓膜を(ろう)していた蝉の声が、ピタリと止んでいる。
 鼻を突くお互いの汗の匂いと、動悸の混じった浅い呼吸の音。
 俺の腹を横断するように回された太輔の腕は、夏の猛暑とは明らかに質の違う、焼けるような熱を帯びている。さっきまでの恐怖が嘘のように、その腕の中にいると、スイッチを強制的に切られたみたいに、何も考えられなくなった。

「っぶねぇ……おい、大丈夫か。……まさか、今度は光希が狙われたんじゃねぇだろうな?」

 もしこのまま石畳に叩きつけられていたらと想像し、遅れて嫌な汗が吹き出した。
 肩を激しく上下させながら、覗き込んできた太輔の瞳をじっと見つめ返す。けれど、唇が震えてうまく言葉が紡げない。

「光希、影は……影は見えなかったか?」

 ふるふると首を振った。太輔はその答えを聞くと、身体の中にある空気を全て入れ替えるように、細く長く息を吐き出す。
 そうしてそのまま、俺の肩口に自分の頭を預けるようにして、押し殺した低い声で言った。

「……ビビらせんなよ。落ちてあんな痛い思いすんのは、俺だけで十分だっての」

 精一杯の強がりが混じった、どこまでも不器用な言い回し。
 けれど、俺を抱きすくめるその手は、隠しようもなく小刻みに震えていた。その震えの正体が、得体の知れない「黒い影」への根源的な恐怖なのか、それとも俺が傷つくことへの剥き出しの怯えなのか。
 頭の片隅でそんなことを冷静に分析してしまう自分がいる。もっとも、その真意を問い質す勇気なんて、今の俺には微塵もなかった。
 俺の視線に気づくと、太輔は情けない自分を振り払うように、その手の震えをぐっと拳の中へ封じ込めた。浮き出た血管の強張りが、皮膚一枚の下で暴れ狂う感情を、辛うじて繋ぎ止めているように見える。

「悪い……今のは多分、俺が足を踏み外しただけ。本当に大丈夫だから」

 なだめるように言葉を重ねてみたけれど、腕の力が緩む気配は一向にない。
 太輔の頭の重みを肩に感じながら、俺は身動きもできずに立ち尽くす。やがて、太輔がわずかに顔を離して正面で向き合ったとき、逆光となった夏の光に縁取られたその瞳が、水面のようにひどく不安げに揺らめいているのが見えた。
 いや、本当は揺らいでなんかいなくて、俺が「あいつにそう思っていてほしい」と願うから、そう見えているだけなのかもしれない。
 視界に映るものも、肌に触れる熱も。どこまでが現実で、どこからが俺の身勝手な願望なのか、もう何もかもが分からなくなっていた。