呼ばれて視線を合わせると、頬に添えられた手と一緒に、もう一度唇が触れる。
優しいのに、抑えきれない熱がある。
けれど、それ以上は進まない。
焦がれるほど近いのに、千景はそこでちゃんと止まってくれる。
頭の中も、胸の奥も、すべてが甘く痺れてしまい。
立ち膝ですらいられなくなってしまう。
「焦がれていたものが手の中にあるからだろうか……お前を壊さないようにと思うのに、俺の方が先に壊れてしまいそうだ」
「っ……!」
そんなの、私だって壊れてしまえたら、どれほど楽になれるのだろう。
千景の膝の上に座り、荒い息のまま額を寄せると、千景が小さく息を吐く。
「……今はこれで我慢する」
「千景さん……」
「その代わり、必ず花嫁にする」
「……はい」
初めて聞くような、舞台で響く女方の声よりも、ずっと甘い声。
あれほど美しい人が、私の前でだけこんな声を出すのだと思うと、どうしようもない感情ばかりが湧いてくる。
「……次に演じるのは『お軽』だ」
「それは、楽しみや」
「お軽は、相手が死ぬなら自分も生きていられないという」
「……」
「それでも、死なずに生きて、支える方を選ぶ」
『仮名手本忠臣蔵』の『お軽』の心を、そのままなぞるような言い方。
「ぷっ。千景さん……それは、遠回し過ぎます」
「……悪い」
言わんとしていることはわかるのに、こんな時ですら、あまりにも歌舞伎馬鹿な言い回しで、思わず吹き出してしまう。
千景は少しだけ息を吐いて、仕切り直すように言った。
「好きだ」
「……はい」
「俺は弥生を、『梨園の花嫁』にしたい」
胸の奥が、騒がしく高鳴る。
一度は諦めたのに、それでもずっと聞きたかった言葉。
けれど、本当に聞いてしまうと、嬉しさの方が怖さより大きいのだと思い知らされる。
夢みたいだと思っていたことが、言葉になって目の前に置かれるだけで、世界の色まで変わる気がした。
「はい」
たったそれだけの返事なのに、千景の目がほどける。
その顔を見た瞬間、もうどこにも行かなくていいのだと、ようやく信じられた。
「次の『お軽』も、ちゃんと観に来い」
「もちろん。言われんでも、行きます」
「また稽古も観てほしい」
「はい」
何度でも、そう答えたかった。
抱き締められたまま、そっと目を閉じる。
これから先の舞台の音も、三味線も、拍子木も。
客席で見る日も、稽古場で見る日も、もう二度と失いたくない。
『梨園の花嫁』が言葉ほど簡単ではないことは、『梨園の娘』以上に大変であることはわかっている。
それでも、その全部の先に、千景のそばに自分がいるのだと思うと、なんでもできるような気がしてしまう。
千景の胸に頬を寄せる。
白粉の名残も、紅の気配も、もう甘くしか思えない。
「……楽しみにしてます」
「ああ」
「今度は、ちゃんと最初から最後まで見届けます」
「なら、俺も」
千景の声が、少しだけ笑う。
「最後まで、離さない」
その言葉に小さく笑って、千景の着物をぎゅっと掴む。
二度と離さないように。
二度と、離れなくて済むように。
屋敷の中には二人だけのはずなのに、遠くで、ベン、と三味線が強く鳴った気がした。
まるで、これから始まる新しい幕を知らせるように。
終わりではなく、ここからまた板の上の音と一緒に、私たちの先が続いていくのだと告げるように。
こうして私はただ一人のための『梨園の花嫁』になる。
優しいのに、抑えきれない熱がある。
けれど、それ以上は進まない。
焦がれるほど近いのに、千景はそこでちゃんと止まってくれる。
頭の中も、胸の奥も、すべてが甘く痺れてしまい。
立ち膝ですらいられなくなってしまう。
「焦がれていたものが手の中にあるからだろうか……お前を壊さないようにと思うのに、俺の方が先に壊れてしまいそうだ」
「っ……!」
そんなの、私だって壊れてしまえたら、どれほど楽になれるのだろう。
千景の膝の上に座り、荒い息のまま額を寄せると、千景が小さく息を吐く。
「……今はこれで我慢する」
「千景さん……」
「その代わり、必ず花嫁にする」
「……はい」
初めて聞くような、舞台で響く女方の声よりも、ずっと甘い声。
あれほど美しい人が、私の前でだけこんな声を出すのだと思うと、どうしようもない感情ばかりが湧いてくる。
「……次に演じるのは『お軽』だ」
「それは、楽しみや」
「お軽は、相手が死ぬなら自分も生きていられないという」
「……」
「それでも、死なずに生きて、支える方を選ぶ」
『仮名手本忠臣蔵』の『お軽』の心を、そのままなぞるような言い方。
「ぷっ。千景さん……それは、遠回し過ぎます」
「……悪い」
言わんとしていることはわかるのに、こんな時ですら、あまりにも歌舞伎馬鹿な言い回しで、思わず吹き出してしまう。
千景は少しだけ息を吐いて、仕切り直すように言った。
「好きだ」
「……はい」
「俺は弥生を、『梨園の花嫁』にしたい」
胸の奥が、騒がしく高鳴る。
一度は諦めたのに、それでもずっと聞きたかった言葉。
けれど、本当に聞いてしまうと、嬉しさの方が怖さより大きいのだと思い知らされる。
夢みたいだと思っていたことが、言葉になって目の前に置かれるだけで、世界の色まで変わる気がした。
「はい」
たったそれだけの返事なのに、千景の目がほどける。
その顔を見た瞬間、もうどこにも行かなくていいのだと、ようやく信じられた。
「次の『お軽』も、ちゃんと観に来い」
「もちろん。言われんでも、行きます」
「また稽古も観てほしい」
「はい」
何度でも、そう答えたかった。
抱き締められたまま、そっと目を閉じる。
これから先の舞台の音も、三味線も、拍子木も。
客席で見る日も、稽古場で見る日も、もう二度と失いたくない。
『梨園の花嫁』が言葉ほど簡単ではないことは、『梨園の娘』以上に大変であることはわかっている。
それでも、その全部の先に、千景のそばに自分がいるのだと思うと、なんでもできるような気がしてしまう。
千景の胸に頬を寄せる。
白粉の名残も、紅の気配も、もう甘くしか思えない。
「……楽しみにしてます」
「ああ」
「今度は、ちゃんと最初から最後まで見届けます」
「なら、俺も」
千景の声が、少しだけ笑う。
「最後まで、離さない」
その言葉に小さく笑って、千景の着物をぎゅっと掴む。
二度と離さないように。
二度と、離れなくて済むように。
屋敷の中には二人だけのはずなのに、遠くで、ベン、と三味線が強く鳴った気がした。
まるで、これから始まる新しい幕を知らせるように。
終わりではなく、ここからまた板の上の音と一緒に、私たちの先が続いていくのだと告げるように。
こうして私はただ一人のための『梨園の花嫁』になる。



