「パパは育休生活、頑張ってるみたいね」
「うん。初めてのワンオペで、私の毎日の苦労がようやく理解出来たって」
「そんな風に言ってくれるなんて、いい旦那さんを見つけたわね。……杏奈、うちに帰って来たら、何が食べたい?」
「うーん、ちらし寿司がいいな。お刺身、我慢してたし」
次男をそっと抱き上げ、まだハリのない、ふにふにとした頬にそっと人差し指を触れながら、お母さんはじっとそこにある次男のほくろを見つめて言った。
「ここのほくろ、先生はなんて?」
「ああ……あのね、やっぱり目立つから、私が希望すれば手術で除去することはできるんだって。でも、全身麻酔とかになるらしくて……それは嫌だなって思ってる」
産後、次男を取り上げてくれた先生に「今後のために」と呼ばれて、私は診察室に入った。今はただのほくろだけれど経過観察が必要なこと、本人が気にするようなら小学校に入ってから除去する子も多いこと、その際は日帰り手術になること。先生は丁寧に、淡々と説明してくれた。
けれど私は、この子の顔からこのほくろが消えるところを、どうしても想像できなかった。人差し指で隠してみると、むしろない方が違和感がある。
「そうね。こんな小さい体で手術なんて、考えられないわ」
「うん。本人が嫌だって言うなら、選択肢があることは教えてあげようって思う。だから、すぐには取らないつもりだよ」
「そう」
お母さんは、あの頃と変わらない穏やかな声で、静かに笑った。
ベッドの上で、持ってきてもらうよう頼んでいた追加の入院バッグをそっと開く。その一番上に、丁寧にアイロンのかけられた、あのハンカチが置かれていた。
十五年以上も前のものなのに。
淡い水彩の色合いも、慎ましやかに描かれたかすみ草も、色褪せることなくそこにある。それを見つめていると、強張っていた心がしんと解けていくのがわかった。
これほどまでに愛おしいと思えるハンカチに、私はその後の人生で一度も出会えなかった。
周くん。今、どこで何をしていますか。
私ね、二人の男の子のお母さんになりました。
子どもを育てる毎日は嵐のようで、自分の時間なんてどこにもなくて。たまに「一人になりたい」って思う。けれど、二人は私の、かけがえのない宝物です。
ふとした瞬間に、君のことを思い出したことは何回かあるんだ。
教育実習で母校に帰ったとき。
三階の踊り場で響いた笑い声に、二人で慌てて口元を押さえた、あの日の放課後とか。
君が好きだと言っていたアーティストが、活動を休止すると発表したとき。
私は、あの主題歌をもう一度聴いた。やっぱり、いい歌だと思った。
立ち寄った本屋で、北見司があの小説の最終シリーズを完結させたことを知ったとき。
背表紙を手に取りながら、真っ先に君の顔が浮かんだ。
そして、ついこの間。
一月に生まれた次男にはね、星が光ったような黒くて大きなほくろがあるの。
その頬に初めて触れた瞬間、私はあなたとの初恋を思い出したんだよ。
――心の中で、届くことのない手紙を、物語のように綴る。
この先も私は、忘れた頃にふと、周くんのことを思い出すのだろうか。
忘れたくはない。けれど、終わらせることもできない。
「佐藤周」というひとが、あの短くて眩しい季節にそっと手渡してくれたこの栞は、もう新しいページに挟まれることは、きっとない。二十年近い時間が、それをじゅうぶんすぎるほど教えてくれた。彼には彼の人生があって、私には私の人生がある。それは分かっている。ちゃんと、分かっている。
それでも。この胸の奥にある痛みも、温かさも、私はずっと大切に残しておきたかった。
かすみ草のハンカチが今もここにあるように。あの雨の放課後の空気が、まだ胸の底に沈んでいるように。
いつかの私が、この本を読み終えたと言い切れる日が来るとしたら、その時まで。
腕の中の次男が、眠ったままふうっと息を吐く。その頬の「星」が、かすかに揺れた気がした。
<終>
「うん。初めてのワンオペで、私の毎日の苦労がようやく理解出来たって」
「そんな風に言ってくれるなんて、いい旦那さんを見つけたわね。……杏奈、うちに帰って来たら、何が食べたい?」
「うーん、ちらし寿司がいいな。お刺身、我慢してたし」
次男をそっと抱き上げ、まだハリのない、ふにふにとした頬にそっと人差し指を触れながら、お母さんはじっとそこにある次男のほくろを見つめて言った。
「ここのほくろ、先生はなんて?」
「ああ……あのね、やっぱり目立つから、私が希望すれば手術で除去することはできるんだって。でも、全身麻酔とかになるらしくて……それは嫌だなって思ってる」
産後、次男を取り上げてくれた先生に「今後のために」と呼ばれて、私は診察室に入った。今はただのほくろだけれど経過観察が必要なこと、本人が気にするようなら小学校に入ってから除去する子も多いこと、その際は日帰り手術になること。先生は丁寧に、淡々と説明してくれた。
けれど私は、この子の顔からこのほくろが消えるところを、どうしても想像できなかった。人差し指で隠してみると、むしろない方が違和感がある。
「そうね。こんな小さい体で手術なんて、考えられないわ」
「うん。本人が嫌だって言うなら、選択肢があることは教えてあげようって思う。だから、すぐには取らないつもりだよ」
「そう」
お母さんは、あの頃と変わらない穏やかな声で、静かに笑った。
ベッドの上で、持ってきてもらうよう頼んでいた追加の入院バッグをそっと開く。その一番上に、丁寧にアイロンのかけられた、あのハンカチが置かれていた。
十五年以上も前のものなのに。
淡い水彩の色合いも、慎ましやかに描かれたかすみ草も、色褪せることなくそこにある。それを見つめていると、強張っていた心がしんと解けていくのがわかった。
これほどまでに愛おしいと思えるハンカチに、私はその後の人生で一度も出会えなかった。
周くん。今、どこで何をしていますか。
私ね、二人の男の子のお母さんになりました。
子どもを育てる毎日は嵐のようで、自分の時間なんてどこにもなくて。たまに「一人になりたい」って思う。けれど、二人は私の、かけがえのない宝物です。
ふとした瞬間に、君のことを思い出したことは何回かあるんだ。
教育実習で母校に帰ったとき。
三階の踊り場で響いた笑い声に、二人で慌てて口元を押さえた、あの日の放課後とか。
君が好きだと言っていたアーティストが、活動を休止すると発表したとき。
私は、あの主題歌をもう一度聴いた。やっぱり、いい歌だと思った。
立ち寄った本屋で、北見司があの小説の最終シリーズを完結させたことを知ったとき。
背表紙を手に取りながら、真っ先に君の顔が浮かんだ。
そして、ついこの間。
一月に生まれた次男にはね、星が光ったような黒くて大きなほくろがあるの。
その頬に初めて触れた瞬間、私はあなたとの初恋を思い出したんだよ。
――心の中で、届くことのない手紙を、物語のように綴る。
この先も私は、忘れた頃にふと、周くんのことを思い出すのだろうか。
忘れたくはない。けれど、終わらせることもできない。
「佐藤周」というひとが、あの短くて眩しい季節にそっと手渡してくれたこの栞は、もう新しいページに挟まれることは、きっとない。二十年近い時間が、それをじゅうぶんすぎるほど教えてくれた。彼には彼の人生があって、私には私の人生がある。それは分かっている。ちゃんと、分かっている。
それでも。この胸の奥にある痛みも、温かさも、私はずっと大切に残しておきたかった。
かすみ草のハンカチが今もここにあるように。あの雨の放課後の空気が、まだ胸の底に沈んでいるように。
いつかの私が、この本を読み終えたと言い切れる日が来るとしたら、その時まで。
腕の中の次男が、眠ったままふうっと息を吐く。その頬の「星」が、かすかに揺れた気がした。
<終>



