夏を迷えど、遥けし恋はますばかり


 毎年この時期に開かれる、町の夏祭り。
 夜風はほんの少しだけ重みを増し、肌をそっと撫でるような湿り気を帯びている。それはまだ、夏の盛りの暑さとは少し違う、季節が深まる前の吐息のようだった。
 遠くの祭り囃子の余響が、喧騒から切り離されたこの境内にまで届いては、淡く闇に溶けていく。屋台の匂いと煙、名前も知らない誰かの笑い声。
 けれど、俺の耳には隣に座る太輔の、静かな呼吸だけがはっきりと届いていた。

 二対の狛犬が静かに向かい合う、神社の入り口へと続く石段の最上段に、俺たちは並んで座り合う。十七段。子どもの頃、ふたりで何度数えたか知れない、グリコをしては無邪気に駆け上がった場所だ。
 膝と膝の距離は、握り拳ひとつ分。昔からそうだった。近すぎず、遠すぎず。それが俺たちの間にある、言葉にしたことのない約束のような間合いだった。

光希(みつき)、次で最後じゃねえ? 超デカいの来るぞ」

 声は、いつもと変わらない。それがかえって苦しかった。
 夜空に幕を引くように、最後の一発が上がる。
 巨大な冠菊(かむろぎく)。どこまでも広がる鮮烈な光の傘が、夜を一瞬だけ昼に変え、太輔の横顔が白く浮かび上がる。まつ毛の影が頬に落ちて、その輪郭は、まるで燃えているみたいだった。

 ――言うなら、今しかない。

「なぁ、太輔(たいすけ)

 光の粒は四方八方へ飛び散り、重力に引かれるまま緩やかな弧を描いて、その尾をゆっくりと闇に溶かしていった。一番外側の粒から、端から端へ。消えるまでに、思ったより時間がかかった。
 最後の一粒が見えなくなった瞬間、夜空はまた、さっきよりも一層深い黒になる。
 花火見物の客たちの歓声。拍手の音も、子供たちの笑い声も、屋台のスピーカーから流れる都会の流行りの音楽も——全部が薄くて、遠い。

「俺、東京の大学に行く。……この町を出て行くことにした」

 声は、自分でも驚くほど穏やかに、夜の空気に溶けていった。
 ずっと、この瞬間のために練習を重ねてきたからだ。誰もいない部屋で、鏡の前で、湿った布団の中で。太輔に告げるための言葉を、まるでおまじないを唱えるように、何度も何度も喉の奥で確かめてきたから。
 だから、俺の声は震えなかった。
 膝に置いた指先の向こう、提灯が一つ、また一つと役割を終えたように消えていく。潮が引くように、祭りの後の寂しさが降りてきた。
 石段の硬い冷たさが、薄い浴衣から太腿の奥深くまで静かに染み込んでくる。

「……そっか」

 たった三文字。それだけだった。
 責めるでもなく、驚くでもなく、引き止めるでもなく。太輔はただ静かに、俺の告白を夜の闇に受け流した。
 その声には怒りも悲しみも滲まず、まるで凪いだ夜の川面みたいに、何もかもを映しながら、何一つ揺れていない。石を投げ入れたわけでもないのに、波紋だけが広がって、その三文字が俺の胸の奥底でズキンズキンと重い痛みを持って沈んでいく。
 いっそ、怒鳴ってくれたらよかった。
 「勝手なこと言うな」と泣いてくれたらよかった。
 そうして感情をぶつけられていたなら、俺はこの選択を「仕方のないもの」として、もっと正しく誇れるはずだった。

 高校二年の、夏祭りの夜。
 俺は世界でいちばん大切な唯一無二の幼馴染に、今までで一番冷たく、そして一番優しい「さようなら」を突きつけた。