「赤ちゃんの清拭終わりましたよ。カンガルーケアしましょうか」
助産師さんの弾んだ声が、静かな分娩室に響いた。
一月三十日。予定日よりも二週間ほど早く、次男はこの世界に滑り込んできた。昼過ぎに始まった陣痛に急かされるようにタクシーで産院へ向かい、夕闇が迫る前にはもう産声を聞くことが出来た。呆気にとられるほどの超スピード安産だった。
分娩台の上、心地よい疲労感に包まれながら、私は傍らのベビーコットを見つめる。
真っ白な長肌着に包まれた小さな体は、薄い瞼を頼りなげに開閉させ、細い指先を泳がせていた。
(ああ、よかった。無事に生まれてきてくれて……)
張り詰めていた心の糸が、温かい安堵に溶けていく。そう感じた矢先。次男がふいに顔を背けた瞬間、私は一拍、呼吸をするのを忘れた。
「……これって、ほくろですか?」
顎から耳の付け根の間に、ぽつりと主張するようにある大きな黒いそれ。
母子手帳にペンを走らせていた助産師さんは顔を上げ、私の指先を覗き込んだ。
「そうみたいですね。可愛いチャームポイントじゃないですか」
「エコー写真には映ってなかったから、分かりませんでした」
「あはは! エコーに映ったらびっくりですよ」
助産師さんは快活に笑ったけれど、私の心はどこか落ち着かなかった。
私にも夫にも、お互いの家族にだってこんなに大きなほくろはない。お産のごたごたでうまく働かない思考の隅で、不安と疑問が頭をもたげる。
疲労のせいか、それとも動揺のせいか。愛想笑いを浮かべながら、自分でも助産師さんに意味の分からない返答をしてしまった気まずさが残る。
(このほくろ、目立つなぁ。これから周りに何て言われるだろう……)
そんな不安を抱いてしまった自分自身に、かすかな嫌悪感が募った。
次男は私の腕のなかで、ふたつの小さなこぶしを万歳の格好にしたまま眠り始めた。夫に似た長男の寝顔とは違う、どこか懐かしい面影のようなものを感じるのは、どうしてだろう。
じっとその「星」を見つめているうちに、私の記憶の底から、ひとりの少年が静かに浮かんできた。
高校時代、教室で隣の席に座っていた、彼のことだ。
物語の途中でそっと本を閉じたまま、ずっと同じページに挟まれ続けている、あの淡くて青い記憶。二十年近い時を経て、思いがけず手渡された、懐かしい栞。
私は、ちいさな、ちいさな温もりを感じながら、もう二度と開くことはないはずだった物語のページに、そっと指を触れた。
一番最初に蘇ったのは、言葉でも映像でもなく、感覚だった。
彼のブレザーの、少しだけ重い感触。そして、シトシトと雨が降り始めた放課後の、湿った空気のにおい。ペトリコール、というのだと、ついこの間知ったのだけれど。
――私が初めて好きになったその男の子には、顔に大きな痣があった。



